私とファンタジー その2 『月夜と眼鏡』  (堀切リエ)

月夜と眼鏡・・・小川未明を語る。


●私とファンタジーその2・『月夜と眼鏡』(小川未明、冨山房百科文庫)  堀切リエ

 今回は「空想世界を育む」という視点で、私にとって大切な作品をひもときたいと思います。「ファンタジー世界を育む」でもよいと思ったのですが、やはりファンタジーという言葉の意味があいまいになってしまう恐れがあるので、空想としました。
 第2回で小川未明とは、第1回『指輪物語』とまるでかみあわないではないか、と思われた方も最後まで読んでいただければ、どこがつながっているかわかっていただけると思います。
 *書名のあとに入っている( )付の数字は、文末の参考図書を示しています。
 *作品の題名は引用した本に沿っているので、全体として統一されていません。
 *古い文献から引用した場合、旧漢字を新漢字に変えています。

 さて、『ファンタジー童話傑作選2』(佐藤さとる編・講談社文庫)に、小川未明の作品「金の輪」がとりあげられています。佐藤さとるさんは作品の解説で、「未明の作品はどれもとうていファンタジーとは言えないけれども、日本にファンタジーを生む素地をつくった人という点で抜かせない」と書いています。「日本にファンタジーを生む素地をつくった人」である小川未明とは? 小川未明と「ファンタジー」の関連はこれいかに? なんとはなしにわくわくしながら、まずは、私の個人的体験からはじめさせていただきます。

 私は小学校中学年のころ、『赤いろうそくと人魚』(1)を父の本棚から抜きとって読んだらしく、その巻頭に載っていた『月夜とめがね』と初山滋さんの挿し絵が印象深く心に残っています。子どもであった私は、何度も何度も読みかえし、月の光に満たされた不思議な世界へ、幾度も入りこんでうっとりしていたようです。
 子どもたちの持っている空想世界は、それぞれでちがうと思いますし、また、その入り口になる場所(きっかけ)もそれぞれだと思います。私にとっての不思議世界のキーワードのひとつは「祖母」でした。おばあちゃん子であった私は、家へ帰ると、祖母のそばでくつろぐのが好きでした。なにがあっても怒ったことのない温厚な祖母のまわりは、いつも空気がやわらかかったような気がします。私は、祖母のそばにいれば安心だったし、ゆっくりとした時間の流れのなかで、存分に空想を楽しむことができたのでしょう。祖母は、自分の子どものころのなんともない話を楽しく語ることの名人でした。その話のなかには、江戸川(神田川の支流)で祖父が河童を釣った話や、お稲荷さんの奉祀の玉がおしろいをペロペロなめるなどという、不思議な話もまじっていました。いろいろな不思議感覚を、私は祖母から体感していました。
 これを書きはじめてからわかったのですが、小川未明もきびしい母よりも祖母になついていたらしく、「赤い蝋燭と人魚」の話のもとになったのではないかという、潟町にある「人魚塚」の話を祖母から聞いていたそうです(7)。小川未明もおばあちゃん子であったという事実がなんとはなしに未明を近くに感じさせ、作品に登場するおばあさんの存在にも暖かみを感じました。
 こうして、『月夜と眼鏡』は、「祖母」という私の空想世界の入り口から、作品へといざなってくれたのでしょう。

 作品は、こうはじまります。
「町も、野も、いたるところ、緑の葉に包まれている頃でありました。
 おだやかな、月のいい晩のことであります。静かな町のはずれにお婆さんは住んでいましたが、お婆さんは、ただ一人、窓の下に座って、針仕事をしていました。」
 未明の作品には「月」が多く出てきます。「月とあざらし」「港についた黒んぼ」をはじめとして、月の光がやさしく、ときには悲しげに物語世界を照らしています。「いや、小川さんの小説は、あれは読まなくてもわかる。月があって、鉄道線路があって、その線路のそばを青年二人が議論して歩いている。それで、終わり」
 こう言ったのは、中央公論の編集者だった滝田樗蔭さんだと、尾崎士郎氏は『日本児童文学──小川未明追悼号』(5)で語っています。そして、月は小川未明の夢を表しているのだと。この話は小説をさしていますが、「童話」を書くようになった未明には、月は欠かせないものであったと思われます。
 さて、この作品の冒頭で月はこのように描写されています。
「月の光は、うす青く、この世界を照らしていました。なまあたたかな水の中に、木立も、丘も、みんな浸されたようであります。お婆さんは、こうして仕事をしながら、自分の若い時分のことや、また、遠方の親戚のことや、離れて暮らしている孫娘のことなどを、空想していたのであります。」
 そして、目ざまし時計の音が、カタ、コト、カタ、コトと時を刻んでいます。光と音……。緑の美しい季節の晩、暑くもなく寒くもなく、また、月の光が美しく満ちていて、時計の音と遠くから汽車のかすかなとどろきの聞こえてくる、静かな静かな世界です。
 そこへ、「コト、コト」と戸をたたく音がします。
 めがね屋がたずねてきたのです。めがね屋の足下には、白や、赤や、青や、いろいろな草花が、月の光を受けてくろずんで咲いて、匂っています。すでにめがね屋が、月の光(夢)につつまれた不思議人物であることを物語っています。つまりそのめがね屋の売るめがねも……。
 目が悪くなって、針に糸をとおすのがうまくいかないおばあさんは、めがね屋からめがねを買います。私も祖母の針に糸をよく通してあげた経験から、すんなりとお話のなかのおばあさんに感情移入していきました。
 さて、めがねをかけて仕事のはかどったおばあさんがそろそろ休もうとすると、また戸をたたく音がして、今度は女の子が訪ねてきます。町の香水工場へつとめていて、帰り道で石につまずいてけがをしたのでと、おばあさんに助けを求めます。髪の長い女の子の体からは、いい香水のにおいがプンプンとします。
 おばあさんは、なにか薬をつけてあげようとして、少女をランプの近くにつれていき、さっき買ったよく見えるめがねをかけて、ふりむきました。するとおばあさんはたまげてしまいます。
「それは、娘ではなくて、綺麗な一つの胡蝶でありました。」から……。
 魂消た(たまげた)と書くくらいですから、魂が消えるくらいひどくおどろいたでしょうに、おばあさんはやさしく言います。
「いい子だから、こちらへおいで。」 
 おばあさんは戸口を出て、少女を裏の花園へと導きます。花園にはいろいろな花が、今を盛りと咲いていて、「ただ水のような月の青白い光が流れていました。あちらの垣根には、白い野薔薇の花が、こんもりと固まって、雪のように咲いています。」
 おばあさんが不意に立ちどまってふりかえると、後をついてきたはずの娘は、どこへ姿を消したものか、いなくなっていました。そこでおばあさんは、「みんなお休み、どれ私も寝よう」と、家の中へはいります。最後のむすびの言葉は、こうです。
「ほんとうに、いい月夜でした。」

