桜の咲く日に・・・

これは四月の上旬の、まだ桜が満開であるころの話・・・。

会社員越谷義之は桜ヶ丘公園を歩いていた。彼は容姿端麗で、成績も優秀、当人およびその部署の人たちにはあまり自覚がないようだが、将来はかなり高い地位までつくであろうことは幹部内でひそかな評判となっている。で、その会社員がどうして公園などを歩いていたかというと、結局のところ忙しいのである。というのも、彼の勤める(株)後藤商事は競争相手が日本にはいないとされるほどの超優良企業で、万年人手不足なのである。特に新入社員の教育に忙しいこのころは、残された社員は死に物狂いで働くのである。

そこまで仕事が忙しいのは昨年会長に就いた後藤巌氏の手腕によるものが多い。彼は4年前社長に就任して以来大幅な改革をし、赤字に陥り敵対的買収を受けそうになった会社を一気にV字回復をさせ、あまつさえ買収を仕掛けた企業をも買収してしまうという、話でしか起こり得なさそうなことをやってのけた人である。

とにかく、そのような忙しさであった上、相手も得意先企業であったために新人を持っていくことができず、越谷に鉢が回ってきたわけである(というのも、彼は新人の教育をしていなかったのだ)。彼はその忙しさを呪った。といえども、その忙しさは呪うほどには嫌いではないようだが。

そして、得意先との契約を取り付け、休息を取るために公園にやってきたわけだが、そこはソメイヨシノが咲き乱れ、まるで桜自身が宴会を催しているようだった。そして、今年も忙しくて花見などする暇もなかったとため息をつくが、同僚の連中とやったところで大して楽しくないか・・・と思いなおす。彼はそういう男なのである。別に孤独を好むわけではないが、だからといって多数でわいわいがやがやするのも好みではない。そのような人だから、自然と人の集まる公園に訪れたのは他人が見ればたいそう驚くかもしれないし、実は当人も自然と足を運んでいることに不思議な感覚を覚えている。

ひょっとしたらどうしようもないほど疲れているのか?なんて一人ぼやいていると、突然一陣の風が吹き、目の前を薄桃の吹雪が通り抜けた。あまりにもきれいだったため、それが吹いた元を見やると、大きな古木が一本あった。樹齢は不明だが、素人が見てもこれは幾星霜を経てきたことが一目でわかるという実に立派な桜であり、風にたなびくその姿は何か囁いているようにさえ思えた。ふと、根元を見やると人が立っている。どうやら待ち合わせか?何気なくだがその人物を見やると・・・そこには男の子が立っていた。

髪はきれいな漆黒で、長くはないが、桜に合わせて少しゆれていた。齢はいくつくらいだろう。童顔のせいで判断ができないが、どうやら中学、高校生くらいか。ひらひらと舞う花びらを手にすくい、浮かべる翳りのある微笑みは、ただ見ているだけの者にさえ悲しみを与えるが、実に美しい。それだけならまだしも、その少年は今には珍しく着物を着ていたのである。どこかの良家のものだろうか。しかもそれがいっそう儚げな印象を与え、越谷はしばらく目をそらすことができなかった。もしそこに居合わせたときの状況を説明できるとしても、別世界に迷い込んだ、動いているが静寂な時間を送ったと言い表すのが精一杯だろう。彼がその異次元から戻ってきたときには、彼自身も冷静になり、その場を立ち去ることができた。そして今日の一時は、老いた桜の木が生み出したただの真昼の幻夢でしかなくなる・・・はずだった。

 

五月のある日の話・・・

「よしく〜ん」

と、結構甘い声で越谷を呼ぶ女は夏樹陽子、越谷の幼馴染であり、ショートヘアーが可愛く、周囲からは恋人同士なのではとささやかれ、すでにあきらめるものがいるほどである。もっとも当人たちはそんな事は意識していないのだが。それでも、二人がただの友人の範囲を超えて信頼を寄せていることは自他共に明らかである。

「なんだ、お前か?びっくりするぞ」

「やだ、いつものことじゃない!」

と言いながら抱きつこうとする夏樹を征する。この女は名前の通り結構陽気で、スキンシップも激しい。従って困る人も結構も多い。だからといって邪険にできないのは、彼女の持っている魅力だともいえよう。とはいえ、長い時間友人をやっていると耐性がついてしまうようではあるが。そして話がつづく。

「で、今度は何だ?できることは手伝うが、あまり無理難題は頼まないでくれよ」

どうやら、声色で何が言いたいのかが分かるらしい。さすがは幼馴染である。しかし、彼女は急に真顔になって、

「やだ・・・ついいつもの癖で・・・ちがうの。なんか会長さんからあなたに呼び出しがかかっているみたい」

「どうやらいつもということは分かっているようだね。まぁ、それはいいとして、みたい?」

「会長が直にではなく、秘書さんがなんかあなたを探してたから」

「だったら社内放送すればいいのに・・・」

「だから妙だと思ってたの。で、仕事が終わったら会長室に来いって」

「なんだろうな・・・」

その場はそれで終わった。当人はたいしたことのない話のように思ったが、これが人生そのものを変えることになるとは気付かなかったのである。

 

そして業務終了後、会長室をノックすると、威厳のある声で入れとの声がする。失礼します、とドアを開けてはいると、会長が厳しい顔で座っていた。それで今更ながら呼び出されたことが重要な話であることに気付いた越谷である。ではなぜ呼び出されたのだろうか・・・会長の厳しい顔から推論すると結局答えはどうしても一つになってしまう。その心の内を代弁するかのごとく・・・

