「っだぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」
 大声で、永遠に続くとも知れぬ叫びを上げる。
 ……どさっ。
 金の髪、金の目の、やや年齢と比べて身長の低い少年、『鋼の錬金術師』エドワード=エルリックは、絶叫しながら地面に投げ飛ばされた。
「ふっふっふ。コレでこちらの十勝〇敗、だな。鋼の錬金術師。
 最初の威勢はどうした?」
 言いながら、女性がとんとん、と足踏みをしてみせる。
 クロト=クロノ。
 それが女性の名前だった。
「遠慮はいらん。さっさとかかって来い」
「ッくそっ!」
 身体の反動でとんっ、と起き上がって、エドワードがクロトを睨みつける。目のみで射殺さんばかりの気迫だ。だが、彼女はふふん、とそれを鼻で笑っただけだった。
「睨んでいる気力があるのだったら、私に一度でも勝ってみろ。ほら――」
「――!」
 いつの間にやら近寄られ、左の腕を掴まれる。エドワードは思わず目を見開いた。
 ――いつの間に。
「これで私の――十一勝目だ!」
「ッでっ!」
 くるりっと世界が反転する。後頭部から地面に落ちて、少年は悲鳴を上げた。
 ……訓練場の高い天井を数秒眺めていただろうか。
 エドワードは起き上がり、険悪な眼でクロトを睨む。
「うっ……打ち所が悪くて死んじまったらどうするんだよッ!」
「お前はそんなにヤワじゃない。
 ま……死んでしまったら、私の寝覚めが悪くなる程度だな」
「それだけかよッ!」
 軽口に、エドワードが信じられない、といった風に叫び、近くで見ていた鎧の男――アルフォンス=エルリックは、深いため息をついた。




硝子




『硝子の錬金術師』クロト=クロノ。
 体術のエキスパート。
 その二つ名の理由についてエドワードは知らないが、いかにも弱々しげな名前ではある。が、名前に騙されてはいけない。全く歯が立たない。
 単純な体術。
 自分も自信はあるつもりだったが、その自信は一瞬で打ち砕かれた。強い。あまりにも強すぎる。
 力で押すのが体術の基本でないのはわかっている。身のこなし、技術、そして力――総合的に強いものが『達人』といわれるのだ。
 そしてクロトは、間違いなしにその『達人』だった。
 対して自分は、身のこなしに関しては彼女に劣っているし、技術に関しては我流、正道を極めた上で己の戦い方を磨いてきた彼女に敵うべくもない。力は鍛えてはいるし、普通の成人男性よりは力は強い――が、その道のプロとなるとやはり負ける。相手が女性だったとしても。
 ――勝ちたい。
 エドワードは思った。そして――
『クロト=クロノ? 硝子の錬金術師のことか?』

 ……不本意ながらも、一人の人間に教えを乞うことにした。

 『焔の錬金術師』ロイ=マスタング。地位は大佐。
 クロトや自分は軍階級に属していないが、地位としては少佐相当。要するに、目上だ。
「そう、その硝子の錬金術師なんだけどさ。何か知らない?」
 黒電話を片手にエドワードは問う。
 ――あれからまた数度向かっていったものの、全て返り討ちになってしまった。
 何とかして勝ちたい。
 その思いから、最も手を借りたくない人間に手を借りることになった。それは酷く不本意である。
 マスタング大佐とは、体術の訓練では勝率は五分五分。それでも、クロトについて何か知ってるかもしれない。
 藁ならぬ、溺れるものは無能でも掴む。
『――貸し一つだな。鋼の』
 しばしの電話の向こうの沈黙は、にやり、という笑みが如実に想像できるそんなセリフで破られた。
「……解ってるよ」
 少年はため息一つつき、
「それで? 何か知ってることは?
 貸しっていうんなら、それなりの情報は持ってんだろうな」
『性格は堅物極まりない。が、体術に関してはかなりの型破りだな。強いの何の。
 私も数度しか勝利を得てないよ。それも何百回と戦ってだ』
「それは知ってる。俺もさっきやってきた」
『結果は?』
「――〇勝二十三敗」
 うんざりとした声で言うと、ふふふ、という含み笑いが返ってきた。
『やはりな。彼女は強かったろう』
「対策とかない?」
『相手の動きを良く見ること。まずコレだ。
 彼女に勝ち難くなる理由の一つは、動きが見えないことだからな。彼女とは同期でね。よく手合わせをしたものだが……まぁ、これは置いておこう。
 ――それと投げ技。鋼の、君は軽いからぽいぽい投げられただろう? 怒るなよ。そう、察しのとおり、彼女は投げ技が得意だ。組み合ったら男でも勝ち目はない。
 ま、あの傷の男スカーとかだというなら話は別だが。あの男は組み手になったら投げるより砕くからね。
 そして――もっとも重要な点だが。
 彼女に足技は効かないぞ』
「――何で?」
 きょとん、とした顔でエドワードが問うと、また大佐は笑った。
『ふふ。その調子じゃ数度試して痛い目を見たな。
 彼女は身のこなしがものすごく素速い。まぁそれと関係があるのかは別として、要するに足が速いということだ。かなり鍛えてある。腕の力より脚部の力が強いのは当然だが、彼女のは法外だ。足払いなんぞをかけようものなら、逆に隙をつかれてやられる。
 何せ、アカデミーの頃は鉄板をも貫通するとまで――』
 ぱっ、と受話器を奪われて、エドワードは硬直した。
 ――クロトだ。
 奪った受話器を耳にあて、こちらに笑顔で微笑みかけてくる。ただ、肉食獣のような獰猛な笑みだ。美人だが……怖い。
「マスタング。誰が鉄板を貫通するって?
 子供にほらを吹き込むと、鉄板より先に貴様の頭を砕いてやるがな」
『――おや?』
 不思議そうな声が返ってくる、が、すぐに状況を察したのだろう、三度、大佐は笑い、
『久しぶりだな堅物。物騒な冗談は嫌われるぞ。
 相変わらず格闘戦は得意のようだな。
 ――それでいて査定もきっちりこなしている。うらやむよ全く』
「大佐の地位にいる貴様に言われたくないな、マスタング。
 そっちはどうだ。相変わらずホークアイの尻に敷かれているのか」
『まぁね、ま、尻にしかれるのも男のかいしょ……
 いッ!? いたたたたたっ! 中尉それ以上は腕が折れ……』
 ……つーっつーっつーっ……
「切れた」
「ち……違ッ!?」
 肩をすくめてくるクロトに、そうじゃないだろと言う意味合いを込めて叫ぶ。
 が、彼女は聞いていないようだった。
 がしゃんと受話器を置くと、例の凶暴な笑みでこちらを見てくる。
「それで――今度は私に勝てると思うか?」
「……おう! 次は勝つッ!」
「それなら、訓練場に行こうか。マスタングの言っていたアドバイス、役に立つか試してみるといい」
 笑みをすっと消すと、彼女はくるりと身を翻した。


