また、全編を通して文章が簡潔で読みやすいのには驚きです。ル・グインが『夜の言葉』(岩波同時代ライブラリー)のなかでこう書いています。「トールキンは平明で明快な英語を書いています。・・すべては直接的で具体的で簡潔です。・・ファンタジーにおいては語られる一語、一語に深淵なる意味があります」と。深淵なる意味を含んだ簡潔な一語一語の言葉・・。ああ、そうか、だから心にしみいるように読み進められるのだ、と思いあたりました。ル・グインは、さらにファンタジーにおいては文体が非常に大切であることを強調しています。トールキンがオクスフォード大学教授であったことはよく知られていますが、『ナルニア国物語』を書いたC.S.ルイスらとともに、気の合う教授仲間で毎週火曜日にオクスフォードの小さなパブに集まり、言語や神話について語り合っていたということです。そこではいろいろなことば遊びなどの話題も交わされたらしく、「ホビット」という言葉もルイス・キャロルがよく使ったカバン語でつくられたのではないかと言われていると、『農夫ジャイルズ』(トールキン作 都市出版社)の翻訳をした吉田新一氏はあとがきで書いています。(ホッブ・・田舎者とラビット・・うさぎの合成語)。蛇足ですが、この本の挿し絵は堀内誠一氏が描いたもので、挿し絵だけでも一見の価値があります。すでに絶版になっていますが・・。
また、会話を多く使って物語を進行させ、その使い方にも工夫がされています。会話を1行ひいたらその後に「と、○○は言いました」とはさみ、その後に再び長く会話を続けるという技法。会話の途中で改行し、同じ話し主でもかぎ括弧を新たにいれて会話を読みやすく長くつづける書き方などを使っています。そして、なんといっても訳者の瀬田貞二さんがすばらしかった。30年たった今でも言葉が古くなっていないのです。もちろんなかには今や難しい言葉の部類に入ってしまった言葉もあるのですが、使われなくなってしまった流行語のような、場違いに感じられる言葉はほとんど入っていません。さらに、おもしろい。訳者の瀬田貞二さん自身も言葉遊びの本などを出されていたと聞きます。叙事詩ですからなかにはさまれる詩の訳では、言葉の響きもふくめてかなり苦労されたのではないかと想像できます。そして、なんといってもゴクリのあの口調・・。息をシーシー吐く音を基調にし、江戸っ子のように(江戸っ子の方ごめんなさい)「ひ」を「し」に変えてつぶやくあの特徴ある言葉のリズム。耳元に聞こえてくるようです。指輪を「いとしいしと」と訳すなんて・・。ゴクリは物語の終わり近くで指輪を手にし、「いとしい、いとしい、いとしいしと」と繰り返しながら、奈落へと落ちていきます。悲しいくらいせつない場面です。それも、ゴクリのあの口調から、ゴクリの人となりが手にとるように読者にせまっていたからなのでしょう。
私は、近頃十年以上ぶりにこの物語をひもとき、何度目かの旅にでてしまいました。けれどおどろいたことに、この世界は色あせることなく私のなかに残っていて、懐かしいと同時に、新たな風景にであい(前の旅では気づかなかった風景です)、その度に思わずたちどまり、ほうっと息をついてあたりを見回してしまいました。
たとえば、ローハン王国に向かったガンダルフたちが城壁の裏側にせまったとき、セオデン王家の陵墓である塚山の西側が、まるで雪の吹きだまりのように白くなっているのが見えます。「ご覧」。ガンダルフが語ります。「明るい瞳のように芝に咲く花のなんと美しいことじゃろう! この花は忘れじ草。この人間の国ではシンベルミーネと呼ばれておる」。この花が四季を問わずに咲いているのは、死者の奥津城(おくつき)ところに育つからだと説明します。物語の最後のほうでセオデン王がこの塚山に葬られるとき、彼の塚山は緑の芝と白い忘れじ草(シンベルミーネ)でおおわれたと語られるのです。セオデンは辺境の国ローハンの王で、元白の魔法使いサルーマンの手下である蛇の舌に毒され、老いぼれた王になっていますが、ガンダルフの訪れとともに立ち上がり、ゴンドールへの戦いの旅路の先頭に立ちます。愛すべき高潔な王ですが戦いにたおれ、塚山に葬られます。ホビット族のメリーは王を父のように慕い、シンベルミーネに覆われた塚山の麓で涙を流します。シンベルミーネは、美しく悲しい響きのある花なのです。
