月も見えない夜
突然、それはやってくる。なんの前触れもなく。 まるで真っ暗闇の海の中に一人放り出されたみたいな感覚に恐怖を覚え、 怖くてじっとなんかしていられないあの焦燥感。 周りになにがあるのか目を凝らしても見えないような、助からないんじゃないかと思ってしまうような、 そんな絶望感。 一人きり。一生このままかもしれないという恐怖。 その恐怖に怯える自分の震えではっと我に返り、ここが海の中なんかでないことをようやく思い出して 初めてそれがやってきたことを知る。 だが、悪夢から覚めてもなお感覚は居残り、その不快感に今度は夜、眠れなくなる。 絶望感と孤独感が身体にまとわりつき、振り払っても拭い去れないそのしつこさにやがて諦めるものの、 なにがあるというわけでもないのに不安に駆られてばかりいて、 無意識なのだろうが普段そんな癖なんかないのに身体を抱き締めていることがある。 まるでなにかから身を守るように見えて、気付くといつも自嘲の笑みを浮かべた。 その眠れない身体を横たえて抱くのは絶望、孤独、焦燥、そして一欠けらの愛。 会いたくて、声を聞きたくて、顔を見たくて、なによりそばにいてほしくて。 なにもしてくれなくていい、ただいてさえしてくれたらいいのだ。 なんてちっぽけな願い。まるで小石の欠片ほどのような小さな小さな愛。 それを叶えてくれたなら悪夢は終わる。 どうか、この俺をすくって。 真っ暗闇の中で迷う俺にどうか、手を差し伸べて。 どうか、どうか、この願いを再び聞き入れて……。 死が訪れるまでこの命がある限りずっと愛し続けるますから。 決して裏切ったりはしないと誓いますから。 報われぬと知るこの思いに殉じる覚悟はとうに出来ているから。命を懸けますから。 だからどうか俺をすくって。 こうして迷った時だけでもいい、俺をすくいに来て。見捨てないでくれ。 どうか、どうか、どうか、再び迷ってしまった俺にどうかお前も再びその手を差し伸べて……。
ぎらつく太陽の下で汗が一筋流れ落ちる。「あっちぃ……」とこぼす力ない声など 容赦のない太陽の熱であっという間に溶けてしまう。 それでも俺は歩き続ける。一秒でも無駄にはしたくないと心の中でつぶやきながら。 「……でももうダメかもしんない……」 情けないぞ俺。灼熱地獄の砂漠の上にいても必ずお前の元まで辿り着いてみせる、 歩けなくなったら這ってでも絶対絶対辿り着いてやる、そしてお前に会ってから死んでやると、 いつだったか豪語してやったというのに。 たかが真夏の太陽じゃあないか。それにここは日本。しかもあいつの家のすぐそばまで もう来ているじゃないかよ。あと少しだ。頑張れ俺! 「……暑い……なんでこんなに暑いんだよ……まだ午前中だぞ、それも11時前。 なのになんでこんな暑いんだ。午前中の涼しいうちに宿題は済ませましょう、 たしかそんなこと小学校の時に言われなかったか? あれはウソだったのか? いたいけなお子様をウソでだましていたのか? それとも温暖化が進んでこんな暑くなったのか? あーくそっ、死ぬほど暑いぞ。ていうか、マジ死ぬ……」 グチグチとこぼしていたのが余計に体力を消耗させたのかも。 もうダメ。完全にダメ。もう一歩だって歩けない。歩いたら多分ぶっ倒れる。 うっわぁ……この飽食の時代に行き倒れですか、それも東京という都会の中で。 だっせぇ……すげえださいよソレ……。 しょうがない。歩けない以上、向こうからやって来てもらいましょう。 ……来てくれるかはすげえ疑問残るけど携帯で一応頼んでみよ。 しおらしく「お願いします」って言えば来てくれっかな……。 うーん……それでもわかんねえよな。なんたってあいつ、俺には冷たいからなぁ。 愛情ないのはわかんだけど、時々友情もないんじゃないかってマジで疑いたくなる時あんだよね。 なぁんであんなに俺には冷たいんだろね……結人クン、マジ悲しいよ。 「あっ、英士? 俺。今さ、お前んちの近くまで来てんだけど暑くてもう一歩も歩けないんだよね。 だからさ、お前の方からここ来て? ……っああっ! ちょっ、……」 あいつ、切りやがった。それも捨て台詞残して。なんつったと思うよ。酷い男だぜ。 なんで俺が。俺は別に会いたくなんかないから、じゃっ。 