渡辺多恵子01
それは、もうひとつの……、あるいは更にもうひとつの……

      ――渡辺多恵子「もうひとつの9月」

        (「別冊少女コミック」1996年9月号、カラー2頁付60頁)

 ネタばれを犯さずにこの短い物語のレビューを書くのは、多分至難の技だ。
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 中学2年の夏。親友が死んだ――。その遺書と思しきモノローグで始まる哀しみ色のオープニングは、 (これはハンカチが必要かも、という)リリカルな物語への予感を覚えるさせるに充分なものだった。

 しかし、渡辺多恵子のシリアス物は、かって見事に裏切られた記憶がある。
 「ジョセフへの追想」の前編を雑誌で読んだ時、そこには「ファミリー!」の終盤に見せた人間ドラマに、 リリカルなファンタジックSFとの融合を予感させるものがあった。
 けれど、メガヒット映画に触発されたであろうこの物語は、後編で急速な尻すぼまりな終わり方を してしまった。残念、というより、渡辺多恵子という作家の資質と合わなかったからだという気も していた。
 以来、渡辺多恵子のシリアス物は何となく敬遠していたのだったが。

 「もうひとつの9月」は、序盤のシリアスな展開から一転、中盤からは、少々異常なコメディーへと 転調する。(このコメディー感覚が、やはり渡辺多恵子の資質だね。)
 数日後、悲しみに暮れる主人公の前に死んだ筈の少年が現れ「僕を成仏させてほしい」と言う。
 更に彼は、記憶が鮮明でないが「僕には…この世に大きな心残りがあるらしいんだ。だからさがして ほしいんだ…。僕の心残りがなんなのか。」
 こうして主人公と親友のユーレイとの“ほんとう”探しが 始まる。
 そうだ、少年の夏休みは、いつも自分探しの旅なのだ。

 やがて――
 ユーレイは主人公の“まっすぐな瞳(め)”に気付く。
 その瞳がいつも何を映していたのかを――。
 こうして物語は終盤へと向かってまた転調する。

 この、少し不思議なストーリーを現実感のある物語として繋ぎとめているのは、主人公とユーレイの 真摯さと、脇の大人たちの温かい眼差しだ。殆ど家に帰らぬカメラマンの(主人公の)父の見守る視線も、 典型的な専業主婦(だろう)ユーレイの母の戸惑いがちな視線も、けれどもとても、包み込むように 温かい。
 そして――
 「この世は、生きてる者(モン)の勝ちなんだから!」
 ユーレイの最後の台詞も、温かい。
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 最後にあまり深い意味は無いだろうが、ユーレイのヒロが、二度「おっ…お…っ、僕は――」 「おっ僕には――」と叫ぶ。この<おっ>は何だろう? <俺>と言いそうになって<僕>と言い直した のでは、絶対に無い。(ユーレイでないヒロは<僕>を使っていたが、ユーレイのヒロが<俺>を日常的に 使っていたとは、考え難い。)それなら、一体何を意味する<おっ>なのだろうか?
 ストーリーに重要な問題となる事柄では無いと思うが、妙に気に掛かるのだった……。
(2004.05.06)

テキスト:渡辺多恵子『もうひとつの9月』/小学館、1997年8月20日初版発行、 別コミフラワーコミックス・スペシャル、FCS5821、A5判、紙カバー、170頁、本体762円、 ISBN4-09-135821-7

 《追記》 karinさんからご指摘を戴き、「おっ…お…っ、僕は――」の<おっ>は<お兄ちゃん>の<おっ>である事が判りました。追記してお礼申し上げます。(2005.10.02)


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