昔々、あるところに犬が居た。
人へ化け、人を喰らい、いたづらに人を危めたため、ついにある法師によって鏡に封ぜられた。
のち、その鏡は人の手を転々として、いつの間にか、どこかに消えてしまったと言う。
割れてしまったとも、抜け出した犬が再び悪さをし、同じ法師に殺されたとも言われる。
……昔から伝わる、何の変哲もない話である。
犬祓い
辺りは暗い、空には雲のかかる月が見えていた。晴れた夜だが、月夜とはいえない。
私は眉を寄せた。そこだけ空気が重くなったような嫌な雰囲気。私ならば一秒足りとてこの場にいたくは無いものを、よくもこんなところで生活しているものだ。
「今から『鏡』を持ってきますので、此処で待っていて下さい」
気弱そうな男だ。年齢は二十歳かそこらだろう。黒い背広は喪服のようで、何年着ているのか、随分くたびれていた。私に一礼をして、門の中に消えてゆく。――今は嫌な気に呑まれているが、都心の家屋にしては結構な豪邸だ。かなり古いようではあるが。
――さて。
そうして今、門の前で待たされているわけである。
私はいわゆる『お祓い』を頼まれた人間であるから、そういう胡散臭いものを相手としては家に入れたくないものだろう。私だってそうだ。
「セイリン」
私はとりあえず呟いた。独り言……ではない。
《何だ》
証拠に応えはすぐ返ってきた。低い声である。無表情な男の声。
「如何思う?」
私が言ったのは、先程の男が言っていた『鏡』についてである。
数日前程になるだろうか、自分で言うのもなんだが、お祓い屋なんぞという酷くいかがわしい職業の私に、あの男が依頼を持ってきた――要するに、『鏡』を祓って欲しいとの話である。
元々その『鏡』とやらは男の叔父が数月前に骨董屋で買い求めたものらしい。その叔父が先日亡くなり、男の元に鏡がくることになった。問題はそれからだ。
家の中の物が勝手に動いたり、無くなったり、飼い猫が血塗れになって死んでいたり――そこまでならばまだ説明はつくが、見知らぬ人間を見たり(しかもその人間は毛皮を纏っているらしい)、池から鯉がいなくなったりしたようである。そこまで来ると男も流石に参ってしまい、心当たりである『鏡』の祓いに私に頼みに来た、と言うことだ。
声はしばし考えた後、
《……照魔鏡や雲外鏡というわけでもないのならば、鏡に憑く物の怪か、それとも――》
「鏡に閉じ込められた物の怪が、今になって暴れてるか……話だと、鏡の裏には蛇の模様が描いてある」
《ならば十中八九間違いは無いな》
「全くだよ、まさかこんなところで再会するとはねェ」
私はため息をつきながら、家の門を睨んだ。嫌な空気が漂う――それすらも覚えがある。
「……今さらだねェ……仇討ちって柄でもないけどね」
《ところで主》
「何だい?」
言うセイリンに、私は眉を寄せて問い返す。
《気づかなかったのか?》
「? 何をだい?」
もったいぶる声に苛々と問う。が、声はならばいい、と呟いて、それきり喋らなくなった。
……そうなってはセイリンはもう応えない。
私は諦めて、自分も黙ることにした。
それから数分ばかり待っていだだろうか。
やがて先ほどの男が出てきた。
一抱えほども在る楕円形の大きい鏡――紫色の風呂敷に包まれてはいるが、形はそう見て取れる――を抱えている。
しかし……男は感じないものだろうか、鏡が放つ、耐えられないような雰囲気を。
「――あまりアタシには近づけないでおくれ。
近くに、人目につかない林か何かはあるかい?」
「はい。……今からそこに?」
私は問いに頷いた。
――男の持つ鏡に、目を向けないようにしながら。
車で五分程度だろうか。
成る程、確かにこう山の中では人目につくまい。
ふもとで車を止め、さらに歩くこと数分。他の人間は全く見えない。いるのは私と男だけだ。
「……鏡を地面に置いて離れな」
男は風呂敷にくるまれた鏡を取り出し、地面に――置きかけて。
「下がれ!」
「――え?」
私の言葉に振り返りかけ、そのまま数メートル転がった――私に突き飛ばされて。
「一体何を……!」
起き上がった男は私を非難がましい目で見つめ……途中で硬直した。
肩から血を噴き出している私を見て。
「え……えぇッ!?」
「馬鹿野郎! 早く逃げるんだよ!」
