アヒルと屍/兄の威厳




「ジェイムズー」
 泣き真似にすらなっていない気の抜けた声を上げてソロモンが部屋に入ってきた。実際のところこの声がしてドアが開くその十数秒以前に喧しい足音で(おそらくわざと立てていたのだ)来訪は察知していた――その瞬間逃げる、と言う選択肢が頭をよぎったが、それをするのも面倒臭かった。今もジェイムズはソロモンに視線すら向けていない。
「ジェイムズ、カールったらひどいんですよ」
 もっともジェイムズが無視をしようが、何をしていようが――今のように読書の最中だろうが――お構い無しにソロモンは自分の用件を済ませるのであまり意味はない。このソロモンと言うのは人の顔色を読むのに長けた男だが、何故か一部のものに対しては読んだ顔色を構わず接してくる。それは例えば自分であるとか、今ソロモンが口にしたカールだとか……いや、それでもソロモンはジェイムズにはわずかなりとも遠慮がある。問題はカールだ。
「カールが僕にお前なんか兄じゃないとか消えろとか死ねとか言うんですよ」
 ……つまりそう言われる程度のことをソロモンはカールにやっている。ジェイムズも概ねは同意する。ソロモンはカールに対して……思い切りがいいと言うか。
 嘆息して、ソロモンに目を向ける。いつもの白いスーツはところどころ血に染まり滑稽な程にずたずたに切り裂かれていた。露出したソロモンの肌には傷一つないが、顔色が幾分か悪い。
「……何だその恰好は」
「いえ、カールにちょっとね」
「ちょっと?」
 ソロモンは頷き、恐らく何をされたのか(もしくは何をしたのか)説明しようとしたのだろう、口を開き――が、何故かすぐに閉じた。
「……何故目を逸らす?」
「いえ、ほら――ねえ、察して下さいよ」
「不可能だ。それと部屋が汚れるから出ていけ」
「ひどいですよジェイムズ。兄弟なんですからもうちょっとでも気遣う、とかはないんですか?」
「ないな」
「ジェイムズ……」
ソロモンは捨てられた犬のような目をした。
 が、ジェイムズは無視して本に視線を戻した。すぐさまソロモンが、隣に腰を降ろしてくる。
「ベッドが汚れる」
「ねえジェイムズ、貴方からカールに何か言って下さいよ。カールだって貴方の言うことならきっと聞きますよ……はじめての弟なんですし。ほら、もうちょっと僕に従順になるようにとか」
 よりにもよって従順、と来た。
 ジェイムズは本を閉じて深く溜息をついた。
「貴様の単語の選択は理解できんし何より不快だ。……貴様が求める従順さに対応できるのは屍ぐらいのものだろう」
「つまりカールに僕を神だと認識させればいいわけですよジェイムズ」
「何処をどうすればそんな発想が飛び出すのか解らん」
 ジェイムズは一度切り捨てるように言い切った。が、少しの沈黙を置いてから不意に思い付いたように口を開き、
「……何処かの教えでは、死ねば誰でも神になれるらしいがな」
「死んだくらいで神になれるんだったら僕は万回死んでますよ」
 ソロモンは何てことのないように笑って、いや死ぬのは一回で十分なんですねと独り言めいた呟きを漏らしながら仰向けにベッドに寝転がった。どうやら居着くつもりらしい。
「ジェイムズ。よく考えたら死体を相手にするのはつまらないです」
「熟考してそれとは救いようがないな。大体、発想が下世話……」
「兄さんもそうでしょうか」
「私は貴様のご意見番ではない」
「でもカールにはもうちょっとくらい言うこと聞いて欲しいです」
「……貴様が話を聞け」
「威厳みたいなものが必要なんでしょうか」
 全く無視して呟く。少なくともずたずたのスーツでベッドの上に寝転がるソロモンから威厳は感じられない。
 ソロモンはしばらく悩むようにあちらにこちらにと寝返りを打ち、やがて無表情に、
「……髭とか」
「髭はやめろ」
「では、何か案をお願いします」
 ジェイムズは唇を曲げてソロモンを睨み付けた。ソロモンはすました笑顔で見返してくる。恐らく何か案を(それもソロモンの気が済むようなものを)出さなければ、しつこくしつこく構って来るのだろう。
「……そうだな、まずは」
 ジェイムズは言いながら、寝返りを止めるために俯せのソロモンの背に本を置いた。置くと言っても、角を思い切りぶつけてやったのだが、ソロモンは無反応だった。ジェイムズの言葉の続きを待つように、じっとこちらを見ている。
 ジェイムズは目を閉じて黙考し、
「……アヒルをやめたらどうだ」
「はい?」
 聞き取れなかったのか意味が解らなかったのか、ソロモンは胡乱な顔で聞き返してくる。
「アヒルだ。貴様がいつも風呂に浮かべてる奴だ。……あれをやめろ」
「どうしてです。かわいいじゃないですか」
「孫子がいておかしくない年の癖に、あんなものを風呂に浮かべていれば兄扱いされんのは当たり前だ」
「ですがあれは、カールもかわいいと気に入ってくれているんですよ」
「……お前ら……」
 頭痛を覚えて額を押さえ、ジェイムズは低く呻く。別にアヒルのおもちゃを風呂に浮かべていようがディーヴァの騎士たることに障りのあるわけではない。ないのだが、ジェイムズは無性に腹が立った。アヒルだ。よりにもよって。そんなものにうつつを抜かす連中に……と言うのもおかしいが……、ディーヴァが守れると言うのか。
「とにかくあれはやめろ。みっともないと言ったらな――」
「羨ましいのよねえ」
 と。
