如何してアルジャーノはファントム衣装をスルーしたか




 ――車内は、異様な沈黙に包まれていた。
 リセ・ドゥ・サンクフレシュからサンクフレシュ・ファーマシーの研究施設に向かう途中、窓の外は延々暗闇と木々が続き、車内もまた薄暗い。
 ヴァン・アルジャーノは飴の包みを手の中で転がしながら、落ち着かなげに視線をさ迷わせた。
 後部座席、彼の隣に腰掛ける金髪の美青年――サンクフレシュ・ファーマシーのCEO、彼の上司であるソロモンは全く涼しい顔で、暗い外を眺めていた。アルジャーノはそちらに視線を向けてから、恐る恐る目を助手席の方へ移す。
 そこには、この沈黙の原因である男が座っていた。
 窓に頭を擦り付けるようにして寄り掛かり、何やら小さい声でぶつぶつと呟いている男――サンクフレシュ・ファーマシーベトナム支社所属、カール・フェイオンである。
 車に乗り込む前からこれだった。
 乗り込んでからもずっとこれである。
 オペラ座の怪人も斯くやと言う扮装で現れたかと思えば口一つ聞かずそのままの恰好で車に乗り、全く内容を聞き取れないぐらいの小声で呟き続けている。今は表情は見えないが、先程見たカールの表情は――正直、やばかった。
 恍惚状態、と言う奴だろうか。薬物を使った時に陥るあれだ。或いは恍惚老人のようなそれだ。我此処に在らずの言葉そのまま、意識を何処に飛ばしているのかは解らないし知りたくもないが、とまれ、うっとりとした表情をしていた。
 危ない。どう考えてもまともではない。まともではないと言えば格好からして既におかしいのだが。一体なんの意味があってこんな格好を――
 アルジャーノは鈍い頭痛を覚えた。取り落としそうになった飴を慌てて掴み、口に運びながら、
「……ソロモン」
「はい?」
 カールに聞こえないよう限りなく声を抑えたアルジャーノの声に、ソロモンは普通の調子で答えて来た。アルジャーノは思わず体をびくつかせたが、幸いカールは聞いていないようだった。全くの無反応だ。胸を撫で下ろす。
「――アレ、何なんですか?」
「アレとは?」
「アレですよ……! カールです。さっきから、何か……おかしいでしょ?」
 何がどのようにおかしいのかは言う気になれなかった。おかしいのと言えば、カールの存在自体がおかしい。
「ああ」
 ソロモンはようやく、合点がいったと言うように頷き、横目でカールの方を見てくすりと笑った。カールのあの状態を見てこうも平静なソロモンにアルジャーノは根拠のない安堵を覚える……無反応のソロモンもおかしい、と考えられる程、残念ながら彼には心の余裕が残されていなかった。
「カールですか。カールは……」
 ソロモンは笑みに苦笑を滲ませて、おどけるように首を竦めた。
「……あれは、恋患いです」
「は?」
「恋患いです。カールは恋をしてるんです」
 声を潜め、取って置きの内緒話を打ち明ける子供のようにソロモンは笑う。
 アルジャーノはぽかん、とした顔をして、しばらく硬直した。ソロモンは一体、何について話しているんだ?……私が聞きたいのはそう言うことじゃない。と言うより……恋とか。
 恋とかそう言うので、あんなになってたまるか。
 頭の中を言葉が駆け巡り、アルジャーノはぱくぱくと口を動かす。
 だが、そこからそれらの言葉が吐き出されることはなかった。
「……そう、ですか……」
 呟くようにアルジャーノは言って、自分を落ち着けるようにポケットから飴の包みをもう一つ取り出した。
 ソロモンは変わらない笑顔のままで頷き、会話は終わりだとばかりにアルジャーノから目を逸らす。
 視線は、カールの方に向いていた。楽しげな、何かを面白がるような表情だった。アルジャーノは二つ目の飴を口に頬張りながら、その顔を横目で眺める。
「……しょうがない人なんですよ」
 その目に気付いたのだろうか、ちらりとこちらに視線をくれて、ソロモンは言った。その言葉の意味するところも意図するところもアルジャーノには解らない。
 ソロモンの視線の先でカールは相変わらず何か呟いていた。不気味だった。アルジャーノは視線を逸らし、カールを意識から除こうと試みる。
 そんなことだから、彼はカールが頻繁に口にしていたその名を、耳にすることはなかった。

「……小夜……」

 恋い焦がれるように、待ち侘びたように、上擦った声でカールはその名を紡ぐ。
 後部座席で一人の飴好きが苦悩していることなど、彼には知ったことではなかった。
 『彼女』との再会はきっと、目前のはずなのだから。




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