 訓練場。
「アル、いっちょ、合図してくれ」
「解った」
 エドワードの言葉にアルフォンス――弟は頷いて、エドワードと、向き合ったクロトとの間に立つ。
 すっとお互い息を吸い、構えを取る。
 自分がもっとも戦いやすいスタイル、無意識の下の意識――それを念頭に置きながら、体が固くならないように二度、三度跳ねた。
 クロトがそれを見てわずかに苦笑したような気がしたが、気にしないことにする。
「――じゃ、行くよ」
 アルフォンスは二人を交互に見て、手を前に出し、振り上げた。
「それじゃ、READY……」

 FIGHT!

 だんっ!
 アルフォンスの手が振り下ろされた瞬間、クロトは大きく踏み込み――大佐も言っていたように、目で追えるか追えないかのスピードで迫ってくる。今度も短期決着にするつもりだ。
(動きをよく見る……)
 エドワードは頭の中で何度も何度も反芻する。落ち着けと自分に言い聞かせながら、眼を凝らす。考えている暇も、彼女は与えてくれない。
 ――!
(ここッ!)
 迫ってくるクロトの一撃を、エドワードは一歩、横にずれるだけで避けた。同時に身体をひねって逆に一撃を見舞おうと腹に向かって左の拳を叩きつける。
「ほぅっ!」
 それを避けた彼女の顔には、驚いたような感心したような表情が浮かんでいた。吐息を吐き出しざまに走りぬけ、体勢を立て直すと、再び自分に向かって走りだす。
 が、それはすぐに消え、彼女はいっそう楽しげな表情になった。
「面白いな! 鋼の! お前はどんどん強くなる。私やマスタングも飛び越え、お前はどこに行く!?」
「自分の帰るべき場所に帰る――それだけだ」
 冷静な声音でエドワードは言った。不思議だ。落ち着いている――俺は勝てる!
「ふっ!」
 短い吐息がクロトの口からもれた。直線的な動きが、複雑に歪みはじめる――手加減されていた!
「……うぇっ!」
 服をつかまれ、少年は小さく呻いた。投げ技の達人――組み合ったら勝ち目がない!
 だんっ!
 クロトの肩を左手で殴りつけて、距離を置く。自分の得意な接近戦を、相手はより極めているのだ――やりにくいことこの上ない。
「ッぅらぁッ!」
 狂った調子を元に戻すべく、こちらから攻め込む。すかさず迎えるやや大振りなクロトの一撃をかわし、エドワードは吼えた。
「――」
 クロトは静かに笑んで中段の攻撃を打ち込む。それをしゃがんで避けると、目の前にクロトの足があった。細く、いかにもか弱げに見えるそれは、実は恐ろしいまでに鍛え上げられている肉体だ。
(足技は効かないんだったな――)
 足払いをかけようとしたところを慌てて止まり、伸び上がるようにエドワードは左の拳をクロトのあごに向かって放つ!
 がっ。
 固い感触。
(とった!?)
 思ったが、拳がぶつかったのはあごではなく、彼女の右の手の甲だった。ちっと舌打ちし、また距離をとる。
「くそ……」
 大佐は彼女から少なくとも一本は取れている。ならば俺だって勝てるはずなのに……!
「どうした。考え事か?」
「!」
 速い!
 思ったよりも近くで聞こえた声に、エドワードは慌てて後ろに跳んだ。
 足元を、彼女の足払いが行過ぎるのが解る。
「あ、危ねぇ……」
 今のを受けていたら、二十三敗が二十四敗になるところだった。

