荊の棺 一馬が死んだ。
自ら生きることを放棄したのだという。
首を吊って、自ら命を絶ったというのだ。
なぜ、なぜそんなことを……。
一馬が死んだという場所へ向かうタクシーの中で考えることは『なぜ』という思いばかり。二日前 なにかの間違いであって欲しい。彼の死を受け入れることなど当然できることではない。けれど今、 ああ、彼の顔が思い出せない。思い描く顔はすべてぼやけて顔がない。 こんなことは夢であって欲しい。『死んだ』など、信じない、嘘だ。 ――なのになぜ、こんなにも躯が震えてくるのか。まだ九月に入ったばかりだ。夏は終わったがま 一馬。一馬。一馬。お前の顔が思い出せない。お前の顔が浮かばない。こんなことは過去一度もな
お釣りはいらないからと、五千円札を運転手に渡して飛び出すようにして車内から降りた。建物の 真正面に受付らしきものがあり、奥には人の姿。まぱらだが忙しく動いている。そのカウンターの 「英士」 背後から結人の声。 「結人」 一馬は? たずねるよりも早く結人の手が俺の腕を掴み、無言なまま外へと連れ出される。 「結人、一馬は?」 駐車場の方まで連れて行かれ、建物からもれる明かりを避けるようにして足を止めたところで表情 「結人」 俺は急いていた。俺の問い掛けに、彼が『間』をあけているような気がしてならなかった。すぐに 「今、警察の方で検案が行われてる」 不安が、絶望へとかわった。躯から力が抜けていき、その場にへなへなと座り込んでしまうとよく 「……なんで、……」 「遺書はいまのとこまだ見つかっていない。あったとしても、一馬のお母さんがそういうものは見 「どこで……?」 「家の近くの資材置き場。一馬の叔父さんの土地らしんだけど、ちっさい頃、よく遊んだ場所らし 一馬の、幼い頃の顔が思い出された。震える躯を自分で抱きしめながら聞いていた。 「結人、一馬に会った?」 「……ああ。現場にすぐ行って、もう警察が来てて中には入れなかったけど、事故処理が終わった 「……説明、してくれる……?」 「ああ。まだしばらく時間かかりそうだからどこかに座って話そう。その方が……いいだろ?」 『下ろされた』という言葉に、がくがくと足が震えた。恐ろしくもあり、悲しくもある事実にどう 「英士……」 木偶のぼうのごとく立ち尽くす俺の肩に触れた結人のその手もまた震えていた。彼は直接一馬の遺 「向こうへ移動しよう。座った方がいい」 「……ごめん、……」 俺は結人の誘いに首を振った。 「動け、……そうにない……。ここでいい、このままでいいから……話してくれ……」 まるで誰かに足首を掴まれているみたいだった。この場から動こうにもぴくりとも動かせないのだ。 「どこから話せばいいのかな……俺もまだ頭の整理ができてなくて、うまく順を追って話せそうも 聞きたいことはいっぱいあった。でも俺の方もなにから聞いていっていいのか、うまく整理がつか 「英士」 「ごめん……俺も、うまく整理がつかない……なにから聞けばいいのか……ここに来るあいだ車の 「うん、……しょうがないよ……俺だってまだウソだろっていう気持ちが残ってるもん。一馬のあ あんな姿……その言葉がそのまま胸に深く突き刺さった。その刃の先から想像の域を出ない彼の死 「結人」 一馬はどんな顔をしていた? 死ななければならなかった理由や一番最初に誰が発見したとか、警察はすぐに来てくれたかとか、 現場に間に合わなかった俺は最期の顔を見ていない。想像することでしか思い描けない顔は、見て 「結人は見たんだろ?」 外灯も届かない、そんな暗い場所で見る結人の顔は、当然表情なんてないように見える。ひどい話 「……ああ」 「ほかのことはいいから、それだけ教えて。一馬は、どんな顔をしてた? 苦しそうだった?」 「いや、そんなことなかった……」 「どんな顔、してた……?」 「眠ってるみたいだった。やけに眩しい明かりの下で見たからなのかもしれないけど、なんか、日 「そう、……一馬、日に焼けた顔、してたんだ……」 今日の暑さだ。きっと一馬も暑かっただろう。あの暑い日差しの下に、いったいどれくらいの時間、 「なんでこんな暑い日に……」 日中の暑さを思い出すなか、口が勝手に動いていた。