ロスト




 ――なにか、悪い夢を見ているのかも知れない。
 ベッドに横たわる吹雪の、きつく寄せられた眉と眦に浮かぶ涙を見て、亮は大きく溜息をついた。
 病室の照明が妙に明るく感じられ、息苦しささえ覚える。耳の痛くなるような沈黙を低い空調の音は完全に和らげてくれはしない。吹雪の寝息はどれだけ耳を澄ませようと聞こえては来ず、……あるいは死んでいるのではないか、と馬鹿げた不安を掻き立てる。
「吹雪」
 ひそやかに眠る吹雪が、消え入るような亮の呟きに応えることはない……相当、強いショックを受けて、――身体的だけではなく、精神的にも、……極度の疲労状態。医者から受けた説明は、ほとんど耳に入って来なかった。
 解るのは、自分が知り得ないところで、なにか取り返しのつかないことが起こったと言うことだけだ。
「……教えてくれ、一体、何が」
 答えるものがいないと解っていながら、それでも亮は問わずにはいられない。混乱していた。思考がまともに働かない。頭の中では同じ問いが繰り返されている。……一体、何があったんだ? 答えはない。自分の中からも。想像してみることさえ、見えてくるかも知れない(・・・・・・)ものが恐ろしく、躊躇われるのだ。
 二日前、藤原優介が消えた。
 彼の部屋は嵐が通り過ぎた後のように荒れ果て、床には妙な形の陣が刻まれ、特待生寮の地下には吹雪が倒れていた。藤原が島から出た形跡はない。だから、島のどこかにはいるのかも知れない。捜索隊も出されたが、……亮にはそれで藤原が見つかるとはとても思えなかった。
 あの部屋の惨状。目を覚まさない吹雪。……それに何より亮に衝撃を与えたのは、藤原の部屋のごみ箱に捨てられていた、夥しい数の写真だった。
 藤原は写真を撮るのが好きな男だった。彼の友人で彼に写真を撮られたことのないものはほとんどいなかったし、亮や吹雪も藤原と一緒に写真に収まったことがある。
 それが……棄てられていた。
 藤原の壁の一面を占めていた友人たちの写真が、全て剥がされてごみ箱に放り入れられていた。画病で壁に留めていたものを無理に剥がしたためか、破れていたものさえあった。藤原が何を思ってそんなことをしたのか、亮には解らない。だが、少なくとも尋常ではない。
 藤原はどこへ行ったのだろうか。
 倒れた吹雪を置いて、写真を棄てて、誰にも何も知らせずに。自分の意思でいなくなったのか、藤原もなにかに巻き込まれたのか、それすらも解らないのだ。吹雪は目覚めず、藤原も見つからないまま、時間だけが過ぎていく。自分は吹雪の傍にいて、ただ待っていることしかできない。焦燥ばかりが胸の内を占めていく。何に対しての焦りかも解らないと言うのに。
「……吹雪、頼む、教えてくれ。お前の身に藤原の身に……一体、何があったんだ」
 胸の奥底から込み上げて来るものがある。何も解らないまま、激しい感情がない交ぜになって渦を巻く。……ひどく無力だった。どうせなら、俺も巻き込んでくれればよかったものを! 共にいなくなっていただけだったとしても、今よりはマシだった。今よりは……
「吹雪っ」
 眠る吹雪の肩を掴み、亮は声を荒げる。
 吹雪は目を閉じたまま、何の反応も返しては来ない。
「……頼む」
 声が震えた。吹雪の閉じられたままの目から涙が零れ落ちていく。亮は奥歯を噛み締め、目をつぶって吹雪の胸に顔を押し付けた。
「…………頼むから」
「……う」
 と。
 かすかなうめき声。
 亮は咄嗟に顔を上げる。
「――ふぶ、き」
 名を呼ぼうとし、喉元で声がつっかえた。……吹雪の目が開いていた。
「吹雪」
 どこか虚ろではあるが、確かにこちらを見ている。
「お前、目が」
 覚めたのか――と言う言葉を呑み込んで、亮は慌てて病室の中を見回した。もう深夜と言ってもいい時間帯だ。だが、詰めている医師や看護士は病院内にいる。早く誰か呼んでこなければならない。
「――、」
 が、病室を出ようと踵を返した亮の腕を、吹雪が掴む。二日も意識を失っていたとは思えない存外な力に、亮はぎょっとして振り返った。
「吹雪?」
 名を呼ぶ。薄く開いた吹雪の目からは涙が溢れている。
