穏やかで優しげな、綺麗で眩しくて息もできなくなるような。
 それがソロモンとの……ソロモンを見た時の……一番旧い記憶だった。陽光が暖かく空は何処までも蒼かった。あの頃はただひたすらに死を畏れ、ひたむきに神を信じていた。だから白い手がこちらに握手を求めて伸ばされたのに、自分はぴくりとも動けずにいた。
 ……だってこれは、天使だ。
 このひとは天使なんだ。そうでなくては、こんなにも綺麗なものが存在するはずはないから。
 まだ、幼いと言って言い年齢だったように思う。もはや記憶はかすれ、薄れている。愚かだったとは、不明だったとは思う。けれども、それは捨て去ることのできない強烈な印象であり鮮やかな記憶であり、刻み込まれた忘れられないそれは、宝物のようにカールの中にあった。時折、それを思い出す。
 その時の自分を、カールは笑うことができない。




届かない祈りに




 暗い部屋。明かりもつけていなかったことに僕はようやく気がついた。窓の外にちらりと目を向けると、日は既に落ちて青い闇が窓を塗り潰していた。
 一体、いつからこうやって彼のことを殴り、蹴り、踏み抜いて痛め付けているのだろう。この時間も、……僕が彼に初めてそれをした時期も随分前になる。始めは抵抗している彼の声が弱々しくなり動きや反応の鈍くなってくるのを見ると、錯覚であるのだが、もしかしたらほんの後もう少し傷付けるだけで、一歩足を進めるだけでなにかの間違いがあってカールが死んでしまうのではないかと思う。指先から腕をぞわぞわとした寒気が伝い、僕は彼が死ぬことを、彼を失うことを恐れているのであると理解する。
 しかし僕は飽きたらず、彼を甚振り続ける。四肢の骨を砕いてみせ、指を肉に潜り込ませ肋を掴んでみせ、それを一つ一つ折ってみせる。極めて作業めいた行為だから僕はその中のものにひとつとして罪悪感を抱かない。抱けない、と言うべきか。ただ無感動に、躊躇せず、彼を殺し続ける。……死なないけれど。
 腹を押さえてうずくまる彼の顎を爪先で蹴り上げる。のけ反った彼の喉をさらに蹴り付け壁に押し付ける。みし、と軋んだ音を立てたのが彼の首の骨なのか部屋の壁なのかは僕には解らなかった。ただ空気を求めるように口をぱくぱくと動かしたカールには歯が何本かなかった。殴っている内に折れてしまったのか僕が手ずから折ってみせたのかはもう覚えていない。それこそこう言うことは何度も繰り返しているから、まさに作業のようなものだから、一々そんなことは覚えていないのだ。或いは癖だ。止めたいと思っているわけではないけれど、知らずやっているようなことだ。意識を置いていないのだから覚えていなくても無理はない。
 カールは――当たり前かも知れないが――殆ど意識がないようだった。辛うじて目は開いているけれどもいつもはぎらぎらと輝くような彼の目はひどく虚ろで、すぐにでも気を失ってしまいそうに見えた。僕は彼の首から足を退くと気付けの意味で彼の腹を殴り付けた。腹の柔らかい感触と(先程丹念に付けた傷はもう癒えていた)身を折った彼が思わずと言う風にこちらに縋り付いてくるその体温は実に不快だった。ぶるぶると彼の身体が震える。呻いているのか喘いでいるのか、どちらにせよ殆ど手負った獣の息遣いにしか聞こえない。
「吐かないで下さいね」
 彼の耳に息を吹き込むように囁くと、カールはそこで初めて意識が覚醒したような顔をして肩を跳ねさせた。僕にもたれ掛かるのをやめて後頭をぶつける勢いで身体を壁に預け、僕が身体を退けるとずるずるとその場にへたり込んだ。その怯えきった表情と言ったら!……僕は吐き気を堪えるようにして壁に寄り掛かったカールの顔を思い切り踏み付けた。ヒッと言う息を呑むような高い悲鳴が聞こえた気がした。錯覚だったかも知れない。彼は悲鳴を上げられるような状態ではなかったから。
「傷だらけですね。僕がやったんですね、なんて酷い……」
 僕は本当に珍しいことに、思うままの言葉を彼に投げ掛けた。酷い行いをしていると、僕は正直にそう思っていた。彼はぴくりとも動かなかった。気絶したのか、もしかしたら死んだのかもと身体を突き抜けるような恐怖と淡い期待が同時に僕の中に沸き上がるが、少し足をずらすと彼は確かに(やや自失しているとしても)こちらを見ていた。目を見開き、荒い息遣いで、足を退かそうとしているのか僕の靴に手をかけていたがそこにはまるで力が篭められてはいなかった。
「でもね、貴方にも責任の一端はあるとは思いませんか? こんなにしても死ぬことがない。こんな生命の理に反した生物……」
「……れ、を……」
 僕の言葉に対してカールは何かぼそぼそと言葉を紡いだようだったが、何せ彼ときたら(いずれも僕がやったことだが)歯をいくつか失い口の中もたった今切ったばかりと言う状態のようだから何を言っているかは全く解らなかった。僕は首を傾げて、逆効果とは解っていたのだが彼を踏む力を強めた。
「聞こえませんよ」
「……それを、解らせたのはお前だった……」
 彼は独り呟くような口調で呟いた。僕はてっきり彼が、咎めるような言葉を投げ掛けて来ると思っていたので虚を突かれて沈黙した。勿論足にかけた体重も力も緩めることはなかったが……、彼はようやっと僕の足を外そうとするように僕の靴にかけた指に弱々しい力を篭めようとしていた。
「ボクが人間でないと……アナタが人間でないと、教えてくれたのは、……」
 懐旧をくすぐる口調だった。僕はそれにつられるように思い返していた。
 ……あれは。


