駅から十分程度、住宅街の方に入り、なだらかな傾斜を上っていく。
 アスファルトにじりじりと日差しが照り付け、熱が立ち上っている。辺りは日本特有、やけに肌に張り付くような湿気で、ともすると視界が歪む。
 歩道は狭い。自転車同士がぎりぎりすれ違えない程度の狭さだ。車は殆ど通らないので、自転車は大体車道を走っているが、時折壁にくっつくようにして自転車とすれ違った。車道に出れば済むことなのだが、お互い、要領が悪い。
「暑っちぃ……」
 呟いても何にもならない。
 涼風はなく、吹くのは熱の篭った風だけだ。汗を拭い、俺は溜息をつく。
 視線を巡らせると、ちょうどどこかの校庭があった。高いフェンスの向こうで、ユニフォームを着た少年たちが練習をしている。背丈からして高校生だろう。野球部だった。土に汚れたユニフォームを着て。彼らは一様に真剣な顔をしている。この距離では見えないが、そう思う。
 俺は一旦見物に立ち止まりかけて、やめた。足早に通り過ぎる。道草を食うのは良くない。何せ十年振りの再会なのだから。
 そう思った途端、俺は走るようにして道を急いでいた。




洗濯物日和




 蝉の音。
 メモ用紙にサインペンで書かれた住所は、二階建てのアパートを示していた。人通りも車通りも殆どない、閑静な……寂れた住宅地の一角だ。
 俺は電話で聞いた彼の名を思い出し、片端から息を上げながら標札を確認していく。
 程なくしてその部屋は見つかった。
 俺は震える手でチャイムを押した。俺の気持ちを気抜けさせてしまうような、ピンポン、と言うチャイムの音が蝉の鳴き声しか聞こえない辺りに響き渡る。
 返事はない。
 俺は何度もチャイムを鳴らす。すぐに返事が返ってくるわけはないと解っていても逸る気持ちを抑えられない。答えは、ない。ひょっとしてもう引き払った後だったか。
 そんな考えが頭をかすめて、俺はぴたりとチャイムを押すのをやめる。
 その瞬間ドアは開いた。仰け反った俺の鼻先でドアは止まり、半開きのドアから。
 ナイフが。
「……両手を頭に回して下さい。ゆっくりと」
 低い声。俺は慌てて指示に従った。俺の喉元に突き付けられた小さなナイフ。柄には白い五指が絡み付いている。
 俺はその指先から腕をゆっくりと辿る。この暑いのに長袖を着ている。細い肩、引いた顎、薄い唇、鼻、……鋭い両の瞳。俺は相手の顔の全体を、視界に捉らえた。
「……貴方」
 短い呟きの中に動揺が滲んでいる。ドアを開ける前に俺の顔は確認しているはずだった。顔にも驚きはなく、戸惑いがある。ナイフの切っ先が一瞬震えて、すぐに固定される。
「お久し振りッス」
 せんぱい。
 俺は震える声で、十年分年を取った彼を、十年前と同じように、呼んだ。
 彼が泣きそうに見えたのは、俺の気のせいではないと思う。彼が捨て去った過去と、引きずっている過去。俺は彼がとっくの昔に捨てたものの中に入っていたはずだからだ。
「……何故、貴方がここに」
「捜してましたから。――ようやく、会えた」
「私の居場所……そのメモは」
 俺は彼にメモを見せた。彼はそこに書かれた文字を目で追い、貴方の字ですか、と聞いてきた。
「解りますか」
「こんな下手くそな字を書くのは貴方くらいでしょう」
 微笑と間もなく、彼はナイフを引いた。鞘にナイフを収め、腰にかける。無駄のない動きだった。十年間が彼に、こんなにもナイフを馴染ませてしまった。