「残念ながら君には会社を辞めてもらわなければならない」

越谷は立ち尽くした。いくらなんでも急ではないか。不景気ならまだしも、今は業務が好調なので辞める理由があるはずではない。そもそも社員ごときを辞めさせるのに、ここまで呼び出す必要はないだろう。だからといって不祥事を起こした覚えはない。そんな考えが頭をよぎるうちに、彼は肝が据わった。辞めるのならもはや失うものは何もない。

「ではどうして辞めさせるのか教えてください。ここの業務は好調で、辞めさせる理由があるはずがありません。それなら私が何か不祥事でも起こしたのでしょうか。それを説明いただけないことには、納得してやめられません」

という辞める社員だからこそできる口の利き方をした。会長は厳しい目を向ける。その瞳は恐ろしく力強く、メデューサすらも射殺せる程だといわれているが、それでも越谷は目をそらさなかった。彼は追い詰められたときには真の力を発揮するのである。そして沈黙はしばらく続き、結局折れたのは会長のほうだった。

「どうやら私の目は間違ってはいなかったようだな」

さっきのような厳しい目つきは消え、おちついた口調で話し出す。急な話の展開に、さすがの越谷も追いつけず、話を続けるのを待つ。

「君は成績優秀と聞くので、辞めてもらうのは残念なのだが・・・頼みたいことがあってな。わしの孫の・・・」

それで大方納得がいった。彼は自分に孫の家庭教師、いや、ひょっとしたら教育係をさせたいのだろう。後藤家の企業は優秀なものが多い。おそらく両親も後藤グループの重役で忙しいのだろう。だから、親がいない分子供のしつけがおろそかになる。だからそれを自分にやらせようという考えなのだろう。社員からとったのは、まったくの他人よりは安全だからか?しかし、その考えは次の一言で打ち砕かれた。

「・・・話し相手になってほしいんじゃ。それとも友達というべきかの?」

越谷は文字通り開いた口がふさがらなかった。話し相手とは何だ。今まで一生懸命働いたのはなんだったんだ。まぁ、話し相手になること自体は仕方ない。しかし、なぜそのために会社を辞めなければならないのだ。彼は珍しく心底腹が立った。それに気付いたのか、会長の表情が暗くなる。

「ふむ、すまなかった。そんな事を言われても迷惑じゃの。今日の話は忘れてくれ。会社も辞めないで構わん」

越谷は迷った。断ることは簡単である。早くそうして元の生活に戻ればいいのだ。だからといって、そうすることはできなかった。会長の落ち込みようがただならぬものに感じたのである。結局、一晩考えさせてもらうことでその場をしのぐことができたのである。

 

帰宅した越谷は、さっさと風呂を済ませ、ベッドに寝込む。彼の家はごく普通の単身赴任とかでよく使いそうなアパートある。全体的に白、黒等の落ち着いた色で統一され、余計なものが感じられない。キッチンも、ほこりをかぶっているわけではない。料理は得意とまでは行かないものの、結構こなすのだ。それでも今日キッチンに立たないのは、やはりさっきのことが大きく尾をひいているのだろう。彼はしばらく悩み続けた。どうしても会長の顔が忘れられなかったのだ・・・豪腕な腕で知られる男もあのような顔をするのか。そこまでさせる孫とはいったいどういう子なのか。そしてやっと決心をした。結局断っても会社にはいづらくなるだろう。だったら、会長の頼みを聞くのも悪くはない。そう決断した彼の顔はすがすがしいものであった。

 

そしてその翌日、その旨を会長に伝えると大喜びし、善は急げということで、後藤邸に行くこととなった。もちろん会長の車、ベンツでである。その車中では、給料は払うということや、もしものために会社は辞めずに研修扱いにすること、住み込み(家賃なし)、といったことが決まった。そして、そのやり取りがされている間に自宅についたようである。さて、会長宅についたとき越谷は唖然とした。想像していたものよりはるかに小さいのである。敷地自体は比較的大きいのだが、建物は普通の家より少し大きいくらいの二階建てであった。見た目はごく普通で、後藤家のものとはとても思えない。そして中を案内してもらうが、本当に普通の家でかえって驚いてしまう。しかし、その驚きなどまだ序の口でしかなかった。

おかえりなさい、と声が聞こえ、誰かがこちらにくる。どうやらここにはまだ他に人が暮らしているらしい。声からすると少年、おそらく中高生のものである。そしてその子の顔を見た途端、彼は硬直した。以前に桜の木の下に佇んでいた少年そのものである。今日は和服ではないが(というよりこれが本来の姿なのだろう)、それでも彼の魅力は損なわれていない。少年は軽くお辞儀をし、足早に立ち去る。越谷もそれを返し、会長の後を追った。

 

会長の部屋に入り、人払いをして二人きりになったところで、口を開いた。

「会社では落ち着いて話はできんからな。それで、さっき男の子を見かけたと思うが、あれの話し相手になってもらいたい。まぁ、驚くかもしれないが。あれ・・・真琴は年齢的には高校一年に値するからな」

