みにくさはなんのため?  (『鬼ヶ島通信44号』掲載) 


 アンデルセンの一生そのままである、と言われる「みにくいあひるの子」。この物語を、私は劇団にいたころ、何百回も子どもや大人たちの前で演じた。30〜40pの大きな特性折り紙を使って、折り紙と俳優が一体になって演じる。このような形式の芝居では、とくに観客の想像力を刺激し、喚起してもらうことが大事なのだけれど、そのためには動きや鳴き声から「本当のあひるみたい」と思わせること以上に、「これは自分の物語でもある」と感じてもらうことが重要になる。実際、この物語は多くの人に共通の物語であると、私は演じるなかで感じた。
 直感としてわかっていたのは、外見のみにくさを演じるのではない、ということだった。では、「みにくさ」とはなにか。まず、異質であること。異質なものは排除の対象になる。排除される側は周囲への拒否感や孤独感を持つが、「自分はほかとはちがう」と思うことは、かえって自分探しの発端にもなる。水鳥仲間から排除されたあひるの子は、ネコとニワトリのいる百姓家に行き、自分の特性を殺すことで仲間に入れてもらえそうになる。でも、あひるの子は言うのだ。「水の上を泳ぐのはすばらしいんですよ」。さらに、「ぼくは、外の広い世の中へ、出ていきたいんです!」と。自分を捨てなかったあひるの子は、自分はだれか、自分の居場所はどこか、と独りさまよいつづける。長く寒い冬をこし、最後に「さあ、ぼくを殺してください」と白鳥の前に身を投げだす。この行為には、死を覚悟した悲壮感だけではなく、どん底を知ったものの開き直った力が感じられる。
 「みにくさ」とは、自分で感じるものでもある。自分の無力さから、ひどくみじめな気分になって、だれからも隠れてしまいたいと思うとき。自分を否定し、周囲を拒否し、殻にとじこもり、独りさまようとき。人をうらやみ、ねたみ、責め、そんな自分自身をも受けいれられずにもがくとき……。自分をたまらなく「みにくい」と感じ、苦しむのだ。
 この苦しみはいったいなんのためにあるのだろう。そう考えるとき、私は、あひるの子が死を覚悟し、白鳥の前に身を投げだしたことを思う。生みの苦しみには、死がつきまとう。死にたいくらいの苦しみは満ちて満ちて、こともあろうにある瞬間、生に転化するのだ。だからもし、みにくさに意味があるなら、再生のためにほかならないと思いたい。「それでも、ぼくは広い世の中へでていきたい」と、あひるの子が宣言する場面には、いちばん心をゆさぶられる。あひるの子は、みにくさ、みじめさ、孤独をも抱えながら、どこか毅然として自分探しの道のりを歩んでいく。
 何度くり返し演じても、みにくいあひるの子が白鳥に変わる、その瞬間の喜びとおどろきは身体中に満ち、つねに新鮮で色あせることはなかった。思春期の子どもでなくとも、人は生きるうえで何度も苦しみと再生をくり返すものなのだろう。だからこそ、多くの人にとって共通の物語になりうるのだ。「みにくいあひるの子」とは、それぞれの生と結びついた解釈のできる物語なのである。
 アフリカ公演の折(私は同行しなかったが)、この演目は「ホワイト・イズ・ビューティフル」というメッセージにとられるのではないかと危惧された。けれど、そんな心配は無用で、みにくいあひるの子が白鳥に変わる場面には、子どもも大人もおおいに湧いたそうだ。(堀切リエ)