音もなく靴裏は柔らかな雪を踏抜き、返ってくるのはただその下のコンクリートを踏み締める感触だけだった。指の先は感覚がまるでなく、血が通っていないのではと思ったが広げた手は真っ赤だった。息を吹き掛けると一瞬視界が白く染まる。鼻を啜りながら空を見上げる。薄い灰色の雲が一面に広がっていた。雪は降っていない、――天気予報が、夜からの雪を伝えていたことを不意に思い出す。名残惜しい気もする。
 眼下には車の通らない静かな早朝の道路が見えた。白線が眩しかった。くらくらする。心臓が高鳴り身体が強張って、でも深呼吸を一度すればそれはすぐに過ぎ去る。残るのは身を切るような寒さ。本当に身体を切り裂いてしまうのではないかと思う程に強い風。それが不意に止んだ時、あらゆるところから解き放たれた空白と静寂だけになる。大気に溶け込んで拡散して行く、そんな幻想が頭を過ぎる。幻想でしかない。
 切らないまま、携帯電話を閉じる。
 目を閉じて、もう一度だけ、ひやりとした空気を吸い込む。
 決意の時間はいらなかった。
 ただほんの少しだけ、終わりにする気になりさえすればよかった。




 メモリーを削除する前に着信拒否にしなければと思い立つ。操作をしている時にまた電話がかかってくるが、当たり前のように彼はそれを無視する。メールも電話も着信拒否にして、ハイこれで全てがおしまい。完全に完璧に切れたんだと自分に言い聞かせるように彼は呟いた。だが、視線の先には電話線を引っこ抜いた電話機がある。こっちの問題はまだ解決されていないのだ。彼は嘆息して忌ま忌ましげに電話機を睨み付けた。いつまでこんなことが続くのだろうかと思いながら携帯を閉じる。もう欝陶しい着信メロディーは聞こえることはない。一先ずそれは清々しい。




 身体が痛くて重くて視界が赤い。途切れた世界は明るくならないまでも薄暗いぐらいには戻って来ていて、絶望と落胆を覚える。
 手を突いて上半身だけどうにか起き上がり、アスファルトの上を這いずって行く。見上げると先程よりは狭く暗くなった空と漆黒の塔が視界いっぱいに見えていた。
 ひび割れていた。視界も心も身体も。アスファルトの上を這っていく。少しずつ全てが身体から零れ出ていく。
 不意に、身体が軽くなる。身体が軽いと感じた途端、さらに身体が軽くなる。さらに、さらに。やがては羽根のように。
 空が飛べそうだ。
 自然、笑みが込み上げて来た。




 電話のことはとりあえず後回しにしようと思いながら彼はテレビを付ける。チャンネルを一回りさせたが興味を引くようなものはなく、それでも適当に番組を選んで付けっぱなしにしながらソファに座る。テレビを見るでもなく、かと言って何もすることもなく。沈み込むようにソファに体重をかけると欠伸が出た。窓の外はまだ明るいが一眠りしようと彼は思い――思ったと言う程頭を働かせたわけではないのだが、兎に角彼はゆっくりと眠りに落ちていった。




 窓に手をつく。
 ぺたり。
 窓はとても冷たい。




 目を開けると部屋はすっかり暗くなってテレビはつけっぱなしで電話はそのままで彼は毒づきながらテレビを消しリモコンを放って立ち上がった。電気を付け、カーテンを閉めようと青く暗く染まった窓の外に目をやると、べっとりとそこに、赤い手形が付いていた。いくつもいくつもベタベタと。彼は息を飲んで窓に駆け寄り、はっきり検分しようと窓を開けようとしたところで上げかけた悲鳴を噛み殺した。手形は全て、部屋の内側に付いていた。




 驚かせてやろうと後ろから近付いて彼を抱きしめる。途端、耳を引き裂くような絶叫を上げて彼は暴れ出した。




 彼は息苦しさに叫び声を上げながらめちゃくちゃに手を振り回す。お前、部屋まで入って。この糞女。静かな部屋の中、彼の絶叫だけが響き渡る。その間に息苦しいどころの話ではなくなっていた。息ができない。頭が熱くなり彼はぱくぱくと口を開閉する。声もない。手足をばたつかせながら部屋をのたうちまわる。手を無茶苦茶に動かすと指先になにか冷たい金属が触れた。棚から床に落ちた千枚通しだった。畜生。ふざけやがって。ふざけやがって。この女。叫べはしなかったが彼は鼻穴を膨らませ千枚通しを彼の首を締める何者かの手に突き立てた。




 静かになった部屋でテーブルの上に彼の携帯を見つけた。そっとその横に自分の携帯を置いておく。ぴったりとくっつけて並べると照れ臭い。照れ隠しに眠り込んだ彼に抱き着いてごまかす。温かな彼の身体に触れるうちに、


 何だかとても、眠くなってしまっていた。




もうちょっとホラーっぽくするべきだったか。
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