体験・宮沢賢治  (『鬼ヶ島通信38号』掲載) 


 あの年、私は二〇歳だった。昼は大学、夜は児童演劇の研究所に通い、眠い目をいつもこすっていた。一学期の発表会の演目は「飢餓陣営」。戦いでなく、飢餓に追いつめられた一陣営の話だ。バナナン大将は、たくさんのお菓子の勲章をつけ、飢餓にあえいでいる兵士たちなど顧みずにふんぞり返っている。小道具の勲章は、本物のお菓子でつくってある。バナナン大将の肩には、重そうなバナナのエポレットが揺れている。一兵卒役の私は、おかしの勲章が食べられる本番が待ち遠しかった。劇中、曹長は大将から勲章を見せてもらうという口実で、銃殺を覚悟し、おかしの勲章を兵士に配っていく。勲章をガツガツと食べはじめる兵士たち。
 徹夜に近い稽古と金欠がつづき、現実の私たちも心底おなかをすかせていた。「飽食時代の子どもたちの目の前でいかにもおいしそうに食べて見せる」という演出家(関矢幸雄氏)の意図は見事、果たされたと思う。
 夏、北上を訪ねる旅に。神社で座って待っていると、砂利道を「ザッザコ、ザッザコ」と音あげて、次々に鹿たちが奉納に押しよせてくる。黒い顔、髪をふり乱して踊るししたち。目の奥に今でも蘇る。宮沢清六さん、佐藤委員の佐藤院長、賢治を知っていた人たちに会い、賢治の立っていた場所に立つ。
 二学期の発表会の演目は、「種山ケ原の夜」と「植物医師」。私は種山ケ原の樺の樹霊の役だ。おかしな役で、どうやって演じていいものやら皆目見当がつかない。劇中、樺の樹霊はからだをゆすって俄かに叫ぶ。「もやかがれば、お日さん、ぎんがぎんがの鏡」。
 北上の劇団の役者さんに方言を習う。外国語のようなイントネーションでなんだか調子がくるう。でも、ふしぎに楽しい。わけもなくおかしい。劇の最後のほう、樹齢たちがそろって囃しだすころには、おなかの底から笑いだしたくなっている。あれ、なんでこんなに楽しいんだろう?
 花巻農学校で、賢治は生徒のために戯曲を書いた。見ている者だけでなく、演じている者も笑わせたくて書いたんじゃないかな? そんなふうに思えてくる。賢治先生がひょっこり顔をだして、「あ、そこ、深刻ぶらないで。笑いたいときは笑っていいんだよ」なんて言ったりして……。とてもユーモアのある人だったんだなあ、と心が温かくなってくる。
 冬、雪の中を再度北上へ合宿。小学校の体育館で白い息をはきながら、鬼剣舞を習う。「デーンデン、デグヅグデン、デグヅグヅッサーデッコーデン」。念仏を唱えながら、地を踏みしめる。気合いをいれて踊ったもので、私の膝は一・五倍に腫れてしまった。
 卒業公演の演目は「グスコーブドリの伝記」。ちょっとギョッとした。最後に主人公が死ぬ話だから。「みんな詩人になりなさい」と演出家が言う。「働いたり、勉強したりしながら芝居をする君たちこそが、この芝居をやるにふさわしい」とも話してくれた。
 ネリと遊ぶ歌、ブドリの旅立ちの歌、イーハトーブの歌、赤ひげの歌……、歌がどんどん生まれて、稽古場には、背景やら小道具やらがあふれていった。
 「職業芸術家は一度滅びねばならぬ」なんて、『農民芸術概論綱要』を発生練習がわりに稽古に入る。ブドリは半仮面(顔の上部だけを隠す仮面)をつけて、仮面をリレーして皆で演じることになった。私は最後の場面から一つ手前のブドリ役。誤解をうけて農民に袋だたきにされ、かつぎこまれた病院で幼いときに別れたネリと再開する。ネリ役が稽古でほんとうに泣きだしたときには困った。きっといちばん困ったのはブドリだろう。ブドリは生まれたときから、せつないくらい研ぎ澄まされた生き方をしてきた。「ぼくは目の前の道を歩いてきた。そうしたらここへ来てしまったんだよ……」。そんな困惑の表情が、泣くネリを前にしたブドリの反応なのだろうと私には思えた。
 そうして、最後のあの決断に向かって、ブドリは吸いこまれるように歩をすすめていく。自己犠牲でも美しい決断でも英雄的な死に方でもない、と思えた。ブドリにはあの時、あの選択しかなかったのだから……。
 あれから二〇年以上がたった。
 「なべての悩みをたきぎと燃やし なべての心を心とせよ 風とゆききし 雲からエネルギーをとれ」。農民芸術概論綱要のなかの私の好きな一節だ。賢治は、私にとって好きとかきらいとか語る対象ではなく、心と体に刻まれた体験だ。
(堀切リエ)