……誰に愛されようと、憎まれようと、蔑まれようと、尊ばれようと、好かれようと、嫌われようと。
    俺は結局は俺であるしかないのだ。
    俺はただ、その事実だけを誇りに思う。









パスピエ(前進する足)








 その剣士はたった一人で俺に会いにきた、身体から血を滴らせ、足を引きずり、血を吐いて。俺のところに、たった一人で。
 奇妙な男だった。亜麻色の髪を三つ編みにして、赤く染まった服を纏い、黒い右目と土色の左目。女のような細い身体をして、だがどんな剣士も敵わないだろうと言う鬼気を持つ男。
 ――ここに俺以外の誰かが来るなんて、初めてのことじゃないだろうか。
 俺は剣士を見つめ、ぼんやりとそう考えた。
 ここがいつからあるのか、俺は知らない。気づいた時には俺はこの、大地に開いた巨大な亀裂の底に転がっていて、抜け出すこともできず、助けを呼ぶこともできず、ずっとそこに転がっていた。見えるものと言えば俺を挟む崖と、上に見える空ぐらい。それが俺の世界の全てで、だけれども俺はそれを超える知識を持っていた。
 記憶は、なかった。だが、知識はあった。
 俺のいるこの亀裂の底以外に世界があることも、外には俺以外の存在があることも。
 だが、俺が人間に出会うのは初めてだった。俺はその日も常と同じようにして岩壁に寄りかかって足を投げ出し、ぼうっとして空を見ていた。
「……お前か」
 剣士は憎しみの籠もった目で俺を見た。俺は何故剣士がそんな顔をしているのか解らず、目を細めて剣士を見る。
 剣士はどうやら、岩壁を掴み下って来たようだった――随分向こうのことだったから気がつかなかったが、剣士の通ってきた道には血の筋ができていた。
 恐らく全て剣士の血ではない。どれほどの血を被ってきたのか。どれだけのものを屠ってきたのか、俺には想像もつかなかった。
「……お前だな」
 何のことだ。
 問おうとして、声が出ないことに気づいた。――今まで――俺は、声を出したことがあっただろうか。なかったように思える。随分長い時間ここにいたから、全く必要がなかったものだ。
 俺の目の前まで足を引きずりながら歩いてきて、咳き込み、立ち止まる。歯を食い縛り、彼はこちらに剣を差し出した。右手に持つ一振り、無骨な片刃の大剣。
「言え」
 血を吐くような声だった。刃先から血が滴り、俺の肩に落ちる。赤い水滴が俺の肩に落ち、滑り落ちて行った。刃先に震えはない。俺の首などこの剣士はあっさり刎ね飛ばしてしまえるだろう。何より強く、何よりつよく。男は、そう言う、剣士なのだから。
「言え、――僕の、過去を言え」
 男の言葉に身体が震えた。何だこれは、そう思う暇もなく。
 口は勝手に動き出していた。
 声が吐き出される。
 凄い勢いだった。自分で自分の声を聞く。何を――言っているのか、俺は。何だ、これは。
 俺の言葉は長く、しばらく続いた。一人の人間の話だった。生まれて、少年になって、青年になって――そして、剣士になって世界に蔓延る魔物を屠る男の話だ。剣士の先の言葉を考えれば、これは彼の今までの半生だったのだろう。家族を失い、自分を助けてくれた男を殺し、助けを求めた魔物の少年を殺し、右目を失い……失って、失って。それでも彼は殺すことをやめないのだ。憎しみか使命感か怒りか悲しみか、――虚無か、剣士が魔物を殺す時に抱く感情は様々だった。
「ふと、話を耳にした」
 流れるようだった俺の言葉は、一瞬だけ引っかかった。俺の意思だ。剣士が眉をひそめる。
 俺はいつしか俺の記憶の噴出すままに話していた――口か勝手に話すのではなく、俺が、話していた。
「西の亀裂の話だ。世界に蔓延する魔物は、そこから、現れていると」
 そしてまたある時、彼は別の話を聞いた。人間からではない、人語を解す魔物がいた。亀裂の底には子供がいる。髪はブロンドで肌は草色をしている、魔物の子供だ。魔物が生まれるずっと前から亀裂にいて、その名前を――
「……と言う。その子供は、全てを識る子供だ。この世界の記録を求めれば、何でも答えてくれるだろう。
 そう言った魔物も、殺した。一太刀で首を刎ねた。腹の底から湧き出る飢えと乾きに苦しまないようにと、そう思って」
 剣士は小さく笑ったようだった。切っ先がわずかに震え、首に刃が触れる。触れただけでは切れない。ただ冷たい鋼と血が、俺を舐めた。
「亀裂に、近づくにつれて人の村も消えていき、逆に魔物が増えていった。目に付く魔物を全て切り刻み、自分も魔物の爪に内臓をかき回され、それでも立ち止まらずに――」
「……もういい。黙れ、――」
 剣士が小さく呟いた途端に、俺は口を噤んだ。切っ先が俺の喉元に移動する。剣士の口元には、笑みが浮かんでいた。