遠路はるばる(乗り換えたりしてなんだかんだでここまで一時間は掛かる)来た俺に対して なんつう返答するかね。少しは労われってんだくそ英士! ……て、携帯睨んでぶつくさ文句言ったってしょうがないでしょうに(ばぁい英士風)。 文句はやっぱ本人目の前にして言ってやるもんだよ。 あー、ほんとしょうがねえ。 リダイアルリダイアルと。ほい、押したあ。コール四回目。やあっと声が聞けたよ。ていうか早いじゃん。 もしかしなくても待機しててくれた? あーあ、俺って単純。こんなことぐらいで嬉しがるなんてさ。 すっげえお手軽くんじゃんよ。 「なぁ英士ぃ、頼むよほんと。マジで暑くてもうダメなんだ」 「ダメなら諦めなよ。無理はよくないしね」 「いや、お前の為だったらどんな無理だってしちゃうんだけどね、今日はダメなのよ」 「言ってること、矛盾してるよ? それにさっきも言ったように俺は別に会いたくないし」 「俺が会いてえの!」 「じゃあ来なよ。そしたら仕方ないから会ってやるよ」 「だから言ったろ! もう歩けねんだよ!」 くそぉ。怒鳴ったら余計に暑くなったじゃんかよ。見ろ、こんなに汗が流れてるよ。 うわあ、首の後ろなんてベタベタもいいとこ。げっ、背中なんて濡れてるぜ。 うわあ、俺、マジで溶けるかも……。くそぉ、俺はこんななのにあいつはクーラーの効いた 部屋にいるんだ……羨ましいぞ英士。くそくそくそっ、どこでもドアが欲しいぞ! ていうか英士、マジで来い。 「お願いします、英士さま。あのでかい犬が二匹いる家の前に転がってるから迎えに来てちょ。 なんかぁ、せっかく日陰見つけたのにどんどんずれてくんだよね…… この影がなくなると俺、溶けていなくなるかも……」 押してダメなら引く。確かそんな諺あったよな。あれ? これは諺じゃなかったっけ? あー……もうなんでもいいや。そういう言い回しがあんのは確かなんだし。 「なあ、ダメ?」 沈黙。……心臓に悪いんですけど。まるで合格発表待ってるみたいで落ち着かないんですけど。 早く何とか言えよ英士。切るんなら切る! どっちなんだ! ……ああ、やばい、暑さで 気が短くなってるかも……。 「ダメなの?」 「……しょうがないね」 やった。ありがと英士。 「さーんきゅ。じゃ、待ってるから早く来いよぉ」 俺は眩しい空に向かってピースした。 やった。頑張ったじゃん俺。偉い偉い。
五分後、英士はやって来た。それも涼しい顔して。なんでだ? こいつは暑くないのか? なんか特別な服でも着てんのか? それともあれか? 目に見えないシールド張ってあって やつは涼しい空間の中にいるとか? 「なに?」 ぶしつけな視線で眺める俺に露骨にいやな顔をして問う英士に、べつにと素っ気無く返して 地べたから腰を上げる。ずっと座っていたのにけつが熱いのはなんでだ? 「で、呼び出した理由は?」 「え、ああ、俺とデートしてよ」 「は?」 「今日一日ずっと俺に付き合って欲しいんだ」 「なんで」 「決まってるだろ、お前とデートしたくなったんだよ」 「結人……」 「なに? なんだよ?」 難しい顔して溜息をついた英士に俺は首を傾げた。なんでそんな顔されるのかわかんない。 なんで溜息なんかつくのかもわかんない。 「……急に言われても困るだろ、用件も言わず呼び出して……」 「え、ああ、だって言ったらお前断るだろ? だから呼び出してから誘おうと思ってさ」 「お前、俺の都合なんかまったく考えてないだろ」 「うん。でも用事があるんだったら電話で呼び出した時点でお前はっきりそう言うだろ? でもお前は言わなかった。だから誘ってる」 「確かに用事は何もないけど、だからってお前の誘いを受けるとは限らないだろ」 「うん。でも断る理由もないだろ?」 「……」 呆れたような諦めたようなそんな溜息をついてみても俺は引かないよ。 なんの為に暑いの我慢してお前来るの待ってたと思う? ガキみたく地面に転がってじたばたしてでもお前に「うん」って言わせるためだ。 わかる? どうしても絶対ナニが何でもお前と出掛けたいのよ俺。 「で? どこへ行くつもりなんだ?」 「あはは、ありがとな英士。まずは水族館だろ。あとはあっちこっち」 「水族館? どこまで行くつもりなんだ?」 「ああそんな遠出はしないから安心しろ。