……ぴんと背筋を伸ばし、風を切って歩いていく綺麗な姿勢だけは、以前と全く変わらない亮のものだった。
昔とは正反対の、周囲を威圧するような黒服さえ着ていなければ、誰だって彼が前とどう変わったのか解らなかったろう。けれども、彼は今しがた翔くんとのデュエルを終えてきたばかりだ。翔くんは過酷なデュエルに敗れ、ついに倒れて助け起こされている。そんな翔くんに、彼は一瞥もくれずに去っていくんだ。
僕はそのことがとても信じられないし……また、信じられなくなりそうだった。闇に囚われた僕へ向けて亮が言った、彼が闇の中にいないと言うあの言葉を。
少し離れた場所でデュエルを見ていた僕の方へ、亮が足早に歩いてくる。僕は思わず身体を強張らせて待受けた。仰々しい漆黒の衣装、首と両腕に着けられた苦痛をもたらす怪しげな装置、何よりすれ違う時、ちらりと僕に視線をくれた、ぞっとするような底冷えのする目と来たら! 気が遠くなりそうだ。ついこの前、向かい合ってデュエルをできたのが嘘のようだ。あの時、再びダークネスに乗っ取られた僕を救ってくれたのは紛れもなく亮だと信じているけど……彼が変わっていないと僕は言ったけど、それがぐらついてくるのを感じる。
亮、君は確かに、闇の中にはいないのかも知れない。だが、君が何かに憑かれているのもまた真実なんじゃないのか。それが勝利だと言うのなら、君がそんなになってまで、じぶんの弟をあんなに痛め付けてまで、そんなに勝利が得たいと言うのか。本当にそれだけが理由なのか。だとしたら、君をそこまで勝利に駆り立てるものは、一体何なんだ。
確かに、そう……僕だって
だけど君はそれよりも、カードを愛し、デッキを信じ、デュエルを楽しんでいるのだと思っていた。あの卒業デュエル、十代くんとデュエルをする君は本当に楽しそうだった。
今の君は、違うのか。
そんな考えは、どこかへ捨ててしまったのか。
「亮」
聞きたいことが多過ぎてまとまらないまま、僕はそれでも亮の背に声をかける。彼は一瞬立ち止まりかけたが、結局振り返ることはなく、歩いていってしまった。が、無視されたぐらいでめげる僕じゃあない。それに僕は、亮が僕を無視しようとするのは、決まって僕のあしらいに困っている時だと知っている――僕が闇の世界に囚われる前の話だから、少し自信はないけれど。
僕は大股に歩いていく亮の背を小走りに追う。皆は倒れた翔くんの方を見ているか、そうでなくともすっかり変わってしまった……ように見える、かつての学園の皇帝を恐ろしがって、誰も亮に近づこうとはしない。何の苦労もなく、僕はすぐに亮に追いつくことができた。
「亮、ひどいじゃないか! この僕を無視するなんて!」
殊更に軽い口調で言いながら、僕は亮の肩を掴もうと手を伸ばす。まず何から言ってやろうか、頭の中でまだ整理はついていなかったが。とにかく、彼を捕まえてからだ。
しかし、僕の手は空を切った。――唐突に、亮がその場にしゃがみ込んだのだ。
いくら僕と話がしたくないからって、そこまで意地っ張りな行動に出ることはないだろうに……咄嗟にそんなことを思ったが、そんなはずはなかった。いくらなんでも僕の手をかわしたいがために地に膝を付けるなんてこと、亮がするはずがない。そんな茶目っ気を発揮してもらったことなんて僕はほとんどないし、第一彼は膝を突いたまま、立ち上がる気配がない。
「亮……?」
恐る恐る呼びかけながら、僕は亮の肩に手を伸ばす。
「……触るな」
と言う低い呻きはまるで威嚇のようだったが、同時にひどく弱々しく、僕はぎょっとして思わず手を止めた。一体どうしたって言うんだ? 慌てて、跪いた亮の正面に回る。
「……あ、」
そして、すぐに理由を察して硬直した。
――考えてみれば、至極当然の話だ。
翔くんは、何度も何度も執拗に攻撃を受け、やがては倒れてしまうほどの苦痛を受けた。それよりははるかにマシとは言え、亮も翔くんと同じ装置を着け、何度もダメージを受けたのだ。削られたライフ・ポイント分の痛みを味わったはずだ。消耗していないと考える方が不自然だ。
「あ、ああ……」
脂汗の浮かんだ亮の額を見て、僕は唇をわななかせる。
こんなのはおかしい。こんなのは駄目だ。……このままでは、いずれ亮は壊れてしまう!