 月ではじまり、たえず月の光を感じさせ、月の光に包まれた世界のお話は、最後も月で閉じています。
 うちの本棚の未明童話集のとなりには、やはり古ぼけた本があって、それは三好達治の詩集『測量船』(南北書園 昭和22年発行)でした。そのなかの「祖母」という詩は、私の頭のなかで「月夜と眼鏡」のお話といっしょくたになって、あたたかな幻想世界を創り出しています。

   祖母
 祖母は蛍をかきあつめて
 桃の実のやうに合せた掌(て)の中から
 沢山な蛍をくれるのだ

 祖母は月光をかきあつめて
 桃の実のやうに合せた掌の中から
 沢山な月光をくれるのだ

 ここにも、「おばあさんと月」という組み合わせ。おばあさんの合わせた掌の内側から、月と蛍の光がぼうっと透けて見えている様子が、まるで見てきたかのように目に焼きついています。
 子どもの空想や幻想はいろいろなキーワード(きっかけ)からはじまり、子どもの経験や感覚が物語のちょっとしたエピソードや小道具などとオーバーラップすると、作品世界は独特の膨らみをもって、しっかり心にきざまれ、さらに年月を経るなかで育っていくのです。私にとって「月夜と眼鏡」は、そんな作品でした。

 小川未明の作品が、“「少年文学」の旗の下に!”(1953年、早大童話会)のなかの「我々はメルヘンを克服する、」という項目を中心に古田足日氏や鳥越信氏らが批判し、『子どもと文学』(11)では、「童心主義」「象徴童話」という言葉とともに批判的に語られてきたことは、多少は知っていました。けれど、自分が大事にしている「月夜と眼鏡」という作品とは直接には結びついていなかったのです。
 ところが山中恒さんが、「俺が童話会に入会したとき、何が好きだと聞かれたから、宮沢賢治と千葉省三の名前を出したら、すごくいやな顔された。日本の児童文学の最高峰の作品は、小川未明の『月夜とめがね』だというんだね。他には無いんだよ。俺は童話作家になりたくて、早稲田にはいったのに、「これか」と思って絶望した。」(鬼ヶ島通信第32号、「佐藤・山中両先生に聞く『同人誌の時代から』」)と作品を名指しされてはじめて、「それってあの作品?」と立ちどまったのです。
 そんなこんなを期にして、小川未明の作品を読み返してみることにしたのです。けれど、短編童話だけでも1000編近くはあると言われている多筆の作家ですから、とうてい全部は読めないので、作品は代表的なものを100編弱、手に入れることのできた小川未明について書かれた本(文末・参考図書)を数冊読んでみました。
 作品を紹介しながら、未明にアプローチしてみたいと思います。

 まず最初に、とっても奇妙な作品を紹介します。「電信柱と妙な男」(明治43年、『赤い船』)という題名で、未明の作品のなかでも初期に属しています。
 「或る町に一人の妙な男が住んでいた。」
と、作品ははじまります。この男は最後まで名前は知らされず、妙な男のままで終わります。どこが妙かというと、昼間はちっとも外へ出ないで、部屋へ閉じこもっていて、夜になって人が寝静まると、一人でぶらぶら外を歩くのが好きだったというのです。
 そして、ある夜、男がいつものように誰もいない町中をぶらぶら歩いていると、「雲突くばかりの大男が彼方(あちら)からのそりのそり と」歩いて来たのです。そこで妙な男が「お前は誰(たれ)か?」と聞くと、「おれは電信柱だ」と大男が腰をかがめて小声で答えます。そしてなぜ互いに夜の散歩をこのむのかを質問しあって、「昼間は人通りが多くて大きな体の自分は散歩ができない」と答える電信柱と、「誰とも顔を合わすのがいやだから夜散歩をするのだ」と答えた妙な男は、なんだかとても気があってしまって、いっしょに散歩することになります。そして背がちがいすぎるから話しにくいと、妙な男は家の屋根の上を歩くことにします。そこではじめて電信柱の顔を間近に見た男は、真っ青で傷だらけであることに気づきます。おどろいて尋ねると、顔の青いのは恐ろしい電気が通るからで、傷口は針金でつつかれた痕だと答えます。「やあ、危険! 危険! お前さんには触れない」と急に男はおびえだし、電信柱に下におろしてもらえないうちに朝がきてしまって、電信柱は動けなくなり、道のまんなかででんと立っています。男が、呼んでも答えない電信柱にむかって拝むように「おろしてくれ!」と屋根の上でたのんでいる姿を、みんながでてきて笑ってみます。その後、電信柱も男も「もう夜の散歩は止めたといふことであります」と話は終わります。
 なんともシュールな作品です。宮沢賢治が電信柱を「ドッテテ、ドッテテ、ドッテテド」と歩かす前に、未明も「のそりのそり」と歩かせていたのですね。まあ、擬音においては音楽的感覚のすぐれている賢治の方に軍配があがるといった印象ですが、未明作品のなかで、大きな電信柱が腰をかがめて小さな声で「電信柱だ」と答えるところなんか、ほどよいユーモアが感じられます。未明自身も体格のよいけっこうな大男で、散歩好きであったということですから。この作品のなかでは、最初は雲っていて月はでていません。けれど月は効果的に登場します。妙な男が屋根にのぼって歩きはじめて少しすると、「此時雲間から月が出て、お互に顔と顔がはつきりと分かりました」と、話の展開に一役かっています。でもこの話全体が幻想的というより、なんだかおかしな雰囲気ですから、月の光の魔法はいらなかったのかもしれません。