 唐突に耳元で聞こえた声にジェイムズは硬直した。同時に首に回った腕に身をすくませる。
 ……いつの間に。
「ネイサンッ」
「こんにちはァジェイムズ。それにソロモンも」
 ジェイムズの首を背後から抱きすくめ、ベッドに膝を突いて座ると言う姿勢を保ったまま、ネイサンは満面の笑みで言った。
「貴様、いつの間に部屋に……」
「アヒルのとこからよ。二人とも話し込んでたみたいだったから、邪魔しないようにこっそり入って来たの」
「なら今のこの状況は何だ」
「ジェイムズの本当の気持ちを――代弁してあげようと思ったのよ」
「耳元で囁くな……何だって?」
「羨ましい、って言ってましたけど」
 それぞれ訝しげな顔をするジェイムズとソロモンを順に見て、ネイサンは含み笑いを漏らした。
「だから……羨ましかったのよね、アヒルが」
「言っている意味が解らん」
 顔をしかめるジェイムズに、ネイサンはけらけらと笑い、
「しらばっくれても無駄よォ。自分じゃ恥ずかしくてアヒルを使えないのに、ソロモンが楽しそうにアヒルと一緒にお風呂に入ってる……気に食わないのは解るけど、八つ当たりはよくないわよ」
「な……」
「そうなんですか? ジェイムズ」
「そんなわけがないだろう! ネイサン、貴様何の根拠があって……」
「この前、デパートでおもちゃ見てたわ。真剣な顔で」
「……」
 ジェイムズは思わず黙り込んだ。ネイサンは我が意を得たりとばかりにニヤリと笑う。
「心当たりあるわよね? 一緒に買い物に行ったんだもの」
「そうなんですか?」
「……こいつに無理矢理連れて行かれたんだ。服を見て欲しいだのなんだの」
 ベッドに俯せたまま(しかも背中に本を乗せたまま)問い掛けてくるソロモンに、ジェイムズは不機嫌な顔で応える。
 ネイサンは頷きながら、
「ほら、好きな人が綺麗だと思う私でいたいじゃない。だから服を選んで欲しいと思ったんだけど、ジェイムズったらいつの間にかいなくて。
 ……そしたら、おもちゃ屋にいたのよこの人! もう、びっくりしちゃったわよ。そう言う趣味があったのねーって」
「違う! 私はただディーヴァの……」
 きっぱり否定しそう言いかけて、ジェイムズは言葉をぴたりと止めて沈黙した。他の二人も。
 妙な間が開いた。
「つまり……ディーヴァのために選んでたってこと?」
 沈黙を破ったのはネイサンだった。溜息をつくように。
「ディーヴァが目覚めるのは、まだ二十年も先なのに」
「悪いか」
「悪かないけど……」
「ディーヴァ想いですよねえ、ジェイムズは」
「当たり前だ」
 ジェイムズは言って、渋面を作った。
「……それより、アヒルだ。やめろと言ったからな、私は」
「まだ言ってるの?」
「そもそもその話はそこだった。まぜっ返したのは貴様だネイサン」
 いや、もっと遡ればアヒルとは何の関係もないはずなのだが……ジェイムズはあえて(と言うよりはそれ以上会話を続ける不毛さに気付いていたので)そう言い切った。
「ソロモン、聞いているか」
「……ああ」
 呆けたような声に顔をしかめ、ソロモンの方を見れば、いつの間に起き上がってぽかんとした顔でこちらを見ていた。ソロモンの上に置いてあった本は、ソロモンの背に立て掛けてあるような形になっていた。
 ソロモンは段々と表情を輝かしいものへと変えていった……何か素晴らしいアイディアを思い付いた子供のような顔でジェイムズとネイサンを見つめている。ジェイムズは、
「これだ……これですよ!」
 とソロモンが呟くまでもなくいやな予感がした。……何故そんな顔でこっちを見る? 少なくともあの忌ま忌ましいアヒルを風呂に持ち込むのをやめる気はないように見える。
 ソロモンは笑顔を浮かべていた。実に純真そうなその顔で、
「ジェイムズのようになれば、カールの信頼を得られるんですよ……どうしてこんな簡単なことに気付かなかったんでしょう!」
 ……そう言った。ジェイムズはそこに至ってようやく理解した。これは。
「随分、遠回しないやがらせねェ……」
 ソロモンに聞こえない最小限の声でネイサンが呟いた。つまりはそう言うことだった。飛ぶようにベッドから降りて部屋を出ていくソロモンを見送る気すら、もはやジェイムズには起こらなかった。




 その後ソロモンはジェイムズのような振る舞いを意識して行ってみたのだが、カールばかりか敬愛する長兄までもが激しい狼狽を見せたのでその日の内にソロモンはジェイムズの真似をやめた。非常に短時間だったのでジェイムズはソロモンが自分の物真似めいたことをしているのを目撃せずに済んだ。……勿論カールはソロモンが期待していたような従順さを見せることはなかったが、ひどく怯えた様子だったと言う話だった。気の毒なことだ。
 それから、結局ソロモンがアヒルをやめたのかは解らず仕舞いだった。そもそもどうしてジェイムズがソロモンが風呂に入れるアイテムのことを知り得たのか、ネイサンは疑問に思ったのだがその件に関してジェイムズは質問させるような隙を見せなかったので諦めざるを得なかった。……その代わり、自分も黄色いおもちゃのアヒルを一羽、買ってみることにした。ネイサンがアヒルを持って現れるとジェイムズは椅子ごと倒れそうになったと言うが、そのこともその理由も、別の話になるだろう。




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