あの暑さのなか、彼がなにをしていたのかを 泣きたいのかもしれない。声をあげたいのかもしれない。喚いてしまいたのかもしれない。でもど 「……ばかだ、一馬……」 右往左往するような状態からあたりを引っ掻き回して引き出してきた言葉は、絶望を手掴みで引き だけどもう、そう言うしかないじゃないか。 「ばかだよ、……一馬……ばかだよ……」 「……だな。……ばかだばかだとは思ってたけど、まさかこんなおおばかだったとは思わなかった 掴む二の腕にこれ以上爪が食い込むのをやめさせるかのように、伸ばされてきた結人の手が右手を 「結人……」 静かに預けられたその躯に手を掛けようとしたその時。 人がこちらにやって来るのが見えた。二人してはっと顔を上げてその人がやって来るのをものすご 「……えっと、若菜くん、だったね? 終わったようだから中へ戻って来てもらうよう言われてき ちらりと、視線が俺の方を見た。誰なのかと、尋ねられているような気がした。 「あの、郭です。連絡して来てもらったんです」 応えたのは結人だった。 「このあと、会えるそうだよ」 俺たちは、無言で頷いた。男の人のあとについて、明るい方向へと向かった。自分の足で歩いてい 「英士……」 入り口に着くと、結人が腕を掴んできた。強い力だった。男の人が先に入っていくのを見送ってか 「……なに?」 中の様子が気になって悪いけど結人に目をやる余裕なんてない。 「一馬、ケガ、してるんだ……」 「え、……けがって、どこを……?」 思わず振り返ってしまった。どこにどんなケガを負っているというのか。 「頭。一度……失敗してるみたいなんだ……その時のキズだろうって……この、こめかみの近くか 腹立たしいような、胸苦しいような、遣り切れないものを感じた。こんな、辛いことは今まで経験 「いま、言うことじゃないのかもしれないけどさきに言っておいた方が、……その、いいと思って」 俺は、何度か頷いて結人の手を軽く振って払った。強張った顔をする結人が無言で横を抜けていく。 一枚のドアが開けられて再び外に出た。生暖かい風が肌を撫で回していく。 いったいここはどこなんだ、どういう場所なんだと思わせる不思議な空間である。向かうさきに見 その立っている男におばさんが一礼した。続いておじさんも。 ああっ。ああ、ああ、ああ……なんて、ことだ。言葉が出ない。ひどい、ひどすぎる。なんてこと 悲痛な叫びが響き渡るなかで、俺もまた手足をばたつかせたい気分に襲われていた。 一馬の名前が嗚咽とともに響き渡る。母親が素っ気無い寝台の上に横たわる一馬に抱きついて泣き すすり泣く声があちらこちらから漏れ聞こえてくる。目頭を押さえて肩を抱き合い、嗚咽があたり ああ、一馬。いつまでそうやって寝ているのだ。起きてくれ。頼む。そこからその身を起してくれ。 「英士……」 俺と結人はゆっくりと一馬に近づいていった。 「……っ」 言葉なんて出せなかった。こめかみ付近の傷口に涙が出そうになった。まだ新鮮な赤い肉を見せて 一馬の作った最後の傷。……静かに触れてみた。震える指先でゆっくりと撫でてやる。 痛かっただろ? なんで、この傷が出来たときに思いとどまらなかった……? 彼の……その時の姿が頭に浮かんだ。いったいどんな思い出再び立ったのか。どんな思いで括った 一馬、一馬……。 俺までもがそれしか言葉を知らぬかのように繰り返して呼ぶ。 一馬、一馬。 ほかに言うことなんかない。彼の名を呼ぶこと以外にしたいことなどない。 一馬。一馬、一馬、一馬。 物言わぬお前を目の前にしたらやっぱり悪い夢だと思いたくなったよ。こんなのイヤだよ。 明日の朝、一馬は大学病院の方に運ばれて検案が行われるという。死亡時刻もわかるし死因もはっ 一馬、一馬。 早く起きないと、俺たちもう会えなくなっちゃうよ。俺、お前に会えなくなるのイヤだ。 「英士……」 俺と結人を残して、一人、一人、また一人と一馬から去っていく。母親までもがその場から離れて 「英士、……」 うるさい。触るな。俺は行かない。ここにいる。ここから離れない。 「英士……もうみんな行くよ……」 行けよ。俺は残る。 「英士、明日また会えるから……」 俺は首を振った。涙が零れ落ちて足元を濡らした。一粒、また一粒、涙のあとができる。 