 あれはいつのことだっただろうか。自分が人間で無くなった頃のこと。わけも解らずディーヴァに血を与えられる苦しみを乗り越えて、意識を覚醒させたばかりの頃のことだ。身を起こし未だはっきりしない頭を抱えてカールはベッドから降りた。勿論その時はディーヴァに口付けによって血を与えられたことも、自分の身体が書き変わっていく苦しみのことも忘れていた。苦しむカールが暴れないように四肢を押さえ付けていた兄――その時はまだ彼の主だったアンシェルのことも。だから何の恐怖も抱かず、部屋の扉の方からこちらへ歩いて来るアンシェルに目を向けた。ただ、その後ろに控えたソロモンを見てカールは訝しく思った。
 ――どうして、彼はあんなに。
「ソロモン」
 アンシェルは怪訝な顔をするカールには全く構うことなく、笑みすら浮かべて背後に立つソロモンへ言葉をかけた。
「……解らせてやれ」
「はい、兄さん」

 ……年の離れた兄弟でしょう?

 そう言って、ソロモンは照れ臭そうに笑っていた。……血が繋がった肉親なんです、と言って、本当に幸せそうに、うっとりした微笑を浮かべた。アンシェル兄さんが僕の何よりの誇りなんです。兄さんのために僕は働きたい。――あんなに嬉しそうに、ソロモンは語っていた。
 だがアンシェルの言葉に前へ進み出たソロモンは、悲痛な顔をしていた。今にも泣き出しそうな顔をしていた。その右手が刃のように変化していることにカールは気付かなかった。――ソロモンのその悲しげな表情に目を奪われていたから。
 だから……


 その時、カールは胸を貫かれても暫く気付かなかったようだった。腕を引き抜くと彼の胸から勢いよく血が噴き出し、赤く染まった彼の身体が床の上に崩れ落ちた。傷が癒えてそう容易には死なない体になった己を自覚する前に、彼は血にかつえた。涙を流して血を欲していることすら解らずのた打つ彼に最初の血を与えたのもまた、僕だったように思う。いずれにしたって僕はもうよく覚えていないのだ。いや、酷くイメージは鮮明で感触も血の匂いも血を欲するカールの苦鳴も僕は覚えている。だけどこれらは忘れた方がいい映像だ。記憶だ。こんな昔のことまで覚えていては、いずれひとは狂ってしまう。


 ――人?


