意識は鎖されてゆく。


 嵌められた手錠が肉を食い破り骨に当たっているのが感じられた。椅子の背の間をくぐらせて後ろ手に自分を拘束する手錠を冷たさと痛みとして感じながら、それに堪えるように顔を俯かせる。そのせいだけではない。第一には、視線を合わせたくなかった。
「壊せないだろうな」
 問うでもなく確認でもなく嬲るようにかの長兄は声を紡ぐ。ジェイムズはその顔を見上げることもしないまま小さく舌打ちする。……確かに手錠を壊すことは不可能だった。
 いや、正確には手錠を外すこと自体はできなくはない。このわざわざ手首を切り開き骨に当てるようにして付けられた手錠だ。力を篭めれば骨は容易に鉄と彼の力によって折れ、手首から先と引き換えに手錠から逃れることができるだろう。
 だが、ジェイムズにそれができるはずはない、とアンシェルは承知している。翼手と言う身体になったばかりのジェイムズにそんなような思いきりはなかったし、……あっても手首を折るような真似はしない。失った身体の一部を再生するにはただの傷を癒す以上に時間を要する。それによしんばそれで手錠が外れたところで、両の手首を失った状態で、この男から逃れ得るはずもない。
 だから半ばこの場に留まっているのがジェイムズの意思であるかのようになっていて(無論そこに彼の自由などはなく、きわめて限定された状態で迫られた選択ではあるのだが)それがまた彼を苛んでいた。……ともすれば乱れそうになり裏返った声の混じりそうになる呼吸や、肌蹴られた胸を愛おしむように、或いは勿体振るように撫ぜていく手や、滲む汗の流れる感触と同じように。
「面白みのない、岩のような男だと思っていたがな……なかなかどうして」
 独り言のようにアンシェルは言ったが、ジェイムズは俯いたまま歯噛みする。侮辱されたように感じたのだった。
「……こんなことをして何が楽しいと言うんだ」
「愉しませて欲しいと思っているとも」
 ようやっと吐き出したジェイムズの言葉にアンシェルは飄々と返してくる。ああ殺意とはこんなものかとジェイムズは思った。首の後ろに焼けた鉄箸を当てられているような。それでも手錠だけは冷たい。熱は触れられたところからじわじわと泡の湧くように広がり、身体が震えるのを感じた。半端だ。あまりにも半端な。
「鍵が……掛かっていない」
「気にするのか?」
「当たり前だッ、誰が来るか……」
「あの二人か。どんな顔をするかな。お前のこの様を見て。
 ――それともお前が気にしているのは、我らの姫君の方かな?」
 意に介す風のないアンシェルを睨み上げる。アンシェルは何かに弾かれたように顔を上げたジェイムズの視線を見返して笑い、ようやくこちらを見たな、と囁いた。背けようとした顔を、顎を捕らえられる。ジェイムズは眼を閉じようとした。が、一瞬。一瞬だけ彼は躊躇する。
 アンシェルは蒼い眼をしていた。
 ……彼が全てを捧げることを誓った少女によく似た色だった。
 瞳の色。重ねた部分はそれだけだ。だが、一瞬ジェイムズは我を失い、気付いた時には深く口付けられていた。
 自分の口の中を自分のものではない舌が動く感覚にジェイムズは両の拳を握る。未だ手に感覚のあることを意外に思いながら。
「……ふうっ」
 鼻にかかった気の抜けた声が耳に届く。自分が発したものだとジェイムズは気付かなかった。気付いていたかも知れないが、そう思いたくはなかった。
 アンシェルの牙がジェイムズの下唇を柔く噛み、零れた唾液を舐めとるように舌が顎をなぞる。また、喉から首筋までを。
 ひゅう、と高く息を吸い込む音がした。ジェイムズは思わず逃れるように体重を後ろへかけ、――だが、後頭を押さえられその動きは留められる。
「やめ……」
 言いかけた言葉の先は激痛に飲み込まれた。気付かない内に手錠を外そうと力を籠めていたのだった。骨の軋む音に顎を反らせ声もなく震え、


 牙が肌を突き破るのが解った。管の中を啜られる血の流れを感じた。
 目が……眩む。




 肌を伝うのは、汗であるのか、血であるのか。
 彼は小さく口の中で言葉を紡いだ。しかしそれが何の意味を持つのか。彼にすら解らなかった。ただ指先からはいずれにせよ何がしかの液体が滴り、意識は鎖されてゆく。