「お前を探していたんだ。僕は!」
 言葉に俺の心に喜びと悲しみが同時に浮かび、泡沫のように消えた。
 剣士が望んでいることも俺は知っている。そしてそれは、――あまりにも悲しく、烈しい、選択だ。
「言え、――魔物とは何かを」
「元は」
 求められるままに俺は言葉を紡ぐ。……剣士の家族を奪い、剣士を救った男を奪い、彼の右目を、――全てを奪って行った、そして彼に数多殺された、魔物とは何か。
「元は色々ないきものだった。人を襲うものもいたがそれは人がそれらに触れたからだ。
 そして今の魔物を作ったのも人間だ」
「まさか、」
 剣士の言葉は途中で途切れた。――俺は嘘など言わない、それも、剣士は知っている。そして俺は、剣士がそれを知っていることを識っている。
「あれは、伝染する。病のようなものだ。動物から動物へ移る。あっという間に世界に広がり、いきものたちは凶暴性を増し、人々を襲うようになった。
 最近は人にも移る。人は自我が強いから、完全に意識を乗っ取られて人を襲う状態と、人としての状態が入れ替わりに訪れる。貴方もそれを見た」
 俺の言葉に剣士は軽く身を震わせた。ブロンドに青い目の少年。魔物と変じたその少年を、彼は躊躇わず斬った。剣士の判断は正しい。魔物になってしまえば、もう元に戻す方法はないからだ。
 だが彼は少年を失った女性に、頬を打たれて動揺した。――辛かったのだ。
「――なら、これも答えられるだろうな。
 言え、――魔物を世界から根絶する方法を」
 切っ先が震える。それこそが剣士の望むものだった。剣士の言葉のままに、俺は口を開き、ただ一言。
「それは言えない」
 そう言った。
「何故だ!」
 大剣の刃先が俺の喉元を軽く突き刺した。皮膚を裂くがそれだけだ。剣士は俺を殺せない。今、考えを巡らせている。何故俺は言わないのか、どうすれば俺に方法を言わせることができるのかと。
「俺は、自分を守らなければならないから。
 これを考えれば、分かるはずだ。それを答えれば、俺は全てを教える。そうできている」
「……」
 剣士は沈黙し、剣を引く。首を軽く傷つけていた剣が離れていった。思考しながら剣士は荒げていた息を整える。鋭い目が僕を射抜き、
「……それだけか?」
 再度、俺の首に剣が向けられた。またあの片刃の大剣だ。……左手が、もう動かないのだ。血塗れで、指もいくつかなくなっている。それでも彼は剣を放していなかった。双剣使い。その強さは、痛いほどの決意は、俺にも察せない剣士の深い部分から来るものだ。
「お前を殺すだけでいいのか! お前がこの世界に魔物を溢れさせているとでもいうのか!?」
「あれは病のようなものだ。最初の保菌者に、全ての魔物は繋がっている。その繋がりが薄かろうが、濃かろうが関係ない。最初の保菌者を殺せば全てが終わる。この世界上にいる全ての魔物は死滅する。
 問題はそれができるかどうかだ。元はただの生き物や人間だったものを全て殺せるのか――」
「……もういい」
 剣士は首を横に振った。
 俺は言葉を切り――少しだけ笑みを浮かべた。
「最後だ。言え……」
 薄笑いを浮かべる俺の、その引き攣れた頬に刃を当てるようにしながら、剣士は高圧的に言い放つ。俺を、どこかで恐れているところもあるのだろう。この男はそう言う臆病者の一面も持ち合わせている。自分をどこかで弱者だと思っているのだ。
「僕は何故ここに来れた。何故、僕が、僕だけがここに来れた」
「……」
 成る程、この男は確かに最強だ。
 世界中のどんなものも剣を持つ剣士に敵わない。剣士と切り結べば剣が折れる。その剣から逃れることはできない。どんなものも、彼には無力だ。
 だが、いや、それだからこそ、彼は恐れる。周りのものが彼を恐れるのと同じぐらい、剣士は周りと自分を恐れている。
「……言え」
 俺は沈黙したままだ。剣士は下唇を噛み、食い破って血を顎から滴らせる。魔物の血と混じり、ぱたり、と血は地面に落ちた。剣士の目は恐れている。俺も、答えを聞くことも。だが、
言え! ……どうして、僕が最強足り得るのか!」
 ある男が剣士をそう呼んだことがあった。魔物になった人間だ。人間である時に剣士に斬られた。剣士に西の亀裂ここのことを教え、俺のことを教え、そして剣士を最強だと呼んだ男だ。
「言えって……言っているだろう!」
「言葉の威圧も剣の威圧も無駄だと貴方は知っている。もはや魔物の謎も解け、俺が死を怖がらないことを知っているから」
「黙れ!」
 剣士が剣を振り上げ、切っ先が俺の顎と鼻先を掠めて血が噴き出した。ぴりっと言う痛みが走る。
 そのまま、剣士は剣を振り下ろした。俺の脳天に向かって。
 剣士が本気であれば、俺は真っ二つに割かれてしまうだろう。
 俺は、真っ直ぐ剣士を見ていた。




