昔大蛇がいた。
 彼の者が地を這えば溝が出来、そこに雨降れば河が出来た。
 天下は乱れ、大蛇に成す術もなく、世の終わりと嘆くものもいた。
 ――さて。
 男がいた。
 何の変哲もない男で、力に優れてもいなかったし、また頭の良いわけでもでもなかった。
 だが男は大蛇を倒した。
 男と大蛇は共に消えてなくなった。
 世の乱れは治まり、平安を取り戻した――




 ……昔から伝わる、何の変哲もない話である。




霊祓い




 薄暗いじめじめとしたうっとうしい森の中を、三人の人間が進んでいる。
 最後尾をきょろきょろと辺りをやたらと見回しながら歩いていく男。ばさばさとした髪は色の悪い顔の左半分をすっかり覆っている。見える右目は見開かれていて瞬きもしていない。不気味な男である。
 腰に差した刀は、鞘を見ただけでは古ぼけていて錆び付いていそうな印象を受けた……もっとも、そんなものを持っていても意味がないので、手入れぐらいはしてあるのだろう。多分そう思う。
 真ん中を歩くのは白髪の若い女――つまり私――である。面倒くさそうにため息をつきながら歩いていく……実際面倒くさいのだが。
 前を行くのは男――壮年の、黒い髪に白髪の混じった、自分たちに比べれば地味な――といっては悪いだろうか――容姿をした老人だった。手に持った鎌で草を払いながら、前に進んでいる……此処は、あまり、使われていない道なのだろう。
「しかし……女、ねぇ」
 呟いたのは片目の男――蛇ッ子ジャッコだ。がりがりと黒い髪の下の頭皮をかきながら呟く。
 腑に落ちぬ、といった風だった。
 相変わらず、何かを探すように辺りを見回している……全く、落ち着きのない男である。
 と。
「――オイ、婆ァッ」
「なんだい?」
 わずかにイラついたようなジャッコの言葉に、私は振り返った。きつい問い方をしたワケでもあるまいに、ジャッコはぎょっとしたように立ち止まり、
「……俺は横で見てるからな。
 面倒くさいんだよ。女は、泣くし、喚くし」
 我儘だねェ、と呟いて、一つ、ため息をつく。
 少し後ろのほうで立ち止まったジャッコの方を振り返り、自分も立ち止まると、
「好きにしなよ。アタシは別に、アンタが手ェ出そうが出すまいが関係ないからね。
 けど、雑魚はアンタが喰っちまえよ。アタシだって出来ることと出来ないことが……」
「おい、あんたら!」
 先頭で鎌を振るっていた老人が、たまりかねたように怒鳴った。
 短気な、とジャッコが小さな声で呟いたのを聞いて、ちろっと横目で睨みつければ、ジャッコは、ふん、と鼻を鳴らして黙った。
 ……問題は、老人の方か。
 私はため息をつきながら、老人の方を見て、
「解ってるよ。
 ……ちゃんと仕事はこなすさ。アタシだって一応玄人だからね」
「……」
 押し黙り、老人はまた、くるりと前を向いて鎌で草を払い始めた。話したくもない、ということなのだろうか。
「で、もう着くのかい? わざわざ村の人間に気づかれないようにこんな獣道を通って……
 アタシたちをヒトの目に触れさせたくないみたいだねぇ」
「当然だ」
 ぶすっとした声で言う。嫌悪――そういう言葉が一番あっていると思う。
 そういう感情を向けられることは、自慢にはならないが慣れているので、別段気にしない。
 こちらが黙っていることすら気に入らないのか、老人はぶつぶつと呟くようにして続けた。
「お前らみたいな汚らわしい輩に頼んだとあっては、ワシまで変な目で見られるからな」
「言える口じゃないだろ、『汚らわしい』、なんて」
 ジャッコが、鼻で笑った。さもおかしいように口がにぃと弧の形を描くが、目は相変わらずのままだ。
「……そのヤカラに頼まなきゃ、悪霊の一つや二つも追っ払えないくせに」
「追っ払えるかッ! 普通ッ!」
 不機嫌に言った老人に、ジャッコがきょとんとした顔をする。わざとのようでいて、本当にわかっていないのだから、この男は馬鹿なのだ。
「ジャッコは、世間に疎いからねェ」
 言うと、老人は顔をしかめた――この返答も、あまり気に喰わなかったようである。
「疎いとかそういう……
 着いたぞ」
 老人が話を途中で止め、飛びのくように後ろに下がると、確かに、木々の向こうに祠が立っていた。石にはもう苔が生えている。相当古いのだろう。しかし――
「祠――崩れっちまってるね」
 私は顔をしかめずにはいられなかった……あれは、面倒な状態だ。
「……あれは、誰かが?」
「解らん、突然崩れた。村のものは……あっち側には道があるが、滅多に近寄ることもない」
「子供は?」
 老人は憂うような顔をした。皺だらけの顔をくしゃりと歪め、
「いたら来るかも知らんが、今は村に子供はいない」
「……流行り病か。
