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荊の棺






 
 

 一馬が死んだ。

 

 

 自ら生きることを放棄したのだという。

 

 

 首を吊って、自ら命を絶ったというのだ。

 

 

 なぜ、なぜそんなことを……。

 

 

 一馬が死んだという場所へ向かうタクシーの中で考えることは『なぜ』という思いばかり。二日前
に会った彼には『死』の影など見当たらなかった。見落としていたのだろうか。いや、本当にいつも
とかわらない様子で悩んでいる様子もなければおかしいと感じるような様子もなかった。まったく普
通で突然過ぎる出来事だ。

 なにかの間違いであって欲しい。彼の死を受け入れることなど当然できることではない。けれど今、
向かう車の中で考えることは『なぜ』と彼を死へと導いた原因。こんなことはあって欲しくないこと。
なのになぜ自分は探るのか。連絡を受けただけでまだ遺体は見ていないというのになぜ、なぜ――。

 ああ、彼の顔が思い出せない。思い描く顔はすべてぼやけて顔がない。

 こんなことは夢であって欲しい。『死んだ』など、信じない、嘘だ。

 ――なのになぜ、こんなにも躯が震えてくるのか。まだ九月に入ったばかりだ。夏は終わったがま
だ暑さは残っている。今日も昼には30℃を越えた。それなのになぜ、自分はこうして震えているの
か。

 一馬。一馬。一馬。お前の顔が思い出せない。お前の顔が浮かばない。こんなことは過去一度もな
かったことだ。ああ、一馬、一馬。早くお前に会いたい。

 

 

 


 タクシーが、警察署の敷地内へと入った。建物の入り口のすぐそばにパトカーが二台並んで止まっ
ている。車一台分のスペースをあけてそれらの右手にはなぜかワゴンも止まっている。建物の左手、
奥の方には来訪者専用になっているのか一般車らしきものが数台駐車されている。ここから見るかぎ
り人の姿は見当たらない。けれど人がいた気配がそこかしこに残っている。

 お釣りはいらないからと、五千円札を運転手に渡して飛び出すようにして車内から降りた。建物の
入り口はオートのガラス扉。なんてのろまな動き。開ききるのが待ちきれなくて途中自分の手で押し
開けて入った。

 真正面に受付らしきものがあり、奥には人の姿。まぱらだが忙しく動いている。そのカウンターの
左手に自動販売機が二つ並んで置かれている。壁に沿って長イスまでもが置かれまるで病院の待合室
かのようなスペースに、一馬のご両親の姿があった。見知らぬ者も数名いるが恐らく親戚、あるいは
親しく付き合っている人たちであろう。

 「英士」

 背後から結人の声。

 「結人」

 一馬は? たずねるよりも早く結人の手が俺の腕を掴み、無言なまま外へと連れ出される。

 「結人、一馬は?」

 駐車場の方まで連れて行かれ、建物からもれる明かりを避けるようにして足を止めたところで表情
を硬くさせたままの彼のその様子から目を逸らすことなくたずねた。鼓動は早まり首の後ろや背筋に
ぞわぞわと悪寒が走り、躯中に不安が広がっていく。

 「結人」

 俺は急いていた。俺の問い掛けに、彼が『間』をあけているような気がしてならなかった。すぐに
応えてもらえなかったそのわずかな『間』にも不安は広がり、ぼやけてた彼の顔に死に顔がちらつく。

 「今、警察の方で検案が行われてる」

 不安が、絶望へとかわった。躯から力が抜けていき、その場にへなへなと座り込んでしまうとよく
聞くが、俺の場合はそうでなく、足元から凍りついたように身動きがとれなくなりただ、ただ、その
場に立ち尽くしていた。なんと表現していいのかわからない、静かな絶望だった。

