キャプテン・クックとバレンタイン




「カール、この包みは何ですか?」
 声は、何故かドスが利いていた。

 いつもの通り書類に目を通していたカールは、反射的に顔を上げ声の主――いつもの笑みすら浮かべずに顔を俯かせているソロモンを見た。意識しているのかいないのか、いつもよりも大分低く紡がれたその声は不穏そのものだった。完全に不機嫌な兄弟の口調に、カールは訳も解らず身体が強張るのを感じる。
 カールの理解の外でこの兄が何やら機嫌を損ね、結果カールが被害を被る。過去に何度となく繰り返されてきたことだ。……この兄への恐怖が芯にまで刻み込まれていることを情けなく思いつつ、ソロモンの視線の先へ目を向けた。
 そこに置かれていたのは白い包装紙に包まれた四角い箱だった。青いリボンで結ばれた小箱。カールはそれを見て、それが何だったのか、一瞬、思い出せずに目を瞬かせる。その小箱がソロモンの不機嫌を招いたのだろう、と言うことは解ったが、ソロモンのそのいつにない無表情がカールの思考を鈍らせていた。焦りもある。早く答えなければとんでもないことになってしまう。
 思考をしばらく空回りさせ、カールは小箱を食い入るように見つめる。……何だったか。ソロモンが持ち込んだわけではないと言うことは、自分のもののはずだ。自分が買ったものではないから、誰かからの贈り物だろう。だが、誰の? 貰った記憶は……

「……ああ、生徒だ」
「生徒?」
 顔を上げ、ソロモンは怪訝そうに目を瞬かせる。カールは努めて平静さを保とうと努力しながら、徐に頷いた。

「――生徒にもらった。チョコレートだそうだ」
 答えたを境に、何故か沈黙が落ちる。

 ソロモンはこちらを酷く無表情に見据えていた。カールは自分の背筋に冷や汗が浮かぶのを感じながら、ソロモンを見返す。まさしく蛇に睨まれた蛙のように目を逸らせもしなければ指先一つも動かせず、ついには瞬きや呼吸すらも躊躇われる。ソロモンはぼんやりとした表情で、口を覆うように顔に手をやると、考え込むように顔を俯かせた。一気に緊張が抜ける。カールは弛緩しそうな身体を何とか支え、ソロモンの次の言葉を待った。

