私とファンタジー その4 『ノンちゃん雲にのる』  (堀切リエ)

ノンちゃん雲にのる・・・石井桃子を語る。


私とファンタジー4 『ノンちゃん雲に乗る』(石井桃子、光文社)堀切リエ

 その本は、裏の古本屋で父が買ってきて、いつのまにか私の本棚にありました。赤い表紙で手ごろな大きさの本でした。
小学校中学年のころでした。早く起きてしまう私は、日曜日の朝の読書が定番になり、寝坊している人たちを起こさずに、布団のなかで電気をつけたり、懐中電灯をもちこんで、ひっそりと読書を楽しんでいました。
 くりかえし読んだ本の名は、『ノンちゃん雲に乗る』。それも、くりかえし、くりかえし15回以上読んだのではないかと思います。同じ作者の『山のトムさん』も、セット本のように10回くらいは読みかえしたかと思います。
 子どもが、同じ本を何度も読みかえすという話はよく聞きますが、でも、どうして、2度や3度ではなく10回以上も読み返したのでしょうか。そして、どうして『ノンちゃん雲に乗る』だったのでしょうか……。
 それともうひとつ、日本のファンタジー作品の系譜が語られるとき、『ノンちゃん雲に乗る』がとりあげられることがあまりないのは、どうしてなんでしょうか? この作品はファンタジーには分類できないのでしょうか? 
 この二つの疑問を軸に、『ノンちゃん雲に乗る』を読み返してみたいと思います。
 
*文中の( )内の数字は、文末の参考文献をさしています。

●別世界への扉のあけ方──泣くという行為
冒頭は、ノンちゃんがはでに泣いているところからはじまります。
「氷川様というお社の、昼なお暗い境内を、ノンちゃんという八つになる女の子が、ただひとり、わあわあ泣きながら、つうつうはなをすすりながら、ひょうたん池のほうへむかって歩いておりました。」

 しかし、ノンちゃんはいつも泣いているわけではなく、その理由があかされていきます。
 お母さんとにいちゃんのタケシが、ノンちゃんにはだまって、東京の四谷へ朝はやく出かけてしまったのです。ノンちゃんは、おいてきぼりをくわされたのでした。大病をしたノンちゃんの体を気づかってのことですが、なにくわぬ顔をして、自分だけのけものにしたみんなを、ノンちゃんはゆるすことができません。ノンちゃんは、「だまされたあ」と泣きつづけます。

「長いあいだ、泣いていれば、どういうことになるのか、ノンちゃんは泣きだしたあとで気がついたのです。われながらみつともないと思いました。けれども、しかたがありません。ノンちゃんは泣かなければなりませんでした。」

 「泣かなければなりませんでした」というフレーズが好きです。そうです、ノンちゃんは、泣かなければならなかったのでした。
 私は、子ども時代、よく泣きました。1日1度でなく、3度くらいは泣いていたという記憶もあるほどです。泣くという行為は、泣いている本人にとって独特の感覚があります。大人から見ればたいした理由でなくても、「わあっ」と泣きだしてしまったら、泣きつづけるしかないというような、ごり押しの子どもの心情があります。本人には理由もさることながら、感情的に泣くということにふみきったことに意味があり、感情的に納得できれば、いつでも泣けるのです。だから、理詰めで泣いている子どもをとめようなんて思っても、しょせん無理なこと。
 この話でも、おとうさんやトシコおばさんが、理詰めでノンちゃんをなだめますが、なんの効力もありません。ノンちゃんは、泣いたままほうっておかれることになります。

「あとには……きれいに晴れわたった空の下に、泣いているノンちゃんただひとりです。涙ながらに見あげると、みつともない顔を、いぶし銀のような春の空と氷川様の森が、じつと見おろしていました。」

 泣きながら、子どもは別世界へと続く扉に近づきます。泣くということは、目の前の現実が見えなくなることであり、自分の感情の世界にどっぷりとつかることであるので、自然に現実ではない世界へ近づいているのです。だから、はでに泣いているノンちゃんは、ただひとりきりになったことで、すぐとなりに別世界が広がりつつあるのです。