 「……なんで、……」

 「遺書はいまのとこまだ見つかっていない。あったとしても、一馬のお母さんがそういうものは見
当たらなかったって言ってるから、多分、出てはこないと思う」

 「どこで……?」

 「家の近くの資材置き場。一馬の叔父さんの土地らしんだけど、ちっさい頃、よく遊んだ場所らし
い。今でも、……たまにらしいけどボールを蹴ったりするのに使うことがあったらしい」

 一馬の、幼い頃の顔が思い出された。震える躯を自分で抱きしめながら聞いていた。

 「結人、一馬に会った?」

 「……ああ。現場にすぐ行って、もう警察が来てて中には入れなかったけど、事故処理が終わった
ら……下ろされたあいつに会ったよ……」

 「……説明、してくれる……?」

 「ああ。まだしばらく時間かかりそうだからどこかに座って話そう。その方が……いいだろ?」

 『下ろされた』という言葉に、がくがくと足が震えた。恐ろしくもあり、悲しくもある事実にどう
言えばいいのか言葉など失くしてしまった。ああもうだめなのだと、なにを間に合うと思っていたの
か自分でもよくわからなかったけれど、絶望した自分が心の中で繰り返したのは望みのなくなったこ
とを示す言葉。

 「英士……」

 木偶のぼうのごとく立ち尽くす俺の肩に触れた結人のその手もまた震えていた。彼は直接一馬の遺
体を目にしているのだ。俺よりも絶望の度合いは深いであろう。もの言わぬ彼をその目で見てしまっ
たのだから。

 「向こうへ移動しよう。座った方がいい」

 「……ごめん、……」

 俺は結人の誘いに首を振った。

 「動け、……そうにない……。ここでいい、このままでいいから……話してくれ……」

 まるで誰かに足首を掴まれているみたいだった。この場から動こうにもぴくりとも動かせないのだ。
ほんのわずか、かかとをあげるということすらもできないのだ。

 「どこから話せばいいのかな……俺もまだ頭の整理ができてなくて、うまく順を追って話せそうも
ない……英士の方で聞きたいことあったら言って……。うまく話せるかどうかわかんねえけど努力は
してみるから……」

 聞きたいことはいっぱいあった。でも俺の方もなにから聞いていっていいのか、うまく整理がつか
ない。知りたいことはたくさんあるのに。いざとなったら怖いのかもしれない。知らなければ、まだ
夢だと思える。今ならまだ死んじゃったのかなって、ぼけっとしていられる。でもすべてを知ってし
まったなら、本当に死んでしまったのだと喪失感を覚えてしまったのなら、夢を見ることもできなく
なる。まだ信じていたいのかもしれない。もういないのだということを思い知らされてしまうのが怖
いのかもしれない。だからこんなにも整理がつけられないのかもしれない。

 「英士」

 「ごめん……俺も、うまく整理がつかない……なにから聞けばいいのか……ここに来るあいだ車の
中でいろいろ考えてたんだけど……ここに来たら……なんか言葉がなくなっちゃって……それに、ま
だなんかピンとこなくて……夢の中での出来事なんじゃないかって気持ちが捨て切れなくて……」

 「うん、……しょうがないよ……俺だってまだウソだろっていう気持ちが残ってるもん。一馬のあ
んな姿見てもまだ信じられねえもん。まだ見てない英士が整理がつかないのは無理ないよ」

 あんな姿……その言葉がそのまま胸に深く突き刺さった。その刃の先から想像の域を出ない彼の死
に顔が、注入される液体のように全身にまわり、息苦しさに喘いだ次の瞬間から瞼を落としても目を
開けていても彼のその顔が焼きついてはなれなくなった。

 「結人」

 一馬はどんな顔をしていた?