「……ふじわら……」
「!」
 震える唇が紡ぎ出した小さな声に、亮は目を見開いた。
「藤原、行くな……」
「……」
「行かないでくれ、どうして……」
 溢れ出した涙が後から後から吹雪の頬を伝って行く。亮は唇を引き結び、虚ろな眼差しを見返した。吹雪の目はこちらを見ている――が、見ていない。吹雪の目に映っているのは恐らく、いなくなった時の藤原の姿だ。
「どうしてなんだ……なんで」
 何度も繰り返される問いかけに、亮は答える術を持たない。そもそも何を問われているのかすら解らない。――亮は歯を食い縛った。
 吹雪の手を乱暴に振り払い、吹雪の肩を掴む。掴んでいた腕が……藤原の腕だと思っていた腕が離れていったためだろう。吹雪は目は大きく見開かれ、薄く張った涙の膜の奥で頼りなげに揺らめいている。
「吹雪、俺が解るか、吹雪」
「……」
 吹雪の目の焦点が不意に合った。
 どこかぽかんとした顔で、しかし今度は確かに亮を見ている。
「……亮、一体――何が」
「何があったと聞きたいのはこちらの方だ。藤原はどうした? どこへ行った」
「……っ」
 吹雪の顔が大きく歪む。
 耐えがたい苦痛を堪えているような吹雪の顔に、亮は驚いて身を引く。少なくとも亮は、吹雪のそんな顔を今まで見たことがなかった。
「吹雪……?」
「藤原はもう、どこにもいない」
「!」
「たった一人で思い詰めて、……なんてことだ。僕たちは、藤原の友達だったのに!」
 激しく首を振り、吹雪は両手で顔を覆う。
 亮は沈黙し、吹雪の言葉を頭の中で必死に噛み砕いていた。藤原はもう、どこにもいない……
「――馬鹿な」
 足元がぐらつくのを感じて、亮は頭を押さえる。
 いなくなった藤原。見つからない藤原。考えられる答えの中に、その可能性は確かに、入れて然るべきだったのかも知れない。だが、信じられない。信じられるはずがない。
「嘘だろう、吹雪」
「嘘じゃない……
 ……最低だ。僕は彼のことを、なんにも、何も……」
 顔を覆ったまま――吹雪がどんな顔をしているかは解らない――吹雪は涙混じりに呟く。言葉は途中で尻すぼみになって消えていったが、吹雪が自分を責める言葉は、同時に棘のように亮を刺す。
「……藤原が、」
 棄てられていた大量の写真。あれは何を意味するのか。彼の絶望の証ではなかったか。そんなことにも気が付かなかったのか。……単に、気が付きたくなかっただけか。
 吐気を堪えて顔を上げる。顔を覆う吹雪の手に、顔を掻き毟らんばかりに力が入っている。亮は咄嗟に吹雪の手を取った。手を退けると射抜くような鋭い目と出くわし、一瞬怯むが、手は離さない。
「離、してくれ、亮! 僕は、僕はっ……」
 裏返った声で叫び、吹雪は滅茶苦茶に首を振る。亮は舌打ちして、せめて吹雪の両腕をベッドに押し付けた。
「落ち着け、お前がいくら自分を責めても、藤原は……」
「なら、僕はどうすればいいって言うんだッ!?」
 叩き付けるような吹雪の絶叫に、亮は押し黙るしかない。
 何もできない、と答えることは簡単だ。だが同時に、そう口にしてしまうことが、たまらなく藤原や吹雪に対して不実に感じられる。
 亮はただ首を横に振った。吹雪の目に一瞬失望の色が浮かび、しかしそれもすぐに消える。残ったのは哀しみと悔恨の色だけだ。
「藤原、すまない……すまない……」
 力無く呟く吹雪の目はやがて閉じられ、両目からとめどなく涙が零れていった。亮は顔を伏せ、吹雪から目を逸らす。見ていられなかった。
「――あっ」
 だから亮は吹雪がそう小さく声を上げるまで何が起こったかも解らなかったし、吹雪の全身を瞬きの間だけ深い闇が覆ったのも見ていなかった。亮が吹雪の声を聞いて顔を上げた時には、吹雪は既に意識を失っていた。
「ふ、」
 名を呼ぼうとして、亮は息を詰まらせる。何かがおかしい、と言うことは流石に解った。疲労で眠りに落ちたわけではない。
 血の気が引くのを感じた。
「誰か!」
 亮は叫んで、今度こそ病室を出る。
 入れ替わるように慌しく医師や看護士が入ってくるのに、そう時間はかからなかった。


