声無きの



 むろん僕にも彼にそう仕向けた部分はあるから当たり前と言えばそうなのだけれども、やはり彼に邪険に扱われると傷付くことは傷付くのだった。不思議と言うよりはむしろ図々しいと言うべきだろうけれど、哀しいのだから仕方ない。胸の内に浮かぶ感情は僕の制御し得るものではないのだ。外面はいくら取り繕えようと心は嘘を付かない(異論もあるだろうが僕の考えでは偽るのは頭であり、心の必要とする虚偽を頭が用意する)
 僕はその哀しみを埋め合わせるように彼に触れるのだと思う。
 愛おしいと言う気持ちもあるにはある気がする、けれど、悔しいとか哀しいとかそちらの方が強いのだ。
 尤もそんなごちゃごちゃとした思考は彼に触れた瞬間、彼がこちらを見詰めた途端、幸いなるかな、全て停止してくれる……消失と言うべきか、彼に触れていると僕は酷く安堵するのだ。何も考えなくていいのだ、と言う、そう言う安心感である。
 それが彼を慈しむ方向に働かないのは僕でも奇妙に思う。不思議なことに彼を手酷く扱うことこそが僕の癒しであるように思える――それが子供じみた優越感を確認するためだけのものとは思いたくない。が、残念ながらそう言うところはある。彼を貶めるのが悦びに感じられる。そう言うところはある。
 例えばその白い肌に傷を付けた時の彼の呻き、見開かれた目が虚ろになって行くその様、そこから零れ落ちる涙。鮮烈な悲鳴はやがて嗄れ、か細い泣くような声と共に気絶することもできずに彼が達する。それを僕は見ている。彼は見られていることも知覚しないまま、僕に抱かれ横たわり……やがて眠りに落ちる。
 そこでは汗に混じり、血の匂いがしている。それは彼の血の匂いでもあり僕のそれでもある。僕らの傷はすぐに癒えて痕すら残すことはない。けれど、血だけは残る。僕が彼を傷付けたと言う証、そして彼が僕を傷付けていると言う証でもある。彼の爪が指が僕の皮膚を破り指が肉を抉る。爪が肩甲骨や脊柱を擦る激痛が、僕を満足させる。それは刹那的なものでしかないが、それでいい。
 僕はいずれ彼を殺すだろうと思う。或いは彼に殺されるだろうと。それは愛憎の結果ではなく、僕たちのそれぞれの目的の結論として訪れる。僕たちはそこに何の感情も籠めず相手を葬り、何等痛痒を抱くこともない。けれど僕が彼を抱いたと言う事実は遺るし、その時に抱いた感情は形を残さなくても事実としては在る。暴かれることもないひそやかな出来事として。傷は残らない。後悔はしない。血の色と香りははっきりと覚えている。僕も。そして彼も。
 それまでの――予想される結果の、結末のためにそうするわけではない。終わりのためにそうするのではない。何かを残したいから彼を抱くわけではない。僕は彼を愛おしく思う。だから彼を傷付けもするし、慰めもする。彼は息を詰めて僕に怯え、獣のように吠えて僕を殺そうとすることもある。それは憎しみのためではなく、恐怖のために。
 僕は、彼の流す涙を、血を見ている。僕は涙を流しはしないけれど、泣きたくなることはある。……埋まらない哀しみのあまりに。或いは、彼に触れている充足に。彼は僕を受け入れ、そして拒絶する。それでも僕は彼に触れられる、その事実を噛み締めながら。




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