 死ななければならなかった理由や一番最初に誰が発見したとか、警察はすぐに来てくれたかとか、
その来た警察がなにをしていったとか、もちろん知りたいとは思うがいま一番知りたいことはそうい
う背景や状況といったものではなく、彼の最期がどうであったかということ。苦しくないわけがない
のだからひどく苦しんだ様子があったとか、思ったよりも穏やかだったとか、一馬の面影がちゃんと
残っていたとか、彼の顔には、彼の最期の様子が覗えるだろう表情が残されてたはず。彼がどんな顔
をして逝ったのか、それが知りたい。

 現場に間に合わなかった俺は最期の顔を見ていない。想像することでしか思い描けない顔は、見て
いないから血の通わない冷たい薄っぺらな顔しか描けない。自分で描いておいて『違う』と言うのは
へんな話になるのだが、でもあれは一馬なんかじゃあない。俺の知る一馬は、もっと、……知る一馬
はもっと……。だめだ。思い出そうとしてもなんでかちゃんと思い出せない。なんでなのだろう。俺
が一馬のことを思い出せなくなるなんて。こんなことがおこるなんて、悲しいにもほどがある話じゃ
ないか。こんな思いをするなんて、こんな世界、夢であってほしいよ。だから知りたいんだ。彼の死
を現実として受け止めるためにも、そして覚悟を持つためにも真実を知りたいのだ。彼の最期の顔を
知ることができれば、こんな虚しくてもどかしい悲しみからはきっと抜け出せる。

 「結人は見たんだろ?」

 外灯も届かない、そんな暗い場所で見る結人の顔は、当然表情なんてないように見える。ひどい話
だが俺は、この暗い環境を都合がいいと思った。だって結人にとって決して口にしやすい内容でない
ことを語らせようとしているのだ。彼だってショックを受けているというのに、時間もおかずに話せ
なんて普通の心理状態ではないから言えるのだ。だから、彼の様子がわからないこの環境は、少しだ
けど俺の気持ちを楽にしてくれる。

 「……ああ」

 「ほかのことはいいから、それだけ教えて。一馬は、どんな顔をしてた? 苦しそうだった?」

 「いや、そんなことなかった……」

 「どんな顔、してた……?」

 「眠ってるみたいだった。やけに眩しい明かりの下で見たからなのかもしれないけど、なんか、日
に焼けたみたいな顔してたけど……。でも呼んでも起きないのが不思議なくらい俺たちがよく知って
る寝顔だった」

 「そう、……一馬、日に焼けた顔、してたんだ……」

 今日の暑さだ。きっと一馬も暑かっただろう。あの暑い日差しの下に、いったいどれくらいの時間、
彼はいたのだろう。うんと暑かったにちがいない。

 「なんでこんな暑い日に……」

 日中の暑さを思い出すなか、口が勝手に動いていた。あの暑さのなか、彼がなにをしていたのかを
考えたら吐き出す息が掠れてきた。浮かんだシルエットに肌が泡立ち、子供が駄々をこねるみたいに
地団駄を踏み手をばたつかせたい気分だ。なんて言って表現すればいいのか、手足をばたつかせて息
をのむことしかできない、そんな気分だった。

 泣きたいのかもしれない。声をあげたいのかもしれない。喚いてしまいたのかもしれない。でもど
んな言葉でこの気持ちをあらわせばいいのかそれを表現する言葉が躯のどこを探しても見当たらない。
声にする言葉が、見つからない。

 「……ばかだ、一馬……」

 右往左往するような状態からあたりを引っ掻き回して引き出してきた言葉は、絶望を手掴みで引き
摺り歩く俺の心の中にむなしく転がってたものだが、いまのいままで口にしないで閉じ込めてきたも
のでもある。だって言ったってもうしょうがないじゃないか。本当にばかだけど、もう言ったって本
人には届かないのだから。むなしいじゃないか。こんなむなしい言葉、言ったって侘しくなるだけな
んだから。