「……貴方は事実を聞くのを怖れている。聞けなければそれでいいと思っている」
 剣士の斬撃は、俺の髪の毛を数本斬り舞い上がらせたにとどまっていた。寸止めだ。彼の剣は俺の頭皮をかすかにも裂いていない。
 彼は俺を殺すわけにはいかないのだ。何故なら、
「僕は、聞かなければならないんだ」
 剣士の顔は、力強い声音とは裏腹に、迷子になった子供のような――目が潤んでいる。息がつっかえるように、彼は躊躇いがちに息を吐き出していた。しゃくり上げる音がする。
「僕は聞かなくちゃならないんだ! それが、僕の、――」
 言葉が詰まる。俺は剣士を見つめた。最強たる剣士が、子供のように掠れた泣き声を漏らす。彼は今まで、この恐怖のためにここまでやってきたのだ。
 ――こんなに意識がはっきりするのは久しぶりだった。いや、初めてかも知れなかった。
 剣士が俺を訪ねてくることはもうずっと昔から決まっていたのだ。俺は剣士を待っていた。そうだ――俺は、彼を待っていた。
「貴方は既に勘付いている。貴方は他の人とは違う、まともではないと」
「……」
「そしてそれがどこから来る感覚なのか、貴方は考えている。それはいつからか。貴方が貴方以外のものと決定的に違うものになってしまった日」
「……」
「貴方は、俺たちだ」
 剣士は沈黙したままだ。
 俺は続けた。
「貴方にも移っていた。貴方は今まで自分を殺していたも同じだった。いや貴方は自分の病巣を、自分で少しずつ切り取っていっていた。そしてついには俺に辿り着いた」
「……」
 剣士は。
 剣士の眦から、つと頬を涙が伝った。血に汚れた頬の上に透明な涙で筋ができる。口元は笑っていた。笑い声が今にも唇から漏れ出そうな微笑みだ。
「ああ」
 と、一言だけ剣士は呟いた。
「――僕は、魔物か」
 あっさりと彼は言い、だらりと腕を垂れ下がらせる。一転して表情が消えさった顔に次から次に涙が伝った。
「成る程、確かにそれなら全部得心が行く。あの少年が僕を探していたのも、あの男が僕を最強と呼んだのも。
 あの子は僕に殺されるために僕を探していたのか、それとも僕が魔物をもとに戻す術を知っていると思ったのか。あの男が僕を最強だと呼んだのは、何も僕が人間として最も強いと言う意味じゃなくて、僕が」
「魔物を全て消してくれるものだからそう言った」
「だからさっきお前はああ言ったのか。
 問題は僕がそれをできるかどうかだと……
 お前を殺せば僕も死ぬんだな? そうなんだな、――」
 俺は答えなかった。
「答えろ」
「貴方は既に分かっている。敢えて言うこともない」
「そうか」
 剣士は言って、大きく息を吐く。口元に笑みが浮かんでいた。剣はもはや俺に向けていない。だが、彼は。
「それならもう、躊躇うこともないなあ……」
 晴れやかな笑みとは逆に言葉は悲しげで。
 風が吹いた気がした。
 俺は空を見上げた。ぽっかりと、平坦な海のように青い空が、雲ひとつない青い空が、俺のことを見ていた。
 ――ああ、俺は、この剣士に殺されるんだ。何て――
 何て俺は幸せなんだろう。そう思った。
 ずっと一人だった俺が、最初で最後に出会った人が、この人だったことを、俺はきっと誇れる、だろう――








