nostalgia
静寂の森。
降り注ぐ星はここが一番近く、舞い降りる光はここが一番遠く。
息が白くなる寒空に凛と輝く月は、そう、平等に優しく冷たい心を与えてくれる。
そんな夜。
森の中を一人往く少年にとっては、そんな夜だった。
闇の中でも映える銀髪、幼い顔つきだが、その黄金色の瞳は大人のそれを思わせる。
例えるならば、鷹。しかし彼は鷹の雛鳥だった。
きっとこの少年を纏う、小さく、孤独を感じさせる雰囲気の所為だろう。
少年――マギは村へと向かう。
不安を感じたのだ。
唯一の友と呼べるカメのポチも、今は冬眠中。そしてたった一人での生活は、
ありもしないホームシックに似た感覚を襲った。
彼は自分が孤独になる理由を知っている。
自分が人を殺めた事を、自分があの村の人達に敬遠される事を受け止めた。
今より5年前。わずか5歳の少年の、あまりにも哀しい決意だった。
マギは育ての親である村の龍法師のもとへと足を急がせる。
“悪魔”と呼ばれるマギを引き取った老人で、彼にとってたくさんの事を学ばせてくれた恩人だ。
今日はほんの少しの間だけ。それだけでいい。マギは馬鹿げた事をして気を紛らわせたかった。
今日は――
「あ…」
息を切らせ、マギは上を見上げ、そして周りを見渡した。
白い、白い雪が空から。村からは楽しそうな子供の声。
そして、その傍で我が子を見つめる親の笑顔。
ホワイトクリスマス。誰かがはしゃいでそう言った。
マギはその光景を遠目で見やった。ふと、目を細めて。呟いた。
「メリー・クリスマス」
ここに来てからどのくらい経っただろうか。
積もる雪をぼんやりと見つめ、村から少し離れた木の上から、賑わう家族を眺める。
俺はあそこへ行かない方がいい。きっと、皆が嫌がるから。
いつもなら特別気にしやしないのに、今日だけは何故かそんな目で見られたくなかった。
『せっかくの聖夜に悪魔の子が来た』と、疎ましい目で見るだろうから。
ひどくそれが哀しく感じた。
たくさんの笑い声が聞こえる。たくさんの幸せが見える。
――踏み込んではいけない。
「おい」
下から聞き慣れた声。見下ろすとやはり、見慣れた姿があった。
「よお、リオ」
リオ。黒髪に、眉をひそめた仏頂面、お世辞にも12歳とは思えない外見の少年だ。
「何だ? 今からやるのか?」
マギは木から飛び降り、ふうわりと地に降り立つ。
「今日はケンカする気分じゃないんだけどなあ」
そう言いながらもマギは構えてみせた。
正直、今はケンカでもしてこの気分を忘れてしまいたい。
だが、リオは全く相手にせず戦意を表に出さない。代わりに少し隠すように、手には何かを持っていた。
「マギ、これ」
ぶっきらぼうにそれをぐいっと差し出す。皿に乗ったクリスマス・ケーキだった。
「…お前が村に来たのに入って来なかったの見て、母ちゃんがお前にわけてやって来いって」
リオは日頃ケンカしかしないマギにどう話せばいいのか迷っているらしく、断片的に言葉を紡ぐ。
何となくわかっているのだ。この“悪魔”と呼ばれる少年の淋しさを。
マギはリオの手から渡されたケーキに視線を落とす。
手作りの、苺と生クリームたっぷりのケーキ。
砂糖菓子は家と、笑っている親子の雪だるま。
「母ちゃん、うちに来てもいいぞって。あんまり気は進まないけど俺も別に…」
リオが照れくさく逸らしていた目をマギへ戻した時、、ケーキは雪の床へ叩き付けられた。
呆気に取られた次の瞬間、マギはその皿を木へ思い切り投げ付ける。冷たい硬質な破壊音が雪の夜に響いた。
「な…何するんだよ!!」
何が起こったのかを理解したリオは押さえきれない怒りをマギにぶつける。
「せっかく母ちゃんがお前にって!! せっかく持って来たのに! それを…」
はっと言葉を呑む。掴んだマギの肩は震えていた。
