私は「アリス」

  
 アリスは、穴に落ちて不思議の国に行きつくまでに、どうも半回転してしまったようなのです。なぜなら不思議の国では、上が下で、下が上、右が左で、左が右。勤勉さは怠惰さで、きちんとした人はいい加減な人、教育は人を育てずにだめにする、教訓はまったく役たたず……。というように、現実にさかだちしたような世界だからです。暗唱していた詩はまったく意味が違う詩となって思いだされ、体まで大きくなったり、小さくなったりして、アリスはすっかり混乱します。いもむしに「おまえはだれだ?」と聞かれて、「朝起きたときにはわかっていたはずだけれど、今はわからなくなってしまった」と答えるアリス。「私は女の子で、アリス」だという証を求めるのですが、なんともうまくいきません。
 こんなふうにアリスは、不思議の国でつねに自分の存在を揺さぶられます。七歳という年齢なら、日常生活でも存在が安定しているとはいえませんが、ここでの振幅がけたはずれに大きいのは、アリスの世界の常識がまったく通用しないからなのです。アリスは日々、大人たちに教えられるお行儀や知識を身につけている最中ですが、自由な子ども感覚も失ってはいません。不思議の国の住人たちに「常識」という手形はなんの効力もなく、逆に住人たちがくり広げる奇妙奇天烈な議論やことば遊びにひっぱられて、アリスは大人と子どものまん中、現実と不思議の国との間で宙ぶらりんになっていきます。だからアリスはつねにとまどっていて、不安定で不確かで、そのうえ孤独です。この状態自身が「アリス」とも呼べます。アリスが「アリス」状態から抜けでるためには、「あんたたちなんて、ただのトランプじゃない」と言って、不思議の国と訣別することでした。
 このお話を語ったルイス・キャロルもまた、「アリス」だったのではないでしょうか? キャロルは自分も「アリス」でありながら、アリス・リデルを不思議の国に飛びこませて、おもしろおかしく、しかもある面では辛らつに問うています。現実の常識が通用しない世界で、自分がだれかを証明することができるかい?と。キャロルは現実の世界を執拗にひっくりかえして、不思議の国の住人たちにまったく道理のない常識をしゃべらせますが、それはまた、現実の決まりきった常識の一側面でもあるのです。そんなところに、キャロルの現実での複雑に屈折した苦悩が感じられます。
 でも、現実の苦悩は不思議の国では楽しみなのですから、この不安定で不確かなうえに孤独で、さらには複雑に屈折した苦悩さえ、圧倒的な笑いのエネルギーで吹きとばせるのです。それがノンセンスの力ではないでしょうか。不思議の国では、知らず知らず縛りつけられていた現実のルールや常識からとき放たれ、精神の自由と活力をとりもどせるのです。
 もし不思議の国へ行きたいと思ったら、とまどうことがわかっていながら「私はだれ?」と問いたくなるなら、その人は年齢・性別に関係なく「アリス」なのだと思うのです。「不思議の国」は、永遠にそんな「アリス」たちを受けいれてくれるのではないでしょうか。あなたも「アリス」ですか?(堀切リエ)