あのベトナムの夜。
 遠く、爆撃の音が聞こえていた。




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 抱き留めた人物が自分の兄弟であることに、しばらくソロモンは気が付かなかった。
 血に塗れ、顔を俯かせ荒い息を吐き出している黒髪の青年。長い黒髪は乱れ、それすらも血に濡れているのを見て、ソロモンは身を震わせる。
「カール……?」
 震えた声で、ソロモンは言葉をかけた。
 その言葉が届いたのかどうか。蛍光灯の白い明かりの下、兄弟、騎士(シュヴァリエ)、自身の五つの分身の一つ、カール・フェイオンが、幽鬼のように緩慢に弱々しく顔を上げた。
 憎しみの滴る顔は、やはり血に染まっていた。
「……、」
 吐き出そうとした言葉は、喀血か吐血かに遮られる。ソロモンはカールの肩を抱き、その幅が異常に狭いことに気付いた。右の肩口から先が失われていた。際限なく傷口から血が流れ出していく。
「カール」
 ソロモンの声に、苦しみの表情でカールは顔を俯かせた。ソロモンは兄弟の名を繰り返して呼びながら、最後の力を失し完全にソロモンへ体重を預けたカールの身体を支えた。
「カール、カール……可哀相に。一体誰がこんなことを?」
 返ってくるのは獣のような唸り声だけだ。ソロモンは、肩の傷口を出血を止めようとするようにしばらく押さえて呆然としていたが、しばらくしてカールの治療をすることに思い至った。
 少しだけ混乱していることを自覚する。腕を失くした兄弟を前に、自分は呆然としていただけだった。
 カールは未だ意識を失ってはいなかったが、それでも失血は激しく、顔色は白い紙のようになっていた。死にはしないだろうが、徒に回復を遅らせるのは賢くない。
 カールの身体を横たえて、電話をかけるために立ち上がる。
 カールが意味のない呻き声を漏らしているわけではない、と言うことに気付いたのはその時だった。カールは視線を宙空に彷徨わせて、声なき声でぶつぶつとその名を幾度も幾度も呼んでいた。
 ソロモンは硬直し、カールの唇の動きを追った。
「……SA・YA……サ、ヤ、サヤ……」
 自分で囁いたその名の響きに、ソロモンは眉を寄せる。
 カールはソロモンを見ていなかった。怨嗟に満ちた声で、掠れて音にならない声で、ただ、その名を呟き続けていた。
 カールの傍に跪き、ソロモンはカールの顔を覗き込んだ。憤怒。苦痛。憎悪。カールの浮かべる表情は、そのどれでもあり、どれでもなかった。
「カール」
「……」
「カール、それが、貴方を傷付けたものの名前ですか?」
 答えはない。
 ソロモンは目を細める。カールが頬を引き攣らせ、目を見開き、歪んだ笑いを浮かべる。それを見つめる。
「……ァ、は……はッ……」
 カールは喉を仰け反らせ、哄笑した。カールの白い喉すらも血に染まって行く。唇から幾筋も血が流れ、床に赤い海ができつつあった。
「……ッ、ハハッ、さや、SAYA……! 必ず、必ずッ、必ず……!」
 カールの瞳は、何処も見ていなかった。
 いや、恐らく彼ははっきりと、見つめていた。
 ――小夜。
 ソロモンは、カールの狂態を見下ろしている。自分の顔から表情が消えていくのを感じた。
 カールの指先が動き、腕を失った右肩を強く掴んだ。緩やかに乾きかけていた傷口から血が噴き出す。
「カール!」
 カールの手を掴み、床に押し付ける。カールは見開いた目でじっとソロモンを見返した。獣の瞳が、揺らぐ。
「……ソロ、モン……?」
 カールは呆けた顔でソロモンを見つめる。ソロモンは溜息をつきながら、深く頷いた。
「そう。僕です。カール、落ち着いて下さい。今、医療班を呼びますから」
「……」
 カールが口を開き、それから閉じた。
 ソロモンはそれを見る前に立ち上がっていた。




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