繰り返し穏やかな声が彼の名を呼んでいる。彼はその声を厭と言う程知っていて、その声は彼の神経を逆撫でる。生温い海の暗闇に浮く彼を繰り返し声が呼ぶ、それが世界の静謐を突き崩し闇は緩やかに白んでゆく。
 やがて薄青の混じる乳白色へと辺りは変わっていった。彼は目を閉じようと思うが瞼はなく、思えば瞳や四肢や指先や唇や舌や内腑、身体そのものが彼にはなかった。いや、有るのだろうけれどもその感覚がなかった。ただ底のない、不透明な青白い海の中をゆっくりと沈むその感覚だけが有る。
 赤が欲しい、と彼は思った。
 彼が望むのは血のような赤だ。鮮血の色。深い闇の底でぎらぎらと輝く赤い色だ。繰り返し彼を呼ぶ、この穏やかな声ではなく。

 ……うるさい

 身体のない自分に何も言えようはずはなかったけれど思い浮かべた言葉は響き渡る。それでも声は止まず彼の鼓膜を(そんなものはないはずなのだけれど)震わせる。それだけではなく、薄ぼんやりとした世界の中を白い指先がくぐり、彼を捕えようとする。彼そのものを。逃れようとしても身体のない彼はもがくことすらできず沈んで行くばかりだ。苦もなく白い十指が彼に彼そのものに触れ、柔らかくその手の中に包み込む。彼は叫びたかったが口も喉も肺も肚もなかったのでそれは叶わなかった……先程は声に出そうとしなくても辺りに考えが響いたと言うのに。
 白い手は彼を包んだまま何も動きを見せなかった。彼は不意に不安になる。内側から沸き起こる黒い闇はインクを水に垂らした時のように急速に広がった。ただしそれは拡散ではなく増殖だった……彼はその手の中から逃れる術を持たない。手は今の所何もする様子はないが、そのうちに……
 彼が怯えを感じる中、世界はまた変化を始めていた。停滞していた液体は流れ出し、彼は指の間を擦り抜け急速に浮上する。四肢の感覚は蘇り、彼は形を成していく。内にある恐怖を押し殺す間もなく。