怒鳴りつけると、男は転がるように走っていった。木々の間に消えていく男の背中を確認して、私は地面に落ちた鏡を睨みつける。
「不意打ちとは……アンタも随分と臆病になったもんだねェ……」
「挨拶代わりだよ」
鏡が――正確には、鏡の中にいるモノが、答えた。
鏡からずるりと、鋭い爪のついた手が現れる。
「それに君じゃあなく、今の男を殺すつもりだった」
鏡の中から少年が顔を出した。茶色の髪に同色の目、土気色の顔、耳のあるべきところには、犬のそれが生えている。
犬歯――牙をむき出しにして、少年は笑い声を漏らした。
「随分久しぶりだよね。まだ生きていたの?」
「……それはこっちのセリフさね」
傷はなかなか深い。だが、気にしている場合でもない。
ずるずると、完全に少年が鏡の中から姿を現す。
首には、ボロボロに腐食した鎖が巻きついていた――やはり、あまりもたなかったか。
「何年ぶりになる? 五年? 十年?」
「五百年だよ」
私は答えながら腰に差した刀の柄に手をかけた。
「五百年鏡の中にいて、気分はどうだった?」
「……もちろん最悪さ。
おかげで、また君に会えたんだけれどね」
「アタシは二度と会いたくなかったけどね」
言いながら、刀を抜く。……この刀とも、ずいぶん長い付き合いになる。
「そうそう――」
少年は言いながら、これ見よがしに鎖を持ち上げて――がちりと噛み切った。銀の破片を地面に吐き捨てて、
「……あの子にはまた会えたかい?」
―― ッ!
「手前ェ!」
少年は嫌な笑みを浮かべたままひらりと刀の一太刀を避ける。爪が月の光にきらめいて、私は舌打ちをして飛びのいた。
「ッハハッ! 熱くなるなよ! すぐにまた殺してやるさぁ!」
「黙んなよ糞妖怪がッ!」
ぎちぃッ!
少年の異様なほどに大きい爪とこちらの刀が噛み合った。少年の爪は切り飛ばされず、あろうことか、むしろこちらのほうが圧されている。
「今度こそその顔真っ二つに斬ってやるよ……」
「出来ると思うかいッ?」
「出来るとも……セイリンッ!」
ゅんッ!
風が鳴り、少年がわずかに首を傾げた。
一瞬きょとんとした顔をした後、にやりと笑う。
「あぁ――成る程ねェ。
セイリンは君の身体じゃ駄目なわけだ! それじゃあ僕には勝てないねェ!」
勝ち誇るように哄笑し、爪を振るった。首を浅く指されて、私は小さく呻く。
「ッ糞が!」
吐き捨てて、私は大きくその場から退いた。
「逃げる気かい? あの子の仇をとらなくてもいいのかなぁ!」
「五月蝿いッ!」
私はそのまま身を翻して、茂みに飛び込んだ。
少年に追う気配は無い。
そのまま少し走り、幹にもたれかかると、私は息を吐いた。
……肩の傷も首の傷も、血はまだ止まらない。
「クソッ!」
《主》
「――あぁ、解ってる」
押し殺したようなセイリンの言葉に、私は吐き捨てるように返した。
透明な蛇が、私の肩にまとわりついている――セイリンである。先ほど少年が首を傾げたのは此れのせいだ。少年は牙を剥いて向かってきたこの蛇を避けたのである。普通の人間には見えない。
こいつは、元は『青鱗』と呼ばれる大蛇だった――私とセイリンは長い付き合いになる。今の私が生まれる前からの。
セイリンが触れた部分だけ、わずかだが、痛みが退いていく。少年の言うように、本来の力が奮えないセイリンも、人間の傷を癒すぐらいならできる。
「アイツは確かに大妖怪かも知らんよ――それこそ、大蛇と――アンタと同じぐらいのね」
《私では、前のように鏡に閉じ込めるぐらいしか出来ない》
「それも解ってる。殺せなくてもいい。封じ込めるぐらい、あの鏡を使ってもう一度……」
ガシャン。
何かが割れる音がしたのはその時だった――何が割れたのかは、考えるまでも無い。
「それも、無理か……」
《――我らは奴を滅ぼすために生きているわけではない》
「じゃあ何かい。逃げろって言うのかい? アイツに、背を向けて!?」
《それも一つ手と言うことだ。
『ジャッコ』にいつまでも拘ることは無い》
「アイツはあの子を喰ったんだよ! 殺すならまだしも……」
《では、どうするのだ? 我らには、あの
紅を封じることも、殺すことも出来ぬ》
「……今、考えている。ちょっと待っていておくれ」
私は呟いて、首を振った。
――「紅」は、犬の妖怪である。