 アンタも大変だね」
「余計なお世話だ」
 むすっとした顔で返してくる。しかし口調は、こちらが自分たちのことを気遣ったのが、まるで変なことのような様子だった。
 ……さて、こちらはこちらで、仕事に移ることにしようか。
 前に歩み出ながら長い白髪を一つに結び、老人の方をちらりと見る。
「こっからはアタシたちの仕事だよ。
 此処で見てるかい、それとも……?」
「もちろん帰らせてもらうさ。
 そうしねぇと、こっちが危ねぇからな」
 言うが早いか、がさがさと老人は草の向こうに消えていった。
「――終わったら、村に寄ってくれよ!」
 先ほどよりは友好的なその声に苦笑する。こちらも口を開けて、
「解ってるよ! 米ぐらいはくれるかい?」
 ふざけんな、そんな余裕はねぇよ――笑い飛ばすような罵声が響いて、森はまた静かになった。
「印象の回復は図れたかねェ」
「知らないよ。そんなの」
 ジャッコが問いに、眉を寄せて応えた。そして。
「――よっ。」
 いきなり、石を蹴飛ばす。
 と。
 目の前の木に当たるはずだった石が、途中の空間でばちっ、と跳ね返された。
「いるいる、沢山だ。
 婆ァ、雑鬼だ!」
 うきうきした様子で言うジャッコに、私は思わず呆れ顔をする。
「見えてるよ馬鹿。遊んでないでさっさと喰っちまいな」
 ジャッコが嬉しそうな声を漏らした。
 小さくて醜い、土と枯葉が混じりあったような色をした鬼が、見開かれたままの不気味な視線の先でばたばたともがいて――
「待ちな」
 止めると、ジャッコは不機嫌そうな顔をして振り返った。
「……祠の主が来た。ちょっと退いてておくれ」
 へぇい、とジャッコは気のない返事を返すと、すたすたと後ろに下がる。
「アンタ、鬼を視ていたそうだね」
 何もない空間に向かって言うと、崩れた石の祠の周りに集っていた鬼どもが、わらわらと蜘蛛の子を散らすように逃げ出す――空気が、ずん、と音を立てて重くなったような感じがした。これだ。この感じ……やはり『いる』のだ。
 ざわざわと風が鳴っている。
 私はすっと目を細め、祠を睨めつけた。
「村の者に忌み嫌われ、アンタを娶った男は最期は狂って、そして――アンタを刺した。
 死んだアンタはまず、ほっといても死にそうな狂人を――要するにアンタの夫を呪い殺した。
 それからも村で人死にが相次ぎ、恐れた村人は祠を建ててアンタを祀った……」
『……封じられたのよ。
 お前らみたいな、薄汚い封霊者にね――』
 限りなく憎悪のこもった、低い女の声が響いた。もっとも、それに驚くような者は、今この場にはいない。
 私はため息をつきながら、ジャッコが持っている刀を取り、それを抜く。
 古びた鞘からは想像も出来ないような、光る白刃が空気にさらされた。
「……汚らわしい、と来て、次は薄汚い、か。
 やれやれ、アタシたちもずいぶん世間様に嫌われているようだね」
『お前ら封霊者のあくどさと言っちゃ評判だからね。
 当然の評価じゃないかい?』
「あくどいのはインチキの奴らだけだよ。アタシらみたいな本物は、違う」
『世間、じゃ同じ目で見るってことさ』
 楽しそうに声が言った。うそ寒い猫なで声で、姿は見えず、その気配だけが私にまとわりついてくる。
『……ね、お前らもあたしも同じだろ?
 普通の人間たちに嫌われて、変な目で見られて、結局は嫌われたまま死んでくんだ。
 嫌じゃないかい? そんなのは。ねぇ。
 あたしを封ずるなんてやめておくれよ。それよりも、一緒にあの村を壊しちまおう?
 きっと楽しいよ。あたしを封じるよりも』
「――後であの爺さんに、飯をおごってもらう約束をしてるんでね」
 私は笑んだまま言った。
『そうかい』
 低くなる声に伴って、まとわりつく気配が、冷たく歪む。
『それじゃ……あんたを、村の奴らより先に殺しておくよ!』
 気配が集まって、煙のような黒い牙が現れる。
 それは狙いたがわず、私の喉笛に喰らいつこうと空を走り……
 私がかざした刀に阻まれて、それは霧散した。
「……最近、アンタみたいな封じられたばかどもが、こぞって姿を現し始めている。
 村の……流行り病は、アンタだね?」
 大振りな刀を無造作に振りながら、私はすたすたと祠に向かって近づいていく。
「――どうやって出てきた?
 いい封印いえじゃないか。とても出てこれるとは……」
『知らないよ……
 それだけ天下が荒れてるってことだろ?』
 声は喜悦すら篭っていた。
「天下が……まぁ、確かにね……
 ……?」
 悪寒――それと同時に。


 ……鈍い衝突音。


「――ッ――!」
 衝撃と、痛みが走る。
 不可視の壁に阻まれて、私は大きく後ろに吹っ飛ばされていた。


 ずさっ! ずささぁっ!


