……その男は、軽く笑ったようだった。吐息と共にふと漏れ出た声が、驚くほどに私の癇に障った。
見たところ、力無く垂れた両腕は、もう使い物にはならないだろう。指はあらかた、吹き飛ばされるか骨が折れ、左腕など半ばからないし――そもそも、どちらの腕とも肩口から、骨が砕けて落ちかかっている。
左半身は血に染まっていた。両足共に、足の形を成していない。叩き込まれた銃弾の威力を十分に物語る惨状だった。
全身が血塗れで、ぼこぼこに穴が空いていて、そこから血が絶え間なく噴き出していると言う有様だった。男が、未だ声を発することのできる状態だったのは奇跡と言える。
空には日が照り、夏日と言ってもよかったが、男の身体は震えていた。全く、血が足りていないのだ。顔色は白いを通り越し土気色をしていて、その上から赤い血が糊塗されている。
実に、無様だ。
しかしそれでも、銃口を向けられ、私は引鉄を引くのにもう躊躇いは無かったと言うのに、男は――それでも笑っていた。
私にとって、それは不気味な事実だった。
男は、泣き喚き命乞いをして然るべきだった。多くの罪のない人間を殺してきたこの男は、惨めな死を与えられるべきだった。……そして、それを私によって与えられつつある。
だが男は笑っていた。笑えるはずがない。そもそも痛みで表情を作るどころではないはずだ。痛みを通り越していると言うなら別だけれど。男が死につつあると言うなら。私の望みどおりに男が死ぬなら。
「……何年」
男はかすれた声で言葉を発する。私はそれを無視して銃弾を叩き込んでしまってもよかった。だが、此処に至って私は金縛りにあったように動けない。それでも引鉄は引ける――引く、と思った。こんな男の末期の言葉など聞きたくはない。だが、私は引鉄すらも引けなかった。男は壁にもたれかかり流れる血を押さえることもなく、私に構わず言葉を発する。
「私は……こんなにも命を長引かせて、こんなにも多くの人を……殺めて」
それは悔悟の言葉にも聞こえたが、男は相変わらず笑っていた。或いはそう見えただけで、単に顔が引き攣っているだけなのかも知れなかった。辛うじて動く右の手の、折れた指先をじっと見つめている。目の前に銃口があることなど気にもしていないようだった。男の見ているものはさらに恐らくは指先でもないはずだった。或いは転がる屍か、或いは殺してきた時間そのものか。何を思い返しているのか俯きがちの顔からは読めなかった。
「死ぬのはいつだって私で良かったはずなのに……いつだって……だが、これでようやく」
私が撃たなくても緩慢に失血死しつつあるのだろう。私は何故かそれを察した途端に焦燥に駆られる。私はこの男を殺すために此処に居る。そしてその目標は半ば達成されたのだ。何を焦ることがあるのか。自問して、私は歯噛みする。
……解っている。
この男はただの、死にたがりだ。
この男の死を以って、この男の罪を償わせることはできないのだ。
「……これでようやく死ねる」
「ふざけるな! なら、どうしてもっと早く死ななかった!?」
溜息を付くように男が言い切ったその瞬間、私は頭がかっと熱くなるのを感じ、絶叫していた。
「どうして無駄に生き長らえ、人を殺し続けたのだ! 貴様の、貴様らの、くだらない理想とやらに、多くの人が犠牲になった! 貴様に死によっての許しなど与えられるものか! 死によって楽になるものか! そうだ、死んだ後も罰を与え続けられるに決まってる……決まってる!」
指先が震える。私はがくがくと震える腕に力を篭め、自分が発した言葉によって男に止めを刺す決意を改めて確認するように叫びながら、引鉄に指をかけ、引こうとした。きっと地獄に落ちる。この男は地獄に落ちる。そのための引鉄を私が引く。そう自分に言い聞かせながら、引鉄を引こうとした。
だが、今度もそれは叶わなかった。男が顔を上げ、私と目を合わせたからだった。壮年間近の男の虚ろな瞳と目を合わせたそれだけで私は硬直していた。
空虚な目だ。
人を殺しても何とも思わない人間の目だ。
ゾッとするような暗闇だ。
……だが、それだけではない。
「理想?」
その問いには、嘲りが篭められていた。男の笑みが、力ない嘲笑に塗り変わる。ただ、自嘲ではない。そして、私を嘲っているのでも、ない。
「私たちが……理想を唱えたことなど、ない。夢見た理想もない」
男は喉を震わせて笑った。視線は私にずっと向けられている。私はその目を恐ろしいと思ったが目を逸らすことはできなかった。男は私の瞳を覗き込みながら、何かが欠けた笑顔を浮かべて言葉を紡ぐ。
「そう、お嬢さん。そうなんだ。私たちが求めたのは、ずっと、初めからずっと……」
……そして私は、引鉄を引いた。
「グッバイスリープ、ストレイシープ」 雨花 http://love.meganebu.com/~dlovol/cocoon/
TOP
08/3/22 主に改行とか修正