柴田昌弘01
初出:「別冊はんぷてぃ・だんぷてぃ」第2号、Humpty-Dumpty発行、 1983年4月1日
(21年前の論考なので、考え方等変わっている部分もあるが、下手に手直しは せずに、誤字・脱字、明らかな間違い、のみ訂正した。本文中の「何年前」等の表記はプラス20年で お読み戴ければありがたい。)

ナルシシズムとロマンチシズムの融合
      ――柴田昌弘小論――
                         火草 薫
(1983.4)

 少女、ないし少女期、あるいは少女小説・少女まんがというものにこだわりを持ち始めて数年になる。 (もっとも十数年前、水野英子『ファイヤー』が「週刊セブンティーン」に連載されていた頃、 熱心に読んだ記憶もあるにはあるのだが。)
 ところで、かって吉屋信子を頂点とした少女小説が、一方でジュニア小説という徒花を咲かせながら、 そっくりそのまま、より華麗に、よりドラマチックに、水野英子を出発とする少女まんがに受け継がれて いった事は誰もが認める処だろう。この正統的とでもいうべき少女まんがの世界を実に的確に表現した 文章があるので引用しよう。

<倉多江美や樹村みのり、高野文子の系列ではなく水野英子から山岸涼子(ママ)[備考 ※引用した原典の表記に誤りがあっても訂正せずに原典の表記の「まま」引用したの意。ここでの場合は、 正しい表記は【涼子】ではなく【凉子】である。]にいたる いわば主流の系列に属する少女マンガのなによりの特色は、繰返し男性読者の蔑視の対象となる“星の瞳と 長い金髪”である。過剰な装飾性、華美なものへの貪欲なまでの憧憬、図式性や通俗性をいささかも恐れな い強引なドラマチック志向、悪趣味なわざとらしさを毫も恐れない物語へのラディカルな陶酔、生活感情や 現実感覚など一顧だにしないナルシシズムにみちた夢みる力。つまり少女マンガとは壮大、華麗なる一大 フォニイ、キッチュなのである。>(川本三郎《海の手帳・COMIC》欄、「海」'82・11)

 日本の少女小説を外国のそれと決定的に分っているものは、ナルシシズムに満ちた感傷性ではないかと 私は考え始めている。そしてそれは少女まんがにも受け継がれた。川本三郎の分析の中の<繰返し男性読者 の蔑視の対象となる>ものは、確かに表面上は<“星の瞳と長い金髪”>であろうが、その根の部分にある ものは、実は“ナルシシズムに満ちた感傷性”なのではないかと思うのである。
 本稿では、柴田昌弘におけるこの“ナルシシズムに満ちた感傷性”の変遷を追ってみようと思う。

        *

 柴田昌弘の商業誌デビュー作「白薔薇の散る海」(「別冊マーガレット」'73・6)から第11作「恋人たち の空」(「別冊マーガレット」'76・6)までの作品は概ね二つに分けられる。A群は「白薔薇の散る海」・ 「クラッシュ―大地震のとき―」(「別冊マーガレット」'75・6)・「凍った時計」(「別冊マーガレット」 '76・1)・「ひびわれた明日」(「別冊マーガレット」'76・3)・「恋人たちの空」であり、B群は 「貨物船メデューサ号の秘密の」(「デラックスマーガレット」'75・冬)・「紅い牙 狼少女ラン」 (「別冊マーガレット」'75・8)・「黒い珊瑚礁」(「別冊マーガレット」'75・10〜11)・ 「ブレンド・ホット作戦」(「別冊マーガレット」'76・4)である。これ以外の二作のうち「雪の紅バラ」 (「別冊マーガレット」'76・2)は双方のタイプをあわせ持っており、「魔法のラケット」 (「別冊マーガレット」'73・11)は残念ながら未見である。
 この二分法の視点は、“ナルシシズムに満ちた感傷性”を感じられるか否かにあり、A群が感じられる方、 B群が感じられない方である。
 そしてA群には、その主人公にも“薄幸の美少女”タイプという共通項が見られる。その不幸は、死を 宣告されたり、水を怖れるようになったダイビングの選手だったり、殺人囚を父に持ったり、悪友に そそのかされてカンニングをして悩んだり…と様々だ。しかし問題は彼女達自身が不幸だと感じている事、 つまり作中の主人公が自らナルシシズムに酔っているきらいがある事だろう。
 一方、B群の主人公にも共通項が見られる。小松崎蘭(「紅い牙 狼少女ラン」の主人公)だけは少し 違うが、他の三作共男まさりの少女が主人公である。そして「貨物船メデューサ号の秘密の」と 「黒い珊瑚礁」とは、メカの出てくる冒険譚で結末は淡い恋への予感、という共通項もある。(ただし、 「黒い珊瑚礁」のサブキャラ・座間味萌はA群タイプの女性である。)「ブレンド・ホット作戦」はメカは 出てこないが、作者の好きなコーヒーの世界で存分に遊び、結末はナルシシズムではなくヒューマニズムで 泣かせてくれるのがいい。
 また「紅い牙 狼少女ラン」に始まる“紅い牙”の連作は、根底には不幸な少女の物語があるように 見えながら、その実この連作の構成は連続TVドラマ『逃亡者』(※現時点での 注※医師リチャード・キンブルのあれです←もう知ってる人少なかったりして…)と東映仁侠映画の 世界であり、その結末に図式化された「てめえら人間じゃねえ、たたっ斬ってやる」式の 任侠路線に、もし、ナルシシズムを見るとすれば、それは男のナルシシズムの世界であり、A群には 含まれないと考えている。
 ところで、先にA群B群双方のタイプをあわせ持つ作品として「雪の紅バラ」をあげた。この作品の 主人公・真崎つかさはタイプとしては完全にB群の男まさりの少女なのだが、結末で恋した男が殺人者と 判り、<みずから死を選んだ彼が、妹をなくすまえのやさしい彼であったと――あたしは信じたい…>こん なモノローグで終わるのだが、彼女には男を引っぱたいて自首させる姿こそ似合っていたように思われて ならない。
 このあたり(デビュー後三年位)までの柴田昌弘は、少女まんがに於けるナルシシズムに満ちた感傷性を 模索していた時期と言うべきだろう。
 この後一作おいた「人形たちは夜にささやく」(「デラックスマーガレット」'76・秋)によって、 ようやく柴田昌弘は少女まんがに於けるナルシシズムに満ちた感傷性を自家薬籠中のものとしたように 思う。
 <星崎のぞみ16歳。心臓病のため、ちいさいときから友人といっしょに遊ぶこともできず、内気で おとなしい性格…。しかし、実業家の父をもち、片親ながらなんの不自由もない裕福な生活をおくって いる。>――金があっても片親で病弱。このオープニングは典型的なA群タイプである。しかしながら、 彼女は自分を不幸がってはいない。それどころか生まれてすぐ別れた双子の姉を思いやる心さえ持っている。 この主人公のけなげさが読者のナルシシズムと感傷性を擽るのだ。ここに至って柴田昌弘は、 ナルシシズムに満ちた感傷性を主人公の心から読者の心へと持ってゆく事に成功したのである。
 この手法はその後の作品にも生かされ、徐々に完成されてゆく。「Gパン社長メイ」 (「別冊マーガレット」'77・2大増刊)は先のB群タイプのコメディでありながら、Gパンでバイクを 飛ばす少女社長が新製品の化粧品のモデルとして淑やかに登場する場面に、読者のナルシシズムは満たされ るのだ。また「わが友カロン―冬の魔犬―」(「別冊マーガレット」'79・2大増刊)に於いては、 ヒューマニズムとヒロイズムとセンチメンタリズムをありったけ開放して物語は幕を閉じる。これこそが、 少女まんが、なのである。