 宮沢賢治のほうは「月夜のでんしんばしら」で、題名にも「月」が入っています。余談ですが、宮沢賢治というと「星」のイメージが強いのが、童話集『注文の多い料理店』の序にあるように、「これらのわたくしのおはなしは、みんな林や野はらや鉄道線路やらで、虹や月あかりからもらってきたのです。」と書いています。「月夜とでんしんばしら」の月を、賢治は次のように描写しています。
「九日の月が空にかかっていました。そしてうろこ雲が空いっぱいでした。うろこぐもはみんな、もう月のひかりがはらわたの底までもしみとおって、よろよろするというふうでした。」
 賢治というと「石こ賢さん」と呼ばれたように、石が好きでした。賢治が名付けたイギリス海岸のくるみの化石ですが、私は北上を訪ねた折りにもらって帰ってきて、水につけて保存していて、いつのまにかなくしてしまったのが悔やまれます。
 小川未明の晩年のことです。娘の岡上鈴江さんが、立春の朝、年老いた両親をたずねると、二人はこたつに入ってこたつの上の黒い固まりを熱心に見つめていました。その黒いものは梅花石で、ひとでや貝の化石でした。未明は、低いはっきりしない言葉ではあったけれど、感動をこめて「二千年も、三千年も海の底にあったんだ」とつぶやき、またじいっと石に見入ったそうです(4)。また、未明は草花を愛し、盆栽にこり、はてにはせまい庭に大きな石を入れて、戦争中は近所から爆弾を落ちたら石が飛び散って危険だからどうにかしてくれと言われたエピソードも残しています。

 宮沢賢治と小川未明、ともに自然を愛し、石の中にも遙かな年月や命を感じる鋭い感受性を持っていた人物です。自然の豊かな(厳しい)東北の風土が、どちらも作品世界に色濃く現れてきます。二人に共通点があるなどといったら、どちらのファン(研究者)からもおしかりを受けるでしょう。けれど二人は、自然に向かって感受性を解き放つことで、豊かでバラエティに富む空想の糸口をたぐりよせたのではと思うのです。二人の生育環境を考えると、自然との係わりのなかから感性を育んだ部分が大きいと思われます。石のなかに悠久の時を感じる未明は、アメリカ海岸でくるみの化石を拾い上げる賢治と、どこか重なってきます。賢治の「よだかの星」と未明の「紅雀」を比べて読んでみるのもおもしろいでしょう。
 自然について、未明本人は『童話雑感及び小品』(3)の冒頭の「常に自然は語る」のなかでこう書いています。
「天心に湧く雲程、不思議なものはない。自分は、雲を見るのが、大好きだ。そして、それは、独り私ばかりでなく、誰でも感ずることであろうが、いまだ嘗て、雲の形態について、何人も、これをあらかじめ知り得るものがないといふことだ。(中略)
 作家は、空想する自由を有している。空想は、ちやうど雲のやうなものだ。はじめは、形の定まらない、影のごときものであった。しかし空想は、想像となり、想像は、思想にまで進展し、やがて、それは内部的な一切の衝動のあらはれとなって、外面に向かって迫撃する。これは、外的要因が、内的の力を決定するのではない。
 ここに、自由の生む、形態の面白さがあり、押へることのできない強さがあり、爆破があり、また喜びがあるのである。(後略)」
 これを読んで、「風と行き来し、雲からエネルギーをとれ」(農民芸術概論綱要、宮沢賢治)という言葉を思い出したのは私だけでしょうか? また、「芸術は爆発だ!」というCMで一躍人気者になったのは岡本太郎氏ですが、未明までも「爆破」という言葉を使っていたとは、なんとなく愉快です。

 小川未明は、明治15年(1882年)4月7日、新潟県西部の高田という町に生まれました。戦国時代に上杉謙信が城を築いた所で、小川家は高田の町はずれの現栄町にあり、未明の父は明治維新の時、会津戦争に惨禍して背中に大きな刀傷があったそうです。その父は、上杉謙信を崇拝していて、その居城であった春日山の城あとが荒れているのを残忍に思い、貧しい名もない身でありながら、資金集めをして単身そこに神社をつくったという信念と努力の人でした。謙信を敬って神社を建てたくらいの人なので、未明が日本社会主義同盟の発起人に名をつらねたときは、驚いて東京にかけつけたそうです。しかし、未明が自分の考えを語ると、神主である父は顔をあげ、「そうきけば判るな。正義のために筆を執れ」と、かえって未明をはげましたそうです(4)。
 未明は、雪の多い、人気も少ない町はずれで、兄弟もなく、四季おりおりの季節の移り変わりを眺めながら、成長していったようです。小さい頃から癇癪もちで、長じても感情がはげしく、すぐに激してしまう人だったと、未明を知る人が口をそろえて言っています。
 本名は健作、「未明」という名 は坪内逍遙が、「ゲーテは美はtwilightにありといったが、同じ薄明でも、たそがれはこれから暗くなるのだし、暁はこれから明るくなるのだから、『未明』がよかろう」とつけてくれた名です。そのころ早稲田で教えていた島村抱月は、未明と竹久夢二をひきあわせ、さらに巌谷小波に「今、自分のところには、小説を書いている小川という青年がきてるが、これは将来、きっとあなたの分野にいくものだと思う」と、未明の未来を予言したそうです。(4)

