倒れている。それを見下ろすものがいる。
青空の夢
ソロモンは頬にひたひたと当たる冷気を感じ、それから自分が半身を水に浸からせていることを知覚した。彼は水の中に倒れている。苔と黴の匂いがした。水の下は古びた石畳だった。手を滑らすとぬるりとした感触と、ごつごつとした石の感触がした。
雨の後だろうか。自分が起き上がれないことに気付きながらもその理由を考えはせず、ソロモンはそう思った。空はひどく青く、白い雲が散っている。彼は目を細めた。
逆光。
青空の中の鋭い陽光を遮る影にソロモンは目を留めた。それは完全な黒い影となっていた……まさか、いくら日差しが強かろうとそんなことがあるはずもない。ならば自分の目が弱っているのだろう。それだけではなく、自分そのものが。身体を起こす力がないのはそのためだ。
見えなくとも影が自分を見下ろしていることは解っていた。だが視線を感じながらも舌が肥大したように動かないし先程動かしていた手も今は石畳に吸い付いたように重くて動かないので、ソロモンは何もすることができなかった。
「……死ぬのか」
ぽつりと影が言った。
感情と言う色に欠けたそれは、確実に聞いたことのある声だった。しかしどうも思い出せなかった。ソロモンが感じたのは、――自分は死ぬのか、と言う、恐れも何もない透徹した実感ばかりだった。思考はうまく働かず、声だけが彼の中に染み入って行く。
「死ぬのか、よりによって私の前で、私よりも先に」
そして、ソロモンに答えを返すことはできない。舌が動かないのだ。喉にも腹にも、まるで力が入らない。
「よりによって――共に逝くこともできずに、こんなところでぶざまに死ぬのか」
声に抑揚はなく、影がどう言うつもりでその言葉を吐き出したのかは解らない、はずだった。だが……やり切れない、と言うようにソロモンには聞こえた。
……ぶざま。
そうだろうか。この場所で、この青空の下で死ぬのはぶざまだろうか。
――そうは思わない。
むしろ、幸福であると言うべきだろう。こんな陽気の中、こんな空の下で死ぬのだ。死に様としては多少、ましではないか。
彼はそう反論しようと思った。しかし、舌は動かない。呼吸ができているのが不思議なくらいだった。――果たして、呼吸をしていただろうか?
「解っていたはずだ。そこに道など備わってはいなかった。お前は空を踏み締めようとした。だから墜ちた。当たり前のように」
淡々と、影は語り続ける。
影が何について語っているのか、ソロモンには解らなかった。ただ自分が、影にとっては信じられないような馬鹿げた真似をしたのだろうと言うことだけをぼんやりと感じ取る。
「お前のとるべき道はただ一つだったはずだ。何故墜ちた。何故ほかの道を行けると思った。お前が、そんな夢想をする男か」
――そう、だったのだろう。
影の言うようにできもしないことをしようとしてこうやって死ぬのなら、ソロモンは夢を見ていたのだろう。信じていなくとも、少なくとも信じたいとは思っていたのだ。違う道を行けると思いたかったのだ。だからできないと解っていても、そうせざるを得なかった。
「崩れた道を行けるのだと、思い上がって」
ああ、このひとは泣いているのじゃないか、とソロモンは不意に思う。しかし声はあくまで淡々として、揺らぎのひとつも見られなかった。
「……それでもお前は、刹那でも空を踏み締め歩くことができたのか?」
その問いに、ソロモンは答えることができない。
死につつある彼に何が答えられるだろうか、指先すら動かず、唇を閉じることすらできない。
「……、何か」
答えろ、とその声は言った。淀みのない声だった。だがきっと、泣いている。ソロモンは満足と共にそれを感じ取り、そして彼の意識は遠退く。緩やかに死に逝く。
意識の途絶える間際、彼はようやくそこでそれが夢だと気が付いた。そして影が誰であったかも。何故夢の中の自分が死ぬのかも。
それをまどろみのうちに、忘れてしまうことも、知っていた。
だから、
「 」
彼は影に向かってそう呟くと、夢の中でふつりと、事切れた。
それも、彼の意識の中だけでの話だ。
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