 だけどもう、そう言うしかないじゃないか。

 「ばかだよ、……一馬……ばかだよ……」

 「……だな。……ばかだばかだとは思ってたけど、まさかこんなおおばかだったとは思わなかった
よ……ほんと、……ばかだよな……」

 掴む二の腕にこれ以上爪が食い込むのをやめさせるかのように、伸ばされてきた結人の手が右手を
掴み自分がしてたことに気づいた俺にその躯を預けてきた。

 「結人……」

 静かに預けられたその躯に手を掛けようとしたその時。
 
 「結人っ」

 人がこちらにやって来るのが見えた。二人してはっと顔を上げてその人がやって来るのをものすご
い緊張感に包まれながら待つ。近づくにつれて足の震えも強くなってくる。内臓ごと飛び出してきそ
うな勢いで心臓も騒いでいる。抱き合っているんだか寄り添っているんだかよくわからない状態で結
人と待つこの躯は固まって動けないし、背中では吐き気がするほどの寒気が所狭しと暴れまわってい
るし、一秒一秒時間が進むにつれて体調が悪くなっていくようだ。

 「……えっと、若菜くん、だったね? 終わったようだから中へ戻って来てもらうよう言われてき
たんだが……」

 ちらりと、視線が俺の方を見た。誰なのかと、尋ねられているような気がした。

 「あの、郭です。連絡して来てもらったんです」

 応えたのは結人だった。

 「このあと、会えるそうだよ」

 俺たちは、無言で頷いた。男の人のあとについて、明るい方向へと向かった。自分の足で歩いてい
るのに歩いている感覚がしなかった。鼓動は、いまなお治まりがつかない。むしろ心臓発作でも起す
んじゃないかと不安になるくらい激しくなっていくような気がする。

 「英士……」

 入り口に着くと、結人が腕を掴んできた。強い力だった。男の人が先に入っていくのを見送ってか
ら、足を止めた。受付の前に人が集まっているのが見えた。一馬の母親は、おじさんに支えられてい
なければ立っていられないようだ。いつもは優しい笑顔で迎えてくれるのに、今日の彼女はひどく憔
悴しきり、痛々しいほど表情を強張らせている。

 「……なに?」

 中の様子が気になって悪いけど結人に目をやる余裕なんてない。

 「一馬、ケガ、してるんだ……」

 「え、……けがって、どこを……?」

 思わず振り返ってしまった。どこにどんなケガを負っているというのか。

 「頭。一度……失敗してるみたいなんだ……その時のキズだろうって……この、こめかみの近くか
ら……血が出てた……」

 腹立たしいような、胸苦しいような、遣り切れないものを感じた。こんな、辛いことは今まで経験
したことがない。もう、苦しくて苦しくて。辛くて最悪な気分だ。

 「いま、言うことじゃないのかもしれないけどさきに言っておいた方が、……その、いいと思って」

 俺は、何度か頷いて結人の手を軽く振って払った。強張った顔をする結人が無言で横を抜けていく。
オートの扉が開く音に躯が反応を示した。感覚のない歩行。震えの止まらない手足。家族のあとに続
いて署内の奥へと進んでいく。遅い時間だからか、フロア以外は明かりがなく、薄暗い通路を通され
る。嫌な空気だ。気持ちがさらに沈む。

 一枚のドアが開けられて再び外に出た。生暖かい風が肌を撫で回していく。

 いったいここはどこなんだ、どういう場所なんだと思わせる不思議な空間である。向かうさきに見
えるのは、建物とは言えない、でも大きな口をあけたコンクリート箱。消防車だか救急車だかがよく
待機しているような、そんなつくりをした口。そこだけが皓皓としている。入り口の付近には人が立
ち、こちらが到着するのを待っているのかじっとこちらに向いている。

 その立っている男におばさんが一礼した。続いておじさんも。

 ああっ。ああ、ああ、ああ……なんて、ことだ。言葉が出ない。ひどい、ひどすぎる。なんてこと
だ。こんなことがあっていいわけがない。なんてことだ。ああ、一馬!