 ――いや。

 今、クロトに声をかけられていなかったら……自分は負けていた。
「手加減してんじゃねぇッ!」
「……お互い様だろう?」
 かっとなり、思わず叫ぶと、クロトは笑ったまま問うてくる。
「!?」
 見抜かれていた。
 思わず、硬直する。
 こちらの変化に気づいてだろう。彼女は続ける。
「お前は先程までの二十三回。一度も攻撃に右の手を使っていない。左足もだ。
 使えないわけではあるまい? ならばそれは私への『遠慮』だろう。
 手加減されているのならば、こちらも手加減で返すのが順当――そういうわけだ」
「なるほど――全部お見通しってワケか……」
 エドワードは笑った。右腕、左脚の機械鎧オート・メイルが、ぎし――と音を立てる。忌むべき身体。罪の証。
 だが。
 今は――『これ』の力が必要だ。
「……全力で行かせてもらうッ!」
「いい顔だ。アカデミーの時のマスタングを思い出すな」
「……マジで!?」
 深い踏み込みは同時。
 エドワードの、初めての右拳での攻撃を、クロトはタイミングをずらして左腕で受け流す。
 そのまましゃがみこみ、クロトの蹴りが足払いの要領で伸びてきた。恐ろしいまでの速さのそれを何とかかわすと、目の前に拳がある。
「をぅッ!?」
 身体をそらせ、そのまま地面に手をつくと、両足で蹴りを放ちざまに後転する。
 その隙を逃さずに再度クロトは蹴りを放ってくるが、エドワードは大きく後ろに下がってそれを避けた。
 だんっ!
「……素早いな」
「冗談じゃねぇ……」
 クロトのエドワードを試すような声とは対照的に、その試されている当人は切羽詰った声で呟いた。この女性は正真正銘の『達人』だ。こちらの攻撃を避けるのにも、攻撃の一つ一つにも危なげがなく、入り込む隙は全くといっていいほどない。
 正直言って、恐ろしい。
「仕掛けてこないのか?」
「……」
 じり、と思わず後退する。退いてはいけない。が、足が勝手に動く。
「……くっそ、一度も勝てなかったら、大佐に馬鹿にされんじゃねぇか!」
 自分を叱咤するように叫びながらエドワードは走り出した。クロトに向かって。
「心乱れていては勝てるものも勝てない」
 冷静に、クロトは呟いた。エドワードも、少し察し始めていた――これは。
 手合わせというよりは、彼女がこちらを試しているのだ。
 ……それなら!
 ――!
「何!?」
 クロトが、初めて驚いたような声を出した。
 いける!
 エドワードはクロトの服を引っつかみ、相手の左手首を掴む。
 そして。
「らぁぁぁっ!」
 雄叫びを上げながらクロトを地面に投げ飛ばした!
「――ッ!!」


 たぁんっ!


 静かな訓練場に、クロトの靴が地面についた音が響く。
 きーんっ、と耳が鳴った。
 間一髪、尻餅をつかず、彼女はきっちりと足を地面につけ、立ち上がる。そして――
「ッ……あ……」
 半瞬の静寂。
 エドワードは思わず、呆然と呟く。逆に今度は、こちらが襟首を掴まれていた。
「ぅあぁぁぁぁぁぁっ!」

 どっ!

 こちらは踏みとどまることができなかった。したたかに、地面と顔面が激突する。
「っくぁぁぁぁー……」
「こちらの二十四勝目だ。残念だったな。エドワード=エルリック」
 顔を押さえてのたうつエドワードに、彼女はにやりと笑いかけた。
 機械鎧の右腕を、降参のようにぱっと上げ、
「……完敗デス」
「いや。いいところまで行った。
 先程さっきのは……危なかったわけだし」
「けど勝てなかったろ!
 それじゃ駄目なんだよ……あーくそ!」
 エドワードは立ち上がって、ぱんぱんっ、と服についた埃を払う。
「……でも、まぁ……満足してるよ」
「そうか?」
 クロトはあいまいな笑みを浮かべた。
「一度もクロトさんには勝てなかったけどさ。満足してる。全力でやったしな」
「そういってもらえれば僥倖だ。
 お疲れ様。鋼の錬金術師」
 彼女は微笑んだまま、すたすたと訓練場の入り口まで歩いていき、
「一緒に来い、鋼の! 飲み物ぐらいはおごってやるぞ」
「マジ!? 行こうぜアル!」
「うん」
 アルフォンス――鎧の男は心なしか微笑を浮かべたような気がした。
 嬉しそうな声を上げ、兄の後についていく。
「ほらっ! 置いてくぞー!」
 はしゃいでいる兄を追いながら、此れではどっちが兄だか、と思いつつ。


 中央セントラルから遠く離れた荷車町カート・シティで、エルリック兄弟はしばし、その急ぎ足を休めていた。




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