 さて、作品を紹介しながら次に話をすすめたいと思います。作品は「青いランプ」で、時の流れを短い作品のなかで感じられる秀作です。
「不思議なランプがありました。青い笠がかかっていました。火をつけると、青い光があたりに流れたのです。」
 話は、青いランプの描写ではじまります。このランプをつけるときっと変わったことがあると伝えられ、その家ではランプをつけることをずっと恐ろしがってきました。時は電灯の時代に移り、不要になったランプはしまいこんであります。ある日、そのランプが話題にのぼると、「この文明に世の中に、化け物や悪魔がでるはずがない。迷信だ」とみんなが言ったので、その夜ランプをともしてみることになったのでした。ランプをつけるので電灯を消すと、部屋の中は真っ暗になり、あたりは静まり、波の音だけが「ド、ド、ドン」と聞こえてきます。マッチをする音がシュッとして火がつくと、ほんのりと青くいろどられた光が、窓から遠く海のほうへと流れていきました。
 どうしてこのランプが不思議なランプと言われたのかと聞かれたおばあさんは、集まった人たちにランプの話をします。そのおばあさんが子どものころ、外国の難破船からただ一人海岸に泳ぎついて助かった人がいました。おばあさんの父親は、その人の面倒をよくみてあげました。父親は研究心の深い人で、まだ行ったことのない外国の話を聞くと、ぜひ外国へいって仕事をしてみたいと思うようになります。ある日、沖に外国の船がやってきて、その人が国へ帰ることになります。「いっしょに外国に行くなら今!」と決断を迫られた父親は、胸に灯った外国への憧れを消すことができません。家族は泣いてとめますが、「5年したらきっと帰ってくる」と行い、外国へと旅だっていきます。5年がたち、残された母親は、その晩もランプを灯して仕事をしていました。「お父さんは約束なされたことは、けっしてお違いなされはしない。今夜こそ帰っておいでなさる」と、母親は信じて暗い海の方を見ていました。すると、不意に夜嵐が窓に吹きつけるように、幾羽ともなく、黒い海鳥が青いランプの火を目がけて、どこからともなく飛んできて、窓につきあたったのです。次の晩も、またどこからともなく黒い鳥が、青いランプの火を目がけて飛んでいきました。毎晩、青いランプに火をつけると、どこからともなく黒い鳥が押しよせてきたのです。しだいにみんなはこのランプを気味悪がるようになり、いつかしまいこんでしまったということです。
 ここで話が現実にもどり、「そのお父さんはどうなされたのでしょうね」という問いに、おばあさんは「私が、こんなにおばあさんになったのだから、もうお父さんは、この世においでになされるはずはないでしょう」と答えます。居合わせた人は、時の流れにはっとします。子どもたちは、「今夜も黒い鳥が飛んでくるかしらん?」と聞きます。おばあさんは答えます。
「もう、そんなこともあるまい。あの時分、国へ帰りたい、帰りたいと、お父さんが毎夜思っていなされたから、鳥になって来なさったのかも知れないが、もう、そんなことはないだろう」
 そして、久しぶりにランプを灯したその夜は、なにも変わったことはなかったということです。
 ここで話は終わりです。作品の構造は、おばあさんのいる現実にサンドイッチされて、おばあさんの子どものころの話が青いランプの言われとして語られます。読者は居合わせたみんなといっしょに話にひきこまれ、「そのお父さんはどうしたのですか?」という問にふと(作品の)現実にひきもどされます。おばあさんの答えに、たくさんの月日がすでに流れていってしまったことに、話を聞いていた人といっしょに読者も気づかされます。お父さんがその後どうなったかはなにも知らされず、お父さんが胸に抱いた外国への強い憧れと、残された家族の父親への思いが、今は過ぎ去ったものとして突きはなされて語られるとき、より鮮明に浮かびあがってきます。ふたつの強い思いが同時に示され、そこで幕切れになるので、読者の胸にその思いがぽんと手渡されてような印象です。
 似た読後感のある作品に、「海ほおづき」があります。こちらは、あや子という名の少女と海ほおづきを売っているおばあさんの話です。あや子はお祭りでおばあさんのお店の海ほおずきを買おうとしますが、雨がふってきて買いそこねます。どうしてもほしくておばあさんの家を聞いて、いい月夜の晩にたずねていきます。おばあさんはやさしく海ほおずきをゆずってくれます。次の年、またお祭りが近づいたので、あや子はおばあさんのことを思い出し、家をたずねてみます。けれどそこには、知らない若い人が住んでいました。お祭りの日がきて、あや子はおばあさんのお店をさがしますが、どこにも見あたりません。いつかおばあさんが店を出していた場所には、背の高い男がダリヤを地面にたくさん並べて売っていました。そのなかの黒いダリヤがあや子の目に焼きつくところで、話は終わりになります。

 読み返しながら、思わず目頭が熱くなりました。時の流れとその無常さを強烈に感じさせる作品です。ここで私は、未明の作品が「観念的・象徴的童話」であるがために、子どもが読むのに適していないと批判されたことを思い出しました。そこで、『日本児童文学──小川未明の再検討』(6)の冒頭の「《討論》小川未明をめぐって……猪熊葉子・古田足日」を開いてみました。
 そのなかで猪熊葉子さんは、古田足日さんが「未明の作品は未分化な児童文学である」と指摘したのに対し、こう述べています。
 「……未明が未分化であるという意味が、子どもの読者の立場にどこまで彼が立っていたかが疑われる意味だとすれば、極論すれば、所詮未明は、おとなとして、『我が特異な詩形として』(作品を)書いていたのだから、もう大人の文学だったということに決めてしまえばいいのではないですか。その上で、大人の文学を子どもがなぜ読めるか、という問題にするなら話はわかるのです。……本来は大人の文学であったにもかかわらず、自分自身でもファンタジーは子どものものだ、ファンタジーは童話だ、というので子どもの作品のつもりでいた自分も誤解していたし、人も誤解していた、そのことが問題をこんがらがらせている原因なのではないか……」。これについて、古田さんは「そのことはぼくは賛成」と答えています。

 未明本人は、大正15年5月13日、「童話作家宣言」として知られる「今後を童話作家に」(東京日日新聞)で、次のように書いています。
 「私の童話は、ただ子供に面白い感じをあたえればいいといふのではない。また、一篇の偶話で足れりとするわざでない。もっと廣い世界にありとあらゆるものに美を求めたいといふ心と、また、それ等がいかなる調和に置かれた時にのみ、正しい存在であるかといふことを詩としたい願ひからでありました。
 この意味において、私の書いて来た童話は、即ち従来の童話や、世俗のいふ童話とは多少異なった立場にいるといへます。むしろ、大人に読んでもらった方が、却って、意の存するところが分ると思ひますが、飽くまで、童心の上に立ち、即ち大人の見る世界ならざる、空想の世界に成長すべき芸術なるがゆえに、いはゆる小説ではなく、やはり童話といはるべきものでありませう。」
 未明の言う「特異なる詩形」は、作品のファンタジー(空想的)部分をさすと思うと、猪熊さんは述べています。未明は、「廣い世界のありとあらゆるものに美を求めたいという心」で書いてきたと言います。そのことが、つまり空想から想像へという「童話」の形態に結びついたのでしょうか? 「我が特異なる詩形」が「空想の世界に成長すべき芸術」であったと未明は語りますが、「童話」という形態に未明が行き着き、文学者としての未明の表現に合致し、未明の作品を生かしたことには、私はなぜか感動を感じます。なぜ、「童話」だったのか。なぜ、「童話」は未明の表現を生かしたのか。空想と想像、思想とはどう結びついて作品に結晶するのか……。このことについては探求心がわきます。

 しかし、『子どもと文学』(11)では、未明の童話宣言の後半部分をこうも言い換えられると、次のように書いています。「自分は『童話という形式の文学』に専心したい。それは『童話』とはよばれているけれど、かならずしも子どもにわからなくともいい。ただそれは、ふつうの文学とはちがって、私の愛する童心を通じて大人には見られない純粋無垢の空想の世界を追求するものだ。だから、それは小説とよぶより、童話とよぶのがふさわしいのだ」。未明についてどのようなことが批判の対象になったかは、『子どもと文学』を読むとわりあい理解できます。小川未明の「発表してきた難解な『童話』が、子どもを直接相手にしない態度のゆえに、筋だてや面白みの乏しさのゆえに、そして感傷性にみちた詩的言葉の氾濫のゆえに、童心に訴える『高級文学』として、世の大人たちや、文学青年や、当時の感傷的な投稿少年たちから迎えられた秘密」は、「作家が子どものための文学を『児童のために書くのではなく』『作家の忠実な自己表現のために書く』ことで、子どもの文学から子どもを追い出してしまった結果なのだと指摘しています。
 未明の作品は、ほんとうに難解で面白みがないのでしょうか?