 気付いていなかったことがある。人であった頃には、カールはそのことに気付くことはなかった。ソロモンはアンシェルを盲目的に慕っているように見えた。だが本当は盲目でありたいだけでソロモンの目は開いていた。ソロモンがアンシェルの何に対して目を暝っているのか、目を逸らしているのか、ソロモンは、兄さんのためにと言った。そうとだけ言った。ディーヴァのためにではなく!……それはまだ人間であったカールに、彼女について語るべきではないと判断したからかも知れない。だがソロモンはそう言ったのだ。そこまでソロモンはアンシェルを慕っていた――そのように見えた。血の繋がりと彼は言った。ディーヴァを介しての血の繋がりだ。その時はカールは、そんなことは解りはしなかったが、ソロモンはその上でアンシェルを肉親と言った。
 ソロモンはアンシェルの言い付けに背いたことは、少なくともカールが見ている内では一度もなかった。カールの胸を貫くのに、ソロモンは躊躇いはしなかった。目を暝ってまで彼は兄の言に従った。それに、彼はあんなに幸福そうに、アンシェルについて語ってみせた。
 だが、それなら何故ソロモンは、――


「……あ、あ!」
 カールがそう切羽詰まった声をを上げたのはその時だった。気付かない内に力を入れていたのだろう、頭蓋の軋むみしみしと言う音と感触が靴越しに伝わって来ていた。未だひび割れずともそこまではそう力は要らないように思えた。僕の足首を握るカールの指に力が篭められていく。僕から逃れようと。僕は唇を歪めた。
「ソロモン! やめてくれ……これ以上、」
 悲鳴だか哀願だか、自分の頭部が破壊されつつあることを感じてあからさまに狼狽した口調だった。僕は構わなかった。多少頭が砕けたところで死にはしない。だが、眠りのない翼手が意識を飛ばすのはやはり恐ろしいことなのだろうか、彼は悲鳴を上げて、がむしゃらに僕の足を除けようと、
「やめてくれ……どうして!」
 カールは殆ど自分が何を喋っているか理解せずに声を出しているようだった。啜り泣くように肩を震わせて、しかし僕の足のために表情は見えない。だから彼がこれから何を言わんとしているかなど解りはしない。

「いつだって……いつだってそうだった、アナタはそんな顔をしてッ」

 カールは次にはそう叫んでいた……僕は目を見開き、弾かれるようにカールから飛びのいた。汗が噴き出すのを感じていた……指先が痺れるのを。カールは壁に寄り掛かり、目を見開いて僕を見ていた。とめどなく涙が零れていく。
 彼は僕を、見ていた。
「……何でそんな顔をするんだ! アナタはボクにあんなに幸福そうに言ってみせたじゃないか……いつもいつもいつも!」
 果たしてそうだったろうか。
 彼は僕を見ていたろうか。彼の視線の先は、言葉の先は、僕には何か遠い、遠いものを捉らえているように思われた。
 やがて、すぐに彼は俯いて顔を覆ってしまった。後は彼の語る言葉は意味を成さない。
 僕もまた、語る言葉を持たない。
 立ち尽くしているだけだ。
 ……


 カールは確かに、彼を天使だと思ったのだ――疑いはしなかった。カールはまだ人であり、ひたすらに死を恐れ、ひたむきに神を信じていた。ソロモンが幸福そうに語る男を、自分も慕うことができればと思っていた。今はもう叶わない。カールはもう人ではなく、ソロモンはそれ以前からずっと人間ではなかった。
 帰れたら、とは思わない。
 もう、思い返しても仕方ないことだ。記憶も薄れてしまった。想いも。ソロモンの笑顔すら、霞んでいる。失われてゆく。カールはそれを、覚えていようとは、もはや思わない。




 ――そうしなければ、やがて、僕は/ボクは、狂ってしまう。




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