越谷のほうは驚きつかれて、どうしてと言うことしかできなかった。会長が続ける。

「真琴は病弱でな、高校に入っていないんだよ。はいったところで日数が足りなさそうじゃからな。勉強のほうは自力でやっているから、それよりも話し相手が必要じゃ。といっても、中学には親しい子があまりいなかったようじゃし、自分のことで精いっぱいなんで、荷が重過ぎる。だから社内で任せられるような人がおったら、と探していたら君の名が出たんだよ」

「病気だけが理由だとは思えませんが・・・」

この一言に、会長は言いよどむ。どうやらそれを言うべきかどうか迷っているらしい。やっと決心したようで、

「やはり君に真琴を任すのなら隠しておくわけにはいかないな。真琴はわしの孫ではないんじゃ。非常に遠い親戚の子でな。それでもわしは明や明香―真琴の親の名前じゃが―も自分の子供のように思っていたんじゃが・・・昨年の春事故で二人ともあっけなく逝きおった。それで真琴をわしが引き取ったというわけじゃ。籍には入れてないがな。それから真琴はどうも落ち込んでる・・・はたから見てるだけでは以前と変わらないんじゃが、どうやら心に鍵をかけてしまっておる。わしはそれが心配でな・・・放っておけないんじゃよ。この前なんかふと家から姿を消してな・・・前はそんな事なかったのに・・・。ここ最近はそれが多くてな。だから君には真琴を一人にしないでもらいたいのじゃ。一人だと危なっかしいのでな。君がいるのなら、外に出しても構わん・・・」

ここで会長は急に姿勢を正す。

「というわけで、真琴のことを頼む。少しでも彼には幸せになってもらいたいんじゃ。ずっととは言わん。あれが元気になるまででいいんじゃ」

今度は越谷のほうが姿勢を正す。

「そういうことなら・・・。私にそのようなことを任せていただき、恐縮です」

「ふむ・・・そんなにかしこまらんでも・・・あ、入っていいぞ」

失礼します、と入ってきたのは、件の少年だった。近くで見ると幼さがまだ残っていてきれいというより可愛い。

「こんにちは。後藤真琴といいます。宜しくお願いします」

と、にっこりと挨拶する。この話し方からすると、どうやら話の仔細は会長から聞いて知っているのだろう。越谷は安心した。この表情から察すると、思ったよりうまくやっていけるかもしれない。彼のやる気が増したのであった・・・。

 

「君が真琴君だね。俺は越谷という。どうやら会長から話は聞いているみたいだから今更隠しはしないけど、俺は会長に頼まれてここに来た。だけど、仕事だと割り切るつもりはないから、俺のことは兄だと思ってほしい。まぁ・・・それだと結構ずうずうしいから友達のほうがいいかもしれないけどね。とにかく、どっちでも好きに思ってくれて構わない」

「はい。今まで他の人と一緒にいることは少なかったからちょっと不安だけど、越谷さん、なんかいい人みたいだから、思いっきり甘えちゃっていいですか?」

とはいえ、最初の数日は、話しかけても機械的な反応を返すことが多かった。しかし、何日か立つと、真琴は思ったよりも人懐こい性格であることが分かってきた。自分から話をしにも来るし、前に比べれば結構笑うようにもなった。どうやら彼は、人見知りが激しいが、ある程度話していくと逆に人になつくようだ。越谷は、自分がそれに値する人物だと知って嬉しかった。といえども、まだまだ自分のことを信頼していない部分も、寂しそうな表情をすることもあり、何か遠くを見つめることも多かった。心配ではあったが、無理に問いただすのでは意味がないので、越谷はそれには触れずに気晴らしになるような話題を探した。

「どこか外にでも出るか?といっても、仕事が終わってからだけど」

真琴の目が輝いた。ちなみに、真琴と会話するだけのためにここにいるということを知れば、真琴につらい思いをさせるだろうということで、越谷は会長から仕事をもらっている。もちろん急を要するものではない。

「うーん・・・どこがいいかな?せっかく二人で出るから、色々と気の向くまま行ってみたいです!」

 

ということで、次の日曜。真琴の希望で、まず本屋に行くこととなった。真琴はどんな本を読むのだろう。あとをついていくと、参考書の場所だった。

「学校に行ってないから勉強は自分でやらなければいけないんですよ。家庭教師もあまり好きじゃないから・・・」

なんか仕方ないといった表情でいうので、越谷は切ない思いがした。同じ年頃の子供は友達と今頃学校生活を楽しんでいるだろう。真琴もきっと夢見たことである。しかし、それができなかった。それだけならまだしも、それを仕方ないとも思っている。つまりあきらめているのだ。子供らしくもっと遊べばいいと思うのだが、越谷とは事情が違う。それをとやかくいうことはできない。結局それについていえたことは、

「なんか分からないことがあったら聞いてくれよ」

だった。

 参考書を買い込み、次に行ったのは桜の本が売っているところだった。好きなのかと尋ねてみると、おおきく頷いた。それから真琴は桜について色々としゃべりだす。ここの桜がきれいだとか、自分はこの桜が好きだとか・・・まるで隣にいる存在を忘れているかのごとく。あまりにも喜々としてしゃべるから、つい越谷も微笑んでしまう。それに気付いたのか、真琴は申し訳なさそうにした。

「・・・すみません。僕だけべらべらとしゃべって・・・。ここに来るのも久しぶりだったからつい・・・。それに、このところおじいちゃんのほかに聞いてくれる人がいなかったから」