「……何か、言われませんでしたか?」
「何か?」
 ゆっくりと考えながら紡がれたようなソロモンの言葉に、カールは恐る恐る問い返した。問い返しながら、何で自分がこんなに意味もなく怖がらねばならんのだ、と自己嫌悪に沈む。……勿論、根拠の無い恐怖ではないのだが、それにしても、この、如何ともし難い芯の冷えは、自分のこととは言えいくら何でも不可解だった。
「その生徒に。……何か言われませんでしたか?」
 何故そんなことを気にする、と言う問いは辛うじて飲み込んだ。
 受け止めた言葉を頭の中で反芻し、必死で記憶を呼び起こす。
「俯いてぼそぼそと、何か言っていた気がするな。返礼はいいだの何だの、やたら早口にまくし立てて……結局、私はチョコレートは食べないと言う前に行ってしまった。意味が解らなかった」
「カール」
 ふと我に返って見ると、ソロモンは既に笑顔を取り戻してこちらを見ていた。苦笑だ。首を傾げ、ソロモンは小箱を拾い上げて、
「今日が何日だか、分かります?」
「?」
 カールはソロモンをまじまじと見上げた。あまりにも唐突な問いに思えた。だが、此処で逆らうとまた面倒なことになるだろう――カールは素直に卓上に置いたカレンダーに目をやって日付を確かめ、
「二月、十四日だ」
「何の日か解ります?」
「……キャプテン・クックが死んだ日だ。
 それが、どうかしたか?」
 問い返すと、ソロモンは人差し指の腹を唇に押し当てて口元を隠してから、目を閉じて俯き、表情そのものをカールから見えないようにする。が、肩が震えていた。噴き出すのを堪えているのだ、とすぐに理解する。と同時に、怪訝に思う。……何か自分はおかしなことを言ったものだろうか。
 思った途端顔に熱が集まるのを感じて、カールは眉を寄せた。
「違ったか」
「いえ、――その通りです。何にも間違ってません」
 ソロモンは肩を竦めてみせて、取り上げた小箱を手の中で弄びながら、でも、と続ける。
「カール、僕、時々不思議です」
「何が」
「何年もリセの理事長をやってたのにねえ」
 カールはソロモンの笑顔をぼんやりと見つめた。
 リセの理事長をやっていることと、今日の日付と、チョコレートと、一体どう言う風に繋がるのか。しばらく、考えて。
「……ソロモン」
「はい?」
「もしかして、今日チョコレートを贈ることに何か意味があるのか」
「――いえ? 特に何もありませんよ?」
 問いかけにソロモンは、全く文句の付けようも無い笑顔で返してきた。あまりにも自信たっぷりに言い切るものだから、思わず納得してしまいそうになる。カールは勢いに押されるように僅か顎を反らせ、気圧されまいとそれを戻し、上目遣いにソロモンを見上げる。
「……なら、何故そんなことを気にする。何日だとか何の日だとか」
「大したことではありません。――ああ、そうだ、カール?」
 ソロモンはふと思いついたようにチョコの入った小箱に目を落とした。すぐにまた顔を上げて、笑顔で問いかけてくる。
「このチョコレート、食べないなら貰っても構いませんよね?」
「構わないが」
 人から貰ったものをまた誰かに譲渡するのは気が引けるが、食べないのなら捨てるだけだ。それくらいだったら、この男にやってしまう方が……それでも、いくらかマシだろう。
 頷いてみせると、ソロモンは嬉しそうな笑みを浮かべて小箱を顔の脇に持ち上げてみせた。
「有難うございます。
 それじゃ、はい、カール、手を出して」
「……何故私に手渡す」
「下さい」
「……は?」
「直接手渡して下さい」
 それはもう、キラキラと輝くような笑顔だった。
 カールは素直に殺意を覚えた。
「……ソロモン」
 上擦りそうになる声を必死で抑え、カールは低く兄の名前を呼んだ。
「ハイ?」
「何か、あるんだな?」
 浮かべた笑みもそのままに問い返して来るソロモンに、カールは先と全く同じトーンで問いかける。
 ソロモンはかくん、と首を傾げた。
「何の話です?」
「しらばっくれるな!」
 カールは思わず立ち上がり、持たされた箱を思いっきり机に叩き付けた。箱が潰れチョコレートの甘い匂いが鼻をくすぐるが、そんなことはもはや全く気にならない。
「何か意味があるんだろうが今日チョコを渡すのに! いくら何でも誤魔化されるか!」
「――おや」
 潰れたチョコレートを残念そうに見遣ると、ソロモンは困ったように微笑んで、
「カール、何だか察しがよくなりましたね」
「馬鹿にしているのかお前は!」
 潰れた箱を上から拳でさらに殴り付けて、カールは激昂する。大体さっき不機嫌そうに振舞ってみせたのは一体なんだったのか。何から何まで人をコケにしている。――聞くまでもなく、こいつは私を馬鹿にしている。カールは拳を握り締めて、ソロモンを睨め付けた。
「いや、そう言うわけではないんですが……」
 ソロモンは目も当てられない有様になったチョコレートに視線を向けて苦笑を浮かべ、……不意に、わざとらしく何かに気づいたような顔をしてポケットに手をやった。
「あ、カール。すいません。携帯が鳴ってて……ヴァンの呼び出しですね。そろそろ行かないと。また戻ってきますからね。カール、待ってて下さいねー」
「待つのはお前だソロモン! こら待て! ちゃんと教えてから行け!」
 机の向こうのソロモンの肩を掴もうと、身を乗り出して手を伸ばす。が、ソロモンはするりとカールの手を躱し、爽やかな笑顔で素早く部屋から出て行った。追おうとしても最早遅い。カールは手を伸ばした姿勢のまま、閉じる扉を睨み付けるしかなかった。怒りは行き場を失くし、カールは口をパクパクと開閉してしかし言葉ももう吐き出されることはない。突き出した手を握り締めて拳を作り、カールはもう一度、甘い匂いを発する忌々しい箱を――その中のチョコレートを、思いっきり殴り付けた。


***


「ヴァン。
 すいませんでしたね、待たせてしまって」
「いえ。……でも、何処に行ってらしたんです? 何度もかけたのに」
「ええ、ちょっと。……、と。ああ、そうか」
「はい?」
「あそこは女子校だから、ヴァレンタインデーはあんまり、関係ないんですね」
「……何の話です?」
「いえ? 何でもありませんよ。何でもね――」




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