……今でも思い出す。あの戦場、あの高揚。
 そんな時、私は――還りたくて、堪らなくなるのだ。あの時に。








血風








 命の消える音を聞きたい、と、時々猛烈にそう思う、ことがある。
 イシュヴァールの身体が潰れて行くあの感触、その音。肋が鎖骨が首が折れていく、音と手応え。湧き上がる喜びとも恐怖ともつかない、背中から全身が冷え頭だけが熱くなっていく感覚。全身を震わせるような快感は怖気にも似ている。
 憎しみや怒りや悲しみや恐怖や、味方からすら送られる軽蔑や、嫌悪とか、私はそれを受けて悦んでいるのか、それを諦めて受け入れているのか。自分の感情を正確に理解することは難しい。だが、それでも私は、それらを思い出し無性に戦場に出たくなる。命を掻き消す音を聞きたくなる。
 自分が殺すんじゃなくてもいい。そうも思う。例えばマスタングが弾き出す焔、キンブリーが作り出す花火、コマンチ爺さんが鳴らすあの金属が擦れ合う音、殺されていく人々が奴らの慰みになる、その様を見たいのだ。銃だろうとナイフだろうと、剣だろうと。爆薬だっていい。人が死ぬと言う事実が重要なのだ。手段は二の次だ。罪悪感や自己嫌悪に浸る間もない、自分の行為にわずか戦くだけでいい。どうせ何もかも、砂が呑み込んで還してくれる。……
「機嫌、悪そうですね、
 独房の中で男が笑った。
 私は不意に現実に引き戻されて、顔を上げる。地と砂の戦場から薄暗く冷たく静かな刑務所へと舞い戻った。夢から覚めたような、そんな感覚があった。血を含んだ砂風が鼻をくすぐってすらいたのに。
「どうかしましたか?」
 楽しげで慇懃な口調が、今日はむやみに癇に障った。
 私は鉄扉に凭れ掛かり、狭苦しい部屋の隅の、小汚いベッドの端に腰掛けているキンブリーを睨み付けた。手枷を付けた手首は、少しだけ赤くなっていた。そのうちそこだけ細ってくるのではないかと、そう思われるような。
「死刑の日程が決まりましたか?」
「そんなことはさせないよ、キンブリー。私のプライドにかけて、そんなことは絶対にさせないね」
 全く調子を変えずに聞いてくるキンブリーに、私は噛み付くような口調で返す。キンブリーは笑っている。自分の死だの、生だの、どうでもいいと言う風に振舞って見せるこいつのこの部分は、見せかけばかりでないと知っている。だから私は余計に腹が立つ。
 お前が死にたいって喚こうが何だろうが、絶対に生かしてやるよ。そう言うと、キンブリーは押し殺すような笑声を漏らして、有難うございます、中佐、なんて言ってきた。私は舌打ちしてキンブリーから目を逸らす。解っている。キンブリーにとって、こんなところに押し込められているのは苦痛なだけだろう。けれど、だからと言って死なせてやることはできない。そんなことは、私が赦せない。
「――それで、どうしてそんなに不機嫌なんです? 
「不機嫌なわけじゃないさ、欲求不満なだけだよ、キンブリー。もうあの内乱から二ヶ月も経つと思うと、懐かし過ぎて気が狂いそうなんだ」
 私は目線を上げた。キンブリーはずっとこちらを見ている。薄笑みを浮かべたまま。奴の顎には鬚が疎らに生えていた。まめなこいつには耐え難いだろうに。と、ちらりとそう思う。
「さぞ――退屈でしょう」
「お前ほどじゃあないさ。そんなところにいるお前よりはな」
 キンブリーの視線が手枷に落とされた。自身を戒める木の枷に。キンブリーが浮かべた表情は、悲痛そのものだった。
「時々ねェ、本当に死んでしまいたくなるんですよ、
 キンブリーは俯いたまま、言った。冗談と解っていても、その発言は私を苛立たせる。
「そんなことを言うもんじゃない、キンブリー。いつか、出してやる。少なくとも刑の執行までは絶対に持ち込ませない」
「心許ない保証ですね」
「……言ったろう。死ぬことは許さない。私ができるのは今のとこそれだけだ」
 キンブリーが顔を上げる。口元には薄笑いが戻っていた。私は少しだけ、胸糞が悪くなる。こいつのこの薄ら笑みは、私はあまり好きではない。こいつのこの笑みは、全く空っぽだからだ。同じ空虚なら、こいつがイシュヴァールで見せていた表情の方が、あの恍惚とした忘我の笑みの方が余程いい。そう思う。
「いつ死ぬかも解らずにこんなところで鬱屈としている……そんな生に意味があるとは思えませんがね」
 幾分皮肉げに紡がれたキンブリーの言葉に、私は顔を歪めた。
「意味なんぞ……求めたことがあるのかよ。キンブリー」
「勿論、これのためです」
 キンブリーはそう言って、私に両の掌を見せてくる。そこには月と太陽、また火と水に擬えた錬成陣が刻まれている。爆弾作成。キンブリーの言うところの『花火』のための錬成陣。目を奪われるほど簡素で精緻な、それ。
「……それもいいがね。私が言いたいのはさ、もっと別の――」
「それではそれは貴方のためだ」
 キンブリーは私に目を合わせ、はっきりとそう言い切った。口元は笑っているが目は真剣そのものだった。私は、――面食らう。
「何……だと?」
「ですから、私が今ここにこうして枷を嵌められ、一人、世界から隔絶されてなお生きているのは、貴方のためなのですよ。貴方の所為と言ってもいい。私は貴方の所為で――生きている。解りますか?
 私がここに生きているのは、貴方のためなのですよ、――」
 私は返答に窮した。
 混ぜっ返すこともできなければ、笑い飛ばすこともできなかった。キンブリーの目はまっすぐ私を射抜いていた。逸らすことは許さないと言う、無言の束縛に、私は――
「そんな馬鹿なことがあるかよ、キンブリー……」
「あるんですよ、。貴方は私が今も生きている原因にして理由にして、最も重大な意味だ。貴方が私に生きろというから、私は生きているんです。厳密に言えば――それが、一番大きな理由、ですね。
 勿論――もしかしたらこの枷を外してまた花火を作れるようになるかも知れないと言う期待もありますが」
 キンブリーはそう言って、にっこりと笑みを浮かべた。お解りでしょう、と言うように、肩を落としてこちらを見ている。
「さぁ――」
 キンブリーは沈黙したままの私を見つめ、下手な舞台俳優のようにことさらに抑揚をつけてそう呟いた。そして続ける。
、どうして貴方は私に生きて欲しいんです? 貴方はどうして、そう躍起になって私を生かそうとするんです?」
 甚振るような声音だった。被虐趣味の人間が聞けばさぞかし心地よく響くのだろう、そんなような声だった。あいにく、私には嬲られて喜ぶ性癖はなかったが。
「私は……」
 キンブリーの言葉は、私にある、感覚を思い出させていた。私はそっと刑務所の中の冷えた空気を掻くように指を動かす。肉を抉る感触が鮮明に指先へ蘇る。砂を、風が巻き上げる。それらは赤く濡れて――血を、含んでいる。
 火傷するほど熱い砂の大地で、私は温かい血液に包まれていた。柔らかで温かな体液に浸る安堵感と高揚。全く異なるようでいてそれらは同じものだ。血を被る、その匂い、その温さ。それでも焼け付くような熱が私の中にある。
「私には――知ったことじゃない」
 笑みを浮かべ、私はひたとこちらを見据えるキンブリーを見返した。身体を摺り寄せるように厚い鉄の扉に凭れ掛かる。冷たい鉄はそれでも熱を覚ますことなく、むしろ高みへ煽って行く。
「私がお前を殺したいと思っていようが、お前に殺されたいと思っていようが、お前がまた人を殺すところを見たいと、私が望んでいようが……それは私の知ったところじゃない。私がどうこうできるものじゃない。湧き上がる欲求に過ぎないからだ。そいつは全部――」