 吹雪が再び目覚めたのは、ほんの数時間後だった。
 ――ほんの、と言う表現は正しくない。吹雪の意識が戻るのを待つ間、亮は生きた心地がしなかったし、永遠のような長さに感じられた。もしかしたら彼が死んでしまうかも知れない、とさえ思ったのだ。命に別状はないから安心するように、と言う医師の言葉が亮を落ち着かせることはなかった。友人をまた一人失ってしまうかも知れないと言う恐れだけがぐるぐると頭の中を回り、それはひどい吐気となって襲った……目を覚ました吹雪と顔を合わせた時、逆に吹雪に大丈夫かと聞かれる始末だった。君の方がよっぽどひどい顔をしているね、と。笑顔で……そう。
 笑顔だ。ほんの少し前には、二度と見ることができないのではないかと思っていた――その笑顔を亮は強烈な違和感を持って受け止めた。そしてそれは間違いではなかった。
 吹雪は何も覚えていなかった。
 藤原がいなくなったことだけではない。藤原の存在自体を忘却していた。心にかかった過大なストレスから自分を護るために、原因となる記憶を忘れ去ったと考えるしかない、と医師は亮に耳打ちした。
 ……意味が解らなかった。あれだけ取り乱し、泣き喚き、自分を責めていた吹雪が、これほど簡単に藤原のことを忘れてしまえるものなのか。自分のために、消えてしまった藤原のことを忘れられるのか!……それでは、あまりにも藤原が。
 首を傾げ、藤原とは誰のことかと問うてくる吹雪を、亮は殴り飛ばす寸前だった。周りの人間が止めていなければ実際殴っていたかも知れない。咄嗟の怒りが過ぎてから、呆気にとられた顔でこちらを見つめる吹雪の顔を見返しながら亮がどうしようもなく理解したのは、藤原が二度と帰って来ないと言うことだけだった。彼はもうどこにもいない……そう言った吹雪の中にも、藤原優介は存在しなくなってしまった。
 あの孤高の天才は、もう帰って来ないのだ。


(……藤原)
 病室の壁に凭れ、亮は拳を握り締める。医師たちに取り囲まれて簡単な質問や検査を受けながら、吹雪が怪訝な目でこちらを見ている。亮はその目を見返すことができない。
(俺は、どうすればいい?)
 それは吹雪が投げかけた問いだった。
 何もできない、と答える声がある。藤原は死んだのだ。例えば吹雪に記憶が戻ったとして、何になるだろう。哀しみ、苦しみ――喪失の痛みをもう一度吹雪に味わわせて、何の意味がある? 藤原はもう戻って来ない。
(……俺は、)
 それでも、亮は問わずにはいられない。吹雪がそうしていたように。


(どうすれば、いいんだ)


 今度は自分の内からすら、答えは返って来なかった。




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