また、フロドとサムが、ゴクリに導かれて死者の沼地を抜け、イシリエンに近づいていくとき、不毛の大地が少しずつ緑に変わっていく描写があります。荒れてなにもない大地に、ヒースの茂みが現れ、えにしだ、山帽子、ここかしこに高い松の木が見えてきます。この風景にほっとするホビットたちの息づかいが聞こえてくるようです。さらに、もみ、杉、糸杉の林が現れ、羊歯の葉が芽吹き、落葉松の緑、タマリスク、オリーブ、たちじゃこう草(タイム)の茂み、セージの青い花・赤い花、マヨラナ、パセリ、桜草、アネモネ、はしばみ、百合、水仙と、モノクロの画面がじょじょに色あざやかに染まっていくのです。草や花の名の豊かなこと、香りたつようです。しかし、同時にクレマチスや野バラの茂みに、黒く焦げてバラバラになった骨や頭蓋骨が山になっていることが描写され、いっそう緑をひきたてます。美しさとおぞましさが重なりあった印象的な風景なのです。
また、花をうまく使った場面に、オスギリアスへの道への曲がり角にある巨大な石の王の像の場面があります。王の像は頭部を切り落とされて、かわりに大きな赤い目をひとつぞんざいに描いた丸石が乗せてあります。膝も座っている椅子も台座も余すところなく、オーク鬼たちのけがらわしい落書きで汚されているのです。しかし、足下に落ちている王の頭部に光がさしこんだとき、フロドは見つけます。王の目はうつろで、あご髭はこわされていますが、額の周りに銀と金の花の冠をかぶっていることを。それは、小さな白い星々のような花をつけた蔓草が、額に巻きついて王冠のように見えているのでした。割れた髭の間には黄色い弁慶草が光っています。これを見てフロドは「やつらだっていつまでも征服はできない!」とつぶやきます。この石の王の首は、西の国の王たちが後でここを通ったときに、花の冠をつけたままもとにもどされます。偶像破壊は実際の戦いや侵略でも象徴的な行為です。けれど、落とされた像の額に蔓草がからみつき、自然の王冠をつくっていたという描写のすばらしさには思わずうなってしまいます。
さて、『指輪物語』という題名通り、この物語の主人公は指輪です。「すべてを統べ、すべてを見つけ、すべてを捕らえて、くらやみのなかにつなぎとめる」、モルドールの冥王サウロンが自分の力をそそぎ込んでつくった、大いなる暗闇の力を持った指輪です。これを手にしたものは、暗闇の力で世界をその手におさめることができます。しかし、この指輪は長いこと失われていました。それを見つけたのはゴクリであり、ホビット族のビルボに渡り(『ホビットの冒険』にくわしい)、ビルボの甥のフロドに手渡すところから、この話がはじまります。指輪がサウロンの手に渡ったら、世界は暗黒になります。指輪の力は強大で持っている者は毒されてしまいます。指輪を破滅させることができるのは、それをつくったモルドールの火の山に投げ込むことしかありません。フロドは指輪をもち、それに従うサムは、いちばん重要な使命を帯びているにもかかわらず、途中からは二人きりでつらい行程を旅しています。
物語は『旅の仲間』以降、この二人の場面と王たちの戦いのさまをほぼ1冊ずつの分量で分けて描いていきますが、二人の場面になると、まるで重い荷物をいっしょに抱えたような気持ちになって、私も暗い道を歩きはじめてしまいます。大いなる力を秘めた指輪の所持者であるホビット族のフロドは、誰かとたたかうのではなく、いつだって自分とたたかう旅路にいるのです。そして、味方であるすばらしい人物さえも、指輪を前にすると、力を得たいという誘惑が狂おしいばかりに湧き上がります。すべてを統べる力を誰か一人が手にしたら、善も悪になる。統率された、わかりやすい世界にはなるかもしれないけれど、そのときはたして自由にものが言え、自由に行動できるのだろうか。魂は自由でいられるのか・・。この指輪はどんな高潔な人物をも陥れようとする強い力を持っています。食べること、平穏に生きること、パイプ草を吸うこと、なによりも故郷を愛するホビット族だからこそ、この指輪の力に長いこと抗して旅をすることができたのです。