「中に入って下さい。立ち話も何でしょう」
 彼は無感動に俺を部屋の中に招いた。浮かんでいた笑みは既に消えていた。




「貴方に探り当てられるとは、私もヤキが回りましたね」
 彼の部屋には殆ど物がなかった。
 彼が頻繁に住家を移動していると言う話はこれを見ただけで事実であると解る。一時の隠れ家なのだろう。ただ、部屋の中の匂いは空き家特有のものではなかった。流しにはマグが一つ。カーテンは生地の厚い白で、きっちりと締め切られている。明かりはそもそもない。蛍光灯があるべき場所には何もなかった。
「何をしに来たんですか」
 部屋の中央で立ち止まり、彼はこちらを振り返る。
 狭い六畳間。俺を見上げる彼の視線の位置は、以前とさほど変わらない。
「この近くに来ていると言う噂があったんで」
「……そうではなく」
「懐かしかったからですよ。それじゃあ不十分ですか」
「人殺しに会いたいと思う理由には、決め手に欠けるでしょう」
 彼は自嘲しない。微笑は穏やかそのものだった。口調は明瞭で、しかし内容は自虐的だった。
 人殺し、と。
 彼は言う。自分のことをそう言う。それは紛れも無い事実だった。数え切れない程大勢を彼は殺した。これからも彼は殺すだろう。彼は人殺しだ。でも俺の前に立つ彼はとてもそうは見えない。
「俺も、人殺しだ――それでも足りませんか」
 彼は笑みを消した。知らないうちにできていた傷を見つけた時のような、ぽかんとした顔をする。だが、覗いたのは少しの間だけだ。すぐに彼はその表情も打ち消す。
「――いいでしょう。納得しましょう。では、貴方にその住所を教えたのは誰です?」
「それは言えません」
「何故?」
「『口止め』するでしょ。教えたら」
 俺は努めて落ち着いた声を出したつもりだった。若干、声が震えてしまったかも知れない。
「私も自衛には細心を払っているのでね。――まあ、言いたくないなら仕方ありませんが」
 抜かないままナイフを弄び、彼は言った。特徴的な装飾のシースナイフ。俺はそれに注目する。そして、目を見開く。
 ――見覚えのある、ものだった。
「ほんとだったんスね、そのナイフ」
「それも噂ですか」
 悩むように言って、彼は唇を引き結んだ。自分の情報が予想以上に漏れていることへの困惑と、俺がナイフを覚えていたことに対する動揺と。等分された感情は安定せずすぐに溶け合った。彼は顔を上げる。
「……理解できませんか?」
「あの人を殺した奴のナイフを……あの人を殺したナイフを」
「私が殺した男のナイフでもある」
 彼は無感動に言葉を継いだ。
 十年前、俺たちの知るある人が、首を掻き切られて死んだ。その人は彼が人殺しになった原因であり俺が人を殺した遠因であり、彼がこの場にいる理由だった。その人を殺したナイフが今彼が握るそれだった。彼はこのナイフを怨みこそすれ、愛用する理由などこれっぽっちもないはずだった。
「どうして」
「もうないんですよ」
 簡潔過ぎる答え。意味が取れずに、俺は眉を寄せる。
 彼は構わず言葉を続ける。
「もう遺っていないんです。あの人がこの世界にいた証は、もう殆ど遺っていないんです。貴方と、私。――そしてあと少しだけの人間の記憶。もう遺されたものは、少ない。形として遺っているものとなると、一つとしてない」
 だから?