 キンブリーは寂しげに首を傾げる。私の言葉を聞いているのか、いないのか。立ち上がりこちらに近づいて来る。
「どうしてそんなに、泣きそうな顔をしているんです?」
「――ッハ!」
 私は、漏れ出た笑いを抑えるように俯いた。押し殺した笑いがくつくつと喉から出て行く。私、は。
「泣いているのですか、
「違うさ、ベイビー」
 問うて来るキンブリーに、私はぴしゃりと言い返す。私は愉快だったのだ。泣いていたとしても、それは哀しいからでも寂しいからでもない。
 ただ、優しげな声を聞いた気がした。はねつけるような冷たい言葉だった気もした。
 行き場のない昂ぶりを、私は奴と隔てた鉄扉に縋り付くことで堪えた。あの戦場で得たのは、暗い喜びと、ただ深い、絶望だった。いや、得たものなど何一つなく、失うばかりだったのだろう。私はそれを知っていた。それでも私はあの砂の地にいたのだ。い続けた・・・・のだ。終息まで。
 キンブリーは失われたものの一つに名を連ねようとしている。私は必死でそれを引きとめようとしている。滑稽な程に、真剣に。手から零れる水を手を擦り合わせることで落とすまいとする。まるで意味のない。
「キンブリー」
「はい」
「ここには、砂も風もないんだな」
「そうですね、誰も私を許してくれない。そして貴方も」
 キンブリーはさも嬉しげに。

「決して許されてはいないのですよ――

 そう言った。
 私はその言葉が、腹立たしくて仕方がない。それなのに私は笑っていた。久しぶりにこいつの作る花火が見たいと思った。
「絶対に、私はお前を死なせないからな」
「貴方がそう仰る限り、私は生き続けるでしょう、ねえ、?」
 ですから貴方も、どうか死なないで。
 キンブリーは小窓から枷に嵌められた手を伸ばし、錬成陣の描かれた掌を私に押し付けようとした。
 私は無言で鉄扉から離れた。キンブリーの手は空を切り、緩やかに握られる。
「無様だ」
 私は言った。
「本当に無様だ」
 それが誰のことを指しているのかは私にもキンブリーにも知ったことではなかった。私が懐かしがっているのは本当にあの戦場なのだろうか。ふとそんなことを思う。それでも私は今この瞬間も――
 命の消える音が聞きたいと、そう願っているのだ。




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ロック・レッツェン(Rock letzten)「血砂の錬金術師」
 1884年生まれ。元の名前はロック・レガー(Rock Leger)1905年二十一歳で国家錬金術師の資格を取り、翌々年に婚約。1908年にはイシュヴァール殲滅戦に参加、少佐として活躍した。その際に婚約者を失い、のち、レッツェン姓に改姓。殲滅戦後中佐に昇進し、現在中央セントラル勤務。