「だって結人……」 目を真っ赤にした結人がその目を手首で擦った。鼻をすする彼に、俺は言った。 「だって結人、こんなとこに一晩置かれるなんてかわいそうだ……。誰もそばにいてやらないなん 駄々をこねる子供のように俺は俺を支える結人にすがって訴えた。 暑いのに。こんなに暑いのにこんなところに一晩置かれるなんてかわいそうだ。一馬は暑がりだっ 「英士、……」 泣いて訴える俺を強く抱いて、本当に母親のように結人は諭す。 ここにはいられないのだと、困らせないでくれと、頼むからそんなこと言わないでくれと。 「……でも結人……」 結人から離れて俺はもう一度一馬に触れた。肩、額、髪、口、目、胸、そして、指。もうこの指は 「……でも結人、きっと一馬、暑がるよ……こんなところに一人で……一晩だけだとしてもかわい いくら訴えても結人は黙って首を振るだけだった。いまいちど、俺は傷口に触れてみた。口をあけ 「……一馬、おまえ、ばかだよ……」 傷口を撫でたその指を俺は口へともっていった。どうかこの指がいつまでもこの傷のことを覚えて 「……ばかだね、一馬……」 今夜のような暑い日にこんなところに置かれて……。 「英士」 どうしても立ち去り難い俺の手を掴んだ結人が『そろそろ行かないと』と言う。 でも俺はまだこの場にいたくて、なのにずっとはいられないんだよって言われて、俺は駄々をこね 「でも結人、でも結人……」 聞き入れてもらえないことはもうわかっているんだけど、ここにいたいんだ。 俺は一馬に触れようと手を伸ばした。結人がその手を掴み『ダメだ』と言いたいのか首を振る。俺 願いはことごとく反対された。 「さあ、帰ろう英士」 腕を引っ張る結人に俺は首を振って抵抗した。 帰れない。帰れないんだ結人。 どうやってもその腕が振り払えない。頼んでもはなしてもらえなかった。 「結人、連れて帰ろうよ……」 俺は泣いて頼んだ。 だけどやっぱり結人は首を振るのだった。だから俺も首を振ってまた駄々をこねだした。 かわいそうだよ。だってこんなに暑いのに。結人は平気なの? ねえ、連れて帰ろう。 一馬を指さすと結人はしゃくり泣きを始めた。 「連れて帰ろうよ、ね、結人……」 俺も一緒になってしゃくり上げた。俺はどうしても一馬を連れて帰りたかったのだ。一人になんて 今度は俺が結人を引っ張る番だった。 「一馬のとこに行こう……あんなとこに一人はかわいそうだよ。ね……?」
「英士、なに泣いてるんだよ」 疑問もなにもなく、声のする方に顔を向けた。 一馬だ。 一馬がいる。 「一馬だ……」 「ちょっ、おいっ。だからなんでそんな泣くんだよ」 夢、だったんだ。あれは全て夢の中での出来事だったんだ……。 「英士ってば、おい」 「……夢を……」 よかった……。ほんとによかった……。 「夢って……いったいどんな夢見たんだよ。あーもう、ほら、布団のはしでいいから顔拭けよ。 布団を引き上げるさいに触れてきた手を掴んで、一馬を自分のもとへと引き寄せる。不意をくらっ 生きている。心臓もちゃんと動いている。温かみもある。なによりこんなに元気だ。 「おい、英士、なんなんだよはなせよ、おいってば」 「イヤな夢を見たんだ……しばらくこうさせてて……」 「イヤなって……いったいお前ほんとにどんな夢見たんだよ」 「……よく覚えてない……でもイヤな夢だってことは覚えてる……」 「なんだそりゃ。マジで全然覚えてねえの?」 「うん。覚えてない……」 「しょうがねえなあ」 みじろいだ躯をはなすまいとちからをこめた俺に、一馬は抵抗するのではなく甘えることを許して 「……一馬」 「んー?」 「……」 ただ呼んでみただけ。こたえが返ってくるかを確かめてみただけ。ちゃんとこたえは返ってきた。 「なんだよ英士」 「……ごめん、やっぱりなんでもない」
「ちょっ、ちょっと英士、さっきからなにそこばっか触ってんだよ」
一馬、……俺はまだ夢をみてるのかな……。いつまでたっても夢を見てるような気がしてならない
やがて朝がくる。あの窓の向こうにしらみはじめる空を見ることができるだろうか。夢でなければ
聞いてる。だから、この温もりを抱いたまま朝を待つことにしたよ。
痛いですか?やっちゃいましたか? さて、これですが、死にネタな上に夢物語。 |