 数度地面の上を跳ね、滑りながら草むらの上に転がる。
「婆ァ。大丈夫か」
「……ッ……あァ、大事無い」
 およそ心配そうでもないジャッコの問いに、咳き込みながらも答え、刀を杖にして立ち上がる。
 身体はかすり傷だらけになっていた。……当然のことながら、痛い。
「…………ジャッコ」
「俺は見てるだけだって言ったぞ」
 こちらの意図を察したように言ってくるジャッコに、私は眉を寄せて、わずかに声を荒げた。
「馬鹿。セイリンだ。奴を出しな」
「でも……」
「いいから、さっさと出しな!」
「へいへい」
 面倒くさそうにジャッコが言って、顔の左半分を覆っていたばさばさの髪をすっと退けた。
 ――目のあるべきところに、ぽっかりと穴が開いている。
『何だい!? そいつは……』
 声を無視して、私は刀を鞘へ収め、自分の耳を指で塞ぎ、ジャッコから少し離れた。
 ジャッコはそれをちらっと確認すると、小さく口を開いて、




「   」




 せいりん。




 ――びりびりと、空気が震えた。


 木々が揺れる。
 私も声が直接聞こえていないにも関わらず、すさまじい圧迫感を感じていた。
 ……セイリン、という名前は、正しく発音すれば『青鱗』、となる。
 しかし、私が何度も青鱗、青鱗と言ったところで、こんな風にはならない。ジャッコの声だけが、奴の耳に届き、こんな音を上げる。
 普通の人間がいたら、鼓膜が破れ血が噴出しているところである。
 しばし、肌に突き刺さるような震えが収まるまで間が開く。
「……っふぅ」
 手を下ろすと、一瞬目の前が真っ暗になり、ぐらりと視界が揺れた。
 それを堪えて辺りを見回すと――祠の傍に、うずくまる半透明の女……霊体、先の声の本体だろう……がいた。
『なっ……なッ!?』
 がくがくと膝を震えさせ、透けた顔には驚愕の表情。
 私はすっと目を細めて、女を見下ろした。
「視覚、聴覚、嗅覚、触覚、味覚。
 アンタみたいな幽霊が持っているのはうち三つ……視覚と聴覚、それに触覚だ。
 触覚は朧気になっちまってるが、先の二つは、大体は生きていた頃より鋭敏になる……アンタも。
 応えたようだね。かなり」
『……だから、耳を……』
「そういうことさ。耳を塞いでも、ちょっと頭がぐらつくけどね」
 それほどの轟音に耐えられるのはこの女のような幽霊か、ジャッコ自身ぐらいだ……いや。
「……二年ぶりかい?」
 私は『ジャッコ』を振り返った。
 ジャッコの眼は、はっきりと閉じられていた。瞬きすらしなかった奴の眼が、である。先ほどは真っ暗な空間だった左の目も、瞼がきっちりと下りていた。
「『昔大蛇がいた』」
 『ジャッコ』に目を向けたまま、思わず笑みすら浮かべながら、私は言った。
「この辺りの昔からの言い伝えだ。アンタなんかよりも、ずっと昔」
『……彼の者が……』
 女の声はわずかに震えを残していたが、表情は先ほどよりは引き締まり、まともな顔になっている。
『彼の者が地を這えば溝が出来、そこに雨降れば河が出来た――』
「天下は乱れ、大蛇に成す術もなく、この世の終わりと嘆くものもいた……話は。
 男と大蛇が共に消えて終わる。何の説明もなく。ただ終わる。
 何があったのか。誰も解らないのさ。
 ……実際はこうだ。
 男は学者でも力自慢でもなかった。
 じゃあどうやって男は大蛇と『消えた』のか? 簡単……男は大蛇に、こう持ちかけたのさ。
 大蛇にも寿命があった。
 人よりははるかに長いが、死ぬことを避けることは出来ない。
 神は大蛇が死んだ後、大蛇を無力なものに変えてしまうだろう。前世での罪を清算するために。
 だから、男は――」
「自分と主従とならぬかと申された」
 ジャッコ――『青鱗』が、初めて口を開いた。ジャッコと違う声だ。低く、ゆったりとした口調。
「人間に『仕える』ということは、罪の昇華につながる。
 今まで喰らってきた人間に仕えるのだ。
 ――ただ、大蛇の姿のままではいささか都合が悪い」
「だから人間に宿ったのさ……仕える、と、己が誓った男にね」
『人間に宿っ、た……?』
 女はやっと声を絞り出した、という感じで言ってきた。私は笑みを堪えきれなかった。
「消えた大蛇の答えはそれだ。
 大蛇は人間よりも寿命がひどく長い。自分の身体を消してしまう術なんざ、簡単だった。
 男が死ぬと大蛇は男と共に何度も何度も、転生を繰り返した。それが今は――アタシだ」
『その男――じゃ、ないのか?』
 怪訝そうにいってくる女に、私は首を横に振った。
「ジャッコの目は、両親に抉られたんだ。
 この目は、不気味だって言って。……勝手な話だろ?
 だからさ、アタシはジャッコに抉られた目の代わりをあげたんだよ。
 ……お話はこれぐらいでいいだろう?」
 私はすたすたと女の方に無造作に近づいていった。先ほどあった壁の阻みも、今はない。いや、実際には、やっているのかもしれないが、それをしても青鱗が無効化してしまうのだろう。
『大蛇は人間の敵だったんだろう?
 恐れられ、憎まれ、あるいは蔑まれ……何でそれが人間を守る!?』
 震えた声。
 私は半透明の近くまで来た。
「罪は終わってないんだよ。
 記憶を残したまま転生を繰り返すって言うのは結構コレで辛くてね。
 そろそろ輪廻転生から外れたいと思っている。
 でも、まだ私たちはホントの意味じゃまだ死ねない。罪が残ってるからね。
 アタシも、青鱗も、だから人を助ける」
『死ぬために……?』
「アンタみたいに現世にしがみついてるようなのには解らないだろうけどね。
 ……さァ、終わりだ」
 私は今一度、刀を抜いた。
 女は、長い物語を読み終えた後のような、何ともいえない顔をしていた。
『……あたしは……暗闇の中にいた。何年も。何年も。
 その苦しみはあたしだけのもんだ……そうだろ?』
「アタシたちには解らない……ね」
 私は言いながら、刀を振り上げた。
『あたしはアンタらみたいに悟りたいとは思わない……
 あたしは……』
 振り下ろす。


