第8章 詩 ・ 詞 ・ 句 ・ そ の 他

    辞書的には、詞はワ−ドで、詩がポエムのことらしいが、難しいことはやめて、こ こでは"P"として纏めておこう。
    梶山の作詩活動は、廣島縣立廣島第二中學校誌『藝陽』の復興特輯號(1948年 2月)に載った「停電」から始まった。同誌には「應援歌」の作詞もしており、絹谷 一雄の「生徒歌應援歌発表前後」のあいだにガリ刷りで挿入されている。作曲は、広 島地方の軽音楽界をリ−ドしていた升田徳一だが、作詞の梶山の名前は、なぜか"秀 之"になっている。単なる誤植であろう。
    彼が広島高師に入学して作家への夢を拡げたのは、石本美由起が「憧れのハワイ航 路」で、颯爽とデビュ−した当時のことだ。余談ながら、音楽を純音楽と大衆音楽に 分けるなら、石本が書いたのは大衆音楽のための「詞であり詩」であった。社会では GHQ(連合国軍総司令部)のCIE(民間情報教育局)が日本文化を支配し、歌舞 伎や講談を圧殺したが、民衆は、いろんな文化サ−クルを作っていた。
    梶山が編集した『広島文学』の創刊号は大竹で印刷されたが、前述の石本美由起は 大竹の出身だ。当時、石本はもう大竹にはいなかったから、直接の接触はなかったが、 のちに「広島カ−プを優勝させる会」や「賀茂鶴会」などで行動を共にし、あるいは 飲み歩いたこの二人には、共通項がある。すなわち両者は、空前絶後の多作の作家で あり、作詞家であった。
    梶山の詩や詞は、もっぱら『梶山季之のジャメ−・コンタント』を参考にしたが、 俳句や川柳の類いも残っている。
    没後に出版された『人間裸に生まれ来て』(1977年3月、大和出版)には、昭和 32年11月7日付け兼川晋宛の手紙のなかに、次のような句が記されている。
    <菊匂う知る人死せると聴ける朝><挽歌聴え不図よろめきし今朝の霜> 後者の"挽歌"と"よろめき"には傍線が引かれて、「ベストセラ−織込み」と書か れている。原田康子の『挽歌』(昭和31年12月、東都書房)とその内容か、三島由 紀夫の「美徳のよろめき」(『群像』昭和32年6月)のことだろう。
    佐々木久子は「更けた酒場のああ……」(『積乱雲とともに』前掲書)において、賀 茂鶴会で彼がこの歌をよく歌っていたと書いている。
    梶山が流行歌の作詞・作詩をするのは、ラジオドラマ「愛の渦潮」のころからで、「 人妻だから」とか「土曜の虎」などテレビドラマの主題歌を作ったのだ。
    もっとも、その数は多くはない。
    売春防止法案が公布・施行され、「もはや戦後でない」という言葉が流行っていたこ ろだ。彼の信条とも言える<裸にて生まれて来たに何不足>は、季語がないから俳句 でないとか、いろんな雑音もあったようだが、だれも俳句だと主張しているわけでは ないし、ただ心に残る言葉だと思っておけば、それでよいのではないか。

    尾崎秀樹は『大衆文化論−活字と映像の世界』(一九六六年十月、大和書房)において、 泣きを浪曲に、笑いを落語に、怒りを講談に見て、<大衆文学は大衆文化の一環にす ぎない>と考えた。


    P001愛の渦潮610100
    P002愛の吐息661100
    P003海の貝は720000
    P004応援歌480200
    P005かかれエンジン720000
    P006停電480200
    P007なき、なく、なけ720000
    P008涙酒720000
    P009のるかそるか640100
    P010ぼくたちの愛はどこへ消えたの720000
    P011ホレホレ アロハ720000
    P012ホレホレ節720000
    P013夜はふたりで660205


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