人どもの見る泡沫の




 噎せ返るような血の匂いに、薄目を開いたカールはしばらく陶然となった。
 意識が覚醒して行くと共に瞼は持ち上がり、カールは血溜まりに横たわる己を認識する。半端に固まった大量の血液は絨毯に染み込みこびりついていた。カールを中心として広がった血は鉄錆の匂い以上に彼自身の匂いがする。これは全て自分の血だとカールは考えながら目を瞬いた。
「……」
 酷い耳鳴りがしている。
 感じた違和感に顔を横に向ければ右肩から先は生身の身体ではなく義手となっている。まだ見慣れないそれは血が染み込んだ状態でもカールの思う通りに感覚が繋がっていたが、それでも生身であった頃とは勝手が違う。
 カールは、血に染まった絨毯の毛を掴むように拳を握り、力を篭めて起き上がった。未だはっきりしない頭を押さえ、座り込んだまま記憶を辿る。だが、どうも思い出せない。脳漿にすら血が混じり入り、頭を重くしているのかも知れない。
「本当に素晴らしい生命力ですね。自分も同じとは言え、ちょっとゾッとしてしまいます」
 部屋の空気を裂くように響いた声に、カールは手を下ろし顔を上げた。
 窓際にソロモンが立っていた。窓は締め切られ鎧戸が落ちている。部屋の明かりは古風なランプのみだった。昼夜すら今のカールには解らないが、どちらにしても部屋は暗く、心許ない明かりに照らされたソロモンの背後には黒々とした影ができていた。
「……待っていたのか」
「ええ」
 ソロモンはそれだけ答えて鷹揚に頷き、こちらへ向かって歩き出した。窓硝子の震える音がした。――外は、風が強い。
 ソロモンの手の中には先の丸いシンプルな銀色のペーパーナイフと、赤黒く染まった元は白かったのだろうハンカチがある。どうやらそれがカールに大量の血を流させ意識を奪った道具らしかった。
 記憶は相変わらず飛んでいるが、強引に身を切られた感触は身体に残されている、気がした――痛みの記憶はいいものではない。カールは身を竦め、ソロモンを睨み上げる。ソロモンはカールではなく血塗れの絨毯を見下ろしていた。ソロモンの踏み締めた場所から、ジュ、と言う水音がする。
「絨毯、駄目になってしまいましたね」
「……お前が考え無しに人の身体を切り刻んだんだろう」
「覚えていませんか?」
「生憎な」
 首を振る。目から涙が流れ出たかと思えばそれもやはり血であった。鼻から耳から同様に血が垂れている。乱暴に手で血を拭き取るが、きりがない。苛立つように舌打ちし、カールは目を見開いたまま俯いた。視界が赤く染まり、瞼から絨毯に血が滴り落ちて行く。
「……何がしたかった?」
「単なる確認です。少し恐くなったもので」
 すました顔で答えるソロモンを改めて見ると、着ている白いスーツは全く血に濡れていなかった。返り血の一つも浴びなかったのか、カールが意識を失っている間に着替えたのかは解らない。身を屈め、ただひとつだけ赤く汚れたハンカチをソロモンはこちらに差し出す。カールはそれを乱暴に奪い取り、ソロモンを見詰めた。頬を伝う血の涙を感じながら、
「恐くなった?」
「そう、恐かったんです」
「何がだ?」
「それは、」
 ソロモンは珍しくもそこで言葉を切り、黙りこくった。カールは目の下を凝固した血で固くなったハンカチで拭い、ソロモンの言葉を待つ。
「……解りません」
 ソロモンはカールを見ない。その言葉もまた、カールを満足させるものではなかった。
「ソロモン」
「ああ、怒らないで下さい。でも本当に解らないんです、僕が何を恐れていたのか。今も僕は恐い。何が恐いのかは解らない。既に恐怖そのものに怯えているのかも……」
「――謎掛けをしているのではないぞ」
 カールは呟き、立とうとして、止めた。血があまりにも足りない。足に力が入らなかった。
「或いは、翼手」
 舌打ちせんばかりに顔を顰めたカールの言葉に取り合うことはなく、ソロモンは溜息をつくように言う。
「――翼手と言う、生物に対しての恐怖かも知れません」
「お前自身がその翼手だ」
「僕らが何なのか、僕ら自身さえ解らない」
「人間とてそれは同じだ」
「或いは、全ての生物は己のことも知らない愚者――」
「……愚者に罪はない。罪があるのは知恵を持つ者共のみだ」
「即ち人間、そして我々翼手ですか」
「だが、お前は罪を恐れるわけではない」
「ええそうです。僕が恐れるのはただ、翼手を……いえ、僕が翼手であると言うことをでしょうか。人であった頃のことを思い出しますよ。あの頃、恐れるものは今よりもずっと少なかった」
「――忘れているだけだろう。我々は人間以上に、忘却を必要とする」
