第3章 脚 本 の こ と な ど

    梶山語録のなかに、<人生は演技です>という一節がある。
    序で紹介した『梶山季之のジャメ−・コンタント』では、三つのシナリオを纏めた 標題として使われているが、もとはといえば、肺結核のため中国新聞社の入社試験に 落ちた彼が昭和27年8月18日付けで、満たされぬ想いを友人に告げた書簡に出て くる言葉だ。少し長くなるが、引用させて頂こう。
    <民間放送へ、プロデュ−サ−として入社する筈でしたが、それも断って安静三 度。(中略)次の第一幕が開くまで、役者たる僕はド−ランを塗り、演出家たる僕 は最後のダメを押し、舞台をつくらねばならないのです。私の持論ですが、人 生 は演技です>
    そして、小林美那江(のちの梶山夫人)に宛てた翌19日付けの手紙には、<僕の 野心は作家となることです。しかし、一プロデュ−サ−として消え去る危険にあった のも事実です>と記されている。
    このあたり、梶山と演劇・脚本との接点を示すものだが、彼が最初に書いたシナリオ は、広島高等師範学校の『振鈴』第3号(昭和25年3月)に載った「月夜」である。 短編小説「食欲のある風景」(『別冊サンデ−毎日』昭和43年11月)などと同列の、 中国地方の農村を舞台にした戦後の物語だ。
    昭和33年3月20日には、ラジオドラマ書下し脚本の「ヒロシマの霧」が『朝日 放送』から、27日には『中国放送』から放送された。これは民放祭ラジオドラマコ ンク−ルの第三位に入賞しているが、次ペ−ジの本文では、登録番号には"D"の字 を冠し、複数の会社がある場合は、最初のものだけを記入している。
    さて、上京後の梶山が第15次『新思潮』の同人になったのは、昭和30年7月で ある。無名時代の梶山のメシのタネの一つに、朝日放送などの脚本書きがあったが、 小学館の学年雑誌に少年冒険小説を書いたのと同じように、これも『新思潮』同人の 世話によるものだった。
    昭和34年11月5日の「蛸が茶碗を抱いていた」は、芸術祭賞次点となったが、 茶の間の人気を攫ったのは「愛の渦潮」である。「恋愛作法」は、吉行淳之介の原作を ラジオドラマ化した脚本である。
    ところで、劇団テアトル広島の創立者である岩崎徹は『私の芝居人生』において、 <あり得ぬことを、あり得ることのように描き出すのがドラマの本領>と書いている が、梶山の場合は、自らが活劇を演じたようなものだった。


    D001愛の渦潮(444)、朝日放送、東京放送610109
    D002浅沼稲次郎、朝日放送601000
    D003奥様お手をどうぞ(5)、朝日放送600300
    D004外貨ブローカー、朝日放送580500
    D005風と光と影、中国放送590800
    D006紀伊浜心中、NHK630124
    D007桔梗の花咲けば(24)、東京放送641005
    D008結婚の設計(312)、東京放送630606
    D009才女ブーム異変、朝日放送620715
    D010潜入スパイ、大阪放送640209
    D011蛸が茶碗を抱いていた、朝日放送591105
    D012月夜、振鈴500300
    D013泣くなマックス、東京放送620100
    D014ヒロシマの霧、朝日放送、中国放送580320
    D015PR野郎(10)、フジテレビ640407
    D016恋愛作法、朝日放送621028


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