これは、強大な力を持つことの恐ろしさと、その力を求めてやまない欲望の深さと、その大いなる力を捨て去る勇気を行動として完結することの難しさを描いた物語でもあります。その行為は、ほかの民族と調和して生きることへの姿勢を示しています。自分の自由を愛することは、自分だけが幸せになることではありません。エルフ族でさえ指輪を失ってしまったら、今よりも輝きを失い、海の向こうへ旅をする運命がまっています。指輪が消滅したからといって、輝きあふれる世界にもどるわけではないのです。世界はけっして逆行しません。そう、指輪が消滅することは新しい世界がはじまると同時に、今の世界が終わりを告げることでもあるのです。それでも、ホビット族のフロドとサムは、指輪を持って先へとすすみます。もし、サウロンに指輪が渡ってしまったら、この世界の本当の終わり、暗黒がやってくるのです。物語は二人の旅を前にだし、でないときには背景にし、この世界の波打つようすを多くの個性ある登場人物とともに描いていきます。
灰色の魔法使いガンダルフは、旅の途中のモリア坑道でバルログと奈落に落ち、光も知識も届かない闇の底で死闘をくり広げます。そして勝利を得ますが、風で飛ばされるくらい軽くなり、生きる気力もなくし、山頂に忘れられて、星を眺めながら裸でころがっています。巨大な鷲の風早彦グワイヒアに助けられたガンダルフは、灰色から白の魔法使いに変化します。ガンダルフの言葉で言うと「わしは白に装おわれた」ということになります。ここでいう白色とは、なにも知らない白ではなく、自分のすべてをあらいざらい放出したあとの白なのです。透き通るような白、光のような白がイメージできます。もと白の魔法使いサルーマンが指輪の力に魅せられて堕落していったこと、ガンダルフが指輪所持者として物語の終わりでこの世界から去っていくこと、そのガンダルフは長いこと灰色の魔法使いとして描かれていたことなどを考えると、「白という色はそんなに抵抗力のある色じゃない。長持ちもしない」と、色彩にもトールキンのある哲学がこめられているように思えます。文庫版の帯には、「成人のための叙事詩的長編ファンタジー」とありますが、最初にこの物語を読んだ私は、大人になりかけていたころであり、この物語のさまざまな場面を深く心にとめました。25年後でも色あせないくらいに。
さて、話はもとにもどって、ゴンドールのファラミアも個性ある一人です。彼は指輪の力に見せられ、フロドから指輪をとりあげようとし、その後オークとの戦いで命を失ったゴンドール大公の長子ボロミアの弟です。そしてその冷静さと情けある性格が、勇敢で一途なボロミアを愛していた父デネソールから疎まれています。が、非常に知が深い人物として描かれています。モルドールに入る前に、フロドとサムはファラミアに保護されます。しかし、保護とはいっても秘密の指名を持つ指輪所持者には、力のある者の前に立つのはなお危険な状態なのです。ファラミアはフロドの話から、ボロミアが指輪(指輪とは知りませんが)を欲して行動したこと、指輪をフロドが持っていることに勘づきます。しかし、「たとえそれが道ばたに落ちていたとしても私は拾わない」と言い切ります。冥王の武器で愛する都を救うことは、人に恐れられる都をつくることにはなっても、愛される都にはならないだろう。都はその美しさのために、英知のために人々に愛されてほしいと言うのです。夕やけの光を宝石のように映す水の幕がかかる美しい岩やで、つい気をゆるしたサムは、ファラミアに指輪のことをしゃべってしまいます。ファラミアは自分が「人間が逃げねばならぬ危険がいくつか存在していることを承知している程度の頭のある人間だと思っている」と言い、フロドがこれからどこへ行こうとするのか、なにをしようとするのかと尋ねます。フロドは消え入りそうな声で、指輪をモルドールの火の山の滅びの亀裂に投げ込まなければならない、と答えます。ファラミアはしばらくの間、沈痛な驚きの顔でまじまじとフロドを見つめると、不意にゆらりと体の傾いたフロドを抱きとめ、そっと寝台まで運び、暖かいふとんで包みます。この場面は、目頭を熱くします。
