階段




 それを踏み越えて行かれるのであれば、貴方も戻っては来れますまい。
 白布で顔を隠す女は、赤い唇だけを覗かせていた。ニイ、と、笑みに歪む唇は、さも嬉しげであった。
「――この先には何があるのですか」
「貴方はそれを既に知っておりましょう。この先にあるのはただ忌まわしきもの。口にするもおぞましく、見れば眼は腐りまする。貴方はそれを覚悟なされた。その上で行かれるのだ」
 女は彼の問いに流暢に答えると、途端にけたたましく笑い出した。怪鳥けちょうの鳴いたような笑声であった。
 彼は女に向き直り、女を睨めつけた。
「はははははは」
 女は腹の底から出したような大声を、嬉しげなその表情とは裏腹に何の感情も込めずに吐き出している。
 それは笑い声である。
 しかし、そこに込められるべき思いは、女の中に無いのか。
 女は何の感情も篭もらない笑いを、彼に向かって投げ付ける。
「はははははは、私を睨まれても何にもなりませぬぞ。貴方はもはやこの先へ向かうしかないのです。そのきざはし・・・・を踏み締めて!」
 女は笑いながら絶叫すると、舞うように飛び下がりクルリと身を翻した。
 彼は女から視線を逸らすと、きざはしの先を仰ぎ見た。段の向こうには、段しかない。視界の限りまで、その先も恐らく、延々と段は続くのであろう。漆喰の壁は狭く、左右から彼を圧迫するように囲む。
 ――行くしかないのだと、彼は知っていた。
 女の笑いは鳴り響いている。天井は高いけれども、きざはしの幅は狭い。閉塞感は上を見上げるほどに、前を見据えるほどに、増して行く。
 ぐるぐると、視界が回るような感覚を覚えた。
 吐き気がした。
 それを堪えれば、また眩暈は酷くなってゆく。知らず涙が伝う。それを拭くことも叶わないまま、ぶわりと汗が噴き出していく。
 ……この先に。
 女は狂ったように笑い続けている。
 彼はゆっくりと、目を閉じた。回り続ける視界を拒むように。だが、暗闇の中でも視界は回転している。
 ぐるぐる。
 ぐるぐる。
「わたくしは、必ず戻って参ります」
「はははははは」
 平坦な笑い声だった。
「無駄です。そのような誓いなど無意味です。
 誰に誓うと言うのです? 何にかけると言うのです。貴方にはもう、何ものこされてはいない」
「ならば」
 彼は女を振り返った。
 女は笑みを貼り付かせたまま、彼にその面を向けている。視線がこちらに向いているのかは、解らない。鼻から上は相変わらず、白い布に覆われたままだった。
 彼は胸に手を当てて、唇を歪めた。ゆっくりと目を閉じ。
「我が身と貴方に、誓いましょう」
 ピタリ、と。
 女は笑うのを止めた。
「……約束です」
 彼がそう言うと、女は唇を引き結び、黙りこくった。笑い声の残滓のように、キィィ、と耳鳴りが頭を撫でていく。
 彼は目を開くと、女から顔を背けた。きざはしを踏み締めて彼は行く。もはや振り返ることはない。
 その先に何があるのか。
 彼には既に分かっていた。




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