……








茂る荒れ地








 いつ頃からかこの世界には人間か魔物かのどちらかしか動物が存在しなくなってしまった。
 人間に人種があるように、魔物にも多種多様な種類があるのだけれども、大雑把に分けるならそうなる。犬だの猫だの、象や馬だのと言った生物は本の中だけの存在であり、実物は数百年以上前に姿を消した。
 魔物がいつ現れたのか、正確な記録は残っていない。いつの間にか現れたそれらは群れを成し街を襲い人間を襲い、あっと言う間に人口を激減させた。魔物が捕食するのは主に人間だけだが、厄介なことに腹が満たされても、魔物は戯れに人間を殺す。明確な、悪意のような攻撃性が魔物には備わっていた。そうして、魔物は殖えていった。
 彼のような剣士は本来、人々を魔物から守ることを生業とする。
 つまり、襲ってくる魔物の防波堤である。行商の付き添いもすれば、村や街に居ついて魔物を撃退するものもいる つまり、襲ってくる魔物の防波堤である。行商の付き添いもすれば、村や街に居ついて魔物を撃退するものもいる。基本的に金のためだから彼らは積極的に魔物を殲滅することはしない。受身である。
 だが、彼や、一部の剣士たちは、危険を顧みず街を渡り歩き、魔物を殺すために魔物を殺す。「巣」を見つければその巣を潰す。依頼を受けることもあるが、守る対象が重荷となるので護衛は引き受けない。彼らが見つける依頼人は、魔物が憎くて堪らないしかし魔物を殺す術を持たない、無力な、ただ沸々と煮立つ泥のような人間たち――力があるかないかだけで彼らと全く同種の人間たちだった。
 彼らの動機は解りやすい。復讐である。
 目の前で両親や妻や夫、恋人や子供や親友を貪り食われたものたち。身を焦がすような恨みと怒りで以って魔物を戮すものたちだ。失った悲しみを血で塗りつぶすことで自らを慰めようとする人々。無意味と言う言葉こそ、無意味だった。彼ら自身が、最もよくそれを知っていたから。
「一人旅かい?」
 道中そう声を掛けてきた男の場合、失ったのは妻と一人娘だった。無気力な笑みと疎らな髭が記憶に残る、縮れた黒髪の男だった。腰に剣を一本、ぶら下げていた。
「俺も一人旅なんだ。数年ぐらいこれで食ってる」
 言って、男は腰に下げた剣の鍔を軽く叩いた。草臥れたその男に似合いの古ぼけた剣で、灰青の鞘には、所々傷や血の黒い染みが付いていた。
「あんたはどうして剣士に? まだ随分若いみたいだが」
「……恩人を殺したので。その償いに」
「殺した?――そうか、そいつは辛かったな」
 彼の短い答えを男は誤解しなかった。人間の死体に取り憑いて操る魔物がいることはよく知られている。死んだ仲間を操られて、それを殺し直した後に自殺した剣士もいる。
 街までの短い道の間、男は彼に様々なことを話した。彼は殆ど相槌を打っているだけだったが、おや、と思ったのは、男がずっと薄ら笑みを浮かべていることだった。初めに見たときも貼り付いたような笑いだとは思ったのだが、無気味なほど、全く男は表情を崩さないのだった。
 聞くのも不躾かと思ったし、何より億劫だったので聞かないでいたが、じっと見ていれば、男は察したらしい。額から右頬を撫でて、気になるかい、と聞いてきた。彼は小さく首を横に振り、男はその薄笑いのまま擦れた笑声を上げ、会話はそこで終わった。
 街に着いてすぐに別れたが、再会するまで時間はかからなかった。その日の夜の内に、魔物の群れが街の外壁を破って入り込んできたのだった。
 人々に避難を促し、目につく魔物を刻みながら破られた壁の方へ向かっていると、ふと、甲高い裏返った笑声が耳に入った。
 男が剣を振るっているのだった。夢に出そうな光景だった。笑い声を上げながら男が剣を振り下ろす。切り裂かれていく獣たちと、切り裂いていく獣のような男。男は彼を振り返った。表情は確かに、あの無気力な微笑のままだった。男の言ったことはまるっきり本当だった。
「やあ、こんばんは!」
 男は一言彼に向かってそう挨拶すると、すぐに走って行ってしまった。
 彼はその背を見送ると、その場で剣を横に払った。
前足が赤褐色の翼になった白い犬が、首を刎ねられ二つになって壁に叩きつけられた。




