自分の息子と言うのがよく分からなかった。
いかにも頼りなげな生き物だ。生まれてまだ三月と経っていない。体重はやっと五キロになったところか。黒い目が真っ直ぐにこっちを見ている。懐いてはいるようだった。湿っている柔らかい指が服をぎゅっと掴んで離さない。
東風は、首を傾げて乳児を見つめた。髪は薄くふわふわで、頬はふっくらとしていて林檎のように赤い。体温は高く、汗をかいているのか、着ている服が、何だか湿っている気がする。
「しかし、おかしな名前をつけたものだな」
異母姉がふと、笑みを浮かべもせず、こちらに視線を向けもせずにそう言った。彼女は東風がこの乳児につけた名前が余程気に食わなかったのか、数日ごとにポツリと、思い出したようにそう言う。
――そう言えば、彼女はこの子供の母親だったな。
ふと、東風はそんな風に思った。
親になれば、何か変わるかと思っていたが、結局何も変わらなかった。異母姉も、自分もだ。彼女は身重の時にすら常と変わらなかったし、日々重くなっていく腹を邪魔にもしなかった。その代わり、慈しみを込めてその腹を撫でたり、声をかけたこともなかったが。
それはそれでいい、と、彼は思う。もし異母姉が、そんな母親のような素振りを見せていたら、自分は発狂するか彼女を縊り殺すかしただろう。異母姉は、そうすべきではなかったし、そして実際、彼女はそうしなかった。異母弟の子供を身篭り、母親になっても、彼女は眉一つ動かさなかった。自分の知っている異母姉は、そういう存在だ。
それに、彼女は子を生んでなお、東風と同じような感情を我が子に、この今にも死にそうな他者にその命を預けなければ生きていけない弱々しい乳飲み子に抱いているはずだ。自分の子供、だと言う感覚が、よく分からないのだろう。これは確かに自分の子供だ。だが、それゆえに――抱くはずの感情を抱けない。違和感を覚える。
自分の腹を痛めた彼女で、それだ。東風の方はなおさらこの子供に、何がしかの感情を抱く気になれなかった。これが自分と異母姉の子供だとして、それが、何なのかと。
「――そんなに、変な名前かな」
抱き上げて乳児を見上げると、それは高い声を上げて笑った。口が半開きになって、その間から唾液が零れている。前掛けに染み込んでいく涎と邪気の無い笑顔を見ながら、東風は首を傾げた。
センスがくどいんだ、お前は。そう言いながらも、異母姉はこちらに視線も向けなかった。手に持った数枚の書類に一身に目を通している。何の書類だったか。――我が子を抱き直しながら、東風は俯いている異母姉の横顔を見つめた。
淡い金髪の直毛は肩にかかるほどか、鼻はすっきりとしていて、唇は厚くも薄くもないが、口付ければ柔らかく受け止めることを東風は知っている。目は切れ長で、瞳の色は紅い。色素が薄いのだ。閃光を写し取ったような鮮烈な朱――異母姉弟としては、自分たちは似た顔立ちをしている。むろん、東風の黒髪や黒い瞳は、彼女のものとはまったく異なるけれど。
それに、自分はあの父親似で、異母姉は母親似だった。異母姉の母親とは数度しか会ったことが無かったが、東風の目に焼きついた姿と今の彼女の姿はよく似ている。だが自分は、あの父親の血を色濃く受け継いで、あの父親にそっくりな顔をしている。一体自分はどこに自分の母親を置いてきてしまったのか。時々そう思う。異母姉の母の顔は異母姉の顔を通して思い出せる。だが自分の母の顔は。
一体どこに置いて来てしまったのか。思いながら、東風は我が子を見つめた。黒い目と黒い髪の毛、異母姉の色など受け継がない、自分によく似た子供。
「――こいつは、俺に似てるんだな」
「今頃気づいたのか?」
書類に集中している割には、異母姉は耳聡く東風の独り言に反応して来た。東風はちょっと顔をしかめて乳児を抱き直す。ほんの揺れすら面白く感じるらしく、子供はくすぐったそうにキャア、と笑った。
「……俺の子か」
「私の子でもあるが」
「お前に似てないじゃないか」
「似てないから親じゃないと言うのはおかしいと思うな」
「子供って言うのは、両親に半々ずつ似るものだと思っていた」
「なら、一つ賢くなった」
突き放すように言って彼女は紙を捲くった。
東風は赤ん坊を見る。笑みを浮かべ、機嫌良さそうに腕を振っている乳児。自分によく似た、子供。東風は自然に、軽く赤ん坊の頬をつねった。ふくよかな、わずかに湿り気を帯びた赤ん坊の頬に、ちょっと目立つ紅い痕が残ったが、それだけだ。自分の子供が顔を歪め目の端から涙を零して泣き出すのをぼんやりと東風は見つめた。
衝動に身を任せたわけではない。そうすべきだという気がしたのだ。憎しみを覚えたわけでも自分の子供が邪魔なわけでもない。彼はただ、躊躇いもせず子供を床に――
手が掴まれたのはその時だった。
異母姉はいつの間にかすぐ隣にいて、顔色も買えず咎めもせず何も言わずに東風から赤ん坊を取り上げた。配慮が利いているとはとても言えない動作で我が子を抱え、泣くのをなだめようともせずに元のようにソファに座り込み、書類に目を通し始める。
東風はただ、顔をしかめて異母姉を見た。
「……何だよ、東雲」
「東風が、投げようとしたからだ」
答えはシンプルだった。東風はこちらを見ない異母姉を見て、へっ、と短く笑い声を漏らす。沸き上がる笑いを抑え、抑えきれずに体を揺らす。
「――だって、俺にそっくりなんだ、それ」