「別に謝ることはないよ、聞いてて楽しかったし。本当に君は桜が好きなんだね。俺のこと忘れるくらい」

ちょっとすねた口調で言う。それを聞いて今度は真っ赤になった。めまぐるしく変わる真琴のことを可愛いと思いつつも、それを言うのはちょっとかわいそうだと思うので黙っておいた。彼はやっぱり笑っているほうが似合う。あえていじめることはないだろう。いたたまれなくなったのか、真琴が越谷の袖を引っ張る。

「恥ずかしいからもう出ましょうよー」

 

本屋を出る頃は昼にはまだ早い時間だったが、人ごみを避けるために昼食をとることにした。ファミレスでもよかったのだが、真琴が普段は行かないだろうということで、ファーストフードの店に入ることになった。その真琴はといえば、本当に入る機会がなかったのか、きょろきょろしたいのを必死にこらえている。そうすれば注目の的になることくらい分かっているからだ。吹き出したいのを必死にこらえて、買うものを買って落ち着いてから、越谷はここで聞きたくてうずうずしていた質問をした。

「こういうとこには来ないのか?」

「はい・・・。いつも家族と食べてたんでこういうとこには来ないんです」

越谷は自分が聞いてはいけないことを聞いたのに気付いた。彼は親をなくしているのだ。ここまで素直に育ったのだ。親に愛されているのはよく分かる。だからそれを思い出すのはつらいはずだ。しかし、それに気付いたのか、真琴は必死に否定する。

「いえ、別に気にしなくていいです・・・。確かにこの前までは結構つらかったですけど、越谷さんがきてくれてからは、なんかお兄ちゃんができたみたいで思い出しても前よりはつらくなくなりました。ところで、越谷さんはこういうところには来るんですか?」

「昼とかは外回りのときに結構こういうところで食べるけど、夜はちゃんと家で食べてたな。一人暮らしだからこういうところで食べたくなるんだが、そういうのを利用すると金がかかるから、仕方なく台所を使うようにしたよ。まぁ、君が思っているほど上手くはないけどね」

「へぇ〜越谷さんの手料理、食べてみたいな〜」

非常にどきりとする台詞である。しかし、どうやら真琴に他意はなく、純粋に越谷の手料理が食べたいらしい。越谷は苦笑して、

「今度会長が家にいる日にでも作ってみるか・・・」

越谷はほっとした。真琴は両親の死を乗り越えようとしている。しかも自分のおかげというのだ。それがとても嬉しかった。しかし、心の奥底でほんの小さいほどだが、痛みを感じたことには越谷にも真琴にも気付く由のないことだった。

 

そのほかにも色々な店に寄り、家路につく途中。通り道だったので、桜ヶ丘公園に寄った。その名のとおり桜が多いところである。五月なので花が散ると寂しいものがあるが、新緑というものは目に優しい。

「八重桜も散っちゃって、なんか寂しいですね。もっと早く来てくれたら、咲いてるときに見に来れたのに・・・」

真琴は実に口惜しそうだ。それほどまで、兄と慕う男と一緒に見たかったのであろう。

「そうでもないさ。確かに散ってしまったのは寂しいという気持ちも分かるけど。でも、それは終わりじゃなく始まりなんだ。来年、きれいな花を咲かせるための準備をしてるんだよ。だから、来年二人で見に来ような。桜の咲く日に・・・」

ちょっと強引だけどな、と付け加えて苦笑するが、真琴は言いたいことを分かってくれたらしい。うんとうなずくと、越谷に抱きつき、顔を胸にうずめる。

「約束ですよ・・・ずっと覚えてますから・・・」

夕日が沈み、二人の影は長くなり、一つになる。越谷は真琴の柔らかな髪をなでる。彼は、兄としてだが真琴に対して今までにないほどの愛しさを覚えた。真琴は、されるがままにしていた。いや、離れたくなかったのかもしれない。生まれて初めてであろう、親のほかにわが身を預けることのできる存在・・・。もしこれを見ている人がいたら、間違いなく二人は恋人同士だと思っただろう・・・。それほどまでの甘く、少し切ない空気が二人から時間という概念を切り離していた。

 

「へ〜そりゃ大変ね〜。会長のお孫さんのお守りなんて」

というのは、夏樹陽子。越谷とは親友かつ腐れ縁の女である。彼女にはすでに会社を辞めるいきさつは話してある。同僚に変な疑いをさせないためだ。もちろん、すべてではなく、差し支えのない範囲だけだが。

「いや、結構楽しいぞ。弟ができたみたいで。それより、何の用だ?呼び出したりして」

そもそも、会社を辞めてから―といっても正式には研修扱いになっているのだが―彼女と会うのははじめてである。越谷の携帯に電話があり、会いたいというので近くの喫茶店で会うことになったのだ。なお、真琴には出かけるとは言ってある。最近は調子もよくなってきたので、おいてきても心配はないだろう。

「よしくんは弟がほしかったからね。嬉しいことくらい分かるわよ。現に、今のあなたの顔、鏡で見せたいくらいだわ。とろけてるわよ」

越谷は呆れ顔である。そんなに顔面が崩れてたか?まあ、実際に楽しかったのだから仕方ないが・・・。それより、何で呼んだのだ?