「あの人を殺したナイフは……あの人を切り付けたナイフ、は……その証足り得る、と」
「可笑しいですか」
 彼はそこで初めて。
 自嘲を浮かべた。
「あの人は焼かれてしまった。その骨すら、遺っていない。あの人が使っていたものも今では何処にあるか解らない。私は恐しかった。私の記憶だけでは恐かったんです。形になるものが欲しかった。……可笑しいですか?」
 俺は何も答えられない。
「あの人を殺したナイフで」
 何年前に彼はその決意をしたのだろうか。その思いを呼び起こすように彼は言葉を発する。背筋に寒気が走るこれは踏み込んではいけない場所だった一人の人間の狂おしい決断の言葉だった。
「あの人を死へ追いやった全てを壊す」
 静かだった。
 耳が痛くなるほどの静けさにようやく気付いた。蝉の鳴き声はいつの間にか聞こえなくなっていた。
「それがあの人への手向けとは思いませんが」
 彼はゆっくりとナイフを抜き放った。金属の擦れる音が酷く耳に残る。
「私は、あいつらを全て殺してやらなければ気が済まない」
 彼の目が俺を見上げている。締め切られた白いカーテン明かりのない部屋は薄暗い。彼の目だけが爛々と輝いている。
「……十年、そのために使って来たって言うのかよ……」
「いけませんか?」
 喘ぐような俺の呟きに彼は切り付けるように問い返してきた。
「あの人はもう死んだ人だ……死んだ人間のためにそんな、」
「あの人を過去にはしない」
 ナイフを収め彼は一歩こちらに足を踏み出した。鞘を持ち柄をこちらに向ける。握りのために巻かれた包帯は古く柄に既にくっついているように見えた。黒く汚れた跡は血の染みだろう。彼が殺めた人の数だけそこに血が染み込んでいる。
 いや。
 もしかしたらここには、あの人の血が遺っているのかも知れなかった。そうでなくとも、彼はそう思っているのかも、知れなかった。
「あの人が過去だと言うならば私もまた過去なんだ。……過去が、この国を崩す。思い知らせてやる。ひとりの人間の死がどれだけ重いものかあいつらに知らせてやる。後悔させてやる……」
 呪詛を吐き出すように彼は言い、俺の肩を押した。俺はよろけて、呆然と、彼を見返した。
「……先、輩」
 ぞっとする。
 彼の顔には何の熱も篭められていなかった。
 彼は亡霊の眼をしていた。彼が言うその通りに彼は過去なのかも知れないと思ってしまう程の。
 だが、俺も似たようなものなのだとも思う。あの時、道を分かった十年前のあの日、背を向けあったまま俺たちは立ち止まったままだ。彼は過去を向いている。俺は何処かに目を向けることすらできないで俯いている。でも過去に囚われたと言う点で俺たちは共通する。次の場所を選べないでいる。彼は過去にしがみつくと言う方法で。俺は過去を忘れ去ろうとすることでその場に留まった。
 でも彼が過去を向いていても過去は彼を突き放すし、俺は結局過去を捨てることなどできなかった。
「……あんたの行為を否定もできないんだ。俺は」
「その役目を貴方には求めていませんよ。貴方にはただ、見届ける義務があるだけだ」
 彼は明快な口調で言った。ナイフを引き、柄を握り姿勢を正す。
 噴き出すような冷気が彼から発せられた気がした。
「貴方の罪がその義務を課す。私の罪が私にこうさせてきたように、貴方には全ての終わりを見届ける義務がある。私には全てを終わらせる義務がある。……そして私も貴方もまだ死ぬことは赦されていない」
 暑さのせいではなく汗が流れでてきた。辺りには冷気が満ちている。
 俺は久しぶりにこの感覚を感じる。
 彼には馴染み深いものなのだろう。
「今日は会えて嬉しかった。――もう会うこともないでしょう……次に会う時は私が死刑台に登る時。そう思いますよ」
 彼は笑った。自信に満ち溢れた笑いだった。俺は何が起こっているのか察する。これから何が起こるのか察する。
「帰りなさい。今なら見逃してくれる。後で拘束されるでしょうが知らぬ存ぜぬを通しなさい」
「先輩、あんた……こんな」
「私はまだ死ぬわけにはいかない貴方に死ぬことも許さない。さあ出ていきなさい。ここからは違う世界だ。貴方が関わることを拒んだ世界だ。あの時あの瞬間に拒絶した世界だ!」
 彼は俺を軽く押しただけだったのだろう。だが俺は彼に押されるままに後じさりドアに押し付けられた。彼の手がドアノブを回し、俺を外へと押し出した。彼の手にはナイフが握られている。彼が俺を脅しているように外からは見えたかも知れなかった。勿論それは彼の意図したことだ。だけどそれはもはやどうでもいいことだった。
「先輩……!」
 あの日背を向けあった俺たちが向き合うことはもうできないのだろうか。ただ彼は俺から視線を逸らすことはなかった。目を背けているのは俺だけなのかも知れなかった。
 彼は笑みを浮かべていた。――殺人者が浮かべる笑みにしては、鮮烈過ぎた。
「先輩……俺……!」
 扉が閉まった。
 気が抜ける程の呆気なさだった。彼は別れの言葉を紡ぐことはなかった。俺も何も言えなかった。謝ることすらできなかった。彼が居場所を知られたのは俺のせいかも知れないのに!
