ひとでなしの恋




 彼を見ると、何とはなしに手負いの獣が思い出された。
 足を撃たれ腹を撃たれて、猟師に見下ろされながらもがく獣だ。鋭い爪はがりがりと地を掻いている。牙は噛み合わされることなく、喉から込み上げる血が歯の間から流れ落ち、顎を伝って地面に広がる。荒い息が冷ややかな空気を白く染めて吐き出されていた。訪れる死を予期しても獣はあがくことをやめない。わずかな望みに……あるのかも解らないそれに縋るように、生きることを諦めない。それが無駄ではあっても無意味ではないと、信じている。
 獣が、猟師を見上げた。
 凄絶な眼差しだった。闇の中でぎらぎらと煌めいている。牙が噛み合わされ、唸り声を上げて、獣は人間を威嚇する。爪はただ地面を掻き、立ち上がることすらできなくても獣は戦うことを諦めてはいないのだった。獣は、諦めない。諦めることを獣自身が許さない。
 ……堪らなくなる。
 獣の首根を押さえ付け、四肢を一つずつ切り離してしまいたくなる。獣には解るだろうか、もはや地を踏み締めて駆けることができなくなったことを。獲物を切り裂くこともできなくなったことを。
 地に転がる手足と、首に押し当てられたナイフを認めて、果たして獣は――彼は――いったい、どんな顔をするのだろう。
 絶望するのだろうか。泣き叫ぶだろうか。それとも怒り狂うのだろうか。身を捻り、猟師に牙を向けるだろうか。そんなことをしても結末は――彼の死は――変わらないと解っていて? それでもなおあがこうとするのだろうか?
 彼は何を遺すのだろう。
 首に触れた刃が皮膚に肉に、やがて骨に、彼の中にゆっくりと深く潜り込む。その瞬間、絶命するまでの刹那。
 彼は何を考えるのだろうか。何を言おうとするのだろう。何に思いを乗せようとするのだろう。
 彼は私を見るのだろうか。
 私を見つめて、彼は死んで行くのだろうか。
 その時その瞳は、どんな色をしているのだろうか。涙は零れるだろうか。それでは、その色は?

 ……その想像は、中々に楽しい。

 彼の身体からは、流れ出した血からは、……白く湯気が立ち上っている。皮膚をナイフがなぞるごとに、身が強張り、その目が見開かれ、その歯は食いしばられる。冷たい大気と、彼の血の熱さ、――そう、彼を殺すなら冬がいい。それだって彼が死ぬ頃には、私の額に汗が滲む程になるだろう。血が土に染み込み、黒い泥が彼を汚していく。
 首を切り取る前に彼は死んでしまうだろうか。それともしぶとく生きているか。
 彼の屍はどうしようか。埋めてしまう?――いや、そんな勿体ないことはできない。やがて腐り落ちるとしても私の手元に置いておきたい。彼は私の傍にいるべきだ。ずっと、私の傍に。
 解体を終えて立ち上がると、彼の身体が転がっているのがはっきりと見下ろせるだろう。その時、きっと私は深い後悔に襲われる。だけれどもそれ以上の喜びがあるだろう。
 ――勿論、私は彼を救うこともできる。彼に手を差し延べ彼が私の手を取るのならば、私は彼を助けるかも知れない。彼を殺してしまえば、それきりだ。屍はそこにある。しかし、それだけ。彼はそこにはいない。彼を永遠に失うこと、それゆえの快楽、彼を手の中で永らえさせ、薄暗い世界を持続させて行くこと。選択がそこに現れた時、果たして私はどちらを選び取るのだろうか。
 もしかしたら彼は私が手を下すまでもなく死んでしまうかも知れない。それだけは耐えられない。彼の生殺与奪は握っておきたい。

 ……結局のところ、それは妄想でしかないのだけれど。
 楽しい想像には違いない。

 私は読みさしの本を開き栞を置いた。頁の一行目からを指でなぞる。
 浮かぶ笑みを、私は抑えられなかった。追い詰められるほど、追い込まれるほど、私は楽しくて楽しくて仕方がない。
 自問を続ける。私は彼をどうするべきなのだろう? 私は彼をどうするのだろう? 私自身からしかその答えは返ってこないのだけれども、あいにく私はその答えを未だ持っていない。その瞬間に立ち会うまで私はきっと決定を下せない――下さない――ままだろう。
 早く私の元に来て下さい。
 私はずっと、貴方を待っているのです。
 私は本を閉じて立ち上がった。栞を忘れたことに気付く。……まあ、頁は覚えている。気にすることもあるまい。
 私は本をテーブルの上に放って、スタンドの明かりを落とした。




変態の妄想とも言う。



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