 頭の中に残っていた血はようやく止まっていた。嘆息し、絨毯の上にハンカチを落として、カールは目を閉じる。
「でもカール、僕は残念なことに記憶力がいいんですよ」
「知っている。いらないことばかり覚えているんだ。お前は」
 目を開き、カールはソロモンを見遣った。思案げに俯くソロモンを見詰め、ふと笑みが込み上げる。
「私も、そうだ。忘れ難いことはある――それが私と言う存在に不必要であると理解していても、私は既にそこに囚われ、――いや」
 カールはその表現を不適切と感じた。息を吐き出し、眉を寄せて彼は言葉を切り、しばらく思案する。
「私がそれを掻き抱いたのだ。既に私と溶け合い痛みも恐怖も憎しみすらも私の内に留められ、愛しいものとなっている……私を破滅させる記憶だ。忘却が望ましい。しかし想起せずにはいられない」
「……彼女のことですか」
 ソロモンは嘆息した。カールは笑い、乾いた血で固まる髪に指を通した。
「今は私より、お前のことだろうソロモン。そんなに人間が愛しいか? 人間に戻りたいか? 一度はそれに絶望したお前が」
「――翼手になったからと言って、人間でなくなったわけではないでしょう」
「……何だと?」
 カールは怪訝な顔でソロモンを見返した。意味を捉らえかねた。翼手は、翼手となろうが未だ人間だと、この男は言ったのか?
「あんなものと私たちを、今更一緒にするのか、ソロモン……!」
「人間は翼手ではない……しかし翼手は人間だと、そう、思いませんか?」
 ソロモンの目に紅い光が宿っているように思われてカールは目を瞬いた。彼の血と同じ、或いは彼の腕を奪った少女の瞳と同じ。いや、違う。彼女の瞳は何処までも鋭く獣のような狂乱を抱いていた。
 ソロモンはその目を伏せ、迷うように躊躇うように口を開く。
「いくらこの身にディーヴァの血を与えられ、彼女の騎士となろうとも、僕たちは人としての意識や思考・常識を捨てたわけではない。つまり僕たちは未だ人間のままなんです。この身を人ならぬ姿へ変えることができようとその事実を永遠に捨てることはできない。僕らは人間なんですよ。ただ死ににくいと言う、――それだけの!」
 ペーパーナイフが自分の肩に突き立てられるまで、カールはソロモンがそれを振り上げたことすら知覚できないでいた。走った激痛に漏れそうになる悲鳴を歯を食いしばることで堪え、カールはソロモンを信じられないものを見る目で見詰めた。
「ソロ、モン……!」
「だから、僕は恐い。僕らはある意味で人の夢です。老いず、死なず――とは言いませんが、そこへ限りなく近く」
「悪夢だ。そんなものは……」
「そうでないとしたら? いいえ、外身だけでも、甘やかな夢に見えるのだとしたら? そんなものはいずれ崩れ、悪夢以上の悪夢となる。だから僕は……」
 ナイフを握るソロモンの手にぎりぎりと力が篭められていく。肉は割れ皮膚は赤く染まり骨が軋み皹は拡がっていく。ソロモンはまるで無感動にカールの身体を破壊していく。カールは痛みに視界の揺らぐのを感じた。思考は止まり、しかし意識は明瞭だ。痛みがあまりにもクリアだった。
「……ハ、成る程」
 だから自分に目の前のこの男を鼻で笑うような余裕が残されていたとは思えなかった。思考は熱を持ち始めていた。硬直していた頭がドロドロと溶け出すような。
「確かにお前は人間だ」
「……」
「喜べ。何よりも醜悪で、脆弱で、その癖に残酷で――だがそれ故に」
 ナイフが自分の身体から引き抜かれるのが解った。だがカールはソロモンを見ていた。ソロモンは笑っていた。笑いながらナイフを振り上げた。カールはそれが、次の言葉を紡ぐ前にナイフが自分の頭に振り下ろされるのが解っていた。ソロモンがカールの吐き出す言葉のその先を聞きたくないから、そうするのだと言うことも。

「    」

 息を吐き出す間はない。唇だけをカールは動かし――ソロモンの顔を歪むのを確認する前に、カールの視界は赤く、次いで黒く、染められた。今まさに。


 遥か頭上で海が朱に染まるのを見た。
 だが彼が望むのはそのような色ではなく。このような静寂でもないのだった。

 ――O Freunde,(おお、友よ)

 彼はその言葉を思い出す。
 ただし彼が望むのは、喜びに満ちた音楽でもない。では何を望むのか? そう問いかけてくるのは恐らく淡い金の髪の男だ。彼はこう問い返す。お前こそ何を望む? お前の進むその先に、お前は何を得ると言うのだ! 男は恐らく笑う。笑っている。だが、答えはしまい。

 男には、何も望むものなどないのだから。




BACK