先輩、覚えていらっしゃいますか
有森 裕子選手(マラソン)
バルセロナのオリンピック村は、美しいほど区画整理された、高層マンションが立ち並ぶ海辺の街だった。その日も、女子バレーボールチームの何人かの選手たちと早朝ジョギングを終え、男子の宿舎の前で、コーチの辻合さんと談笑していた。
その時だった、マラソンの有森選手が通りかかったのは。「おっ、有森だ。」バルセロナ・オリンピックの前は、松野明美選手との代表選手選考の件で、ずいぶん騒がれていた有名人だったので、僕も、辻合さんも、ほとんど同時に小さな声をあげた。
その有森選手が、我々を見つけて、まっすぐに走ってくる。さわやかな笑顔でどんどん近づいてくる。その時すでに一般のおじさんとなってしまった僕が、どぎまぎしていたら、「岩崎さん、知り合い?」と辻合さん。「いや、日体大の後輩ですし、大先輩の白石先生の治療を受けているそうなんですけど…。」と答えたときには、もう有森選手は、目の前に立っていた。
「先輩、覚えていらっしゃいますか?」と有森選手、
「えっ!」何も答えられない自分、
「私、先輩の家に行ったことがあるんです。」
そう言えば、そんなことを後輩から聞いたことが有るような、無いような…。と思いながら、「ぼ、僕の川崎のマンション?」と、逆質問をしてしまう。
さかのぼる事、6年前、僕の自宅で、大学の後輩を集めて「トレーナーのための早朝勉強会」を週に一度、開いていた。興味があれば誰でもOKの気楽な勉強会だったが、交通の便が悪い僕の自宅で、しかも朝7時からだったので、本気でなければ来られなかった。
怪我がちだった有森選手は、陸上部でトレーナーをしていた先輩について来たそうだ。そして、トレーナーになりたい長距離の選手だと自己紹介する。今思えば、失礼なことだが、「それで速いの?」と僕は尋ねたらしい。「岡山では6番以内でした。」との彼女の答えに、僕は、「じゃあ、現役で走りなさい。」「トレーナーは、いつからでもできるけど、後になって、やっぱり走るってのは大変だから。」といった主旨のことを話したらしい。
「はぁ〜?」なんと答えて良いのかわからない僕に、「あの時の岩崎先輩の言葉がなかったら…。」それ以上は、言わないで欲しかった。そんなことは、ないからだ。その早朝勉強会での出会いから、その日まで、彼女には、彼女の世界があったはずだ。大学時代の苦労も、リクルートに入社するときのエピソードや、その後の小出監督との苦難の道のりも、全て自分で乗り越えて、スタートラインに辿り着いたのだから。
それにしても凄い、あまりに凄すぎる。「どこから、来たんだ。この娘は、」と真面目に思った。社交辞令で言ったにしても、本当にそう思っていたにしても、いったい、どういう育ち方をしたんだと思った。トレーナーという職業がら、選手のために働くのが当たり前だし、選手の側もそう思っている。いちいち「感謝の気持ち」を述べなくても、そこには暗黙の了解がある。
早朝ランニングの最中、有森選手は立ち止まってそんな挨拶をしなくても、良かった。それでも、我々は彼女の走る姿に感動し、目撃したことをその日の話題にしただろう。しかし、事実はそれを遥かに超越した。その一瞬の出来事は、彼女の人間性を十分に教えてくれたし、僕を彼女のとりこにするに十分だった。数日後、快挙を成し遂げたことで、彼女は、渦中の人としてでなく、オリンピックのスターとして有名になった。
そして、母国が崩壊して、誰からも声援を受けることのできなかった金メダリスト、ロシアのエゴロア選手に花束を渡した。
『行ってみせます、バルセロナ
咲かせてみせます、金の花』
と、いつも応援してくれた母に宛てて書いた詩。金のメダルは取れなかったが、約束どおりに金以上の価値のある花を咲かせた。明らかに勝利の涙とは違う涙が、エゴロア選手の頬をつたって落ちたという。
「世界で一番きれいな花だった。」と報道された。それを読んで納得した。「先輩、覚えていらっしゃいますか?」は、有森裕子選手の人柄そのものから出てきた言葉だったんだ、と。そしてまた思う。「こういう選手がいる限り、トレーナーは、やめられない。」
3年後の1995年夏、一枚の葉書が届く。怪我で苦しみ、走れなかった長いトンネルから這い出した有森選手が、北海道マラソンでカムバック優勝をはたした。表彰台の彼女の写真が絵葉書になっていた。そして僕は有森選手が、ついにアトランタに向けて動き出したことを確信した。行け有森。
注)その後、有森選手は、96年アトランタで銅メダル。99年ボストンマラソンで自己新記録を更新している。(1999年夏)
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