 悲痛な叫びが響き渡るなかで、俺もまた手足をばたつかせたい気分に襲われていた。

 一馬の名前が嗚咽とともに響き渡る。母親が素っ気無い寝台の上に横たわる一馬に抱きついて泣き
叫ぶ。息子の名前以外言葉を知らぬかのように何度も何度も一馬の名前を繰り返す。

 すすり泣く声があちらこちらから漏れ聞こえてくる。目頭を押さえて肩を抱き合い、嗚咽があたり
を支配する。

 ああ、一馬。いつまでそうやって寝ているのだ。起きてくれ。頼む。そこからその身を起してくれ。
ひどすぎる。こんなことってない。うそだと言ってくれ。悪い夢だと言ってくれ。おばさんが泣いて
るじゃないか。あの優しくて穏やかなおばさんがこんな大きな声で泣いてお前のことを呼んでいるじ
ゃないか。起きてやんなよ。もういい加減そこから起きてこいよ。一馬、一馬、一馬……!

 「英士……」

 俺と結人はゆっくりと一馬に近づいていった。

 「……っ」

 言葉なんて出せなかった。こめかみ付近の傷口に涙が出そうになった。まだ新鮮な赤い肉を見せて
ぱっくりと口をあけた傷口は、出血こそ止まっているものの衝撃でも与えれば開いてしまいそうなほ
どまだ生々しい。

 一馬の作った最後の傷。……静かに触れてみた。震える指先でゆっくりと撫でてやる。

 痛かっただろ? なんで、この傷が出来たときに思いとどまらなかった……?

 彼の……その時の姿が頭に浮かんだ。いったいどんな思い出再び立ったのか。どんな思いで括った
のか。考えたらもう涙が止まらなかった。嗚咽が漏れてこないのが不思議なくらい涙が溢れて溢れて
零れ落ちてくる。

 一馬、一馬……。

 俺までもがそれしか言葉を知らぬかのように繰り返して呼ぶ。

 一馬、一馬。

 ほかに言うことなんかない。彼の名を呼ぶこと以外にしたいことなどない。

 一馬。一馬、一馬、一馬。

 物言わぬお前を目の前にしたらやっぱり悪い夢だと思いたくなったよ。こんなのイヤだよ。

 明日の朝、一馬は大学病院の方に運ばれて検案が行われるという。死亡時刻もわかるし死因もはっ
きり特定できるとも言う。それが終わったら帰ってくるという。きちんと、きれいにされて戻ってく
るという。でも、この傷はもう処置してもらえないのだ。そのままだというのだ。

 一馬、一馬。

 早く起きないと、俺たちもう会えなくなっちゃうよ。俺、お前に会えなくなるのイヤだ。

 「英士……」

 俺と結人を残して、一人、一人、また一人と一馬から去っていく。母親までもがその場から離れて
行ってしまった。でも俺はまだ離れたくない。まだそばに、ここにいたい。まだ一馬のそばにいたい。

 「英士、……」

 うるさい。触るな。俺は行かない。ここにいる。ここから離れない。

 「英士……もうみんな行くよ……」

 行けよ。俺は残る。

 「英士、明日また会えるから……」

 俺は首を振った。涙が零れ落ちて足元を濡らした。一粒、また一粒、涙のあとができる。

 「だって結人……」

 目を真っ赤にした結人がその目を手首で擦った。鼻をすする彼に、俺は言った。

 「だって結人、こんなとこに一晩置かれるなんてかわいそうだ……。誰もそばにいてやらないなん
てかわいそうだ……だって結人、……」

 駄々をこねる子供のように俺は俺を支える結人にすがって訴えた。

 暑いのに。こんなに暑いのにこんなところに一晩置かれるなんてかわいそうだ。一馬は暑がりだっ
た。こんなむし暑いところ、かわいそうだよ。

 「英士、……」

 泣いて訴える俺を強く抱いて、本当に母親のように結人は諭す。

 ここにはいられないのだと、困らせないでくれと、頼むからそんなこと言わないでくれと。

 「……でも結人……」

 結人から離れて俺はもう一度一馬に触れた。肩、額、髪、口、目、胸、そして、指。もうこの指は
握っても握り返してはくれない。髪に触れても気持ちよさそうに目を閉じてくれることもない。そし
てもうこの目に俺を映してくれることもない。