池袋。サンシャインの上!」 「あんなとこ、ろくなものいないよ?」 「ああ、いいのいいの。お前とデートするってことが本来の目的だからさ」 「……当然今日の費用はお前持ちだろうね」 「当然。おこづかい、かき集めて来たから任しとけって」 不思議と、英士がいる今はそんな暑く感じない。というより暑いのが不快ではなくなった。 汗も出るんだけど、相変わらず太陽熱で頭皮がじりじり焼かれてんだけど、今は全然 気持ち悪くもないしイヤでもない。真夏のデートってのもいいもんだよなあ、 なんて思ってみたりして。スキップしたいくらいで俺ちょっと舞い上がってるかも。 英士に言ったら「暑さでイカれたんじゃないの、その頭」なんて言われるだろうけど。 浮かれた俺はひどく饒舌になっていた。ほとんど俺ばっかりが喋っていた。 英士はたまに頷くだけ。でも珍しく「それで?」「ふぅん」「で?」とマメにかまってくれていた。 駅のホームで電車が来るのを待っている間もそれは変わらなかった。 電車に乗り込んで座席に座っても俺は喋り続けていた。 「降りるよ」と言った時も俺は話しをやめなかった。「足元気をつけなね」と言われた時も 「ああ大丈夫――でね……」とちらっと足元に目をやったあと、ホームに降り立つとまたお喋りを 続けた。 普段の英士だったら聞いてないような素振りを見せるのに今日の英士は黙っていても ちゃんと聞いてくれているように見えた。だから俺は喋り続けるのかもしれない。 JRの切符売り場でも俺の口は動いていた。 「サイフ貸して」 話を止められない俺は言われた通りサイフを手渡した。英士が切符を買ってくれた。 ただし金を出したのは俺だ。券売機から吐き出された切符を英士が拾って、英士が先頭に立って 二人続けて自動改札機を抜けた。キップはそのまま英士の手に渡ってポケットに仕舞われた。 山の手線のホームは相変わらず混んでいた。白線ぎりぎりに歩いて前のホームへと向かう。 お喋りに夢中になる俺は何度も人とぶつかりそうになった。 体格のいいサラリーマンにふっ飛ばされそうになったのは一度や二度ではない。 ぶつかって何も言わない俺もどうかと思うが、相手を確認しようと顔を向けた時には向こうも もう去っていて、おぼろげに残った記憶を頼りに背中を見送ることしか出来ない。 そんな俺の隣を歩く英士はうまく人の波をよけていて、気付けばいつの間にか俺は英士を 追うようにして歩いていた。どうやら歩調を合わせてくれているらしい。 だからずっと視界の中にいたのだとこの時初めて気付いた。 「でな、英士」 そんなささいなことで嬉しがる自分が滑稽に思えた。それなのに話し掛ける俺の頬は緩みっぱなし。 「結人、のど渇かない?」 「え、あー、俺は別に……」 「そ、じゃあ、お金」 「へ?」 目の前に手を出されて俺は目を点にさせた。つまり、この手は金を出せと、そう言ってるわけ? その手から上へ上へと視線を辿らせていけば当然でしょと、言いたげな英士と目が合った。 なんだよ……これくらいてめえで金出せよ……。そりゃ今日は俺のおごりとは言ったよ。 けどジュース代くらい自分で出せよ……けちくせえやつだなぁ……。 ったく、しょうがねぇなぁもう、……。 ぶつぶつ文句言いつつもいつまでも引っ込めないからその手に金を乗せてやる。 「俺にも半分よこせよっ」 「だったらお前も買えば」 「飲み切れねえよっ」 「珍しいこともあるものだ」 「ああっ! 待った!」 お金を入れてスイッチを押そうとした指は俺が飲みたいものとは違う別のものに向けられていた。 金を出すんだから俺が飲みたいものを買って欲しいよ。 「結人」 「なんだよ」 「お前はいらないんだろ、飲みたいものを飲ませろよ」 「やだ。半分よこせって言っただろ」 「だったら自分でも買いなよ。ほら、買ってやるからお金出しな」 「やだ。お前人の話聞いてねえだろ。缶一本飲み切れないって言っただろ」 「飲み切れないんだったら残せばいいじゃないか。ほら、うるさいこと言ってないでお金」 自動販売機の前でぐちぐち言い合う俺たちに、周りは何事かという視線を投げてきている。 遠巻きにして見る視線は警戒しているものもあれば、露骨に好奇心を曝け出しているものもある。 