●別世界への入り口──池に写った空へ落ちる
「しずかな木の下を通りぬけてきて、泣き声は、いつのまにか、こまかいすすり泣きになっていました。」
 ノンちゃんは、氷川様の境内の池の前にやってきます。
「池は、四五日の雨で水かさがまして、ノンちゃんのすぐ足もと近くまで、水が来ていました。その水の上に、しずかな空がうかんでいます。
 ああ、なんて深い空でしょう。もう一つの世界が、水のなかに、そして、ノンちゃんの足の下の土のむこうがわにあるようです。」
 ノンちゃんは、いつもにいちゃんが登ってまたがる、「馬」と読んでいるもみじの大枝によじのぼり、池をのぞきます。ノンちゃんはゾッとするのをがまんして、水に映った空を見ます。
「まわりの木が、水底の空をかこむようにして、すうとさかさまにのびています。ノンちゃんの乗っている「馬」の鼻ずらも見えます。空のまん中に、まだあの雲(池のまん中の、まっ白い、やわらかそうな雲)がいます……。」
 そして、木の枝の上で、ふたたび怒りがこみあげたノンちゃんは、枝から、池に写った空へと落ちてしまったのでした。

 水に写る空ですが、この話には再度、水たまりの話がお父さんとの会話ででてきます。
 私も子どものころ、よく水たまりをのぞいた覚えがありますし、虹色に光った水たまりが不思議で、傘の先でつっついたりしたものです。
 長靴で水たまりに分けいるというのも、すごくどきどきすることでした。
 知人から聞いた話ですが、その知人が小学校の代用教員をしていたころ、写生の時間に、一人、下ばかりみてうつむいている子がいたそうです。普段からあまりしゃべらない子で、少々障害があるようで、心配している子です。何度見まわっても、その子はずっと下を向いている。放課後、集めた絵を見ていると、その子の絵がでてきました。その絵には、丸い縁取りがあって、青黒くぬられていたそうです。いったいこれはなんの絵なんだろう。その子を呼んでたずねると、「水たまりに写った空を描いた」と答えたそうです。彼はその絵を教室の壁のいちばん目立つところにはり、みんなに「この絵は水たまりに写った空を描いたんだ。すばらしいだろう」と見せたそうです。彼は、「子どもの表現とはこういうものなのか……」と深く感動したと言っていました。しかし、この話にはおまけがあって、その絵をコンクールに出そうとしたら、校長先生にとめられ、結局はその絵が原因になって、代用教員をやめてしまったそうです。

 こんなふうに、水たまりに写る空を、子どもは少なからずのぞいているようです。
 天沢退二郎さんの『光車よ、まわれ!』には、水たまりの向こうの世界が迫ってくるように描かれていて、こわい思いをしました。
 これも余談ですが、私は小学生のころ、ほんとうに水たまりに落ちました。その日は強い雨で、大きな水たまりがたくさんできていました。私は母の後ろをついて歩きながら、道のまんなかにできた大きな水たまりに、長靴で突入していったのです。すると、フッと水の下にある地面の感覚がなくなりました。次の瞬間、私は水たまりに首までどっぷりとつかっていたのです。後ろをふりむいた母の驚いた顔……。なぜかわかりませんが、マンホールのふたがはずれたままだったのです……。まさに、別世界への扉が開かれていました。うそのようなほんとの話。
 子どもと水たまりは、切っても切れない関係にあるようです。

●浮遊感のある、等身大の別世界
 「あたし、空におちちゃったんだ……」
 ノンちゃんは、どっちが上で、どっちが下なのかわからない、まぶしい、まぶしい、はてしない青の世界を「あふっ、あふっ」ともがきながら泳いでいきます。

 落ちるということには、ほんの一瞬ですが浮遊感があります。体のどこも地についていないのですから。
 ノンちゃんは、雲の世界へ移動します。そこには地面がありません。ですから、雲に座って足をぶらぶらさせたままの状態で、ずっと話をしたり、話を聞いたりしています。
 つまり、浮遊感がずっと続いているわけです。
 私がファンタジーの作品をすきな理由のひとつに、この「浮遊感覚」があります。「都市には浮遊感覚がある」といわれますが、根無し草のようにふらふらと、どこへも所属していないような漂い感があるということでしょうか。現実から解き放たれた自由さ、→浮遊感覚は、多くのファンタジー作品に共通しているのではないかと思います。ノンちゃんの行きついた別世界は、世界のあり方自体がこの浮遊感でなりたっている雲の世界でした。