子供の顔をして人間に近づき、此れを喰らう。そうやって奴に喰われた者の残骸を、私は幾つも見てきた――狡い手口を使うが、奴自身は強い力を持つ。
私が生まれる五百年前に私は――正確にはセイリンは、奴を鏡に封じ込めた。その前に奴は、私の旅の連れを喰らい殺した……何のことは無い話だ。
「殺すことは勿論出来ない……封じるのは鏡が割れているから出来ない……
それなら、これしかないだろう?」
言いながら私は地面に置いた刀を示した。
「どっちにしろ、この傷が治るまで待たなきゃいけないみたいだけどね……後どのくらいかかる?」
《数分で治るだろう。それまでに見つからなければ――》
「君の旅の連れ……何て言ったっけ 」
けたたましい叫び声が、木の間から耳に届く。
「ッ……!」
「
蛇ッ子――だったかな? 彼も、君と関わらなければ死ななかったのに!」
《落ち着け、今出て行っては殺されるだけだ》
「……解ってる、黙ってな」
咎めるように言うセイリンに、私は返した――が、セイリンは不安そうに唸る。怒るな、冷静さを欠くな……自分に言い聞かせながら、ぎり、と歯軋りをする。傷が治るまでは、あいつの前に出て行ってはならない。
「あの子は美味しかったなあ……
妖怪を食べているみたいだった!」
「〜〜〜〜ッ!」
なおも叫ぶ少年の声に、私は唇を噛み締めた。刀を持つ手に、力を込める。
「右目から食べてあげたんだ……左目はもうなかったからね。
首を仰け反らせて悲鳴を上げて――とても面白かったよ!」
《主!》
慌て、セイリンが私を制す。肩にまとわり憑いた蛇は、うねうねと不安そうにこちらを見つめた。
「解ってる!」
叫び返しながら刀を振るう。草がなぎ払われ、空に舞った。
「けど……アタシはアレ程言われて、黙ってたくは無いんだ……!」
《……ならば私は何も言うまい》
セイリンは、すっとあちらを向く。突き放したような口調ではなかった。こいつとも長い付き合いなのだ、何を考えているかは互いに解る。
……行かせてくれるか。
「すまないね」
私は言って、茂みの間を駆けた。
「コソコソ隠れるのは止めたわけか……
傷は治ってないみたいだけれどね」
「……ほざいてなよ」
嬲るように言った紅に、私は荒く息をつきながら呟いた。
少年は割れた鏡の横に立っている。破片がその周りに盛大に散らばっていた。自分を長い間閉じ込めていた鏡だ。恨みも一塩だったろう。
「で、どうする気だい?」
「……何とかするさ」
私は刀を構えた。
少年は爪を誇示するようにきらめかせて笑い――
次の瞬間には、目の前に少年が迫っていた。慌てて私は迫ってきた爪を刀で払う――この刀も弱い妖怪ならば触れただけで灼き消えるのだが、紅が相手では歯も立たない。
そもそも、紅ならば私のような人間は、あっさりと殺せてしまうのだ。わざわざ牙と爪を使って私に捌かせるのは、私を嬲り殺すのを楽しんでいるからに他ならない……虫唾が走る奴である。
「っふッ……!」
息を吐き、爪を刀に叩きつける。が、爪は先ほどと同じように鋼よりも硬く刃を遮った。私は舌打ちして刀を引き、爪を刃で擦りながら水平に払った。
首を薙ぐ。
――
殺った!
思った瞬間、硬い感触に背筋が凍りついた。
「そんななまくらで斬れると思うのかい!」
少年が叫びながら爪を振るう。反応が遅れ腕が浅く裂けた。傷口から血が尾を引いて、思わず眉をしかめる。見れば白い刃はぼろぼろに刃こぼれをしていた。爪も肌も同じような硬さらしい。
「何て奴だいッ……」
呟いて。
視界から紅が消えた。気配は――後ろ!
「しまっ……」
どかっ!
振り返りかけたところで蹴り飛ばされて、私はそのまま吹っ飛ばされた。
「うわッ!」
仰向けに地面に叩きつけられ、背に走った痛みに情けない悲鳴を上げる。
ちょうど鏡のガラスの破片が散らばっているところだった。ガラスが身体に突き刺さる感覚に、呻きながら私は起き上がりかけ、腹部を踏みつけられて息を詰まらせる。
「ッがっ……」
「君も食べてあげよう。あの子みたいに目からが良い? それとも耳?」
「どちらもごめんだね……」
何とか刀を握りなおし、柄を腹を踏みつける足に叩きつける。ぱっと紅は足を上げた。私はそのまま懇親の力を込めて刃で少年の腹を薙いだ。
ギィンッ!