 掃討は朝までかからなかったが、滞在していた剣士の大半は幾ばくかの謝礼を貰い、朝まで壁の修繕を横目に見張りに立っていた。魔物が夜に襲って来やすいと言うのは全くの迷信なのだが(魔物によってはむしろ日中の方が活発なものもいた)朝までと限って謝礼まで貰えるのであれば断る剣士もいなかった。
 昼になると、壁の修復は半ばまで終わっていた。
 彼はそれを見上げてから、傍らに立つ男の方を見た。朝になり、大体の剣士が宿に戻ったが、彼と、男と、数人の剣士はまだ壁の前に立っていた。追加の報酬を期待しているわけではない。彼らが期待しているのは魔物の襲来だった。警戒ではなく、期待だった。
「――なあ、いつまでこんなことが続くのかな」
 ふと思いついたように、男は口を開いた。疲れたような呟きだったが、顔は例の笑みを浮かべたままだった。剣を抱え、少し眠そうでもある。
「僕らか奴らがいなくなるまで、でしょう」
 彼は迷わずそう言って、空を見上げた。原色の青空に目の奥が痛む。瞼の上から軽く目を揉むと、彼は息を吐いた。眠気はあったが眠る気にはなれなかった。
「そんなことが本当に有り得ると思うか? 俺が生まれる前から、奴らはこの世界で幅を利かせてる」
「それとこれとは関係が無い。僕らは奴らを殺し尽くすためにいる。僕らが負った役目です。
 役目は、果たさなくちゃ」
 当たり前のことを言うように、彼は言った。心底からの言葉だった。例え無限に魔物が存在しているとしても、いつかは駆逐できる。そう言う、確信めいた自信が彼の中にあった。妄想とは思わなかった。
 男は沈黙し、彼をまじまじと見た。
「何ですか?」
「あんた――、子供を殺したことがないか? 金髪に蒼い目の、これぐらいの餓鬼だ」
 男は自分の胸の辺りに手をやって、そう問いかけてきた。
「……ありますよ」
 少しの沈黙を置いて彼は頷いた。眉を寄せて男を睨み付ける。男はそれを笑顔で見返し、
「助けを求めていたろう? あんたに」
「――何故、そんなことを知っているんです」
 答えは剣の一閃だった。
 唐突な行動に防ぐ間もなく、彼が身を引き、痛みを感じる前に剣を抜いた時には、右目を鋼が舐めるように、掻き回していった。世界が一瞬色を失ったような怖気。熱くなったような寒くなったような身体にお構いなく、汗は流れていく。
お前だったか最強。身を食む闇を斬り続ける暴虐の王が」
 男は笑っていた。
 無気力な笑みだった。初めに会った時と全く同じの。今まで見せていた笑みと何もかもが変わらない。
「な、にを……」
 彼は呟きながら、剣を抜き払った。が、それを振り抜いていいものか、迷う。男は握る剣の切っ先をこちらに向けたままだっが、構えと呼べるものではない。男の首を刎ねるのは容易い。しかし――
 白銀の刀身をゆるりと血が流れ落ちていく。
 それを見ながら、彼は剣を……両手に握る剣の一本だけを鞘に収め、剣で抉られた目に掌を押し付けた。革の手袋のひやりとした表面が体液に這われ温められていく。頭を貫くような痛みと全身を駆け抜ける怖気を全て無視し、困惑の目で男を見た。
「大陸の西、大地に走る深い溝の底に草色の肌の餓鬼がいる」
 彼の視線も呟きも意に介さず、淡々と男は続けて剣を収めた。口元には相変わらず笑みが浮かび、眼差しだけは暗い。
「その名を知っているベルゼブブクリアーベルと言う。世界の全てを識っている、とされる魔物の餓鬼だ、時視ときみとも言うらしいが、それの変異種とでも言うか……」
「――何の話をしている?」