個性的で魅力的な人物はまだまだたくさんいます。旅の仲間であるホビット族のメリーとピピンはもちろん、木の牧人であるエント族の木の髭、女だからといってただ待つのは耐えられないと男装をして戦いへくりだすエオウィン姫、生きながら父デネソールに火葬されそうになるファラミアを命令にそむいて救おうとするペリゴント・・。書き出したらきりがないので、ここではあと一人、フロドに仕えるサムについて触れましょう。
指輪の重さにふらふらになったフロドを、サムは肉体的・精神的に支えます。水も食べ物もフロドに譲ってしまったサムは、へとへとになる自分をも力づけなくはなりません。その力のわかせ方は、「物語」と「歌」なのです。暗い旅路でサムは言います。「冒険とは、物語の中の華々しい連中がわざわざ探しに出ていったもんだろうと思っていた」と。「でも、本当に深い意義のあるお話や心に残っているお話の場合は、主人公たちは冒険をしなきゃならないはめに落ちこんじゃったように思える」と。そして、「自分たちはどんな種類の話のなかに落ち込んでしまったのだろうか。もしかしたら、この旅が何十年、何百年もたってから炉端で話されたり、本で読まれ、『フロドと指輪の話をしておくれ』と子どもがせがむかもしれない」と。フロドはサムの話に思わずほほえみながら、「けれど、私たちは物語の今いちばんこわいところにいて、それもにっちもさっちもいかなくなっている状態なんだよ」と、答えます。「子どもが『こわいからもう本を閉じてよ』っていうところかもしれないね」と。サムは、自分たちが物語の中にいると仮定をして、つきはなした目で自分たちを見ることで、今のつらい状況を語りあうことに成功しています。一種の「異化効果」というやつでしょうか。つらいときには、黙りこむより語りあうことのほうが何倍も何十倍も元気がでますから。このサムの物語というのは、ビルボがエルロンドの館で書いている「ゆきてかえりし物語」と複線がはられています。話が進行しているあいだ、エルロンドの館で皆の帰りを待っているビルボは、一人で物語を書き進めているのです。そこに、こんどの冒険の物語がつづくはずなのです。
また、フロドを見失い、オークの塔の一角で孤独と疲労と絶望で暗闇にうずくまったサムは、そのとき、自分でも思いがけなくいつもは得意でもない歌が、自然に口をついてでてきます。その歌はこんな歌です。
「お月さまの照る西の国に 春には花々がほころびるだろう。木々は芽ぶき、水はほとばしるだろう。・・・・たとえこの身はここ旅路の果てに倒れて 暗闇の底に埋もれようとも、強固で高い塔の群れをぬき、けわしい山脈をぬきんでて、あらゆる陰の上空に、お日さまは上る。星々も永久に空にかかる。いうまいぞ、日が果てた、と。告げまいぞ、星々に別れを。」
彼は歌いながら、突然新たな力がわき起こるのを感じます。
けれどとうとうサムも限界にきます。帰路への希望をすて、荷物を全部捨てて前へ進むことだけを目指す決心をするのです。けれどいざ捨てるとなると、遠くまで運んできた荷物はどれも大事に思え、なかでも料理道具は、捨てると考えただけで涙があふれてきます(「あなたの宝物は? と聞かれて「鍋」と答えたことのある私にはサムの気持ちがよくわかります)。せめてオーク鬼にさわられないようにと、彼は亀裂のなかに自分の鍋を投げ入れるのです。鍋はガランガランと弔い鐘のように音をたてながら落ちていきました。鍋という一見なんということもない小物をこんなふうに使うトールキンの見事さ。サムといっしょに涙ぐみながら、改めて感心させられました。
さて、とにかく前だけを見つめながらも、楽しいこともうれしいこともなにも思い出せないほど疲労と闇にとりつかれてしまったフロドは、歩くこともままならなくなり、岩をはいつくばって進みはじめます。その姿を見たサムは心で泣きますが、水をのんでいないサムの目には一滴の涙も浮かんできません。彼は最後の力をふりしぼり、フロドを背負って岩山をのぼります。けれど、やっとのこと目的地に行き着いたフロドは、「指輪はだれにも渡さない」、自分のものだと宣言するのです。そこで、ゴクリの登場となります。「どんなものにも役割がある」とガンダルフが言った言葉を忘れずに、二人はゴクリを恨んでも殺すことだけはしませんでした。ゴクリは大事な役割を果たし、「いとしいひとおおお」と叫びながら、亀裂へと消えていきます。