 「……でも結人、きっと一馬、暑がるよ……こんなところに一人で……一晩だけだとしてもかわい
そうだ。こんなところに……」

 いくら訴えても結人は黙って首を振るだけだった。いまいちど、俺は傷口に触れてみた。口をあけ
て見せる肉はこんなにまだ生々しいのに一馬は痛がってもくれない。もう、ほんとになんにも感じな
いんだね。

 「……一馬、おまえ、ばかだよ……」

 傷口を撫でたその指を俺は口へともっていった。どうかこの指がいつまでもこの傷のことを覚えて
ますように。願って指の腹に唇を当てる。

 「……ばかだね、一馬……」

 今夜のような暑い日にこんなところに置かれて……。

 「英士」

 どうしても立ち去り難い俺の手を掴んだ結人が『そろそろ行かないと』と言う。

 でも俺はまだこの場にいたくて、なのにずっとはいられないんだよって言われて、俺は駄々をこね
る子供のように涙を落とした。

 「でも結人、でも結人……」

 聞き入れてもらえないことはもうわかっているんだけど、ここにいたいんだ。

 俺は一馬に触れようと手を伸ばした。結人がその手を掴み『ダメだ』と言いたいのか首を振る。俺
も首を振る。帰れない。置いては帰れない。まだそばにいる。ここにいる。

 願いはことごとく反対された。

 「さあ、帰ろう英士」

 腕を引っ張る結人に俺は首を振って抵抗した。

 帰れない。帰れないんだ結人。

 どうやってもその腕が振り払えない。頼んでもはなしてもらえなかった。

 「結人、連れて帰ろうよ……」

 俺は泣いて頼んだ。

 だけどやっぱり結人は首を振るのだった。だから俺も首を振ってまた駄々をこねだした。

 かわいそうだよ。だってこんなに暑いのに。結人は平気なの? ねえ、連れて帰ろう。

 一馬を指さすと結人はしゃくり泣きを始めた。

 「連れて帰ろうよ、ね、結人……」

 俺も一緒になってしゃくり上げた。俺はどうしても一馬を連れて帰りたかったのだ。一人になんて
させたくなかったのだ。

 今度は俺が結人を引っ張る番だった。

 「一馬のとこに行こう……あんなとこに一人はかわいそうだよ。ね……?」

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 「英士、なに泣いてるんだよ」

 疑問もなにもなく、声のする方に顔を向けた。

 一馬だ。

 一馬がいる。

 「一馬だ……」

 「ちょっ、おいっ。だからなんでそんな泣くんだよ」

 夢、だったんだ。あれは全て夢の中での出来事だったんだ……。

 「英士ってば、おい」

 「……夢を……」

 よかった……。ほんとによかった……。

 「夢って……いったいどんな夢見たんだよ。あーもう、ほら、布団のはしでいいから顔拭けよ。
すっげえことになってんぞ英士」

 布団を引き上げるさいに触れてきた手を掴んで、一馬を自分のもとへと引き寄せる。不意をくらっ
た一馬はびっくりしておさめた腕の中で手をばたつかせる。

 生きている。心臓もちゃんと動いている。温かみもある。なによりこんなに元気だ。

 「おい、英士、なんなんだよはなせよ、おいってば」

 「イヤな夢を見たんだ……しばらくこうさせてて……」

 「イヤなって……いったいお前ほんとにどんな夢見たんだよ」

 「……よく覚えてない……でもイヤな夢だってことは覚えてる……」

 「なんだそりゃ。マジで全然覚えてねえの?」

 「うん。覚えてない……」

 「しょうがねえなあ」

 みじろいだ躯をはなすまいとちからをこめた俺に、一馬は抵抗するのではなく甘えることを許して
くれた。腕の中におとなしくちゃんとおさまり、襟足やこめかみ付近に手をかけても文句一つ言わな
い。くすぐったいからやめろって、いつもだったら言ってるのに。