「どうしてなんだ」
「……」
「こんな、こんなデュエルをする必要が、一体どこにあるんだ!」
僕の問いに、亮はちょっと顔を上げた。苦しげに眉をひそめながらも、僕に眼を合わせた彼の顔は。
「……ク」
背筋が凍る。
僕は絶句して、亮の顔を見返した。
「ククク……」
この笑み! 口の端を無理に持ち上げたような、このいびつな笑い方!
まるで知らない人間の顔を見ているようだ。僕は何も言えず、彼の震える手がゆっくりとこちらに伸び、僕の肩にかかるのを見ていた。
一瞬、肩に体重がかけられる。
亮は僕の肩を勝手に借りて立ち上がると、覚束ない足取りで僕には目もくれずに立ち去ろうとする。
「亮!」
僕は咄嗟に、離れていく亮の腕を掴んだ。
彼は僕の腕を振り払おうとはしなかったが、かと言って振り返ることもない。僕が手を放すのを、黙って待っているようだ。……もちろん僕には、手を放すつもりはない。
「君はまだ、僕の質問に答えていない」
「……」
「答えてくれ、亮。どうして君は、自分を痛めつけるような真似をするんだ」
「……理由、か」
亮はこっちを見ない。低く抑えられた声がただ、苦しみに耐えているような響きを持って、いっそう痛々しい。
「……この痛みが、俺にデュエルが何なのかと言うことを理解させた。
相食むけだもののように、互いに苦痛を与え合う。その末に立っていたものが勝者であり、立ち続けることがデュエルをする意味なのだと。それが今の俺の悦びでもある」
「だから、こんなモノを着けて、兄弟で傷つけ合うって言うのか!」
「そうだ」
「それが、愉しいって言うのか」
亮は答えない。僕は眉根を寄せる。
「亮、僕には、今の君が――少なくとも
「――余計な世話だ」
「そうも思わない。翔くんを苦しませ、悲しませ、叩き伏せて、君は何を得たんだ。ただの『勝ち』か。そうして手に入れた勝利に、一体何の」
「翔か」
言葉を遮る程でもない、亮の小さな呟きに、僕は思わず言葉を止めた。
翔くんの名に亮が反応したから――というよりは、その声音に驚いていた。さっきまでとは一変して、ひどく優しく柔らかい響きに感じられたのだ。ほんの短い呟きだったのに。気のせいじゃない。
「……そうとも。自分の弟を、あんな風に痛め付けて。考えられないひどいことだ」
「そうだな」
その肯定も、全く意外だった。僕は思わず亮の腕を放してしまいそうになったが、辛うじてそうしなかったのは、亮がこちらを振り返らないままだったからだ。逃げられるかも知れないのに、易々と放すわけにはいかない。
「――だから、失望されるかと思った」
「え」
「そうだろう? この装置を付けてデュエルするものは、己の死をも覚悟しなければならない。人に非ずと罵られても仕方がない」
僕は咄嗟に何も言うことができずに、口を閉ざしたままでいるしかない。どういうつもりで亮がそんなことを言うのか……それが本心なのか、図れなかった。
「だが翔は諦めなかった」
それは、デュエルを、という意味だと思った。……だが違った。
「俺を諦めず、手放さなかった。
俺をまっすぐに見据え、最後まで俺について来た。
……本当に強くなったな、あいつは」
それは以前の、翔くんがいない時に翔くんを褒める時の亮の口調で、何ひとつ変わってはいなかった。まるで亮が卒業する前に――いや、それよりもっと前、僕がダークネスに取り込まれる前に戻ったんじゃないかと錯覚できてしまうような、そんな、懐かしい話し方だった。
「いつも、俺の見ていないところで成長するんだな」
「……つきっきりで見ているわけでもないクセに?」