 ここで、掌編を二篇紹介します。

 「空へのびる蔓」。
──土手の下の小さい家に住む勇吉少年は、自分の未来と希望を重ねて、毎日楽しみに電信柱を伝って上へ、上へとのびていく蔓を見あげています。けれど蔓はある日、だれかにひきちぎられてしまいます。勇吉少年はがっかりしますが、いつしか切られたところから、また新しい芽がでて、上へずんずん伸びていった蔓からは、もえるような黄色い花が開きます。
 とても短い作品ですが、へちまの蔓をじっと見つめる勇吉少年の視点と、蔓の丁寧な描写が、作品全体をきりりとしめています。

 「隣村の子」。
──重い荷物を自転車にのせて働いている良吉は、すずしい堀端で休んでいこうとガードの下で止まります。するとその壁に白いチョークで書かれた「……県……村……」という子どもらしい字を見つけます。その村は、良吉の生まれた隣村なのでした。良吉は会ったことのない隣村の子に思いをはせます。自分と同じように働いているならつらいこともあるのだろう、だからここへ自分の村の名を書いたのだと考えて、良吉は落ちていたチョークで、となりに自分の村の名を書きます。半月ばかりたってまたガードの下をのぞいた良吉でしたが、二人の村の名前の横にはなにも書きたしてはありませんでした。
 なにも書きたされてはいないからこそ、良吉の思いはさらに飛んでいき、読者に深く印象づけられます。ガード下の汚れた小さな落書きから、鮮やかにイメージがふくらむ掌編です。

 さて、未明の作品の「暗さ」(ネガティブなテーマ)が、子ども向きではないと鳥越信さんは批判したそうです。その「暗さ」ということについて前出の「猪熊・古田対談」で、猪熊葉子さんはトールキンの『指輪物語』をひきあいにだして述べています。『指輪物語』の世界はケルト的な世界を含んでいるが、北欧やケルト的な世界はけっして明るくないものであって、不条理な人間の運命をそのままに受け入れるという面を持っている。また、昔話の残酷な部分を子どもに読ませるために削って、楽しくおもしろいところだけを集めて再話するなら、全部なくしてしまうほうがよいなどとする、トールキンの昔話の再話否定を出しながら、可能性や願望性を、前向きな方向ばかりに方向づけてしまい、人間のなかに前向きの願望と共に同居しているはずの、非常に暗い願望みたいなもの(たとえばねたみや嫉妬心からくる願望など)を捨ててしまうことを、トールキンは承諾したくないのではないか。トールキンのつくった世界は、キリスト教から見れば異教的かもしれないけれど、一つの独立した世界であって、人間の空想力が発現する世界として、まことに価値ある世界であるからこそ、繰り返し、繰り返し、現代の作家たちに創作の養分を与えて、その空想を刺激しているではないか。猪熊さんは、作品の抱えている明るくない面(暗さ)の存在価値をそう語っています。また、上笙一郎さんは『未明童話の本質』(7)のなかで、「赤い蝋燭と人魚」の終わり方には、「アクティブなエネルギーが在ると信じる」として、ネガティブな要素とアクティブな要素をあわせもつ「汎神論」が未明の思想性であると指摘しています。
 そう考えてみると、未明の「金の輪」や「月と海豹」という作品が、ふっと胸のなかに落ちてくるような気がします。未明は二人の子を亡くしましたが、長男を失い、四年後に長女を失い、娘が火葬場に運ばれた時、混んでいた火葬場で、先に処理されるべきはずの小さな棺があとまわしにされ、あとから着いた金持ちの家の棺がさきにいくのを見て、「貧乏だから、あとまわしにするのか!」と悲しみを怒りに変えて、激しく怒鳴ったといいます(4)。「金の輪」が、「明る日から太郎はまた熱が出ました。そして、二、三日目に七つで亡くなりました。」と終わることで、金の輪を回す少年が浮かび上がり、死というものがすぐそこに迫ってくるような、言いようもない怖さが描かれています。
 もし、太郎が助かって元気になってから、「あの金の輪の少年はあの世の少年だったかもしれない」と思いおこす結末だったらどうでしょう……。この作品は、未明が長女を失った1年後の大正8年に発表されています。そして、子どもを失った深い悲しみにあえぐ親の気持ちを描いた「月と海豹」は、大正14年の作となっています。大正3年に長男を、大正7年に長女を失い、子どもの死と向かいあった未明にとって、「金の輪」の最後に子どもが生き返る結末はなく、むしろ鎮魂のために書いたと言ってもよいでしょう。自分の側、つまり親側の心理を描く「月と海豹」までは、さらに7年以上もの歳月を要しています。この話のなかで、氷山のいただきにうずくまり、子を失って嘆くあざらしを月はどうなぐさめようかと思いますが、「世の中には、海豹ばかりでなく、子供をなくしたり、浚われたり、殺されたり、そのような悲しい事柄が、そこここにあって、一つ一つおぼえてはいられなかったからでした。」と、多少つき放した視点で月の心中を描いて(描けるようになって)います。話の終わりでは、月が祭りで忘れられた小さな太鼓を拾ってきて、海豹に渡し、氷が解けはじめた海に、海豹のたたく太鼓の音が波の間から響いている情景で閉じられます。
 たしかに子どもがこの作品を読んでも、大人ほど胸に迫らずに、なんてさびしい話なんだろう、と終わってしまうかもしれません。けれど、氷山のいただきにうずくまったまま子を思うあざらしの姿は、胸の奥に焼きつくかもしれないと思うのです。