どちらにしても無遠慮に穴が開くほど見つめられるというのは気分のいいものではない。 「BOSS」 さっさとこの場から離れたくて、小声を残して俺はベンチのあるところまで移動した。 途中で背中に英士の文句が聞こえたが無視。何度も言うけど金を出すのは俺。 俺の言い分くらい聞いてもらわなきゃマジで大損だっての。 「飲みたいものがあるなら自分で買えばいいじゃないか」 戻ってくるなり早々に文句を言った英士のその手には、結局「BOSS」が握られている。 プルトップを引く英士の横で俺は笑い出した。なに笑ってるんだよと、文句を受けて俺はまた笑い出す。 「ご機嫌でなによりだよ」 嫌味を言われたけど気分はいい。なんで笑っているのかなんて俺にもわからない。 なんか可笑しくてさ。すげえ胸がわくわくしてるの。なんでだろね。……あー、 こういうの、楽しいっていうのかな。だとしたら英士を誘った甲斐があるってもんだ。 「いつまで笑ってるつもり」 「やー、いつまででしょ。やっぱあれじゃん?気が済むまでじゃない?」 「周りがヘンな目で見るよ。一人でにやにやして、気味悪いからやめてくれない」 「じゃ、お前も笑え」 「可笑しくないのに笑えるわけないでしょ」 「ちぇっ、付き合い悪ぃのな」 「――ほら」 勝手に言ってなよと、肩をすくめた男は一口飲むと「BOSS」を俺に差し出した。 「お、悪いね」 「全部飲むなよ」 「……っん」 ごくごく飲み込みながら頷く。 「電車、来るよ」 「んー……英士」 「なに?」 「BOSS」を差し出す。 「なに、もういいの?」 「ああ。あと全部飲んでいいぜ」 ホームに電車が入ってきた。熱風が下から上がってくる。 人込みを避けて、集団の後ろに並んだ。並んだ場所が良かったのか、車内は割とすいている。 連結部分に移動して、窓の向こうを見る。車両を移動して来る人間はどうやらいないようだ。 これなら落ち着いてドアに寄りかかっていられる。 「あまり涼しくないね」 「だな。あれじゃん? 弱冷房車両ってやつじゃないの?」 「効き過ぎよりはいいけどね」 「あーそう? 俺は好きだけどね」 「暑がりのお前には確かに丁度いいんだろうね。お前の部屋もいつもがんがんに効きまくってるし」 「がんがんに冷えた部屋で寝るのって気持ちいいじゃん」 「俺は風邪引きそうだよ……」 「いやん、英士くんのエッチ」 「お前ほどじゃないよ。あ、これ。ほんとに全部飲んでいいのか?」 「あーうん、いいよ。……」 言ってから自分で気付いた。 「英士」 「なに? やっぱりダメ?」 「ちがうよ、そういうことじゃない。なあ、それ……」 それと指し示した缶を英士も見つめる。これがどうかした? と、目の合った英士が問う。 「間接チュウ」 軽くウィンクなんかして。そしたら。 「そんなもの四六時中してるでしょ。珍しくもなんともないよ」 あっさりと答えて気にも掛けないという風に口をつけた。 カーブする電車にうまくバランスを取りながら口をつける英士のその唇を、 俺は観察するように凝視した。ふくよかな唇をした女には奔放な色香が漂い、 見ているだけで性欲を覚えるが、英士の薄い唇にも俺は性欲を覚える。 情の薄い感じを受けるその唇が見た目ほど冷たくないことを知っているからか、 指でなぞった時のあの感触を思い出してしまったり、神経質そうに見えてあれで意外と 大胆で強引なキスをするんだよなと、過去のシーンを思い出してしまったり、 そういうキスをしている時の身体の疼きを思い出したりして、 唇を見ているとあの唇に自分のを重ねたくなるから困る。 人目がなければ……してた。胸倉掴んで、奪ってたかもしれない。けどここは車中。 気付かれるか気付かれないかは一種の賭けになるけどやっぱりここでするのはまずい。ていうか危険。 公共のモラルに反するっていうか、なんていうか……道徳的なこともあるけどやっぱり キスだけじゃ物足りなくなったりしたら、その、困るじゃん……。 「結人?」 英士のその声で俺ははっと我に返った。……やばいやばい完全にトリップしてたよ……。 「なにぼけっとしてるんだ?」 「……え、……いや、べつに……ちょっと……」 「なに、想像してた?」 「や、べつに」 「ヘンなこと想像してたでしょ」 「……してねえよ」 「とぼけてもダメだよ。