 泣くという行為、水たまりに写る空、落ちていく浮遊感覚、逆さまになった世界で浮かんでいる漂い感……。
 自分と同じような年齢の少女(ノンちゃんは8歳)が、行き着いた別世界は、たぶん私にとって、はじめて本を読んで出会った、等身大の別世界でした。ですから、私もスムーズにその世界へと足を踏みいれていったようです。
 おとぎ話の世界ではなく、生活のすぐそばにあるだろう不思議な空間……。その発見は、子どもの私の心をとらえてはなさなかったようです。

●よい子の冒険──自分の存在を問い直す
 ノンちゃんがよい子で優等生であるということは、この物語の抜き差しならない特徴になっています。この物語のおもしろいところは、そのよい子に旅をさせたことなのです。問題をかかえていたり、他人から見てそれとわかる不幸の種をかかえていたり、屈折していたり、そういう理由づけがない子であるノンちゃんの旅は、きっかけからしてむずかしいものなのです。
 現代におけるよい子の問題はこのごろよく指摘されるようになりましたが、いつの時代でもよい子、優等生はそれゆえの問題や課題を抱えてはいるのですが、表に現れにくいのと、大人があんまり問題に思っていないという不運さがあるようです。作者がそういう着眼点で書いたのかどうかはわかりませんが、よい子に冒険をさせるというのは、物語として冒険ではないでしょうか。
 えてして、ちょっと悪く見える子やはみだしている子、問題をかかえている子は、生きるエネルギーが感じられたり、行動的であったりするので、物語が動きやすいという面があります。でも、目立たない子やいい子の場合は、冒険へ飛びこむほどのエネルギーも見つけにくいし、そこへ行く理由づけや、いってからの行動にもダイナミズムが少なくなりがちです。
 ノンちゃんの場合は、優等生でいい子であることを逆手にとって、自分を裏切った周囲の人たちの行動を、ひどい、ゆるしがたい、悪いことだと、泣きつづけるエネルギーでもって、別世界へ移行しました。このあたりにも、いい子のすごさがでています。自分を裏切ったうそについて、世界がこわれるほど泣きつづけ、その行為を責めます。
 そのことは、物語の最後のほうで、「うそをついたらもとの世界へ返してあげよう」という雲のおじいさんの言葉への、複線になっています。
 うそをつく人たちのいる世界へもどるには、うそをつけなければならないということ。つまりは、うそを認め、受け止める気持ちを優等生のノンちゃんに、要求したといってもいいのでしょうか。
 どちらにせよ、ノンちゃんは優等生でいい子ですが、生きるうえではずいぶん欠陥のある人間として描かれています。
 ノンちゃんは、自分の家族について、雲のおじいさんにたずねられるままに語ります。
 雲の世界には、もとの世界から落ちてきた人たちがほかにもいます。けれど、大人と子どもには境があって、どちらからもぼやけてしか見えません。
 ノンちゃんが、雲のおじいさんのところへ行ったとき、子どもがもうひとりいました。その子は、ノンちゃんの同級生ですが、ノンちゃんに石をぶつけたり、へんな歌を歌ってからかったりする、植木屋の長吉で、おじいさんから「友だちがいてよかったね」と言われても、ノンちゃんとしてはこまってしまうような子です。どうやら、長吉はお父さんとけんかをして雲の世界へきたようですが、優等生ノンちゃんを描くためのエピソードに使われた感があり、その後はあまり出てきません。
 ノンちゃんの語りは、構成もエピソードもとてもよく考えられています。
 最初に、ノンちゃんは自分が重い病気(赤痢)にかかったことを語り、そのために東京のはずれに越してきたことがわかります。ノンちゃんをおいてきぼりにして、お母さんとにいちゃんが行った先は、前に住んでいた四谷のおじいちゃんたちのところだということもここでわかります。
 ノンちゃんが、生死にかかわる病気をしたということは、一歩、別世界に近いところにいる、存在の理由になります。
 次に、お父さんのエピソードでは、水たまりの虹は油のうすい幕が作用して、奇妙な模様ができるということが、語られます。そして、曇りの日でも、雨の日でも、太陽の光線がさしていることを科学的な目で兄弟に語りますが、ノンちゃんは、理由はなんにせよ、水たまりの虹の膜がきれいで楽しませてくれるということが、不思議でありがたいと思います。ノンちゃんは優等生にしては、科学的追及の目ではなく、感性によって物事を見つめている子だとわかります。