 音もなく、女はあっさりと二つに分かたれた。


 キンッ。
 森の中。祠の周りには少しだけ石畳が敷かれていた。
 そこに刀が当たって音を立てる。澄んだ音だ。
 澄んだ音――終わりだ。
「喋りすぎだな。主」
「……暇なのさ。つい饒舌になっちまう。嫌なことだ」
 青鱗の言葉にフン、と鼻を鳴らして私は答えた。
「――それよりアンタ、さっさとジャッコに戻りな。
 まさかそのまま村に戻るわけにも行かないだろ?」
「主。……それと」
「何だい?」
「訂正しなかったのだな。
 男ではなく、女だったと」
 ……そんなことか。確かに、転生で性別が変わるというのは全くといっていいほどない。私も例外ではない。
「面倒くさいだろう? いちいち訂正するのは」
「――我々は悟ってはいない」
「あぁ、アタシたちは悟っちゃいない。馬鹿のまんまだ……何年経っても、ね」
「……」
 青鱗はわずかに微笑んだように見えた。が、次の瞬間、ゆっくりと、閉じられたままだった目を開く。
「――蛇ッ子」
 呼びかけると、びく、とジャッコの首が仰け反り……首を振ってまた前を向けば、瞬きのしない右目だけが覗いていた。
「婆ァ……変な顔してるな」
「起きて第一声がそれかい」
「……喰い損ねた」
「草でも食ってな」
「腹減った」
「うるさい」
 私はジャッコに、鞘に収めた刀を投げて渡した。それを受け取って、ジャッコは眉をひそめた。
「……セイリン、何か嬉しそうだ」
「そうかい」
「喜ぶようなことあったのか?」
「さぁね」
 言って、私はジャッコから離れるように――要するに、ちゃんと道がある方へ歩き始めた。
「婆ァ」
「置いてくよ。来な」
「――青鱗は俺が解るのに、俺は青鱗が出てるときは解らない。不公平だな」
「馬鹿言ってんじゃないよ。行くよ」
 ……ため息をつきながら、私は歩く速度を上げた。


 昔大蛇がいた。
 彼の者が地を這えば溝が出来、そこに雨降れば河が出来た。
 天下は乱れ、大蛇に成す術もなく、世の終わりと嘆くものもいた。
 ――さて。
 男がいた。
 何の変哲もない男で、力に優れてもいなかったし、また頭の良いわけでもでもなかった。
 だが男は大蛇を倒した。
 男と大蛇は共に消えてなくなった。
 世の乱れは治まり、平安を取り戻した――




 ……昔から伝わる、何の変哲もない話である。
 話ではあるのだが。




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