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学習塾講師は学校の先生の敵なのか

学校の先生や教育委員会に勤めている人は、学習塾の講師を商売敵(しょうばいがたき)と呼んでくる。冗談半分だが、半分は本気なのだ。その気持ちが分かるときがある。


「みんなは、商店街や商工会の福引に行ったことがあるかな?。そこで、カラカラッと回して、玉が出てくるやつあるだろ?」

「そうそう、それだ。本当は特賞とか2等賞とか、いろいろあるんだけど、仮に、当たりとハズレの玉しかないと思って欲しい。箱の中身は当たりの玉2個、ハズレの玉5個だ。君と友達がいて、その箱を回す。君は、先に引く?、それともあとに引く?。先に回した方が当たりやすいのだろうか。それとも、あとの方が有利なんだろうか。さあ、どっちだろう?」

「絶対、先です」

「そうそう、先が有利に決まってる」

「同じじゃないかな?」

「『残り物には福がある』というから、あとの方がいいと思います」

「それなら『先手必勝』です。少年団の野球の監督が言ってた」

「みんな、聞いてくれ。先週から〔確率〕というのを習ってるよね。それを求めることで、どっちが有利か決めることができるんだ」

「〔確率〕は、どう求めるんだった?」

……

「そうそう、〔起こるすべての場合の数〕分の〔それが起こる場合の数〕だったね。じゃあ、それを使って、先に引いた人の当たる確率とあとに引いた人の当たる確率を求めてみよう」

「先に引く人が当たる確率は……」


こんな展開を思い描いていても、「おんなじです。塾で習いました。どんなくじでも、先に引こうが、あとに引こうが同じなんです。確率も先の人のだけ求めて、あとの人も同じにしておけばいいんです」という発言があれば、もろくも崩れ去ってしまうのだ。この声を聞いた途端、他の生徒たちのキラキラ笑顔が「なーんだ。そうか」と表情を無くし、頭も働きを停止する。「塾講師うらめし」の念が生じることだろう。1回ならまだしも、こんなことが続けば、学校の先生も授業内容を工夫する興味が薄れる可能性だってある。

生徒が何も知らない状態でこそ、成り立つような授業スタイルを取りたいときもあるだろう。白紙の状態だからこそ興味を持ってもらえることもある。過程を重視する数学や理科などは、こんなやり方のほうが効果がある。生徒の顔も輝こうというものだ。そういったときに、塾であらかじめ結果や公式だけ習っている生徒がいると、思ったように授業が進められないことがある。

もちろん、塾は塾で言い分がある。受講料をとって来てもらっているのである。そのほとんどが「教科の成績を上げたい」「高得点を維持したい」「進学校に合格できる実力をつけたい」という希望を突きつけられているのだ。講義形式の講義の場合、一般的に予習型で、学校の授業よりも進んでいる。かく言う私も同時進行か予習型をめざしている。中学生の場合、定期試験の1週間前くらいから、講義はやらず質問などに応じている。試験範囲は、それまでに進んでおきたいのだ。予習型は変えたくない。

知っている生徒にも、知らない生徒にも興味が持てる、また参加できるような授業を工夫してください。そう学校の先生に願うしかない。こちらはこちらで、結果だけを伝えることはしないから。

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