結人もわりと顔に出るからね、ばればれだよ」 「……その手にはのらねえよ。じゃあお前の口から俺がなに考えてたか言ってみろよ」 「言わなくても当たってるから言わない」 「きたねえぞ英士」 「あ、ほら、次降りるよ」 英士はすごく勘がいい。洞察力に優れているっていうのか、普段から良く見ていなければわからない ような些細な癖とかたまにしか出てこないような仕種までしっかり覚えていて、 そういうわずかな情報を元に顔色、表情を伺ってあっという間にこちらの気持ちを探ってしまう。 とにかく俺も一馬も英士にだけは隠し事が出来ない、どんなに平静を装っても普段通りにしていても 「隠していること」「思っていること」それこそ「いつもと様子が違うこと」をこいつはすぐに見抜いて しまう。 バレたらイヤだなと思うことはあってもバレて困るようなものはないからいいのだけれど、 なんでもかんでもお見通しってのはかなり格好がつかない。 べつに勝負なんかしてないけどなんか負けた気分にもなるし居心地も悪くなるんだよね。 それになぁんか悔しいんだよね。 「結人」 前を歩く男が振り返り、恨めし気に背中を眺めながらうしろを歩いていた俺にキップを渡した。 「なに?」 「なにが」 「なに不貞腐れてるのさ」 「不貞腐れてなんかいねえよっ」 「それのどこが不貞腐れてないって言うんだよ。俺のこと睨んでたじゃない」 「不貞腐れてないっ」 「ああ、もしかして照れてたとか?」 こいつっ! 「くそばか英士!」 完全に俺で遊んでやがる。 「くそばか? お前、俺となにがしたくてここまで来たの? デートがしたいって、そう言わなかった? せっかく付き合ってやってるのにそんな態度はないんじゃないの」 「……」 ……そうきたか。これじゃあ英士が言うことは正しいってことになる。 むかつく。むかつくむかつくすげえむかつく。人の足元見やがって、お前は黄門様かっての。 きたねえぞ、そういうの脅しって言うの知らねえのか、くそっ。 ……けど、確かに言う通りだ。ここまで来といてこいつの機嫌を損ねたら俺は間抜けだ。 帰るなんて言われたら困る、それは困る。 「……ああ、そうだよ照れてんだよっ……これでいいんだろっ」 なんか口に出したら急に恥かしくなってきた。逃げるように横を通り過ぎて改札を抜ける。 ……顔が熱いのは気のせいではない。多分俺赤くなってる。 普段だったらあんな挑発さらりとかわせるんだけど、……今日は……ていうか最近調子悪くて、 今の俺じゃあ無理だ。……誘ったのが裏目に出たりして……。 「結人」 追いついて隣に並んだ英士が「こっちだよ」と不意に手を掴んで引っ張り出した。 「ちょっ、おいっ、どこ行くんだよ、サンシャイン行くのはあっちだって」 「急がなくたってサンシャインは逃げないよ。それよりお前、お腹すいてるんじゃないの? だからすぐイライラするんじゃない? とりあえずお腹いっぱいにしなよ」 「は?」 「ああ、あった。あそこでいいよね」 「……あそこって……英士? どうしたんだ?」 「なにがさ」 「だってあそこ立ち食い。お前ああいうとこイヤだっていつも言ってるじゃんか。 誘ってもいつも断るのにどうしたんだ?」 「おごってもらう身だからね。贅沢は言えないでしょ。それにべつに嫌いってわけじゃないし? 落ち着かないから行く気しないだけで、でもほら、なんか今すいてるみたいだし」 「……」 びっくりしたような、信じられないような、呆然としちゃうような、そんなわけのわからない 思いを胸いっぱいに広げながらのれんをくぐると、……当然のようにまた「サイフ貸して」 と手を出された。 「前売り券買うみたいだよ」 前売り? 言われて初めて入ってすぐのところに機械が置かれているのに気付いた。 「なに食べる? ……俺はきつねうどんでいいかな」 カウンターの中に貼られたメニューに目をやる英士のその動きにつられて俺も中に目を向けた。 「結人はなにするの?」 「あ、じゃあ同じの……」 「じゃあ買ってくるから先座ってて」 ……英士が立ち食い、すげえ似合わねえ……なんて違和感にちらちら英士の顔を伺いながらうどんを すすったあと、俺たちはようやくサンシャインに向かった。
