今日の犬
押し殺した……殺し切れていない……笑い声が廊下を歩く彼、ネイサンの耳に届いたのは昼下がり、窓から入り込む暖かな日差しが心地よく、けれど少し眩しい、そんな日のことだった。
「兄」の――ネイサンはあまりそう言った実感を抱いていないけれど、間違いなく血の繋がった兄の――笑声だった。カール=フェイオン。からかってやった時に見せる烈火のような怒りの表情からは想像も付かない程、カールは笑うのがうまい。獣は笑うことを知らないと言うその話が真であるなら、カールは「獣ではない」のだろう。であるなら何か。問われてもネイサンは、肩を竦めるしかないが。
「何? ……何を笑ってるのよ」
声の方へ歩くとあっと言う間に薄暗い廊下から光注ぐ中庭へ出ることになる。光になれる数瞬の間、ネイサンは目を細め……果たして、ネイサンは一頭の犬と目を合わせることになった。
犬、である。
「……はァ?」
ネイサンは眉を寄せた。何だってこんなところに犬がいるの、と言う疑問を吐息に篭めたような疑念たっぷりの声を出す。……犬。
それはまさしく、例えを用いるまでもない正真正銘の犬だった。子犬ではない。老いてもいない。青年、と言ったところだろう。中型の、多分雑種。尻尾を振りもせずこっちを見る黒く短い毛の犬だ。犬にしては無愛想窮まりなく、だが目を逸らしもしない。
「ああ、ネイサンか」
その犬の頭を撫でながら、カールが楽しそうな顔で言った。だが、少し期待はずれかも、と言う顔もしているように見えた。待望していたのは別のもの、それは明らかだ。
「ちょっと、この犬どうしたのよ」
「もらった」
「誰に」
「ちょっと離れたところに牧場があるだろう。そこの犬を一頭、もらってきたのだそうだ」
語るカールの表情は、狩りの成果を語るときのそれに似ている。「もらってきた」と言う言葉がそのまま、牧場主に余った犬を頂いてきたと言う意味ではないのだ、と言うような。
「ちょっとした理由で、牧場を続けられなくなってしまったそうなんですよ」
と、解説を付けるように言ってくるのは陽光を移したような金髪の男、ソロモンだった。笑顔である。一見すると無邪気に見える、つまり無邪気ではない微笑。
「ちょっとした理由?」
「ええ、ちょっとした理由」
「ゴールドスミス系列の会社が、土地を丸まる買い取った、みたいな?」
「少なくとも僕は、何も指示はしてませんね」
あんた以外の誰が、と言おうとして、ネイサンはふと思い当たり笑みを浮かべる。……もう一人いる。しかもカールを駄目な方向に甘やかす駄目な兄が。そうだ。こいつらは二人がかりでカールには砂糖より甘いのだ。まるで同じ髪色の我らが歌姫にそうする如く……まあ、カールに対しては糖衣の中に毒と言うか直球で針を仕込むような真似をすることもあるのだが。愛憎表裏一体、と言うものか。特にソロモンは……
閑話休題。
「で、その犬がどうして欲しかったわけ?」
「別に欲しいとは思ってなかった。だが、折角アンシェルが持ってきてくれたものだからな」
「へえ?」
持ってきてくれたと言うカールの口調には感謝の念が些かも感じられず、ネイサンは偉大なる長兄の甘やかしへ不毛を感じ緩い笑みを口の端に乗せる。しかし……カールが犬を欲しがったわけではないのか。それではアンシェルには、何か別の意図があって?
「さっきの笑い声は何だったの?」
「さっきから質問ばかりだ。そんなに、この犬が気になるか?」
後ろから犬の前足を掴んで無理矢理二足で立たせながら、カールは質問に答えず問いを返してくる。暴れても良さそうなものを、黒犬はぶすっとした顔をしたまま(そんなはずはないのだがそう見えた)、抵抗もせず、よろよろと不安定な二足で立つ。
視線は相変わらず、何故だかネイサンから背けずにいる。ネイサンは、ちょっと鼻白んだ。
「気になるわよォ、アンシェルが持ってきた犬なんでしょう? しかも、それをカールにあげたんでしょ?」
絶対何か企んでるわよ、と、おどけた口ぶりでネイサンは言った。一応本心ではある。あのアンシェルのことだから。そう、きっと何か企みが……あれ。
そう言えばこの犬、何かどこかで見たような。
「もらったわけじゃない。これはアンシェルの犬だ。貸してもらっているだけだ」
カールは犬から手を離すと、肩を竦めて、此処だけは本当に不思議、と言うように、
「ヤコブと言う名前を付けて可愛がってやるんだそうだ。随分念を押すようにそう言って……」
「ッ……!」
と、これはソロモンが顔を背けて笑いを堪えた声だった。堪え切れていなかった。
「な……」
ネイサンは身を震わせ、犬と目を合わせる。犬……は、暑いのか、ちょっと舌を出して息を吐き出す。犬だ。まごうことなくただの犬。さっきの印象が錯覚だったことをネイサンは確信し、同時に己を羞じた。そして憤る。こんなものに……
「アンシェル……」
「ネイサン? どうしたんだ、ネ……ヒィッ!?」
ヒィ、と。
矜持だけは馬鹿高いカールがそう悲鳴を上げるような表情をもしかしたらしていたのかも知れない。だからネイサンは努めて笑顔を作り、踵を返そうとした。
だがその目の前、館の中に戻るその出入口の前に、いつの間にかソロモンが佇んでいた。笑顔である。満面の。
だからネイサンも笑顔を浮かべてやった。自分が考え得る中で最上の。
「あら、邪魔をするつもりかしら?」
「兄さんに危害を加えようとするものは誰でも僕の敵です」
「受けるべき制裁よ」
「で、あってもです。何より、僕もあの犬は面し……かわいらしいと思っているんです」
「笑いが堪え切れてないわよブラコン」
この場合は二重の意味で。
ソロモンが、どっちが? と言う顔でこちらを見た。だがネイサンは笑顔で返し、一歩足を踏み込んだ。
もはや問答は無用、相手に言葉を伝えるのは、極限まで鍛え上げた己が拳のみ云々。
カールは背後で犬と抱き合って怯えていた。犬……アンシェルが名付けたところのヤコブは、スン、と鼻を鳴らしただけに留まったが。
結局ネイサンは追い縋るソロモンをいなしながらアンシェルのところまで辿り着き、アンシェルが動かなくなるまでマウントポジションから殴り続けた後ヤコブ(ネイサンはそんな名前を絶対に認めないが!)を引き取ることに決めた。 ちなみにカールが笑っていたのは、ヤコブの耳同士を頭の上でくっつけてやってもヤコブは顔一つ歪めなかったからと言う実にくだらない理由だった。箸が転がってもおかしい年頃らしかった。
それと……幸いなるかな、ジェイムズはその時ちょうど外に出ていていなかったので、この馬鹿騒ぎのことは知らずに済ませられた。
……ジェイムズが帰ってきたら、この犬に新しい名前を付けてやらなくちゃ。
ネイサンは思いながら、膝の上の黒犬の頭を撫でた。身じろぎもせず、だがどこかぶすっとした顔でネイサンの膝に前足と頭を乗せているその犬を見て、ネイサンは、ちょっと噴き出してしまった。
これ解りにくいかも知れないので蛇足気味に補足……
ヤコブ=ジェームズ、ジェームスなどの元になった名前。
BACK