「ただ会いたかっただけよ。親友がどうなってるかが気になっただけ。それより、あなたがいなくなったせいでうちの部署は忙しくて仕方ないわ!見てよこれ。お肌が痛んじゃって・・・まだ私は嫁入り前なのに」

どうやら恨み言を言いたかっただけのようだ。彼女はひたすら話し続け、越谷は聞きに徹する。ある程度話したところで彼女も気が治まったようだ。

「ごめんね。愚痴ばっかり言って。でもすっきりしたわ。やっぱり持つべきものは幼馴染よね・・・ん?」

どうしたと越谷に聞かれたが、なんでもないといって流した。しかし陽子は感じた。自分に視線が注がれているのを。どうやら敵意とは違う、浴びてるほうがつらくなりそうな悲しみに満ちた視線を。しかし、彼女が再び戻したときには視線は消えていた。

 

真琴は今更現実を思い知った。こうなることが分かっているなら、外出なんかしなかった。しかも興味本位で覗いたりしなかった。おとなしく家で待っていればよかったのだ。そうすればこんな思いをしなければよかったのに。体の調子がよかったからって外出した自分が悪いのだ。そのせいで、知らなくていい感情を知ってしまった。幸せすぎて忘れてしまったが、越谷は自分だけの人ではないのだ。いずれ結婚してしまうだろう。その女の人と。明るそうで、美人で、越谷とはお似合いだった。そのとき自分は笑っていることができるだろうか。そんな事は今は考えられない。そもそも、彼が自分と一緒にいてくれるのは会長に頼まれているからだ。確かに、越谷は自分を大事にしてくれる。しかし、これからくれる優しさはかえって自分を傷つけるだけのような気がした。でも、その優しさは手放したくない。それが矛盾だということくらい分かっている。だからこそつらい。結局今できることはただ泣くだけだ。真琴はただひたすら泣いた。涙がかれてもなお泣いた。この日少年は恋と同時に失恋をも覚えたのだった。

 

夕方、何も知らずに帰ってきた越谷は狼狽した。真琴の目が真っ赤だったからだ。これはどう見ても泣き腫らした目にしか見えない。しかし、いくら聞いても、寂しかったから泣いたとしか答えない。それなら、その作った微笑みは一体なんなのか。最近は以前にあったような遠い目をすることもなく、自分を頼ってくれたのに、これでは以前に逆戻り、いや、以前よりまずいことになってしまった。もしかして俺が知らない間に傷つけてしまったか。泣かせるようなことをしてしまったか。そう思うと胸が締め付けられるように痛む。そういうとき、前だったら軽く頭をなでてやればよかったのだが、何故か今はそれをすることができなかった。逆に真琴を傷つけてしまいそうで。結局寝るまで、二人は会話をすることはなかった。

 

その日の夜中、越谷は珍しく目が覚めた。夕方の件が気にかかり、再び眠ることはできなかったので、何もすることはないが、闇が支配する家の廊下を歩いていた。すると、縁側に人影がある。何も言わずに越谷はその隣に腰掛けた。影は驚いた様子を見せたが、暗かったせいか表情は見えない。気が利く台詞は見つからなかったので、当たり障りのない言葉を選んだ。ひょっとしたらこの闇がかえって話しやすくさせてくれるかもしれない。

「星を見ているのか、真琴?」

「なんか、急に父さんと母さんのことを思い出しちゃって。そしたらなんか寝付けなくなったから、星を見たら寝れるかなって・・・」

ちょっと酷かもしれないが、今なら答えてくれるだろうと思い、前から聞こうとおもっていた質問をした。

「その、答えたくなかったら答えなくていいんだが、親御さんはどうして・・・」

「あの日、四月四日は父さんと母さんが、僕と一緒に桜を見に行くから早く帰ってくるって・・・それで急いだみたいで電柱にぶつかってそのまま・・・。僕の事なんか気にしないでいいからゆっくり帰ってくれば良かったのに。でも、そのときは気をつけてっていえなかった。それがつらくて・・・夢にまで見て・・・あの日が近づくと家にいるのもつらくなって」

やっとすべてが分かった。あの時真琴が桜の下にいたのはおそらくその日に見に行けば両親と一緒に見ている気になれたからだろう。というより、両親に桜を見せたかったのかもしれない。和服は一周忌だったからか。それならあの日の寂しそうな顔も納得できる。納得がいったところで真琴が寂しい微笑を浮かべ、自分のからだを越谷に預ける。

「ふぅ、溜め込んでたことを話したらなんかすっきりしました。ねぇ・・・しばらくこうしててもいいですか?ほんの少しでいいですから」

瞳が潤み、今にも泣き出しそうな目で訴える。越谷は心臓の鼓動が速まるのを感じたが、それには気にかけずに、真琴の肩に手をまわし、自分に引き寄せ、抱きしめた。涙腺が切れたか、真琴はしゃくりだし、越谷がやさしく背中をなでているうちに眠ってしまった。しばらくこうしていたかったが、真琴に風邪を引かせるわけにはいかないので、静かに運び、越谷も眠りについたのだった。

 

それが功を奏したのかどうかは分からないが、真琴は元気になってきた。再び心から微笑む日も近いだろう。だからおそらくは元の状態に戻るかもしれない。しかし、その一方で越谷はうすうす感じていた。確かに元の仲には戻っても、何か大切なものが変わってしまっているであろう事を。そして、それは永遠に元に戻ることはないであろうことを・・・。

そして、数日後の夜のこと。越谷は熟睡していたので気付かなかったが、静かに部屋のドアを開けて真琴が入ってきた。誰にも聞かせるつもりはないのか、静かにつぶやく。

「もし僕がいなくなったら、越谷さんは探しに来てくれますか?たとえ兄としてでもいいから・・・」

ただそれだけ言うと、静かに部屋を出た。そこに残ったのは、幸か不幸か熟睡している越谷と、落ちた数滴のしずくだけだった・・・。

 