「……で?」 「なんだよ?」 「それが見たくてここに来たわけ?」 「ああ。可愛いだろ?」 俺たちが今いる場所は紛れもなくサンシャインビルの中。俺の目の前にいるのは可愛いペンギンたち。 見たかったんだよね。ずっと。ていうか、朝起きたら無性にペンギンが見たくなってたんだよね。 で、英士を誘ったわけだ。なのに隣でやつは呆れた顔して俺のこと見ているし。 なんだよ。俺がペンギン見たくなっちゃいけねえってのかよ。こいつら可愛いんだぜ、 見ろよ、あのよちよちした歩き。うしろから見るとちょーラブリーくない? 地上だとあんな頼りないくせして水の中に入ると驚くほど敏捷なんだぜ? 背筋伸ばしてすうって泳ぐ姿なんてほんとスマートでカッコイイよな。 「ほかのは?」 「ほか?」 「ここには珍しい魚もいるだろ? それらは見ないのか?」 「興味ねえよ」 「……ペンギンだけが見たくて水族館?」 「ばかだね英士。水族館来なきゃペンギンなんて見れないだろ」 「動物園にもいたと思ったけど」 「わかってねえなー。動物園じゃなくて水族館に来たかったの、俺は」 「……ペンギンが見れればいいんだろ? なのになんで水族館にそんなこだわるのさ」 「水族館のペンギンが見たかったからに決まってるだろ。なんだよさっきからごちごちゃうるせえな。 お前は動物園の方がよかったのか? だったら今度は動物園に誘ってやるよ。 けど今日はここで納得しとけ」 「……そういうことを言ってるんじゃないんだけど……て、聞けよ人の話」 ごちゃごちゃほんとうるせえなぁもう。何匹かいる中でも気に入ったペンギンを見つけた俺が そいつのあと追って移動したらついて来ながらまだなんか言ってるし。 「英士、ペンギン嫌いなのか?」 「いや、割と好きだよ」 おっ。俺のお気に入りちゃんがこっち見てるよ。手なんか振ってみたりして。 「結人」 「うるさいよお前。好きなんだろ、だったらほら見る」 「もう十二分に見たよ」 「あっそ。俺はまだ不十分」 「そう言うけど結人。俺たちがここに入ってこのペンギンの前に来て何十分経つと思ってる? 45分だよ? 館内あっちこっち回ってこの時間なら納得いくよ、けど、ここに直行してずっと ここにいる時間がそれなんだよ?」 「だから?」 「……お前がこんなペンギン好きとは知らなかったよ」 「ははは。俺のことがまた一つわかってよかったじゃねえか」 「――」 ついに英士は口を閉じてしまった。今俺になに言っても無駄だと悟ったのだろう。 そうそう。無駄だよ。だから黙ってついて来りゃいいの。 おとなしく俺が飽きるの待っててよ。
「帰ろうぜ英士」 すっかり日も傾いた頃、ようやく俺はここを離れる気になった。 何時間いたんだろう。その間、英士は文句一つ言わずほんとに黙って俺に付き合ってくれていた。 俺が話し掛けたときだけ口を開いてあとはずっと俺と同じ様にペンギンを眺めていて、 俺が帰ろうと言ったとき「一生分眺めた気がするよ」とほっとした顔をし、身体を伸ばしていた。 「お前、まだ時間平気?」 「今度はどこへ行く気?」 「そんな警戒すんなよ。もうどこも行かねえよ。腹減ったからマックにでも誘おうと思ったんだよ」 「ああ、それなら喜んで付き合うよ」 「よし、じゃあ行こうぜ」 エレベーター乗り場へと向かうとすでに人が大勢いた。乗れなかったら次でもいいよな、 みたいなことを言っている途中でタイミングよくエレベターが到着し、問題なく全員乗り込んだ。 途中で降りる人もいなければ途中の階で呼んでいる人もいないらしく、箱は一気に下降していく。 途中何度も耳がおかしくなって英士と顔を見合わせては唾を飲み込んで治すんだけど、 英士のやつマジで嫌そうな顔するもんだから俺笑っちゃったよ。 だってマジで苦手だ、って顔すんだもんよ。なんか新たな発見ってカンジになれて楽しかったよ。 「なに」 降りるなり英士が問い掛けてきた。 「べつに」 「中で人のこと見てずっと笑ってたでしょ。なんだよ」 「ひみつ」 「気になるから言えよ」 「言わない」 「またなにかヘンなこと考えてたんだろ」 「考えてないって。いやあ、お前に隠し事するって気持ちいいねえ。いつもいつもお前には速攻で ばれちまうんだからたまにはいいだろ」 「面白くないね」 「ばーか。それ言ったら俺なんかいつもいつも面白くねえよ」 そんな会話をしながら向けていた足がようやくマックの前まで辿り着いた。 「今度は俺が買ってくるよ。上行って席取ってて」 「わかった」 「いつものセットでいいんだろ?」 二階への階段を上がりながら手を上げて振って英士は答えた。それを確認してから俺は列に加わった。
