手ばなす旅路を描いた物語

 どうしてこんなに『指輪物語』に魅かれるのだろう。いくつもの理由があるのだろうが、ひとつにはこの物語が、「手ばなす(捨てる)」ための旅路を描いていることかと思う。
 獲得するために道をすすめるのでなく、大いなる力を秘めた指輪を手ばなすための旅路。それゆえに起こる葛藤や苦悩は、私をひきつけて旅の仲間へとひきずりこんでいく。
 けれど、指輪所持者であるフロドは、結局は自分の手によって指輪を捨てることはできなかった。ゴクリの「所有する」という欲望とともに、指輪は捨てさられるのだ。このことは、大いなる力を「手ばなす(捨てる)」という行為が、多くの者の意志が背景にあり、それを実行しようとするだれががいても一人の意志のなせるわざではない、と語っているとも思える(もちろん物語のおもしろさとしても圧巻だが)。
 指輪消滅後も、物語は長く続く。そのことは、やはり「手ばなす(捨てる)」という行為に関係があると思える。この行為には、癒しが必要なのだ。時間をかけた癒しが。
 フロドは、積極的に生きることができない人間になってしまっている。「たとえ悪者でも殺すな」と執拗に訴えるのは、生きている者はだれかが手をくださなくてもいつかは死ぬという、ある種の現実超越感からでる言葉にも感じられる。大いなる力を「手ばなす(捨てる)」という行為には、自分だけでは完結できないかもしれないという覚悟と、その後の消耗感と闘わなければ再び活力をとりもどして生きることはできない、という意志も必要なのだ。「手ばなす(捨てる)」ことを成しとげても、リセットボタンを押すように、中つ国は昔と同じに輝くわけではない。エルフは海の向こうに去り、輝ける魔法もまた薄れていくことを暗示している。捨てることは、リセットではないのだ。
 『ホビットの冒険』を読み返してみれば、この物語もまた財宝探しでありながら、財宝を手ばなすための物語とも読める。そして、財宝を手ばなせるビルボだからこそ、指輪の所持者となったのだ。フロドもしかり。
 こんなふうに、「手ばなし、捨てる」という行為を目的としているということでも、『指輪物語』は稀有の物語だ。私は演劇を勉強していたとき、「つかんだら、はなせ。つかむことは大事だけれど、はなすことはもっと大事」と、演出家に指導された。つかんだままだと表現者としての自由さを失っていく、と言うのだ。それは生き方についても同じかもしれないと思う。笑い話に聞こえるかもしれないが、手ばなすトレーニングとして私たちがやったのは、お手玉(ジャグリング)と「むすんでひらいて」をジェスチャー付で歌うこと、その他の手遊びであった。観念を具象化するトレーニングであったとも思う。
 この物語をもとにRPGがたくさんつくられたらしいが、つかんだらはなすという訓練とその熟達、捨てても捨ててもくっついてくるもの、捨てると苦痛があるもの、捨ててエネルギーを消耗するか、捨てずに徐々に命が削られるかというような選択……。そんな、捨てる行為を軸にしたゲームはやはりないのだろうか? 私たちは、「手ばなす(捨てる)」という行為を、生きる技術として学びなおさなければならないとも思う。
 渾身の力をこめて捨てさらねばならないもの、それがこの世に在ったらどうするか。この物語はそのことを私たちにつきつけている。そしてそれが、もし自分の目の前にあったなら……。たとえ世界が救われるとしても、はたして私はそれを所持し、危険をおかして捨てさることができるだろうか?(堀切リエ)