「つまりだ、そいつに聞けば魔物を全部滅ぼす方法が解るかも知れないってことだ。ただし、前にも聞いたことがあるだろうが、西の亀裂は魔物が続々生み出されて来る場所――俺たちの故郷で病巣みたいな場所だから、行くまではきっと難儀するだろうが、お前なら行ける」
「……」
 彼はもう問わなかった。男の薄笑いはそのままに、両の目から滂沱と涙が流れ出ているのが見えていた。男の肌に血管がびしびしと音を立てそうな勢いで浮き上がり、肌を突き破って鋭い骨――角のようなものがいくつも現れ出す。瞳は赤く窄まり、縮れた黒髪は抜け落ち始めていた。
 男はどさりと尻餅を突き、唇を動かした。声にはならない。彼はそれを見つめ、沈黙したまま辺りを見回した。
 残っていた剣士たちはいつの間にか男の包囲を終えていたが、攻撃するのに躊躇いはあるようで彼に問うような視線を向けている。
 高い壁の上で修復作業をしていた街の人間は幸いことに気付いていないようだった。何事も無いように壁の修復を続けている。
 彼は首を振って、男に目を戻した。
「……あの子供と言い、貴方と言い、人真似をする魔物は僕に助けを求めたり助言をしたり――人に与するようなことばかりをする。……
 どうして嘘を付いた。同類と示せば、近づきやすいとでも思ったのか?」
「嘘は付いていない……俺は、妻と一人娘を……魔物に殺された……人間、だった……」
 俯いて、男は彼の問いに答える。
 不明瞭な、何か口に含んで話しているような呟きだった。ぼろぼろと、男の口から血の付着した黄色いものがこぼれ落ちる。――歯だった。
「俺たちは……繋がっているから、お前のことも、あの餓鬼を、沢山の俺たちを、通じて、知った。――いいか、西の亀裂だ。クリアーベルはお前を待っている。お前だけがそこに辿り着ける。何故ならお前は、」
 言葉は途中で唸り声に変わった。口から鋭い牙が毀れ出していた。赤く充血した目の中に更に紅い目があった。唸りは咆哮に変わり、鼓膜を震わせる叫び声はびりびりと空気すらも震わせる。めきめきと音を立てながら、男は既に異形の骨格を整え始めていた。
 そっと、彼は男の首に剣先を押し当てた。表情も変えず、自然な動作だった。男の目が彼を見上げる。もう男は笑ってはいなかった。人間の浮かべる表情ではなかった。
 沈黙したまま、彼は剣を横に払った。
 大した抵抗もなく、男の首が鮮やかに飛んだ。
「……またか」
 彼は小さく呟き、剣を下ろす。
 地に落ちて転がった男の首は全く人間のものだった。生前のまま、口元には薄笑みを浮かべて、瞳だけが緩く閉じられていた。安らかな死に顔と言えばそうだが、……首を刎ねられて安らかも何もあったものではないか、と。
 ごとりと倒れた男の身体から、首を切られた断面から、泉のようにどっと血が溢れ出す。男を取り囲んでいた剣士たちが驚いたように下がり、人間の死体を不思議そうな顔でまじまじと見下ろした。
「僕だって知らない……だが、今のは幻だったか?」
 問われる前に答えて彼は地面に残っていた男の歯を軽く蹴った。音も立てずに草の上を歯が転げる。
 そのまま踵を返しかけて、不意に彼は足を止めて上を見上げた。咆哮を聞き咎めた修復中の街の人間が、怪訝な顔でこちらを見下ろしていた。
 彼は何も言わず、思い出したように痛み出した右目を押さえ、そのまま宿へ足を向けた。







 ……僕にどうしろと言うのだ?








 いつ書いたか覚えてないけど書いたことは覚えてる。もう少し違う話だった気がするけど。番外編と言うか何と言うか。この後、この男、右目だけ義眼になります。
 しかしこんなほのぼのした情景の曲にこんな話を書くとか、原曲陵辱にも程がある。

 …前奏曲集第2巻より「ヒースの茂る荒れ地」

(2006年3月15日)




TOP