そして朝のこと・・・。越谷は慌てて食卓にいる会長のところに行く。

「真琴を見ませんでしたか?」

「どうしたのかな?」

「真琴が・・・真琴が・・・起こしに行ったら家にいないんです。申し訳ありません!俺の不注意です。どう責任を取ればいいのか・・・」

越谷が苦しそうに言う。会長はしばらく考え込んでいたが、穏やかな声で言う。

「別に越谷くんのせいじゃないさ。自分を責めることはない。気付いてやれなかったわしが悪い。それより、真琴のことを頼めるね?」

返事をも惜しむかのごとく、越谷は急いで出て行く。残された会長は慌てた様子もなく、味噌汁をすすっていた。

 

真琴、どこにいるんだ。越谷は必死に走り回った。そこら辺の公園、ファーストフードショップ、開店する時間には本屋にも行った。真琴は人ごみは嫌いなのであまり電車とかで移動するのが好きではないはずだ。だからそんなに遠くには行っていないはず。それでも見つからない。まさか!最悪の可能性に思い至り、全身が凍った。何か事故に巻き込まれて・・・必死にその考えを振り払おうとしたが、すればするほど頭の中に入り込んでゆく。二度とあの笑顔を見れないのか?大好きな真琴を抱きしめることもできないのか。大好き・・・その言葉に越谷はうろたえた。真琴は可愛い弟なのだから大好きで当然だ。しかし、それならなぜあの時真琴を抱きしめていてどきどきしたのか。弟だから好きだと思い込もうとしたのではないか。しかし、越谷は強引に考え込むのを止めた。それよりも真琴の行方のほうが大事だ。探していないところは・・・一つだけあった。桜ヶ丘公園だ。俺は馬鹿だ、なぜそこが思いつかなかったのか。最後の可能性にかけて越谷は急いだ。

 

桜ヶ丘公園につく頃には、日も落ち、横を向いた月が顔を見せようとしているところだった。暗くなると真琴が寂しがる。越谷は必死に探し回った。残るところはあと一つ、もしそこにいなければもう見つからない。それを覚悟し、急ぐ。

そこには真琴がひざを抱えて座っていた。越谷が初めて真琴を見た場所である。どうやら桜の古木が守っていてくれたようだ。近づく気配に気付いたのか、真琴が逃げようとする。しかし、越谷はそうされる前に真琴を抱きしめる。真琴は動かない。しかし、腕の中で震えている。好きだ・・・「弟」としてではなく、この子を守ってやりたい。そして一緒に歩んでいきたい。そう直感した。すでにこの恋は初めて見たときから始まっていたのかもしれないな・・・そんな事を思う自分に心の中で苦笑してしまう。しばらくの沈黙を不思議に思ったのか、真琴が顔を上げる。そのとき越谷は真琴の唇にキスした・・・無意識に!

「ん・・・・・」

歯列を割って侵入してきた越谷の舌を、涙を流しながらうっとりとした表情で受け入れる真琴。抱きしめられていなかったらその場に崩れてしまいそうである。しばらくお互いの唇をむさぼっていた二人だが、突然越谷が我に帰る・・・。真琴になんて事をしてしまったんだ。そして、世にも残酷な言葉を吐く。

「悪い・・・。冗談だ。今のは忘れてくれ」

 

その一言は、真琴の心をずたずたに引き裂くには充分すぎるものだった。彼の血の気がどんどん引いていく。もう死んでしまいたい・・・。自分の気持ちを再確認した今、もう限りなくあふれてくるこの想いを隠し続けることは不可能だし、越谷の隣にはいることはできないから。でも、どうせなら、最期に想いを打ち明けてしまおう。そのくらい罰は当たらないはずだ。そう決意した真琴は手を離そうとする越谷に構わずに思いっきり抱きつく。今までになく強く抱きついてくるので越谷が困惑していると、

「好きです・・・越谷さんが。この気持ち、迷惑なら明日になったらすべて忘れますから、せめて今日だけでも恋人として・・・」

つきあってください、とは結局言えなかった。覚悟をしたとはいえ、やっぱり恐かったのだ。越谷にとっては迷惑だろう。そのせいか、まったく何か言う気配がない。やっぱダメか・・・絶望のまなざしでふと見上げてみると、越谷は頭をかいていた。

「もっと俺がしっかりしていたら、ここまで真琴が追い詰められることはなかったんだな。悪かった。俺もお前が好きだ・・・もちろん冗談なんかではない。お前を泣かせてしまうかもしれないけど、こんな俺でよかったら付き合ってくれないか?」

まさか真琴が自分を恋愛対象として好きだとは思わなかった。てっきり、親にくっついてくるコガモ的な慕い方をしているのかと思っていたが、そうではなかった。両想いだったのだ。本当に笑えてくる。それなら今まで相当すれ違っていたということか。それならすれ違った分だけ真琴を幸せにしてやらないとな、泣き顔を見せることのないように、ずっと笑ってもらえるように。越谷に新しい決意が生まれる。真琴は、満面の笑みで、はいと言っただけだった。でも、その笑顔だけで充分だった・・・。そして再び唇が重なる。しかし今度は切なさを含まない、ただ純粋に幸せな、恋人としては最初のキスであった。

 