 俺は扉に縋り付く。ドアは開かなかった。内側から鍵がかけられている。俺は汗で滑る手に苛立ちながら何度もがちゃがちゃと右に左にドアを回す。無駄だと解っていてもそうせざるを得ない。彼は死ぬわけにはいかないと言った、けれど。
「……うる、せぇよ……!」
 俺は吐き捨てる。その自分の声すら耳に届かない。ドアの反対側窓の方から彼は家を出たに違いなかった有り得ない判断だ、窓から出るなんて目立って仕方ないはずだ。俺を囮にしたって盾にしたってよかったはずだ。なのにそんな目立った行動を取るから……!
 銃声が。
 銃声。銃声だ。爆竹が連続して爆発しているようだった。俺は開かないドアを蹴り付ける。何度も蹴り付ける。それも重なるいつまでも続く銃声に隠れて聞こえない。何だよ畜生!
「……だな?!」
 誰かが俺の肩を掴んだ。
 振り向く。防護服ヘルメット盾。物々しい装備。警官だった。此処はばれていた。俺のせい? そうじゃないかも知れない。けど俺はそう思った。警官は此処をずっと張っていたのだ――だけど、一人だけだった。今、みんな彼の方に行ったから。警官は厳しい顔をしている。俺の名前を呼んだらしかったが銃声が煩くて何も聞こえない。何か。
 軍隊としか思えない格好の警官は俺の肩を掴んで揺さぶった。俺はされるがままになっていたからもしかしたら頷いたように見えたかも知れない。来い。とがなり立てた警官に腕を引かれて俺は歩き出す。その間にも銃声は。……銃声は鳴り止まない。向こうのあの人がどんなことになっているのか俺には解らない。俺は呆然と、アパートを見上げた。こんな小さな古びたアパートが俺たちの世界を隔てている。
 俺は立ち止まった。彼は俺には見届ける義務があると言った。まだ死ねないとも言った。俺は……その言葉を信じるしかないと言うのだろうか。
 ふざけるなと、思った瞬間警察に殴られた。ちゃんとついて来いと怒鳴る警官を見て俺は、笑みを浮かべる。
「……あんた奥さんいる?」
 銃声は遠退き始めていた。辺りは知らないうちに暗くなっていて空は夕焼け。赤く、染まっていた。警官は顔を強張らせて答えなかった。俺は構わずに言葉を続ける。
「俺には、一生かけてもいいってくらい好きな人がいたんだよ」
 警官は何も言わなかった。俺は殴られた頬を押さえて、俯いて笑った。
 ……貴方は死なない。死なないんだ。そうでしょう? 信じますよ。
 だって、きっと俺も。
「警察サン。火、あります? 煙草吸いたくなっちゃって」
 きっと俺も、貴方の罪を赦すことはないからだ。




 銃声はいつしか止んでいた。




書く→合うお題を探すと言う作業はやめた方がいいと思った。
山崎まさよし「One more time, One more chance」のイメージで。




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