 次に、おかあさんの話です。
 ノンちゃんは、おかあさんが大好きで、おかあさんがいなかったらどうしてよいかわからないくらいだと言います。おかあさんは雪子という名で、ノンちゃんが幼児のころ、雪のふった日に新聞でこの字をたくさん発見して、さらに田代雪子というおかあさんを一人の人間として発見します。
 しかし、大好きなおかあさんの話をしていると、ノンちゃんはいつのまにか、にいちゃんの話に移っていってしまいます。
 歌のじょうずなおかあさんの話をしていると、歌詞をまちがえて歌うにいちゃんの話になって……。というように、なんだか話はどうしてもにいちゃんへと移っていくのです。
 聞いている雲のおじいさんも、「ああ、そうそう、おかあさんの話だったな」と、いつのまにかにいちゃんの話へ移っていることを肯定しています。
 そして、いよいよにいちゃんの話になると、おじいさんは「まってました!」とばかりに、身をのりだします。

 このあたり、とてもうまく話がすすみます。不思議なもので、ノンちゃんは語っているうちに「へんだな、へんだな」と思いながら、ついついにいちゃんの話をしてしまいます。にいちゃんのことを語るのはおもしろいし、エピソードがたくさんあるのです。反対に、大好きなお母さんと自分との関係については、なんだかひやかされそうな気配といっしょに、うまく語れない自分を感じます。
 雲のおじいさんが、あんまりにいちゃんの話をよろこんで聞くので、ノンちゃんはほんとうはにいちゃんがいじわるだと言い、その話をはじめます。けれど、それほどいじわるには語りきれないのです。
 「ほかにも悪いところはないのかい?」と聞かれて、自分を投げとばす乱暴なにいちゃんのエピソードを語るのですが、それもにいちゃんが犬のエスをどんなに大事に面倒をみているか、という話になってしまって、雲のおじいさんに「今の勝負は引き分けじゃ」と言われてしまいます。
 そして、雲のおじいさんはにいちゃんのことを、「まるで、わしの雲みたいな坊主」だと言います。
「スプリングがきいとる。へこみきりになどなるものか。ちぎれもせんし、きたならしゆうもならん。子供はそうありたいものじや……。」
 そうありたい子どもは抜きにしても、「スプリングがきいとる」というおじいさんの、セリフはなかなかです。

 さて、話はいよいよ本題にはいり、ノンちゃんは自分のことを語らなければなりません。みんなから「いい子」「裏のおりこうさん」「紫式部」とまで呼ばれ、好きじゃない科目もあるけれど、きらいというほどでもないので、ほかの人よりはできる。なんでも一番!というノンちゃんなのです。ノンちゃんには、おじいさんが自分のことをわかってくれないことが、不思議でたまりません。それどころか、おじいさんは、心配そうに眉をよせてこう言ったのです。
「それは、気をつけなくちゃいけない!」
「そういう子は、よくよく気をつけんと、しくじるぞ!」
 ノンちゃんは、びっくりします。
そこで、おじいさんは「ひれふす心」がなくてはいけないと説きます。そうして、毎日、「あたしは、えらい、あたしは『いい子だ』と思っていると、かならずつまらない人間になる。それは、じつにふしぎなことだけれど。」と、ノンちゃんに話すのです。 
 
