歪んだようで純粋な




 鏡の中というのは勿論暇なものである。
 こうはどろりとした朱の闇に胡座あぐらかいていた。
 人の耳の代わりに犬の其れ、歯は鋭い牙が生え揃い、瞳はぎらぎらと紅い。
 そして紅の首元には、強い鎖の付いた黒い首輪があった。それで無くとも肌には鎖が絡み付き、ぎしぎし、と音を立てている。
 常ならば意識だけは鏡の外に出ることもできるのだが、今日は紅を此の朱い黒に追いやった女に、外に出ることを禁じられていた。
 ただ、やめろ、と言われただけならば、紅は無論聞きはしない。大口を開けて笑い飛ばしただろう。だがあの女は、一体どうやったものか、此の鏡の世界と外の世界を完全に切り離していた。
 いつもなら見つけられる出入口も、今は闇に溶けたか消え失せたか、感じることもできない。
 何も聞こえず、己の他には何も無い。
 紅は不機嫌だった。
 忌ま忌ましい女。此の鎖さえなければ、此の身が一瞬でも自由になれば、肉を裂き、骨を砕き、欠片も残さず喰らってやるものを。

「   」

 上も下も天も地も無い闇の中、紅は見上げ、白い牙の並ぶ口を開き、大きく、大きく吠える。
 音は無い。
 鏡が音を映さないのは、誰もが知っていることだ。

「   」

 目にちらつく紅い光を細め、紅は深く深く息を吐き出した。数年すら一瞬に等しいこの犬にとっても、自分の存在すら薄れるようなこの闇には、時間を引き延ばすような気怠い感覚を覚えた。

「   」

 あの女こそ何も無い此の世界に相応しいと、紅は考える。
 あの女にとって言葉ほど嫌うものは無いだろう。
 心を残したまま転生の輪に居続ける者にとって、名は苦痛だろう。
 何度生まれ、死んだか、その間、いくつの名で呼ばれたか、数える気も起きないだろう。
 だのにあの女が生き続けるのは、とても滑稽で醜い。生に未練がましい者はたいてい不様だ。それが女であればなおさら。
 あの女こそ、時の止まった鏡の闇に閉じこもればいいのだ。あの馬鹿な大蛇おろちと共に。

「   」

 今、女が何と言う名なのか紅は知らない。
 しかし、あの女がまだ名前を、自分を表すものの一部と認めていた頃の名は知っている。あの女が自分に名乗った。少し怯えを含み、しかし、それ以上の敵意と憎しみが強く刻み込まれた眼で。
 紅はその眼を初めて見た時、その時は少女だった女の内腑を引きずり出したくて仕方がなくなった。
 敵意に応えたわけではない。
 愛しかったのだ。
 間違っているとは思わない。愛しかった。力もないくせに自分を最大の勇気を以て睨みつけてきた頭の悪い小娘が、たまらなく愛しかったのである。
 腹を優しく切り開いて、舌を食って声を奪い、痛みに引き歪む少女の頬を噛り取り、目をえぐり取って呑み込み、全て食い尽くしてしまいたかったのである。
 しかし、紅はそうはしなかった。
 何故かは今でも解らない。少女は紅の妻になるはずであった。差し出された哀れな贄であった。紅は少女をどうにでもできたのだ。戯れに孕ませて、その子を喰らうことすらできた。
 ……紅は少女に厭かと聞いた。
 少女は当たり前だと答えた。おぞましい物の怪の子を生む気はない、とも言った。それ以上聞くまでもなく、少女は紅を嫌っていた。
 紅はそれを聞いても少女を殺す気にはならなかった。
 そればかりか少女を放し、少女が責められないように、少女を紅に差し出した村の者を一人残さず喰い尽くした。腹は満たなかった。腹は少女を己に収めたいと言っていた。紅もそうしたかったが、そうしたくなかった。


 やがて少女が女になる程の時が経った。
 紅は、その時少女の居場所を知らなかったし、知りたいとも思っていなかった――本当のところ、紅は少女を覚えていなかった。
 その時、天下は乱れに乱れていたのである。
 気の遠くなるほどに大きなうわばみ――大蛇おろちが暴れていたのであった。
 人間や獣ばかりか、同じ妖すら喰らい、大蛇は苦しみ抜くように大地を蹂躙し、その毒で汚した。
 紅には関係のないことだったが、未だ若く弱弱しい妖怪どもは大蛇を殺そうとするか、乗じて祭のように騒ぐかに二分して、ひどく煩わしく、五月蝿かった。特に紅に大蛇を殺す手助けをしろと言った者は、ことごとく殺してやった。
 いや、あの少女を、女になった少女を、紅はまたも殺すことはできなかった。
 女は紅に大蛇は何故暴れているか聞きにきたのだ。
 女は紅を覚えていた。紅も話を聞いているうちに思い出した。
 紅は女の問いに、知らぬと答えた。
 本当だった。紅は犬だ、蛇ではない。もし紅が蛇でも、どういう理由で大蛇が暴れるのかなど見当もつかないだろう。
 そして去ろうとした女に、紅はただ、と付け加えた。


 やがて大蛇は煙のように何処かへ消え失せたが、紅は蛇が消えたことについては何も思わなかった。ただあの女は死んだのだろうかと少しだけ気になった。
 その後数百年、女を見ることはなかったので、女は死んだものだろうと思っていた。


 だから紅は蛇憑きの男を連れた女を見た時、裏切られたような気分になったのであった。
 少女は女になり、老婆になり死んだと考えていた。半面、美しい少女が醜く老いる様を見ずに紅はほっとしていたのだ。
 だから女が現れた時、紅は憎かった。心を留めたまま紅の前に立った女ばかりではない。蛇も自分も。特に蛇が憑いていた男が憎々しくて仕方がなかった。
 紅は女を知っているのだ。長い間、とても昔から。
 それなのに蛇を、大蛇を身に宿した男は、人間のくせに紅よりもはるかに長く女と一緒にいるのである。憎くないはずがなかった。あの時少女だった女を喰らっていなかった自分を呪った。何故大蛇のことを聞きにきた女の血を被ろうとしなかったのか嘆いた。
 男を嬲り喰い殺しても、紅は満足しなかった。
 女は火のついたように怒り、紅を殺そうとしたのである。
 怒りに狂った女は汚く、嫌なもののように思われた、だが、女はむしろ――
 あの黒い目で、あのかすかな怯えのこもった、憎悪の目に紅は射竦められてしまったのだ。それが酷く紅には腹立たしかった。何故自分は此のか弱い小娘を殺せないのか、解らなかった。
 今度こそ殺そうと思ったのである。
 五百年の間、鏡に封じられ、紅は女を心底に怨み憎んでいた。今度こそ殺せると思った。殺す気だった。
 しかし、此の有様であった。
 鏡の鎖に絡めとられ、あの女の血によって縛られ、あの女の僕にも等しい。




 ……紅は今、あの女の臓腑を喰らう夢を見ながら鏡の中に胡坐をかいている。
 牙の並ぶ口から赤い舌を出し、唇をぺろりと舐めて。
 鏡の中は暇なものである。
 紅は少しだけ笑って、嵌められた首枷、それに繋がった銀色の鎖に。
 がり、と牙を立てた。




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