「……ぶはっ」
 崖をよじ登り、ようやっと頂上まで到達して、僕は大きく息を吐いた。崖下を見下ろすと、底が見えない。思わず顔をしかめて、僕は地面に身体を持ち上げる。
 荒く息を突きながら、僕は地面に四つんばいになった。がちゃがちゃと腰の剣が音を立てる。――全く。
 ……あの少年を殺してから九時間と言うところだろうか。
 僕の目の前で少年は砂の山となり、それと同時に僕は意識を失った。
 死んだ、と思った。
 だが、どう言うわけか生きている。
 頬に触れると、渇いた血がぼろぼろと剥がれ落ちた。
 僕は立ち上がり、辺りを見回す。
 砂交じりの風が強く吹いた。
「……本当に何もなくなってる」
 地平線からこちらまで、大地を埋め尽くさんばかりだった魔物の群れが全て消え失せていた。それどころか、僕が殺した魔物の屍骸すら全て。
 ――嘘のようだ。
 上を見上げると、晴れやかな空が広がっていた。蒼過ぎる目に痛い空だった。
 僕は。
 僕は剣を握った。右手で片刃の大剣を、左手で細身の剣を。
 ……死にたいって言う奴は馬鹿で。
 ……それを受けて、死なせてやる奴は大馬鹿だ。
 僕はもう三度、死にたいと言った人を殺した。
 一人目は僕の命を助けてくれた、この大剣の持ち主で。
 二人目は、僕のことを最強と呼んだ、魔物の男だった。
 そして三人目は――
 僕は。
「……」
 僕は、あの瞬間死ぬつもりだったのか。
 少年を見、その目を見つめて、この少年は死を厭わないことを知って、そして僕に殺されることを望んでもいた。……そう見えた。僕は、彼もろとも死ぬ気だったのか。
 それだったら僕は死にたがる馬鹿で。
 同時に、死なせてやる馬鹿でもあった。
「何だか」
 僕は、笑った。
「ずいぶんうまく行かないみたいですよ、僕は。――」
 言ってから、あの人の名を呼ぶ。蒼穹が。
 僕は剣を抜き払った。左手に痛みが走り、僕は剣を取り落として地面に膝を突き、馬鹿みたいな蒼穹を見上げて笑い出した。




 魔物がいなくなったと言う話を、私は家で聞いた。
 村長むらおさが村の外に出て、自分で確かめてきたのだと言う。
「これからは、もう魔物に怯えなくたっていいんだ」
 歓声が村中に満ちて、私もそれはとても嬉しくて、だけれど――私は、
 何故か唐突に、あの剣士のことを思い出した。亜麻色の髪に、二振りの剣を持った、腹の立つほどに綺麗なあの剣士の姿だ。
 あの剣士こそが、世界から魔物を一掃したのだと言う話を聞いたのは、それから数日経ってからの話だった。
 ――矢張り、と私は思ったが、口には出さなかった。
 あの剣士。
 あの剣士は、きっと自分なりに全てを終わらせたのだろう。
 救いはないと、死ぬことだけが――彼にとっての救いだったと冷たく切り捨てたあの剣士は、何よりも強い剣を振るいながら、何よりも劣るような弱者のように振る舞っていたあの男は。
 ……私はどうだろう。
 あの男のように強く、強く、世界を救うことなどできはしないけれど。
 私はどうだろう、自分なりに、――男を責めるだけでなく、私だけができる方法で、彼に、手向けができるだろうか。
 思いながら、私は空を見上げた。
 その日も、ひどく風の強い、ふざけたような青い空が、私の上に広がっていた。










 ――このことを境に、あっという間に世界がよくなったかと言うとそうでもない。
 魔物がいなくなったら、人同士の争いが激しくなるだけだ。戦争が起こることもあった。剣士の向ける切っ先が、魔物から人へ変わって行った。行商を魔物の代わりに盗賊が襲うようになった。魔物がいなくなる前と後と、どれほどの違いがあったのかは当時の人たちにしかきっと分からなかっただろう。
 だが、剣聖は人の口を以って英雄と称された。それだけは事実である。










 ……誰に愛されようと、憎まれようと、蔑まれようと、尊ばれようと、好かれようと、嫌われようと。
    僕は結局は僕であるしかないのだ。
    僕はただ、その事実だけを誇りに思う。
    ――ああ、僕たちは、前に進むだけだ。僕たちは。













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 2004年10月18日。初めは同じベルガマスク組曲から「月の光」を使うつもりだったのですが、どうも合わないので、これだけやたら明るい選曲に。ゲーム音楽っぽい感じで好みです(ドラクエフィールド曲の元ネタみたいです)
 わけが判らない話です。自己完結小説みたいな感じに仕上がってますが、話の中に出てきた剣聖が右目を失うだの魔物の男だのと言う話はまた別の時に書こうと思います。これでこのシリーズは一応終わりです。何か一番初めの話と見比べると文体が変わりすぎてて笑いが止まらないですよ。
 ちなみに少年の名前は「知っているベルゼブブ」でクリアーベルとか考えてましたが、名前を呼ぶのは何だか合わない気がしたので名前は全部消えています。
 そんなわけで、ここまで読んでくださった方有難うございました。

 ベルガマスク組曲 …パスピエ