火に囲まれてもはや助からないと悟ったフロドは「サム、一切合切が終わる今、おまえがここにいてくれてうれしい」と言いますが、サムはそれでもあきらめるのはどういわけか自分らしくないと、少しでも高いところへとフロドを誘います。そして、いよいよ助からないというとき、サムはフロドの傷ついた手をにぎり、やさしくなでながら言うのです。「おらたちはまたなんちゅう話の中にはいっちまったこってしょうね、フロドの旦那?」 そして、「だれかがこの話をするところを聞けたらなあ」と、最後の最後まで恐怖を寄せつけまいとフロドに話しつづけます。
二人を風早彦グワイイアが助け出すところで、話はひとくぎりします。ストーリーとしてはここでめでたし、めでたしと終わってもかまわないのかもしれません。けれど、物語はまだまだ続いていきます。旅をすすめ、ここまで行き着いた読者は、これから来た道と同じ道をたどって、物語のはじまりと同じホビット庄まで帰路の旅路をたどることになるのです。「えー、まだ続くの?」と、はたして読者はこれを長いと感じるのでしょうか? 私は違いました。きっとこれは読者にとっての必要な旅路なのです。つらい旅路をいっしょに旅することで、読者である私もいっしょに疲労していたのです。幾度も涙を流したり、どきどきしたり、苦しくなったり、悪夢だって見ました。その長い旅路を逆にたどることによって、きっと読者である私は癒されていくのです。そして、ゆるやかに物語からの別れを受け取ることになります。
これから先の物語は新しい始まりとともに、終わりでもあり、別れが待っています。王となったアラゴルンに、ガンダルフは「人間たちの支配する時代が来た」と言い、最初に生まれた者たちは衰えゆくか、去って行くのだと別れを告げます。旅の仲間もそれぞれの国へと別れていき、最後には最初と同じホビット4人だけが、ホビット庄へと帰りつきます。けれど、懐かしい故郷はサルーマンが指図し、ならず者たちに荒らし放題にされているのです。なかでもいちばん許せない行為は、美しい木々をところかまわず切り倒したことでした。変わり果てたホビット庄の姿に涙ぐむサムですが、すぐにメリー、ピピンといっしょに血気盛んに立ち上がります。フロドはその3人をいさめてこう言います。「それでもやっぱり、わたしは殺すことは望まない。たとえ相手がごろつきどもであったとしても」。彼の態度はサルーマンに対しても同じでした。とらえられたサルーマンをホビット庄の住民が囲み、「殺しちまえ!」という合唱のなかで、フロドは言います。「だが、わたしはかれを殺させまい。あだをもってあだに報いても何にもならない。何も癒しはしない」と。去る間際にこともあろうにサルーマンはフロドを短剣でさします。傷つけることはできなかったにせよ、サムは怒りのために剣をぬいてサルーマンに迫ります。「いけない、サム! それでもかれを殺してはいけない」。フロドは彼を止めます。かつて偉大だったサルーマンの救済は自分たちの手にはおえない。でもかれがどこかで救済を見いだすことを望んで、命を助けたいと。「あんたは成長したな、小さい人よ。賢明にして残酷だ」と言ってサルーマンは去ろうとしますが、手下であった蛇の舌によって殺されてしまいます。
ホビット庄は再建され、物語の一番最後は、それこそ最後の別れと旅立ちで終わります。フロドは、前指輪所持者であったビルボやエルフたちといっしょに、海の向こうの癒しの大地へ旅だつのです。指輪の大いなる力は、所持したものを確実にむしばんでいたのです。ここで残っていた3つの指輪所持者が、エルロンド、ガラドリエル、そしてガンダルフだったことが示され、いっしょに旅だつことになります。別れを悲しむサムにフロドはこう言います。「愛するものが危険に瀕している場合、しばしばこうならざるを得ないものだよ、サム。つまりだれかがそのものを放棄し、失わなければならないのだ。ほかの者たちが持っておられるように」。そして自分の持っていたもの、持ったかもしれないものは、ことごとくサムに残していくと言います。ビルボが書き、フロドがひきついでまとめた旅の物語も。そして「おまえは、物語のなかでも役割がつづくかぎり、幸せにやっていけるだろうよ」という祝福の言葉を残して、フロドは旅だっていきます。物語は、サムがホビット庄の自分の家、かつてはビルボ、フロドの家だったところに、「今、帰っただよ」と入るところで本当に閉じられます。