 「……一馬」

 「んー?」

 「……」

 ただ呼んでみただけ。こたえが返ってくるかを確かめてみただけ。ちゃんとこたえは返ってきた。
あの、一馬とはちがう。夢から、本当にあの悪夢から覚めたんだ……。

 「なんだよ英士」

 「……ごめん、やっぱりなんでもない」

 

 

 


 もし、これもまた夢だったら……?

 

 

 


 やめよう。こんなこと考えるのはやめよう。きりがなくなる。

 

 

 


 悪夢からは覚めた。あれは夢の中で起きたこと。疑うのはやめよう。一馬がいる世界が正しい現実
の姿。疑ってはだめだ。

 

 

 


 「英士」

 

 

 


 ああ、どうしよう。

 

 

 


 一馬が呼んでいる。

 

 

 


 一馬の呼ぶ声でさっきは世界がかわった。もしこの声に応えたらどうなる? また、べつの世界に
おちるんだろうか。

 

 

 


 「聞こえてる、英士?」

 

 

 


 聞こえてるよ、はっきりとね。

 

 

 


 「英士?」 

 

 

 


 ……イヤな気分だ。

 

 

 


 「おい、返事しろよ英士」

 

 

 


 俺はまだ夢を見ているんだろうか……。これも、夢なんだろうか。

 

 

 


 「英士?」

 

 

 


 不安に駆られ、その不安を取り払うために触れたこめかみのあたり。傷はない。夢の中でしたよう
に撫でてもみたが違和感はかんじなかった。あとは首だ。そこはどうなっている?

 

 

 


 「ちよっ、英士、なんだよ」

 

 

 


 恐る恐る伸ばし探ったそこに、怪しげなものはなかった。でもあるとしたらあざのようにくっきり
とついているだろう痕跡。触れてひっかかるようなものではないはず。手ではなく目で確認したなら
ばなにかをそこに見てしまうのだろうか。

 

 

 


 「くすぐったいって英士。なにやってんだよ」

 

 

 


 イヤな気分だ。覚めたはずの悪夢が口をあけて俺が落ちるのを待ってるみたいだ。

 

 

 

 「ちょっ、ちょっと英士、さっきからなにそこばっか触ってんだよ」

 

 

 

 一馬、……俺はまだ夢をみてるのかな……。いつまでたっても夢を見てるような気がしてならない
んだ……。躯が感じるこの温もり、この重みはこんなにもリアルなのに。

 

 

 

 やがて朝がくる。あの窓の向こうにしらみはじめる空を見ることができるだろうか。夢でなければ
見られるだろう。

 

 

 


 「ちょっと英士、俺の言ってること聞いてる?」

 

 

 

 聞いてる。だから、この温もりを抱いたまま朝を待つことにしたよ。

 

 

 

 

 

 




END

 


 

痛いですか?やっちゃいましたか?
いったたたたたたたたたたの死にネタです。
好きです。死にネタ。
ハッピーエンドはもちろん好きだがアンハッピーエンドなものも好き。
人様のSSを色々と読ませてもらっていますが、ブラックあるいは禁断の死にねたと表記されてると
更新日にとらわれずなにをおいてもクリックしてます。
はい、好きなんです。

さて、これですが、死にネタな上に夢物語。
禁断の手を二つまとめて使っちゃいました。
もうしません。
とりあえず、ワンジャンルで一回、必ずやります。ていう、やりたくなっちゃうの。
だから許して。

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