 『未明童話の本質』(7)を書いた上笙一郎氏は、本のなかで「20年あまりの年月が過ぎ去った今でも、まるで昨日のできごとであったかのように、鮮やかに甦えって来る。わたしが『赤い蝋燭と人魚』を初めて読み、それまで無縁のものであった文学的感動に激しく身心を揺さぶられたあの日は、わたしが小学五年生になった晩春の一日」とし、男が泣くことは女々しいことと信じていたので、気づかれないように「頭から布団をかぶって、声をおし殺して泣いた。」と書いています。そして、長じてから「赤い蝋燭と人魚」の生まれた背景を非常に丁寧にたどり、一冊の本にまとめています。この本のなかで、「ネガティブな結末」と鳥越氏が指摘していることについて、「かえってわたしは、一見ネガティブに見える正にそのなか、大嵐が社会矛盾の正当な解決になっていない正にそのなかに、アクティブなエネルギーが在ると信ずる」とし、この一見ネガティブな結末は、「真に科学的で在り得なかったという限界のなかで、未明が噴出させたアクティブなエネルギーにほかならない」と書いています。子どものころ出会ったひとつの作品から、時間と労力をかけて1冊の本を書くという丁寧な作業には、説得力を感じました。
 「赤い蝋燭と人魚」については、「夕鶴」のおつうを演じることでも有名であった、山本安英さんが『日本児童文学──小川未明追悼号』(5)でこう語っています。
 「私たちのずっとやってきている民話劇などとも無関係でないものを考えさせられます。この作品の人魚というものに私は自然を感じるんです。自然のもっている荒涼としたさびしさを、この人魚というものと、その世界にかんじます。」として、アンデルセンを読むような気持ちで読んでいたけれど、読み返してみると、わりに常識的な筋を感じ、「常識ということは正しいことですし、正しいということはコワイことだとも思います。」と語り、さらに「人魚が代表している自然というものがもっている道理が、照らし出している人間社会のゆがみというものを、分析的にではなく、文学者のもっているこわいという感覚で描かれていると思う」とまとめています。

 この作品は、未明の思想性を考慮にいれて分析しなければならないかもしれませんが、読み返した私には、人魚の母親の、娘を人間にたくしてしまったことへの後悔と憤りが、自分を責めてもおさまらず、日に日に強いうねりとなって、はては村ごとそのうねりに飲みこんでいったかのようにも感じられました。人魚のうめきが、黒い海のうねりの中から聞こえてくるようです。つまりこの作品には、自分ではどうしようもない感情が描かれていると思えるのです。どうしようもない感情には、負の感情も含まれています。たとえそれが自分を醜くしたり、人を傷つけることがあったとしても、生きるうえでは無視することはできないのです。このことは、先にふれた猪熊さんの指摘ともつながります。
 もっともっと未明の作品を紹介したいのですが、バラエティに富んでいる作品群から多くを紹介する紙面はとれませんでした。通して読んでみますと、ほかの方が指摘されている通りに、大正14年くらいまでの作品に秀作が集中している印象を受けました。「童話宣言」をして子どものために書くという姿勢になってからは、かえって教条主義的な要素もでてきてしまったと、猪熊葉子さんは指摘しています。また、戦争中の作品に関しては、『小川未明集』(2)を編んだ続橋達雄さんは、「戦争中、戦後の作品は、戦争を賛美したからだめということではなく、作品としてどうかと読んでほしい」と書かれていますので、私もその視点で読んでみました。けれど、なんだかがっかりというか、泣けてさえきました。守らなければならない何か、定めなければならない視点、強固に姿勢を正さなければならない相手……。諸々のことが空想を土台とする作品にとって、金縛りのような状態をつくり、一見整合性のあるすっきりとした作品を作り上げながら、一辺倒の視点で貫かれたおもしろみのない作品世界になってしまうことか。このことは、戦争中の思想云々よりも、空想を土台とする作品を書く者にとって大きな示唆を与えていると思います。

 では、あと何編かの作品を短く紹介しましょう。
情景の美しさでは、「北海の白鳥」。栄華の頂点にいながらこれからのはかない運命を嘆き、魔法使いに石か草にしてほしいとたのんだ王様は、一個の蛤に変えられます。鷲に運ばれ、岩にあたってくだけた蛤からは、雪のように白い無数の白鳥が、血よりも赤い夕焼けの空に飛び立っていきます。人間の欲望が悲哀に変わり、浄化されていく美しい情景が印象的な作品です。
 「港に着いた黒んぼの話」は有名な作品ですが、「目をさませトラゴロウ」(小沢正)が分裂してしまう自分を描いたことで画期的と評されるずっと前に、未明は自分が分裂したかと錯覚をおこす娘を描いています。自分が分裂してしまったのではないか、という自分への責めは、切ないくらいに心を打ちます。
 そこへ行くと、「飴チョコの天使」は作品の想像の素材も見える、楽しい作品です。未明の両親が、孫たちのために東京でつくられたキャラメルを新潟で買い求め、また東京へとキャラメルを送り返すという実話をもとにしたストーリーが、キャラメルの箱についている天使の目から見て描かれています。登場する天使が自分を「俺」と言うのが、なかなか傑作です。キャラメルを食べ終わった子どもたちは、箱を泥の中で踏みつぶしたり、捨てたりするので、天使たちも容赦なくその運命に任されます。けれど、自分の生まれた町にはからずも帰ってきた天使の魂は、泥のなかから青い空へ向かって登っていく途中で、自分の生まれた懐かしい工場を見たのです。キャラメルの箱の数だけのたくさんの天使が、箱がつぶされるたびにホワホワと空へ登っていく様は、はかなさよりも味わい深い暖かさを感じます。
 ほかには、「子供の時分の話」「二つの琴と二人の娘」「白い影」「紅雀」などが個性豊かな作品として印象に残ります。

 最後に、「自分の造った笛」という作品を紹介します。読み返すまで記憶が薄れていたのですが、私が劇団(風の子)にいたころ、「お話コンサート」という演目で、楽器片手に子どもたちに話を語る小さなコンサートをしていました。その演目に、「自分で造った笛」があったのです。私はちょうどそのころフルートがうまくなりたくて、それこそ朝晩ともなく吹いていましたので、この話をいつか演じてみたいと思っていました。それはこんな話です。
──生まれつき笛の好きな男がいて、自分で笛をつくり、寝てもさめても笛を吹いていたのですが、あるとき通りかかった国王に認められます。その国王は、芸術の天才ばかりを集めた美しい国をつくろうとしている途中で、3ヶ月後に迎えにくると約束して行ってしまいます。笛の好きな男はとても喜びますが、同時に不安になります。笛の名人は大きな町にたくさんいるらしいからです。男は町にでかけていき、笛の名人のまねをしていろいろな音色が出せるようになります。3ヶ月がたち、国王が帰ってきて男に笛を吹いてくれと言います。男が吹き終わると、「もうおまえには用がない。町へでも行って乞食にでもなれ」と言い、国王はしわのよった顔に涙を浮かべて、立ちさります。
 この話は、役者にとってはとても怖い話でした。「自分の表現とはどういうものなのか」と問い返すとき、この話は悪夢のように浮かんでくるのです。私はこの作品を思い出すたびに立ち止まり、自分の表現について考えなければなりませんでした。未明の作品に、大人になってからも影響を与えられてきたのだとわかり、ドキリとしました。