 ところが半年の中断後、まんが一本に道を決めた再スタートの第一作「おれの人魚姫」(「別冊花とゆめ」 '79・秋)から、柴田昌弘は再び変わり始める。
 この作品は、少女まんが特有のナルシシズムに満ちた感傷性と、少年期特有の初めての秘めた恋ごころ とをみごとに融合させた傑作だった。少女期のナルシシズムと少年期のロマンチシズムとをあわせ持ち、 結末は切ないばかりのアン・ハッピーエンディング。
 この作風は「タイタニック'80」(「花とゆめ」'80・2号)を経て「盗まれたハネムーン」(「花とゆめ」 '80・8号)に於いてみごとに結実する。

<女性をがっちり書いてくれたら、男の子だって、かくれてでも読む。(中略)大衆的で、 現実を指さして、おもしろく涙ぐんだりして読みおえると、正義公平の思いが燃えあがり、 社会のしくみからくり、現代の中流意識をつきぬけてしまって、やがては考え、行動に移るという 少女小説を、そろそろだれか書かないだろうか。>(北川幸比古『季刊子どもの本棚』29号)

 この北川幸比古の言葉は少女小説について言及した物だが、その正統的な担い手である少女まんがの 世界で、そのひとつの方法が成功を見たように私には思われる。少女期のナルシシズムと少年期の ロマンチシズムとの融合、そして結末はヒューマニスティックに。男性読者にとって、少女期の ナルシシズムだけの作品はやはり読み辛い。「盗まれたハネムーン」はその意味からもみごとな作品と 言えよう。

 しかしながら、柴田昌弘はこの後「宗三郎・見参」(「花とゆめ」'80・15〜16号)を 境に急速に少年まんがへと傾斜してゆく。発表が少女まんが誌であっても、この作品の《全寮制の女子高に 編入した男子》という設定は、柳沢きみお『翔んだカップル』やあだち充『みゆき』などの《可愛い 女の子と一つ屋根の下で暮らしたい》という“ありえない設定”を実現させる視点に他ならない。これは 少年まんがの視点なのだ。
 そしてこれは「ラブ・シンクロイド」(「少年ジェッツ」'81・10〜連載 中)(※現時点での注※勿論完結しています)や「フェザータッチ・オ ペレーション」(「ウィングス」'82・創)へと繋がってゆく。もっともその根は古く、 「アンドロイド・シュン」(第一話には'73・8・2の日付あり)にも見られ、これはデビュー当時の 事なのだが。
 ともあれ、柴田昌弘が本来的志向の少年まんがへ進むのであれば、それはそれで仕方のない事だと思う。 しかし、せっかく「おれの人魚姫」や「盗まれたハネムーン」で見せてくれた少 女期のナルシシズムと少年期のロマンチシズムの融合を、このまま棄て去ってしまうの だけは残念でならない。今後ともこの世界をも追求して欲しいと切に願う。
 この世界には、“紅い牙”の連作の目指す方向とは異なるもっと本質的な少女まんがの 新しい地平が見えているように思われてならない。
(1983.*.*)

初出:「別冊はんぷてぃ・だんぷてぃ」第2号、Humpty-Dumpty発行、1983年4月1日


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