さあ、この文章もいよいよ最終場面となりました。物語がおわっても、本には「追補編」がつづき、歴史と家系図、年表などがならびます。それに続いて「著者ことわりがき」でしめくくりです。トールキンは言います。「この物語を出していろいろな書評や意見をもらったが、それはそれとして一点だけは受け入れる意見がある。それは『この本が短すぎる』ということである」と。私は笑いながらたしかにそうだとうなずいていました。まだまだ長くてもよかったのに・・。その後でちょっとブルブルと首をふった気もしましたが。
また、大戦をはさんで書いたことで「メッセージ」が含まれているとか、今日的な問題を扱ったものだとか言われることについては、作者の意図としてはそういうものはなにもないと言っています。書くことの一番主な動機は、「本当に長い話で腕試しをしたいという物語作家の欲求である。読者の注意をひきつけ、おもしろがらせ、喜ばせ、時にはらはらさせ、あるいは深く感動させるような長い話を書きたかったのだ」と。
「ファンタジーは旅です。精神分析学とまったく同様の、識域下の世界への旅。精神分析学と同じように、ファンタジーもまた危険をはらんでいます。ファンタジーはあなたを変えてしまうかもしれないのです」(『夜の言葉』)
ル・グインがこう言ったことが、今さらながらに私には響きました。きっと今まで、目の前のつらい状況や肉体的にきびしい時、この物語を旅したことが救いになってきたのではないかと思うからです。旅を好きになったのもこの物語のせいかもしれませんし、民族学に心躍るのもルーツはここ?・・。松田志津子という親友をつくったのも、この物語のしたこと? さてさて真偽はどうにせよ、この物語は私の中に深く入り込んでいることだけは確かでしょう。たぶん、本物のファンタジーは人生に深く入りこんでしまう力を持っているのではないでしょうか。
今回の旅をしてみてわかったことは、若いころとは別の意味で、この物語が私の精神をゆさぶり、疲労させたということです。よい疲労も文字通りの疲労もいっしょに。この物語は、私の心の奥底にまで到達し、年を経た分だけ深く感じたおかげで、涙を流しながら読む場面がひどく増えてしまったからです。心にしみいる風景を深く味わえたことも、旅をした回数がずっと増えたからでしょう。そして、この物語を本棚の奥にしまいこんで、よく十年以上も見ないで過ごすことができたと、自分ながらに不思議に思えたのです。どうしてこんな大事なものを読まないで過ごせたのだろうと・・。いやいや、いつも読むものではありませんね。
この物語を読み終わったとき、私の頭にこう言葉が浮かびました。「ファンタジーは、きわめて個人的な世界でありながら、原初に近い時代の人の思い(多くの人が共通に持っている思いや願いなど)につながる行為への道しるべを、探ることから生まれる物語」なのではないかと。この意味はまた後でじっくり考え直してみます。そして、憑かれたようにこんなにつらつらと書いて疲労をさらに重ねてしまったのは、まだまだ旅の余韻から抜けきらないからなのでした。それにしても、これだけ書いてもまだまだ指輪物語については書き続けられるということに気づいて、ちょっとぞっとしています。キリスト教徒でありながらケルト的であると言われるトールキンの、ケルト的とはどういうことか・・とか。とはいえ、ここまででもああ、つかれた・・。読むことも書くことも。最後に言えるのは、『指輪物語』とはそういう力を持った物語だから、もし途中で挫折した人は、そのままでいるほうがよいかもしれないということです。はまると疲れますよ。きっとね。