赤は遠く




赤は遠く




 覚えのある気配だとは思ったけれどもカールに目を開くつもりはなかった。失ったばかりの痛みより何よりひどい眠気があったし、それに億劫だった。いや、億劫ともまた違うだろうか。意識を割きたくなかった。手放したくなかったのだ。誰かと言葉を交わすことで霧散してしまうのが嫌だった――記憶、感覚、感触、感情――目蓋の裏に焼き付いたあの赤い色が。彼の憎むべき、あの死の色しか見えなかった戦場で唯一、それをも飲み込む鮮烈さで存在していた赤が。
「起きているのだろう」
 だが、カールの考えなど全く汲み取りもせずに無遠慮にそいつは言葉を発する。足音はカールが横たわるベッドの前まで動き、そして止まる。カールは目を開かない。そのつもりはない。
「……ディーヴァは予定通り眠りについた。今は設えた寝台で深く眠っている。今度もまた、長い眠りになると言うことだ」
 しかし、淡々と声は言葉を続ける。それははっきりとカールへ向けられているものだったが、返答を期待しているわけではない。単なる報告のつもりなのだろう。律儀な男ではある。
 カールは目を開いた。
 ジェイムズの方へ目を向ける。彼は黒い軍服に、軍帽を外してそこに立っていた。ジェイムズは片眉をぴくりと跳ね上げ――だが、それだけだった。意外だったのならば、もう少しそれらしい顔をすればいいものを。
「――小夜は?」
 問いに、返って来たのは嘆息だった。
 諦めたような呆れているような溜息は聞き分けのない子供を前にした時のようなそれに似ている。カールは目を細め、笑みを浮かべた。
 この弟は、自分が「弟」であると未だよく解っていないのだ。それは腹立たしくもあるけれども、楽しくもある。不思議な話だが、この四角四面を現してみたようなこの男に扱い辛そうにされるのは悪い気分ではない。――今この瞬間は。これが、酷く癇に障る時もあるのだが、少なくとも今は、そうだった。
「小夜は?」
 身を起こし、もう一度カールは問いかけた。ジェイムズは一度目を伏せた。
「恐らく小夜も眠りについたと推測される。だが、位置は不明だ。ハジの方も……」
「ハジ?」
 知らない単語を聞き返すと、ジェイムズは唇を引き結んだ。何か、知っているべきことだったのだろう。確かに聞き覚えはある気がするが、どうにも繋がらなかった。
 今度は、苛立ちを押し殺すような吐息だった。ジェイムズは腕を組み、
「従者だ。小夜のシュヴァリエ。そして、ディーヴァのつがいとなるべきもの」
「ああ」
 それで、カールはようやっと合点した。小夜の傍に付き従う男――アンシェルから幾度と聞いている。自分はまだ見たことがない。あの時、小夜と戦った時も、見ていない。小夜に腕を切られその血を注ぎ込まれる前――後。小夜の近くにそんなものはいなかったはずだ。小夜に気を取られ他まで気が回らなかった部分は確かにあるけれども、そればかりではない。――近くにそんな気配は感じられなかった。
「いずれにせよ、今の状況では捜索は不可能だ。ディーヴァも眠りについた今、それをする必要もないと我々の意見は一致している。ディーヴァの次の目覚めに向けての備えを優先させるべきだと」
「そうか」
「貴様は納得せんだろうが、決定は決定だ。貴様にもそれくらいは解っ――」
「無論だとも」
 ジェイムズの言葉を遮り、カールは首を傾げてみせる。愉快な気持ちと腹立たしい気持ちが半々、あった。この男は本当に――解っていないのだ。
「『兄』にそれを言うのか? ジェイムズ。『シュヴァリエ』の決定には従う。そうやってずっとやって来た」
「……解っているのならいい」
 ジェイムズは低い声でそう言った。口ではそう言いつつも、顔は納得はしていないようだったが。
「どうせ、いずれはまた会うことになる。小夜が……ディーヴァを殺そうとしている限りはな」
 カールは笑い、それに、と付け加えた。
「眠る彼女を殺しても意味が無い。それは良くない……」
「報告は以上だ」
 一人呟くように言ったカールに向かって、ジェイムズは殊更平坦な声で告げた。会話を打ち切りたくて堪らないと言う顔をしていた。カールもそれ以上は何も言わず、ジェイムズから視線を逸らす。が、
「ああそう――それと、ひとつ伝言がある」
 目を閉じようとしたところでジェイムズがそう言ってきたので、カールはベッドに倒そうとした身体を慌てて立て直した。ジェイムズの表情は変わっていないが、少し笑っているようにも見えた。
「……伝言?」
 厭な予感はした。
 したのだが、問わずには終わらないのだろうと解っていたのでカールは問いかける。ジェイムズは今度ははっきりと、口の端を皮肉げに吊り上げた――実に、珍しいことに。
「ソロモンが、『お大事に』だそうだ」
「……」
「厭そうな顔をするな。あの男、珍しくしょげていたぞ」
「……嬉しくない」
「それはそうだろうな」
 瞑目し俯いて、ジェイムズは笑いを噛み殺したようだった。カールは唇を曲げ、ジェイムズを睨み付ける。
「ジェイムズ」
「――小夜、か」
 咎めるように言ったカールの言葉と、ジェイムズがその名を紡いだのは殆ど同時だった。改めてジェイムズがその名を呟く理由が解せず、カールは眉を寄せる。ジェイムズは口元を親指で押さえ――顔を上げた時には、彼は笑っていなかった。カールは目を細める。今度は、ジェイムズが何を言うつもりなのか計りかねて。
「――随分と思い切ったことをしてくれたものだな」
 ジェイムズはそう言って軍帽を被り直した。独り言のようだった。カールは眉を寄せる。
「何の話だ」
「ソロモンだ」
「ソロモン?」
「ソロモンがそう言っていた」
 首を竦め、ジェイムズはそれじゃあな、と言って踵を返した。カールはジェイムズの背を見遣り、だが言葉は出てこない。どう言う意味だと問うても、ジェイムズは答えない気がした。カールは首を傾げ、沈黙したままジェイムズを見送った。瞬く度に、カールは息を詰める。……赤が。
「……三十年か……」
 呟き自体にさしたる意味があったわけではないけれども。カールは小さく呟いた。ディーヴァと小夜、彼女たちの仕組み・・・は理解している。ディーヴァの眠りを、いつだって何の疑問も持たず、何の苦痛も無く、見守ってきた。けれども。
 けれども――今度は、その時間は長くなる。それは今からでも解る。
 カールは乱暴にベッドに身を横たえた。目を閉じる。……それでも待つしかないのは知っている。暗闇の中失った腕を掴むように拳を握り、彼はいつか訪れるであろう、彼女との再会を待望する。




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