だから僕も思わず、そんな調子で返す。
「……そうだな。なら、当たり前か」
「そうさ……でもね亮、そういうことは翔くんに直接言うべきだとは思わないかい? 君たち兄弟は、そうやっていつも……」
僕はそこまで言って思わず言葉を切った。亮はその翔くんを、今しがたデュエルで痛めつけてきたばかりなのだ。
亮の腕を掴む手に力を篭め、僕は亮の黒い背を見つめる。
「……亮、僕は君のことがさっぱり解らないよ。
何を考えているのか、何がしたいのか、全然。君が話す言葉はまるで識らない国の言葉のようだ。かと思うと、馴染みのある君の言葉で話すんだ」
「……」
「君は何なんだ。翔くんが今でも君にとって大事な弟なのは解ったよ。でも君はその翔くんにあんなことができるんだ。
もしかしたら、取り返しがつかないことになっていたかも知れないんだよ! それなのに」
「翔は、それでもリスペクトすると言った……」
「――そうだとも。翔くんは君を大切に思っているんだから、当たり前だ」
ひそやかな亮の呟きに気勢を削がれ、僕は一旦荒げた語気を思わず弱めた。
亮はちらりとこっちを振り返る。その表情は無表情、相変わらず……これは昔からだ……こう言う時の亮の顔からは何も読めなかった。
「俺は、」
亮はそこまで言って、不意に言葉を切った。その先に何を言おうとしたのか……僕には解らない。一瞬だけ亮の目が何かを憂えるように伏し目がちになり、視線が虚空を彷徨った。
「……いや、何でもない。
これ以上話しても無駄だ。俺は既に自分が進むべき道を選んだ。お前といくら話そうが、俺は考えを変えるつもりはない」
顔を上げ、まっすぐにこちらを見た亮の目は透徹として何の迷いもない。僕は確かに彼が闇にはいないと確信している――闇に囚われた人間はこんな顔はきっとできない。しかし、だからこそ、彼の行動は僕を戸惑わせる。
「……勝利、か」
「そうだ。それが俺の目的だ」
「そのためだけに、君はデュエルするのか」
「そうだ」
「何だかそれは……悲しいよ」
僕がそう言って目を伏せると、急に腕が引っ張られた。
亮が僕の腕を掴み返したのだ。
爪を立てる程に強く捕まえられて、僕は顔をしかめる。顔を上げると、額がぶつかるほど近くに亮の顔があって、僕は反射的に顔をのけ反らせた。
「……お前には」
亮は、噛み付くような険しい顔をしていた。
「お前にだけは、そんなことを言われたくない……」
僕はぽかんと口を開けたまま、亮の顔を見返す。
どういう意味なのか聞き返したかったが、亮の表情がそれをさせなかった。
僕が何も言えずに口を開けたり閉めたりしている内に、亮は僕の腕を離して押し退ける。
今度は捕まえておくことはできなかった。自分でも意外な程、亮の言葉がショッキングだった……そんなことを言われるとは、思ってもみなかったのだ。
亮はふと、僕から視線を逸らした。後悔するような、傷ついたような、申し訳なさそうな、複雑な表情だった。
「……吹雪。俺にはもう、構うな」
亮はそれだけ言うと、僕の言葉を待たずに踵を返した。
彼は風を切るようにさっそうと歩く。今も昔も。
そんなにいつも気を張ることはないのにと、昔は笑って言えた。……今は何にも。彼の背を見送るだけだ。なにか彼に言うべきことがある気がしているのに、なのに僕の口からは何も出てこないのだ。
「……亮」
力無く呼びかける僕を、亮はもう振り返らなかった。
BACK
吹雪さんって意図的に道化を演じているようでもあるけど、もしかしたら本当に空回りしていて、いつも「どうして解ってくれないのかな?」と思ってるのかも知れない。