それから二人の仲は一気に修復され、急接近した。越谷は真琴のことを思いやるし、真琴は越谷に思いっきり甘えている。寂しい笑顔をすることもなくなった。以前の、仲がこじれる原因だった陽子との密会も誤解だとしっかり説明した。それでも拗ねまくっていたので、本当は会わせたくはなかったが、彼女にも会わせた。その経緯を聞いて、陽子は大笑いをして否定をした。

「あら・・・あの視線は君だったのね。ごめんなさいね。大事な大事な彼を借りちゃって。でも、安心してね。私は恋愛だけはひろくんとするつもりはないから」

彼女曰く、あまりに長く一緒にいすぎて恋愛に発展しようがないらしい。だが、長く一緒だったのが、真琴を嫉妬させる。それを見て陽子が抱きつく。

「きゃっ!可愛いわ。抱きつきがいがあるわ〜」

抱きつかれて、真琴は真っ赤になってしまった。そして今度は越谷が嫉妬する羽目になり、真琴から親友を引き剥がす。

「おまえなぁ・・・そんなに俺たちをからかって楽しいか?」

「もちろんよ」

即答される。真琴は彼女に好感を持ったようだが、越谷はがっくりする。真琴を紹介したのは失敗だったかもしれない。これから事あるごとにいじめられそうだ。だが、気付いたら陽子と真琴の二人はおしゃべりに夢中になっている。それについては素直に紹介してよかったと思っている。自分たちの仲を理解してくれる人がいるのは心強かった。

 

とにかく、彼らははたから見れば新婚夫婦でしかなかった。それほど二人は幸せだった。そして、会長に二人が恋人となったことを報告しようと真琴が言い出した。もちろん越谷に反対する理由はない。二人が会うことになったのは会長のおかげでもあるのだ。たとえ反対されても報告するのが礼儀だろう。お互い不安を抱えつつ、報告する日がやってきた・・・。

 

「真琴を、俺にください」

決死の覚悟で会長に言う。会長は別に表情を変えない。

「今更くださいといわれてもな・・・すでに真琴のことは君に任せているはずじゃが」

「おじいちゃん・・・僕と越谷さんは恋人として・・・つきあっていて」

真琴が口を挟む。それを聞いた途端、会長の目がきつくなる。最近は見せなかったメデューサをも射殺すことのできる視線だ。

「なぜ真琴を欲しがる?越谷くん、君は有能だ。これから先いい相手ができて、子に囲まれるかもしれないのだぞ。真琴である必要があるのか?真琴も真琴だ。これから先、越谷くんの足を引っ張るかもしれない。わざわざ不幸になると知っていて認めるわしだと思ったか?」

「愛しています、真琴のことを。弟としてではなくて。会長を裏切って申し訳ないと思っています。会長は俺に友達であることを望んだのに!」

それを聞いた会長の瞳が急に優しさを帯びたものとなる。

「わしに花嫁の祖父をさせるのが非常に口惜しいが・・・君になら真琴を任せても大丈夫じゃな。本当だったら越谷くんに嫁に来てくれたほうが嬉しかったが・・・エプロン姿を見たかったのに。真琴をくださいといわれては仕方ない」

非常に残念そうに言う。それと同時に、二人が「えっ!」という。何か怒っていた理由が二人が恋人だからであることではないようだ。一体どういうことか。まさか・・・

「僕たちが恋人同士だということは知っていたの?」

「わしとてそれに気付かんほどボケてはいないと思うが・・・」

二人は真っ赤になる。死刑宣告を終えた会長はにやりと笑い、気付いた経緯を話す。もともと真琴が越谷を好きになってもおかしくないと思っていたらしい。本人たちよりも、周りが気付くことはよくあることだ。それを確信したのは二人が別々に出ていた日のことで、いつも越谷にべたべたしている真琴がその日に限ってそうしようとしなかったから、おそらく自分の気持ちに気付いて泣いていたんだろうと思っていたようである。実に恐ろしい老人だと顔を見合わせる二人に構わず続ける。実は夜中に二人が話していたことも知っていたのだ。というのも、話していたのが会長の部屋の前だったらからだとか。その空気の甘さといったら、見ているほうがいたたまれなくなったらしい。紆余曲折して、二人一緒に帰ってきたときにはもう花嫁の祖父になることは覚悟していた。本人の周囲の空気が砂をはいてしまいそうなほどになっていたからである。いずれ越谷がもらいに来るならちょっといじめてやろう。越谷のエプロンが見れない恨みだ。なぜ越谷のエプロン姿に固執するのかは不明だったが、とにかくそれが会長の魂胆だったのである。会長の計画は着々と進行していき、それまで知らないふりをしているのがつらかったとのことだった。朗らかに話し終わってから、急にまじめな顔になる。

「そもそも、真琴をここまで笑うことのできる子にしてくれた人に、反対する理由などないではないか。真琴が離れてしまうのは寂しいが、忘れないでくれ。わしがお前たちの家族であることは・・・」

この一言が二人にとって何よりも嬉しい言葉となった。そして彼らは気づいた。一度も自分たちのことを気持ち悪いといわなかった会長の思いやりを・・・。そして、あまりのうれしさに二人の世界に入っていたが、会長の声がそこから連れ戻す。