東風は呟いて、右手の平で額を押さえた。髪をかき回し、身を震わせながら膝を折る。床に尻餅をついて赤ん坊の泣き声を聞きながら東風は笑っていた。
「俺にそっくりなんだ。いい生き方なんかできっこない」
「だから殺してもいいのか」
「よかないさ。でも、だってそれは――」
「子供だ」
異母姉は――東雲は、そう言って初めてこちらを向き、紙を机の上に放った。
「東風」
切れ長な紅い目が、表情を浮かべない朱い瞳が、東風を射抜くように見る。笑うのをぴたりと止めて、東風も東雲を見た。子供の泣き声ばかり部屋に響く。
「そんなに死にたいなら一人で死ね。赤ん坊を巻き込むな」
「……でも、絶対不幸になるぜ、そいつは」
呟いて、東風は立ち上がった。
東雲は俯いて、赤ん坊を抱え直した。そろそろ泣き疲れたのか、泣き声は先ほどよりは小さくなっていた。
「なるならなるで、少しはマシに育てろ。お前の子供だ」
「お前の子供でもあるだろ」
「お前に似ているんだろう」
すげなく言って東雲はこちらに赤ん坊を渡した。受け取りながら、東風は我が子を見つめる。うつらうつらとしていた乳児は、ついさっき殺されかけたことも忘れてしまったのか、眠そうな目に笑みを浮かべて、こちらにしがみついてきた。
「どうやら、私よりお前に懐いているようだしな」
「……何でだ」
「産衣を替えてやっているのもミルクをやっているのもお前だ」
言って東雲は立ち上がると、さっさと部屋の外に行ってしまった。取り残されて、東風は腕の中の赤ん坊を見た。眉を寄せて、口を噤んで、こちらの服を強く掴んでいる子供。自分の子供。自分によく似た。
東風は嘆息して、さっき自分がつねった赤ん坊の頬を撫でた。痕はもう消えていた。
「何で」
東風はもう一度呟いた。意味のあるものではなかった。
びくり、と身を震わせて、彼は男を押し退けようと、胸に手を当てて力を篭めた。だがその手を男は手首に痕が残るほど強く握り締めて押し戻す。
かり、と言う音がしたのかしていないのか、少なくともそう言う感触はした。自分の喉から血が滲む感触、それをざらざらした舌が舐め取っていく、感触。微量の血液は男の唾液と入り混じり、殊更に大きく、血を嚥下する音が聞こえた、気がした。
シャツの上を手が滑る、握り締められていた腕は赤くなっていた。上目遣いに、男がこちらを見る。黒い目があざ笑うように細められている。抵抗は無駄だと、そう言いたいのだろう。首筋に顔が埋められる。走る痛みに、唇を噛み締める。布越しに、腹を爪が、削って行く痛み。頬に触れる髪の毛からわずかに香る薬品の、匂い。ずっと前から変わらない。この男は変わろうとしない。
「……」
男が、わずかに唇を動かした。何か言ったのか、空気は吐き出されたように思ったが、声は聞こえない。
「……何、ですか」
「何でだろうな」
不思議そうな顔で、男は呟く。らしくない、ぼんやりとした表情。自然に、男の手がこちらの首に伸ばされ、指先が喉の噛み跡に触れる。恐る恐る触れてきた指は、触れた瞬間ぐっとこちらを押さえつけてきた。親指が傷口を強く拭う。
痛みに、自然顔がしかめられた。男は、さらに指に力を篭める。首を締められている、形になった。
「東風」
「呼ぶな」
無表情に言って、男は、東風は、俯いた。圧迫感、傷口に触れられている痒いような痛み。腕を振り払おうとしても、無駄だった。骨ばった腕に、信じられないような力が、篭められている。びくともしない。
「……ふ、ッ……」
口から息が漏れ出、視界がぼやける。
痛い。
苦しい。
頬を涙が伝っていくのを感じた。これ以上は、不味い。意識が揺れる。腕に力が入らない。
「何で」
涙で霞む視界の中、東風がふっと顔を上げるのが分かった。表情までは、分からない。
「何で、……」
呟く声もどこか遠い。
立っていられずに、彼は膝を折った。それを解ってか、呆気なく手が離される。そのまま床に倒れ込み、彼は激しく咳き込んだ。
「何でお前は」
今度は、はっきりと呟きが耳に届いた。目を拭い、彼は自分を見下ろしてくる男を見上げようと、身を捩る。安っぽい蛍光灯の光を遮って、立つ、男。短い黒髪、切れ長な同色の目、色のない、青白い肌。
腹に衝撃が走る。蹴飛ばされたのだと気づいた時には。彼は腹を押さえて呻いていた。何度も、何度も蹴り付けられる。ひどく無表情に、東風は彼のことを蹴り続けた。
「何で、お前は俺ばかりに似て」
吐き出される言葉の一つ一つ、感情がない。呆然とした声音。自分が何をやっているのか分かっていないようなそんな言葉の羅列が。
「……東雲に、ちっとも似なかったんだ」
それは、母の名だ。
会った記憶はない。東風の口から聞かされただけの名前だ。言葉を吐き出し、東風は彼を蹴るのをやめて、呆然と立ちすくんだ。
「何でお前はそんなに俺にそっくりなんだ。何で、何で、何で……」
繰り返される言葉の一つ一つには恐ろしいほどに色がなかった。その問いに、彼は答える術を持たない。
……ただ、母のことを全くと言っていいほど覚えていない彼にも、彼と同じぐらいの年で彼と同じように年を取ることを止めた父のことは何となく解った。
この人には、母がいなければ駄目だったのだろう。
もうこの人はどうしようもなく、手遅れになってしまっているのだろう。
意識が遠のく。
東風は彼に背を向けていた。暗くなる視界の中、東風の足音だけが大きく響いていた。
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