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日本の原始時代

日本人の祖先

岩宿遺跡の発見 日本にも旧石器時代はあった。
旧石器時代 ユーラシア大陸と陸続き。
ナウマン像やマンモス、大角しか。
人も大陸から渡ってきた。(10万年前?)
打製石器を、槍やナイフとして使う。
縄文(じょうもん)時代 温暖化で、日本列島海に囲まれる(1万3000年前)
シカやイノシシを弓矢で狩る。魚、貝をとる。木の実採集。
縄文土器(縄目もんよう)で煮炊き。
竪穴(たてあな)住居。貝塚(かいづか)。土偶(どぐう)。

日本の旧石器時代

氷河期の日本列島

約1万3千年くらい前までは、氷期(ひょうき)と間氷期(かんぴょうき)が繰り返し起こる氷河(ひょうが)時代でした。学名は別にありますが、ここでは紹介しません。氷期には、北緯35度まで海が凍っていたようです。ちょうど日本のところまでですね。降った雪もあまり融けずに海に流れ込みません。海水自体も凍って少ないので、浅い海は陸地のようになっていました。日本列島もユーラシア大陸と陸続きになっていました。

南の方からはナウマン象が、北からはマンモスや大角鹿が行ったり来たりしていました。それらの動物を食料にしていた人たちが、日本に渡ってきて暮らし始めていました。

岩宿遺跡の発見

60年ほど前までは、日本の学界では、「日本には旧石器時代はなかった」というのが一般的でした。「縄文時代から日本の歴史は始まった」という意見が多かった。縄文は縄文土器を作っていたので、新石器時代になりますね。土器は新石器時代の特徴のひとつだから。日本は縄文時代に人が住み始めたのならば、旧石器時代はなかったことになります。

戦争から帰ってきた相沢(あいざわ)さんという人が、群馬県の関東ローム層の中から、打製石器を発見しました。その後、学術調査が入り「日本に旧石器時代は存在した」ことが証明されたんだ。これが岩宿(いわじゅく)遺跡です。だいたい3万年前くらいの遺跡です。

その後、各地で旧石器時代の遺跡がたくさん見つかっています。一番古いのでは、10万年前のものが見つかっています。

縄文時代

縄文土器

暖かくなって海の氷が融け始め、海面が上昇します。つながっていた日本列島と大陸は、離れてしまいます。この辺りから、磨製石器を作るようになります。新石器時代ですね。土器も作ります。この時代の土器には、縄の文様(もんよう・模様)がついています。だから、縄文(じょうもん)土器といいます。低温で焼いて作っているので、後の時代の土器と比べると、分厚くてもろいんです。よく、土器の写真やイラストを載せて、「この土器が使われたのはいつの時代か」とか「この土器が使われた時期には、人々はどんな暮らしをしていたか」とかで、テストに出ます。まあ、大丈夫だよね。

縄文土器が使われた、約1万3千年前から紀元前4世紀頃までを、縄文時代と呼んでいます。この時代の人々は、竪穴(たてあな)住居を造って住んでいました。まあ、みんなじゃないけど。集落を造って共同で狩りや漁、木の実取りなんかをしていました。鹿やイノシシなんかを、弓矢を使って獲っていたようです。海や川の近くでは、魚や貝をとりました。これは、貝塚(かいづか)というごみ捨て場のようなところに、貝や骨が捨てられていたからわかるんだ。

貝って生で食べてもおいしいけど、ちょっと心配だよね。このころの人は、生で食べて、よく食中毒を起こしてたんじゃないかな。土器を使うようになってからは、それで煮炊きをしたから、ずいぶんおなかをこわす人が減ったはずだ。昔の人も貝汁は好きだったんだね。肉や魚も煮炊きをすれば安心。しかもおいしくなる。土器は人々の生活を、格段によくしたと思います。

稲作伝来

弥生時代 中国長江流域・朝鮮半島南部から稲作伝わる。
木のくわ・すき、石包丁、高床倉庫。
弥生土器、青銅器(銅鏡・銅剣・銅矛・銅鐸)、鉄器。
「むら」から「くに」へ 『漢書』地理志・・・倭人は100あまりの小国。
『後漢書』東夷伝・・・「漢委奴国王(かんのわのなのこくおう)」の金印。
邪馬台国(やまたいこく) 『魏志』倭人伝・・・邪馬台国、女王卑弥呼(ひみこ)
金印と銅鏡を100枚与えられる。(3世紀)

大陸から稲作が

縄文時代といわれる時代にも、九州北部や中国地方では、稲作がある程度行われていたことがわかっています。でも、テストで出題するときは、弥生時代との関連で稲作を扱うことが多いんです。指導要領にも、「日本列島で狩猟・採集を行っていた人々の生活が農耕の広まりとともに変化していったことを理解させる」とあります。扱い方の注意に「稲作が大陸から日本列島に伝わったことについて気づかせるようにすること」と書かれています。ですから、誰が作っても稲作は出題されます。

稲作は中国の長江流域、上海の辺りですね。ここと、朝鮮半島南部から伝わったといいます。これは、作り方だけ伝わったのではなく、稲作の技術を持った人々ごと移って来たということです。

稲作を始めると、田んぼの近くに住むようになります。けものを追って移動するのではなく、そこにずっと住みます。これを定住(ていじゅう)と呼んでいます。そこにむらができます。

現在では、北陸や東北・北海道で、米は盛んに作られています。それは、品種改良などの努力の結果、寒い地域でも育つようになっているからです。でも、当時は寒い地域には、そんなに稲作は広がりません。主に西日本に広がります。本格的に農業が広がったのが弥生時代なのです。

弥生土器と弥生時代

どうして弥生時代と呼んでいるかというと、このころには縄文土器に代わって、薄くて硬い土器が作られるようになります。この土器が発見されたのが、東京の文京区本郷。東大のあるところですね。その弥生町で した。だから、弥生土器。時代も弥生時代となったんです。紀元前4世紀から紀元後の3世紀まで。弥生土器は、資料集や教科書の写真をながめて、見ただけで縄文土器と区別できるようにしておいてください。

高床倉庫

稲作に関係した技術が出てきます。田を耕すために、〔くわ〕や〔すき〕が木で作られます。稲が実ると石包丁でつみとって、高床(たかゆか)倉庫に貯蔵しました。はい、高床倉庫も写真を見て確認しておいてください。床が地面にくっついていると、作物が湿ってしまうんですね。それを防ぐために、床を高くしています。そうそう、よく気がついたね。不必要な板が柱のところとかについてるね。これは、ねずみ返しといって、ここまで登って来たねずみが、この板にぶち当たってこれ以上上に進めないんだ。作物を守るためのくふうが、なされているんだよ。

青銅器・鉄器

青銅器

青銅器(せいどうき)鉄器(てっき)も伝わってきます。銅鏡(どうきょう)・銅剣(どうけん)・銅矛(どうほこ)・銅鐸(どうたく)、これらは青銅器です。銅と錫(すず)との合金です。青っぽくなるので青銅と呼ばれます。銅鏡は鏡ですね。ピッカピカのうちは鏡として使えます。銅剣・銅矛は武器ですね。銅鐸。これはお祭りに使われたらしい。初期のものは小さくて、風鈴のように鳴らして使ったんですが、だんだん大きくなっていき、途中からは鳴る機能がなくなりました。西日本で使われました。まあ、むらとか一族をまとめるための道具ですね。これも写真で確認、お願い。

鉄器

〔くわ〕は、今では柄の部分以外、全部鉄でできていますよね。ああ、そうか。〔くわ〕知らないか。こんなやつ。

ここでおしまいです。悪しからず。


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