Tacitum vivit sub pectore vulnus.




 切り裂かれた親指から緩やかに血が流れ落ちていくのをソロモンは見ていた。膨れ上がった血の玉が掌の窪みに堪り小さな血溜まりを作る。痺れるような痒みのような痛みは、親指を握り込んで拳を作るともう解らなくなってしまう。
 手を開けば、親指の付け根を上向きに抉ったあの傷は何処にもなくなっていた。血だけが赤い。ソロモンはぼんやりとした表情で掌に付着した血を見詰めた。
 血塗れの手を伸ばし、剥きかけの林檎を取り上げる。薄黄色の果肉に血が染みてゆき、皮のように紅くなっていった。
 机に林檎を押し付ける。
 濡れたきしきしと言う音を立てて林檎から果汁が染み出した。ソロモンは血と果汁に濡れた自分の指を見詰め、果物ナイフを拾い上げて。

「楽しいか?」

 ……音に色があるとするなら、あまりにも鮮やかにその声は空間を裂いた。
 落ちかけた陽の赤さだけが光源の薄暗い部屋の中、窓際に置かれた椅子に深く腰掛け、夕日に染まる彼の弟は真っ直ぐにこちらを見つめていた。微動だにしない。絵のように。彼の声を知らなければ、ここに彼と自分以外の誰かがいたならば、彼が声を発したなどとは思わなかっただろう。
「……何の話です?」
 ナイフを置いて、崩れかけた林檎から手を離し、ソロモンは弟――カールに問い返す。いつものように笑みを浮かべることはできたが、些か強張ったものになったのが自分でも解った。
「――それとも、哀しいか?」
 唇だけが小さく動いた。彼の姿は逆光で酷く捉らえにくかったけれどその動きは解った。
 ソロモンは転がった林檎に目をやって、次いで濡れた自分の手に、それからカールへ、順繰りに視線を移動させる。
「何の話です」
 今度ははっきりと弟の質問の意図は汲み取れた。だからはぐらかすように彼は問いを返した。
 カールは口許に小さく笑みを作り、椅子から立ち上がった。彼の黒髪がさらさらと流れるのが見えた。顔にかかる髪を払いながら、カールは笑みを深くする。
「問うている」
「――」
「人間の例外たることの、感想をだ」
「……どちらでもありませんよ」
 ソロモンはハンカチを取り出し、生地の白さに少し迷ってから、丁寧に血を拭き取った。ハンカチをしまい込み、机にそっと手を置いて、
「そうであるだけの話でしょう。……抱くものなど何もない」
 苦笑を滲ませ、ソロモンはカールを見た。いつもは脇目も振らず一心に『彼女』だけを想う彼が、こんな時にばかり酷く鋭くこちらを見据える。妙なおかしさがあった。
 それから、……先程まで此処にあったいやな何かが、霧散していることが解った。衝動のようなものが、疵すら残さない自分の身体に対する倦みが、何処かへ。
 ソロモンは目を伏せた。そして、
「――貴方はどうなんです? カール」
 問い返す。答えが返って来ることを期待したわけではない。ただ反応を確かめようとソロモンは顔を上げた。
 カールは笑みを消し、ソロモンから視線を逸らした。窓の外へと視線は向けられ、
「……嬉しいとも」
 低い声で、カールは言葉を紡いだ。ソロモンはカールの方へと一歩足を踏み出す。カールはもう、
「私が此処に存在する……同じ瞬間に彼女は何処かで存在している。私は在る限りずっと彼女を待ち続けられる」
 熱の篭った言葉は、視線は、もはやソロモンに向けられたものではない。
 ソロモンは一歩二歩とカールへ歩み寄っていく。カールはこちらに背を向けている。俯いた弟は自分の身を抱き締めるよう右肩を押さえていた。
 それは有り得ない欠損。それ故に彼を縛り続ける欠損だった。
「カール」
 ソロモンの呼び掛けにカールは答えることはない。
 ソロモンは足を止め、カールの背を見詰める。長くは続かないだろう時を愛しむように、それが、




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