そして、その目からぼろぼろと涙が零れていた。
「お前…」
リオが手を離し、戸惑った表情を見せる。
マギはそのまま動かなかった。ただ下を向いてぐちゃぐちゃになった泣き顔を隠そうとした。
こいつにこんな姿を見られるのは悔しい。なのに、そう思えば思うほどそれは溢れてきた。
リオが憎らしく見えた訳ではない。何せ、彼の父親を殺してしまったのは自分なのだ。
恵まれた家族ではない。そうしてしまった。なのに、ただ母親がいて、ただ手作りのケーキがあって。
しかし、ただそこには小さな優しさがつまった、温かい家庭の幸せがあった。
―――幼さ故の矛盾した拒絶。
嗚咽が漏れないよう、涙が止まるよう、必死に歯を食いしばり、目をつぶる。
「帰れよ…」
拳を握り締め、
「早く帰れよ! こっち見んな!!」
俯いたままマギは喉から声を絞り出した。
「……わかった……」
これ以上ここにいても、きっと彼のプライドを傷つけ続けるだけなのだろうと、リオは小さく呟き、後ろを向く。
「じゃ……」
「…………」
マギは去って行く少年の姿を見る事なく。リオは微かに聞こえる少年の嗚咽に振り返る事はなかった。
楽しそうな子供。幸せそうな家族。
哀しかった。
悔しかった。
淋しかった。
哀しかった。
月に照らされ、ちらちら輝く白い星。今夜は誰もが喜んでいるのだろう。
この日に何があって、この日をどうして祝うのかわからなかった。
「メリー・クリスマス」
口にしてみたものの、意味は知らない。
ただ皆が喜んで、願いを叶えてもらえると騒いで。
「……」
真っ赤になった目で上を見上げると、真っ黒な闇の中から真っ白な雪が。
すっかり感覚がなくなった冷たい体に触れて。
目を閉じれば温かい幻想。
ひとりでも歩いてゆける。ひとりでも。でも。
希望を待つのはいけない事だろうか・・・
―――マギは目をそっと開いた。
もし。
もし叶うならば。
こんな自分の願いでも叶うというのなら。
「メリー・クリスマス。メリー・クリスマス。メリー・クリスマス」
何度も空へ呟いてみる。
懸命にこの日を祝うように。誰かへ届くように。祈るように。夢を見るように。
「メリー・クリスマス。メリー・クリスマス」
どうか……
「マギ!」
目の前には黒髪を大きなリボンで束ねた少女。心配そうに大きな目には涙を溜めていた。
誰だっけ…ああ、そうだ。
「…ナギ?」
「良かった…」
感じるのは背中の痛みと、さっきまでとは対極的に蒸し暑い真夏の気温に、
懐かしいとさえ思える蝉の鳴く声と自分の体温。
世界がまるごと静から動へ反転したようだった。
……夢。
それとも過去の思い出?
痛みの所為か曖昧な記憶をかき回す。だがすぐに面倒になって放り投げた。
そして。
「そっか。これだ」
「…何?」
マギはそっとナギの指に触れる。あの雪の中、嘘の幸せを捨てた時のように。
柔らかく、温かい。
壊れそうな昨日までの日々を優しく溶かしてくれるぬくもり。
「……ありがとう」
「??」
「ありがと、ナギ」
「え?え?」
訳がわからずうろたえるナギをよそに、マギはまた目を閉じた。
そこにあったはずのありふれた幻想は遠ざかり、やって来るのは目指していた新しい朝。
「メリー・クリスマス」
なんて季節外れな夢。
けれど、今、あの幼い願いは叶ったのだ。
どうか……
頼りないけれど、ナギと出会えて気付いた事があるんだ。
ナギは俺が生きる為にとっても大切で。
だから、どうか残して消えないで
どうか一緒に歩いて欲しい。
確かなふたりを明日に連れて。
大切なものはあるけれど、大切な人を俺に下さい。
何にも負けない、大切な人を守る強さを下さい。
それはきっと、いつか俺の幸せになるから。
もう一度、真夏の冬の奇跡を。
メリー・クリスマス。
メリー・クリスマス。
-END-