澄んだ音を立てて、刀が折れ飛ぶ。
「だから、無理だって言っただろう!」
言いながら、紅は腕を振るった。ひゅんっ。風を裂く音。
――視界が真っ赤に染まり、次いで左目が見えなくなる。
「ッぁぁああぁぁあぁぁっ!」
灼けるような激痛。
「良かったねぇ! 此れであの子と同じだよ!」
手を血に染め、のた打つ私を見下ろしながら紅は笑った……ほざいているといい。私は割れた鏡を掴み上げ、その上で俯いた。ぼたぼたと、私の左目から垂れた鮮血が鏡の台に広がってゆく。
……面白いぐらいに、紅から動揺の気配が伝わってきた。
「あッ――!」
「我が血にて命ずる!」
絶叫し、私は笑う。飛び退いて、紅から逃れ、そのまま叫び続けた。
「其れの名は『紅』! 身に写すものを……封じろ!」
血の池を作る鏡が少年を映す。紅は目を見開いて鏡を見つめた。
「っくそ……!」
「また五百年、そこにいなァ!」
金属の擦れ合う音。血の中から幾本もの鎖が現れ、紅を絡め取る。
「ッ――!」
少年は息を呑み、私を睨みつけた――私は目を押さえ、にやりと笑いかけてやった。
……一瞬で、少年は鏡の中に引きずり込まれた。
それを見届け、私はぺたりとその場に座り込む。血のぬるりとした感触に吐き気がした――全く、何て様だろうか。
「……ったァ……」
《頑張りすぎたな》
「ッさいよ役立たず!」
左目にくっついてきたセイリンに、私は叫び返す。
セイリンはしばし沈黙した後、
《視力は戻らないぞ》
「あぁ、分かってるよ……ったく、割に合わないねェ……」
《……あの封印は五百年も持たん》
「それも分かってる……出てきたんならまた封じるまでだよ。
それがアタシたちの仕事だろう」
《封霊者としてか?》
「……そりゃまた、随分と懐かしい響きだ」
呟いて、立ち上がり。
「大丈夫ですか!」
聞こえてきた声に、目を瞬かせる。
依頼人……先程逃げたはずの男が叫びながらこちらに走ってきた。何故か運転手も一緒である。
男は血塗れの私の姿にぎょっとして、少し離れたところで立ち止まり、
「あのっ……その! えぇと――」
「一応大丈夫だよ。
犬っころも祓っ……てはいないけれど、とりあえずあと百年ぐらいは怪異も無いだろう」
うろたえ、何というべきか戸惑っている男に、私はどっと疲れを覚えながら言った。
「そうなんですか……?」
「不安なら私の方で預かろう……それと」
「はい?」
男は不安そうにこちらを見上げた。私はフンと鼻を鳴らして、
「……心配して戻ってきてくれたんなら、礼は言っておくよ」
「は、はい! 有難うございます!」
「……何でアンタが礼を言うんだい」
「えーと……何故でしょうか……」
「あのねぇ……」
私は呆れて、毒づきかけて。
……そこでふと、初めて気がついた。
私はこの男が鏡を抱えていたとき、その禍々しさに気づかないものかと思った。
だが。
――気づいていなかったのは、私だ。
セイリンが『気づかないのか』と言ったのも……
「アンタ……」
「え?」
「いや……いや、何でもないよ」
自然と笑みが浮かぶのを感じた。男はきょとんとした顔をして、私を見つめる。
……そこにはその影は無い。
顔立ちも全く似てはいない。性格もさっぱり違う。
けれど――分かるのだ。この男は……
「……そうか、そうだねェ……
アタシらだけが転生の輪に乗るわけじゃあないものねぇ……」
「?」
青年は首を傾げ。
「あの……それより傷の手当てをしないと……」
「いいのさ、そんなもの。
――それよりも、その鏡を家に飾るか、アタシにくれるか、決めた方がいいんじゃないのかい?」
私が言うと、男は地面に放り投げられた鏡を覗き込んだ。
血とガラスの破片が盛大にぶちまけられた地面に、その鏡は転がっている……虚像を映す鏡には傷一つ無い。が。
男は硬直して、私の方を見た。
「あの……この鏡、どうして紅いんですか……?」
問いに私は声も高らかに笑い――自分で考えな、と応えた。
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(2004/10/22)