 さて、今回「月夜と眼鏡」を紹介しようと決めたときには、猪熊葉子さんのことは正直言って頭にありませんでした。あらためて『日本児童文学──小川未明追悼集』(5)を読み返してみると、猪熊さんが未明を論じながら、ファンタジーを論じ、トールキンを論じていたことに驚きました。冒頭に佐藤さとるさんの「日本にファンタジーの素地をつくった人」という言葉をひかせていただきましたが、私が「私とファンタジー」を語ろうとするとき、小川未明という作家はそこに確かにいます。
 ファンタジーの特性について、猪熊さんはこう述べています。「トールキンはファンタジーが『他の時』の物語として作り上げられれば、おとなはおとななりに、子どもは子どもなりに読みとれるものと考えている。ファンタジーは、大人と子どもの出会いを可能にするという特性を持っている」(5)。
 未明は、はからずもこう書いています。
「もし、それがほんとうの芸術であったなら、大人が読んでも面白ければ、又子供が読んでもそれを理解し得ないことはない筈である。何となれば、作者の子供の時分の真実なる感想は、今もなほ子供の魂に触れ、神経に通ずるからである。この様に感じてくる時は、童話の作者はほんとうの詩人でなければならぬ。」(『赤いろうそくと人魚』序より(13)
 「ほんとうの詩人」。この言葉でまた、宮沢賢治が私の頭をよぎっていきました。
 私の世代の多くは、おそらく未明を「乗り越えなればいけない伝統」とも、「否定する対象」としても考えていないと思います。それほど未明はもう遠い存在になりつつあります。けれど、未明は空想に基づく作品を書く者へ、多くの示唆を残してくれています。彼の書いた作品には、今も一読の価値があると思いますし、豊かな空想性とバラエティに富む作品世界を生み出した、その想像力に脱帽するとともに、その想像力を育み、鍛えたものは何であるかと考察したくなります。

 また、未明と会った人たちの語る未明の姿には、なんとも人間的魅力があふれています。トレードマークのつるりとした頭は、少しでも毛がのびると「頭が重い」と一番短い三分刈りにしていた結果だそうで、散髪屋の帰りには書店によって2、3冊の新刊を買って懐にいれ、魚屋の店先で好物のかになどを見かけるとそれも、懐にどさっといれ、上機嫌で帰ってくる。ハンチングをかぶり、太いステッキを握って、上を向いてスタスタと大股で早歩き。散歩の途中で盆栽を見つければ、もうほしくてたまらないとうい顔をして、ふっかけられた高い値段で手にいれ、それでもうれしくてたまらないという顔で帰ってくる。知人がたずねてきて、暮色せまり、街灯がともる時分になると、だんだん落ち着かなくなり、少しの金を妻から用立ててもらうと、連れだって楽しそうにお酒を飲みにいく。けっして悪酔いをするたちではなかったけれど、お酒を飲むことはたいそう好き。早飲み、早食い、早将棋。せっかちで短気は折り紙付……。
 最後に、散歩をしている未明の姿を描いた、生田春月の詩「秋の日の午後」(抜粋)を紹介して終わりたいと思います((4)より抜粋)。

 「秋の日の午後」
 
 ……
 つと眼をあげる。その眼のまっこうに
 こちらへ一直線に歩いてくる
 雲突く巨漢
 その首だけ人々の頭上にぬきんでて
 高い額に秋の日を受けた童顔
 何をも見ず、スタスタと
 握太のステッキをつかんで
 眼はその体を打ち忘れて
 遠い地平線を高くのぞんで
 瞬もせず。

(中略)
 声をかけようとて、まず帽子に手をかけたとき、
 氏はふっと気が付いたやうに
 輝く瞳をわが方に向けて
 その愛らしい口もとに微笑をたたへて
 「やァ!」と会釈して
 「生田君! 暑いですなァ!」と叫ぶ。
 その声には何といふ温かさ親しさ
 ああ、かの人生を彩る暗い悲痛の詩人の声の明るさ。
 「少し遊びにきませんか」
 にこにこして、小さなお辞儀を続けざまにして
 やがて別れて行くその姿を
 しばし路地にたたずんで 目送れば
 あだかも鷲のように、彼方秩父の山の上高く
 入日の光を含む赤い雲をめがけて
 そのまま天井させて歩み上らんとするやうに
 まつしぐらに行く。
(以下略)


〔参考図書〕
1,『赤い蝋燭と人魚』(小川未明、初山滋絵、富山房百科文庫、1938年発行)
2,『日本児童文学大系5 小川未明集』(続橋達雄編、ほるぷ出版、1977年)
3,『童話雑感及小品』(小川未明、文化書房、1932年)
4,『父、小川未明』(岡上鈴江、新評論、1970年)
5,月刊『日本児童文学──小川未明追悼号』(第7巻7号、1961年10月号)
6,月刊『日本児童文学──小川未明の再検討』(20巻1号、1974年1月号)
7,『未明童話の本質──「赤い蝋燭と人魚」の研究(上笙一郎、勁草書房、1966年)
8,『名著復刻日本児童文学館5 小川未明 赤い船』(ほるぷ出版)
9,『新潮日本文学アルバム60 小川未明』(砂田弘編、新潮社)
10,『13 新選名著復刻全集 近代文学館 赤いろうそくと人魚』(天佑社版、1974年)
11,『子どもと文学』(石井桃子、いぬいとみこ、鈴木晋一、瀬田貞二、松居直、渡辺茂男、福音館書店、1967年)

●追記
 この文を書き終わったときやっと、講座日本文学第六巻『日本の児童文学作家1』(猪熊葉子、神宮輝夫、続橋達雄、鳥越信、古田足日、横谷輝編、明治書院、昭和48年)を読む機会を得ました。そのなかの「小川未明──猪熊葉子」を一気に読んで、なんとも複雑な心持ちになりました。「そうだったのか……」という感動の気持ちと、それでも「最初に読まなくてよかったのかもしれない」という気持ちです。