「よっ」 「結構時間掛かったね。混んでた?」 「そうでもない。前のやつがすげえ買ってたんだよ。一人かと思ったら友達の分もだったらしくて 5、6人分まとめて買いやがった」 「そりゃ運がなかったね」 「まったくだ。けどこのポテト、出来立てだぜ? ……やっぱアツアツは美味いよな」 窓側の席から見る光景はすでにネオンが彩り美しく輝きだし、人の数も増えてきている。 店先に客引きが立ち、若い女や男、あるいは男女混合のグループが通行する人間のことなどまったく 考えてないのだろう、傍若無人に広がって話し込んでいる。 でも誰も文句なんかつけない。いちいち気になんかしてないのだ。多分、動く看板かなにかぐらいに 思って避けているのかもしれない。 「結人」 「んー?」 外の光景に目をやったまま呼び掛けに答えた俺はもう一度「結人」と呼ばれた。 「なに?」 「お前、あそこ以外にも行きたいとこあったんじゃないのか?」 「ああ、……べつにもういいよ。一番行きたいとこがあそこだったからさ」 「どこに行きたかったんだ?」 「あ、もしかして昼間言ってたあっちこっちをお前気にしてんの? だったら気にすんなって。 あれ、ノリで言っただけ。ほんとに行きたかったのはサンシャインだからさ。 時間あまった時のこと考えてさ、あっちこっち引っ張りまわすつもりもあってあの場は ああ言ったんだよ」 「……なるほど」 日が暮れるまでペンギン見続けるのとあっちこち引っ張りまわされるのとどっちが良かったんだろね、 残り少なくなったコーヒーをすすりながら真面目な顔して英士が自分に問い掛けていた。 どっちなんだろな。俺は楽しかったよ。引っ張りまわしたとしてもそれも楽しかったと思うけど。
池袋から新宿について、俺たちは別れた。家に帰る線がそれぞれ違うのだ。 ホームを移動していつも乗る場所について俺はなんとはなしに隣のホームに目をやった。 英士の姿を探した。見つけられなかった。どこか違う場所にでも並んでいるのかなと、 諦めたその時、向こうから歩いてくる英士の姿を見つけた。 ところがだ。 タイミング悪く、こっちのホームに電車が来ることを知らせる音が鳴り響いた。 英士は俺に気付くだろうか。気付いて欲しい気持ちで忙しなく眺めている俺の目の前を、 電車が無情にも飛び込んできた。突然遮られた俺は、急いで乗り込むと反対側のドアに走った。 ……いつからだろう。 英士と一馬は途中まで同じ電車で帰れるのに俺だけは一人違って。小学生の頃に一度だけ それを「ずっりぃのな」と帰り際に二人に言って別れたことがある。 その次の日だった。「お前を見送ってから電車に乗ってやるよ」と急に一馬が言い出した。 そしてその言葉通り、俺がいつも乗る場所付近で、ホームの向こう側からあいつらは俺を見送る ようになった。 そんな当たり前のことが……今日は……なんだか、……すごく嬉しいなんて、ヘンだ……。 いつものことなのに……。 ……英士っ…… 電車が走り出した。ゆっくり。英士の姿が視界から消えてゆく。座席の方の窓に目をやって少しでも 長く英士を見て、完全にホームが見えなくなってから空いていた席を見つけて座った。 見送られる時、英士の隣にはいつも一馬がいた。いつも二人並んでいた。 一馬はいつも手を振ってくれるけど英士はそんなこと一度だってしてくれなくて。 英士も振ってくれればいいのにと、ドアのこちら側でいつも思っていた。 だから、だから、……英士が一人の時に見送ってもらえるとは思わなくて……だって決めたのは 一馬で英士は一馬に付き合ってそれでいるんだと、ずっとずっと思ってた。 ……そっか、英士も約束してくれてたんだ。……なんだ、そっか……そうだったんだ……。 ごめんな英士、俺ずっと知らなくて……いつもいつも恨めし気にお前のこと、見てた……。 そんな俺を、俺が気付かなかっただけでお前はちゃんと見送っていてくれたんだ……。 なんで今まで気付かなかったんだろ、俺、英士のなにを見ていたんだろう……すげ、間抜けだ。 電車の中で、俺は生まれて初めて泣きそうになった。 視界が歪んだことに気付いて、泣いてる姿なんか見せられないから慌てて顔を下に向けた。 電車に揺られながら俺は今日一日を振り返ってみた。