「だが、越谷くん、君の仕事は首じゃ!」

越谷は声が出ない。真琴は泣きながら詰め寄る。

「どうして首にするの!せっかく認めてもらったのに・・・」

「だってなぁ・・・いまさら『仕事』である必要はないだろう。越谷くんの仕事は真琴の話し相手になるってやつだったからな。その仕事をやめたところで問題なかろう。それとも仕事で付き合いたいのか?」

二人とも必死に否定する。すると会長は凶悪な笑みを浮かべる。

「しかし、定職についていないものに真琴をやるわけにはいかん。だから、この仕事をやってもらわなければならない」

妙な論理で仕事を押し付け、会長が内容を説明する。その仕事とは・・・真琴をショックのあまり失神させてしまうものだった。

 

その仕事とは、別に水商売で働くというものではなく、ごく普通の業務、越谷が以前こなしていたのとほぼ変わらない。しかし、場所が違った。勤務場所は何とニューヨーク、後藤商事の子会社、US後藤商事だったのである。この話の顛末を話すとこういう事になる。

US後藤商事では基本的に現地採用しているが、日本語力が弱いため教育係が必要となった。ついでに、日本向けの取引が好調なので、即戦力がほしい。だから、一時的にでも本社から人材を派遣してほしかった。越谷の優秀さを見込んで彼に白羽の矢が立った。会長はアメリカに貸すのを渋ったが、さすがに会長とて一存で決めるわけにもいかなかったので、仕方なく越谷に命令が出たとのことである。もちろんほかにも数名N.Yに行くことになっていて、七月に出発することも決まっている。

越谷も拒むわけにもいかず、仕方なしに渡米する準備を整えている。そして旅立つ最後の夜・・・。一人で物思いにふけっていると、静かにドアを開けて真琴が入ってきた。また悲しい思いをさせてしまうな、とため息をつくが、実際のところは自分が寂しいのだ。真琴と離れ離れになるのはいやだった。しかし、想像に反して真琴は明るい顔をしていた。

「とうとう明日行くんですね。時間はまだあるようで、もう来てしまいましたね」

「ああ・・・。でも、ずっと向こうにいるわけではないから。いつになるかわからないが、必ず帰ってくる」

「そうですよね。永遠の別れではないんだし。国際電話だって、手紙だってあるんだから・・・がんばって・・・」

最後まで言うことができなかった。越谷に負担をかけないように笑いながら送りたかったが、無理だった。寂しいのだ。会えなくなるのが、こうして直に話すことができなくなるのが・・・たとえ一時的なものであっても。そして泣きじゃくりながら続ける。

「でも、ほんとは・・・寂しい・・・。ついてけないから、アメリカになんて行ってほしくない!ずっと僕と一緒にいてほしい・・・。けど、越谷さんを困らせるわけにはいかないから、ここで待ってますね・・・だから・・・キスして・・・ここで待っていられるように、いつでもそばにいると思えるように!」

越谷は何もいわなかった。自分はどうも先を越されているな、欲しい言葉はいつも先にくれる。離れ離れになって、身も心も引き裂かれそうだけど、たとえ地球の裏でも真琴はいつもそばにいてくれるのではないか。たとえ離れていても、心はいつも彼とともにある。越谷の中から今日まで抱えていた不安が消え去った。

返事をする代わりに彼は、真琴を引き寄せ、抱きしめる。そして、真琴の涙を吸い取り、口づける。

「ん・・・んぅ・・・」

真琴は忘れないようにするためか、必死に越谷にしがみつき、今にも溶けてしまいそうな顔でキスを返す。越谷も、その顔を見て歯止めが利かなくなったのか、真琴のかわいい唇を貪る。時間的にはあまり長いものではなかった。しかし、二人にとってそれは永遠にも等しいものだった。

 

そんなこんなで、越谷は行ってしまった。泣くかと思ったけれど、何とか真琴は笑顔で見送ることができた。向こうは本当に忙しいようなので休日に帰ってくるのは無理そうだけど、時々電話をくれる。内容はそっちの生活と、自分は元気か?という恋人同士の会話とは思えないとても他愛のないものだけど、場所をこえて話ができるのはとても嬉しい。受話器を握るたびに泣きそうになるけど、必死にこらえている。きっと寂しいのは越谷も一緒だから・・・。我侭を言ってはいけない。

そして時は経ち、桜の美しい季節になった。四月四日、真琴はあの桜の木の元に立っている。二人が恋人となった記念すべき木の下に。越谷はすでに忘れてしまっているだろうけど、真琴はいまだに覚えている。桜の咲く日に・・・二人で桜を見に行こうといってくれたことを。あの時は恋人ではなかったけれど、それでも嬉しかった。死ぬまでこの言葉は忘れるつもりはない。だから、今日はこの木の下に立っていればなんとなく越谷と一緒に見ているような気分になってくる。親たちに紹介してやりたい。自分という桜を咲かせることができるほどの素敵な人を手に入れたということを。きっと天国で喜んでくれるに違いない。

しかし、桜というのはここまで感傷的にさせるものなのか。泣かないと決めていたのに、自然と涙があふれてくる。会いたい・・・そう思ったとき、真琴の後ろからそっと抱きしめてくる人があり、耳元でこうささやく。

「ただいま・・・」

「お帰りなさい・・・!」

真琴はそれだけ言って越谷に抱きついた。越谷も抱きしめる手を強める。それから二人には言葉はなかったが、お互いの気持ちを伝えるのに言葉など必要なかった。そして、彼らの上からは、久々の再会を祝うかのように、花びらが舞を踊るように降り注いでいた。

 

おわり