古びた木や蝶番の軋む音さえならないように。細心の注意を払ってドアを開ける。息を殺し気配を消して、薄暗い部屋へそうっと足を踏み入れる。
雪の照り返す青褪めた月光が窓から入り込み眠り込む彼女を照らしていた。
ベッドに横たわる彼女の寝顔は安らかで、私は思わず息を呑む。
……小夜。
声を出さずに彼女の名前を呼んだ。部屋の中だって言うのに空気は吐息さえ凍ってしまいそうな程に冷たくて、私は温もりを求めるように彼女が眠る寝台へと近付いていった。
手を伸ばして小夜の頬に触れる。
冷えた指に彼女の肌はとても温かい。小夜が眉を寄せ、小さく声を漏らす様に一瞬ドキリとしたけれど、起きる気配はなかった。ホッと胸を撫でおろし、私はさらに掌で包み込むように小夜に触れる。
小夜の頬は温かくて、月明かりに照らされる寝顔はとても綺麗だった。
彼女の血が翼手にとって毒だなんて、とても思えなかった。
私はゆっくりと、息を飲み込んだ。
胸を押さえ、息を止めて、手を首筋へと滑らせて行きながら、彼女の寝顔に見入る。
……あの男。
温かい、いや、熱いと言っていい程の小夜の首筋の体温を感じながら、私はぼんやりと考える。
あの男の名前は、ハジとか言ったか。
今しがた串刺しにしてきてやったあの男!……きっと、あれで死んでくれただろう。朝になったら小夜に見付からないように何処かに死体を隠してしまおう。何処かに行ってしまったって言えばいい。薄情な男って言ってやればいい。
そうしたら小夜は哀しむかもしれないけれど、……捜して、捜して見つからなければ。
私の願いを――聞き届けてくれるかも知れない。
あどけない少女の振りをして。
ずっと一緒に暮らそうと言ったら。
ひとりは寂しいと言ったら。
そうしたら、一緒に永遠に近い時を過ごせるのだ。二人っきり、この雪と氷に閉ざされた世界で。
時が止まったように、――二人きりで。
共に?
「……馬鹿な」
思わず言葉が吐き出される。私は怯えるように彼女から手を離し、口を覆った。小夜の温かさの残る掌……だから。
だから、何だ?
唇を噛み締める。おかしい。おかしい。この女は敵だ。この女の血を一ミリリットルだって飲んだら、私の血は、肉は、石のように硬くなって死んでしまうんだ。そんな私とこの女が、一緒に暮らす? 何故、何のために?
どうして、そんなことができると……どうして、そんなことをしようと言うんだ?
身体が震える。
違うんだ。私はただ。
私は小夜を見下ろした。彼女はぐっすりと眠っている。私の考えていることなど知らないで、無防備に此処に横たわっている。
私がそうと思えば、たやすく葬ってしまえる。私たち翼手の宿敵である彼女を、何の労苦も痛痒もなく。
私はゆっくりと息を吐き出した。音のない息は細く長く私の唇から漏れ出す。
殺す?
小夜を?
ぞくぞくと背筋に寒気が走った。わけもない恐怖のためだった。なにかひどく取り返しのつかないことをしてしまいそうなそんな予感だった。
彼女の首筋に私は手を伸ばす。熱く、柔らかな、肌。そしてなんて細い首。少しでも力を籠めれば折れてしまいそうな首。
私はそう、すべきなのだろうか?
私は小夜を、殺さなければならない?
「……そんな、」
そんなことは、きっとできない。
抗いがたい何かが、私にそれをさせてくれない。
「小夜……」
彼女の首筋を撫で上げる。眠る小夜を見詰める。私は身を乗り出し、彼女の頭をそっと抱きしめるようにした。目を閉じる。暗闇の中、耳元で小夜のゆっくりとした呼吸が聞こえる。
小夜は敵だ。私たちにとって殺すべき敵。
だけど私にはできない。理由は解らない。でもそれはできない。
できるなら……此処で小夜とずっと、こうしていたい。
それが叶わないのなら、せめて今だけでも。
それは私の本心だった。
さっき会ったばかりの何の思い入れもない少女に抱く、それが私の心からの願いだった。
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