…今日、俺はどうしても英士と一緒にいたかった。 SEXもしない、キスもしない、ただそばにいてもらえるだけの日がずっと欲しくて、 今日、そういう日にしようと朝起きてすぐに決めた。 ここ何日か俺の調子は良くなくて、そういう時はなにをやってもうまくいかないもので気分は 滅入るし思い悩むことはあるしでなんかずっと苛立ってた。 英士とは友情以上恋愛未満の関係を続けているけど、 そばにいれば好きだからやっぱりへこむ時だってある。 どうしても手に入れたいって、ガキみたくみっともないほど不貞腐れて地団駄踏みたくなる時だって ある。 俺がこんな風にへこむのは今回が初めてというわけではない。 英士を今日みたく誘い出して付き合わせたことも過去に何度かある。 へこむとさ、無性に英士に会いたくなるんだよ。自制がきかないの、そういう時の俺って。 不思議なんだよな……普段だったら絶対俺のわがままなんかきいちゃくれないのにこういう時の 俺のわがままにはあいつ、最後までちゃんと付き合ってくれるんだ。 へこんでる時にいつもみたく冷たくあしらわれたらすげえショックだろうから、きいてもらえるのは 摩訶不思議でも嬉しい。……隣にいてくれるだけで、気長に付き合ってくれるだけで、不思議と 気持ちが和らいでさ、安心するっていうか、安堵するっていうか、心の中にあったもやが晴れて いくんだ。 俺さ、ずるいんだよ。 友情以上の気持ち抱いてるくせに友情も失ってないことを確かめたくなるなんてさ。 試してるんだよ……英士が友達として俺を大切にしてくれているかどうか。友情を英士の行動で 図ろうとするなんてさ、……きたねえよな……。 でも、もうそうすることでしか俺、立ち直れなくなっちまったんだよ。 俺ってすげえ情けないやつなんだよ。諦めも悪いからさ、足掻いてもがいて友情にすがってさ、 人のちから借りてすくわれようなんて情けねえ話だけど、だけど俺、英士にすくって欲しいんだ。 好きになってくれなくてもいいそばにいてくれればいい、いつもは好きになってくれって思うくせして こういう時だけすげえ殊勝なこと考えちまうの。 そんな俺をまた英士もちゃんとすくってくれちゃうからさ、……今日だってまたすくわれちまったし、 ……今日一日友達として付き合ってくれたことがどれだけ嬉しかったか、あいつちゃんとわかって くれたかなぁ……。 ついにそこで堪え切れなくなって完全に目の前がぼやけてしまった。目の下に伝うものを感じて、 さすがに人前で泣き姿晒しちまえほど理性を失ってはいないので、行儀が悪いとは思ったけど座席の 上に片足を乗せてその膝の上に顔を埋めて隠した。 乗り換える駅は、まだ何個か先だ。そこにつくまでには泣きやめるだろうか。 泣きはらした目で歩きたくはないし、鼻の頭を赤くした顔で人前に立つのだってイヤだ。 ……帰ったら英士に電話入れてみようか……。そんなことを思ったらなんだかまた泣けてきた。 俺はこっそりと、誰にも泣いているなんて気付かれないよう周りを気にしながら膝で目を擦った。 そんなことをすればかえって目を腫らすだけだと気付かないで。
END
結人→郭真の英士です。 やっぱり一馬は出て来ていません。 おかしいです。有島は郭真のはず! なのになんでこういう話が続く!? それは片思いが世界一似合う結人が頭の中で踊っているからです。 しかしまた長かった。 それにしても湿った話である。 BGMはイエモンでした。 《BRILLIANT WORLD》と《LOVE LOVE SHOW》と《プライマル。》 これをエンドレスさせて勝手に有島もトリップしてました。 これって結人のテーマよねえ、なんて恥かしいことは言えません……て言っちゃったよ、あちゃー。 結人は泣かない人だと思うけど英士への片思いには命懸けてそうなとこありそうで、 なんかいつもぎりぎりのところで切羽詰ってんじゃないのかなあと、思ってみたり。 ああ、またトリップしてますね。 |