 私は今回、『日本児童文学』(6)の猪熊・古田対談を何度も読み返しましたが、猪熊さんの話していることに惹かれて、何度も引用しました。私が未明の作品を読んだとき感じたことはどういうことなのかと考えるとき、上笙一郎さんの本と猪熊葉子さんの話がよりどころになりました。ですから、猪熊さんの発言のもとになっていると思われる未明論を、大幅な抜粋ではありますが一端を追記で紹介しておきたいと思います。
 猪熊さんは、未明を「認識者」と「実践的求道者」の両方の面をもっていた作家として分析しています。実践的求道者とは「心内の敵には多く目をふさぎ、外部にある敵、外部にある古き秩序と戦うという、はっきりした目的を持って」作品を書く作家で、この求道者の作り出した文学が、古き秩序が強く残存し、生活の環境の貧しかった近代日本では大きく育ったが、それに比べて育ちも悪く、数も少ない認識者としての文学は、「人間性自体について、社会についての、それまでおぼろであったある本質の一部ずつを、文学という立場において明確に補捉した」ものであるとして、これを文学史のなかで見落としてはいけないとする伊藤整の言葉を序でひいています。未明の視線は、「生命の不思議、天性の相違、各々の運命」という人間の本質的な問題の認識に向けられていた、つまり、実践的求道的要素がありながら、認識者としての視点が色こく未明のなかにあったとしています。

 認識者未明を形勢する要素としては、「北国のきびしい自然」「きびしい家庭でひとり子として育った」という環境が大きな役割をはたし、また生得の空想力・洞察力・同情心などの資質を見逃すことはできない。そして、すべての認識がいきつくところに「死」があり、「死」という最も不条理な人間の運命を、子どもの姿のなかに未明は典型として発見した。その発見にもとづいて生まれた作品が、初期の小説「百合の花」「森」であり、「金の輪」なのである。と、「金の輪」を未明が書いた必然性を認識者の面から指摘しています。
 未明作品のなかの「暗さ」(ネガティブなテーマ性)については、認識者という面からと、未明がなぜ童話という形でそれを描いたかを解いています。
 未明は「吾人の身辺を包める不可抗力、及び不可知なる自然力」のさまざまな相を作品のなかでとらえ、「長へに変らざる形」に変えようとした。未明童話の傑作と呼ばれる作品の多くは、その試みのうちに生まれた。目には見えないが、恐ろしい力をふるう神秘なものの正体を、目に見えるものにし、人々に知覚されるものにするには、われわれの信じている現実の秩序を破壊し、解体し、不条理をその世界の構造原理として持っているような世界を作り出してみせる以外にはない。ドイツの哲学者カイザーは、そのような疎外された世界をグロテスクなものとし、グロテスクなものは「非人称のあるもの」の表現であるとしている。未明は、日本の近代文学において、そのようなグロテスクなものの数少ない表現者のひとりであった。それを童話のなかで効果的に描いたのであって、また、人間は昔から、神話に代表されるように非現実世界をつくり出すことによって、運命の不条理さを表現するすべを知っていたのである。だから、認識者未明が、運命のおそろしい力を捕らえて表現しようとした時、小説のみでなく、早くから童話をその方法として持っていたことの意味はここにある、としています。
 また、このつながりで「赤い蝋燭と人魚」について解説しています。

 この作品の与える感動は確かに明るいものとはいえない。なぜなら「非人称のあるもの」(Unknown Power)のふるう運命的なおそろしい力を、未明はこの物語のなかに表現しているのであり、そのことから暗さが生まれてきているのであるから。「赤い蝋燭と人魚」の世界は、正体不明の闇の力を認識するためにつくられたのであって、『子どもと文学』の未明論は、もともとその構造原理を異にする世界に適用されるべき評価の基準で未明の作品を評価してしまったことになるから、そこに否定的な評価が生じたのは当然のことである。認識者未明が作品として成功するのは、「非人称のあるもの」の存在を、言葉にして表さず、「金の輪」や「赤い蝋燭と人魚」のように、暗示するにとどめている場合である、としています。
 また、未明が短編童話を書くことについてすぐれていた点については、未明は詩人的資質を持ち、現実を遠く離れた非現実世界のなかで、現実に存在しないものの心象を形成する精神の能力をトールキンは「空想」と呼んだが、この能力は、既知の材料を冷静な客観的観察や分析によって構成することを原理とする「散文」よりも、激しい情緒の圧縮、あるいは凝縮によって、現実を変形することころから生じる新しい心象の世界を創造する「詩」の世界の構造と深いかかわりを持っている。だから、未明の資質が本質は詩人であり、小説より童話でよりよく生かされ、さらに短編童話に向いていたことがうなずけるとしています。

 「童話宣言」以後の認識者未明については、こんなふうに書いています。
 未明の童話宣言以後の作品は、社会のなかで苦しんでいる子どもを登場させてはいるが、その子どもたちの行動は、読者である子どもたちに正しい道を歩ませるために役立つ、教訓的意味を含めて描かれているために、運命の恐ろしい力のあらわれとして描かれていた子どもたちの姿とは異なる明るさを帯びてきている。そして、その「明るさ」こそが実は作家未明の衰弱から生じたことを忘れてはならないのである、としています。
 なぜなら、運命の不条理を認識する者は苦しまなくてはならないのであり、一切の合理的解釈がこぼれている世界は、おそろしく不安な世界であり、人をしばしば狂わせる。事実多くの認識者は実際に狂い、あるいは命を自ら断った。だがかつての実践者未明は、運命の力に反抗し、その張りつめた姿勢で、相手である不可視の巨大な「るもの」の力を凝視することができた。しかし、「童話宣言」後、「わが特異なる詩形」を捨てて、「子どもに語りかけるべき物語」としての意識を強めた未明は、教師となることで人間的破綻をまぬかれ、救われることになったといえる。

 最後に猪熊さんは、未明の作品は文学的価値を持つとし、ではどのような意味で子どもの文学として価値を認められるか、という問題と、未明の児童文学史上における位置づけの問題とが、未明の評価をめぐって混同されるべきではなく、別途に論じられなくてはならないことを指摘しています。さらに、いかに生きるべきかを子どもたちに考えさせ、かつその道をさし示しているような作品のみが児童文学のあるべき姿であるとする、日本の児童文学界に根づよく存在する実践求道的な発想法を変えないかぎり、未明童話の文学的価値は決して発見されえないことを書きそえておきたい、と終わっています。

 最後まで読んでいただいた方、ありがとうございました。思いのほかだらだらと長くなりました。いったい何が書きたかったのだろうと、途中で自分でもいらいらしました。けれど未明の作品を読みなおし始めたとき、「文学者 小川未明」という言葉が口をついて出てきました。となりで資料をいろいろ掘り起こしてくれた父が、「そうなんだよな」と相づちを打ってくれました。それをたよりに書き進めてきて、最後に猪熊葉子さんの「未明論」に出会えたとき、深くうなずけたような気がしました。

Copyright(C) Riel Horikiri 2002
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