 ノンちゃんは、いい子である自分に何かが足りないことを、うすうす感じていたのではないかと思うのです。語ることによって、自分が感じていたことにうっすらと光があてられたのです。よい子は、自分で自分の存在を問い直すきっかけがつかみにくいものです。ノンちゃんは、自分が語り、それを他人がどう聞くかによって、自分に別の面からの光をあてることができました。
 さらにおじいさんは、できのよい妹をもって、よくひねくれもしないで、すくすく育っているとにいちゃんをほめ、ノンちゃんに、「にいちゃんの身にもなってやれ」と、言います。にいちゃんは、できのよい妹をもってくるしいし、つらかろうぜ、と言うのです。
 そうして、ある日のにいちゃんの行動をにいちゃんの側から話してきかせます。
 その話を聞きおわったノンちゃんは、なぜともわからず涙ぐみ、それから、胸が一杯になって、言います。

「おじいさん……あたし……大きくなっても、うそつかないの!」
 白いまつげの下で、おじいさんの目の光りが、さつと深い色にかわりました。
 おじいさんは、ノンちゃんの肩を抱きしめながら、
「その気もちでいくがいい……その気もちでいけ……。」
 
 ここは幾分突飛かとも思いますが、ノンちゃんの心情にそって読むとわかります。「うそをつくということ」が、この物語をノンちゃんの心情にそってつらぬいていることに、気づくからです。
 冒頭でノンちゃんが泣いた理由は、みんなが自分をだましていたから、つまりうそをついたからなのだと、その行為を責めています。
 うそをつく人たちのいる世界に背を向けて、ノンちゃんは雲の世界へやってきます。
 けれど、雲の世界でも「うそをつかない」と言うノンちゃんを、おじいさんは憂いを含んだ目で心配そうに見るのです。
 「うそをつく」という行為は何を意味しているのでしょうか?
 さて、おじいさんはもうひとつ別の家族の話をします。その話を聞いてノンちゃんは、自分の家族、つまり自分を裏切ったみんなに会いたくなります。「帰りたい」というノンちゃんに、おじいさんは言います。

「さてと……おまえは、自分でここへとびこんで来たのだったな? こまったな……。それでは、すぐ帰すというわけにはいかんのじゃ。試験をせにゃならんよ」
 試験といわれて、試験なら得意のノンちゃんは、なんの試験がたずねます。
「なんというて、わしは、そこらの先生たちがやるような、きまりきった試験などせんのさ。さアてと……おまえには、どんな問題を出そうかな? ……む、そうじや、おまえには、ひとつ、うまいうそをついてもらおうよ!」

 ノンちゃんは、びっくりぎょうてんします。
 そして、胸がどきどきして、なんておそろしいことになったのかと思います。うそはお話とはちがって、いくらまってもでてこないのでした。
 ノンちゃんは、顔がひきつり、涙をぽたぽたこぼします。おじいさは、首をかしげます。
「ひとつ、つけば、それでいいのじや。ひとつで家に帰れるんじやぞ。」
 ノンちゃんは、口と胸とをぎゅっとおさえつけられたようになって、頭はガンガンし、あえぎながら涙をこぼします。
「うそをつくのが、いやだ、いやだと思つとるんじやないか? だれがそんなばかなことをいつたのだ、先生か?」
 おじいさんが問いつめます。
「おとうさんか?」
 ノンちゃんは考え考え、だれにもいわれたんじゃない、とわかったとき、もうこれで何もかもおしまいだというような、せっぱつまった気持ちになります。
 ノンちゃんは気がくるったように泣きわめきます。
「だれもいやしない! だれもいやしない。あたしがいやなんだ……。あたしが、うそをきらいなんだア……。」
 
 今朝、ノンちゃんは、みんながうそをついたと泣き、自分から雲の世界にきました。
 そして、みんなのところに帰りたいと言ったとき、「うそをつく」という試験をされます。もとの世界へもどるためには、うそをついたみんなと同じに、うそをつけなければならないということでしょうか? けれど、ノンちゃんはうそをつけません。
 おじいさんに問いつめられて、ノンちゃんは、だれに言われたのでもなく、自分がうそをつくのがいやだ!と泣きだします。その泣き方は、今朝の泣き方よりずっとずっとはげしいものでした。
 ノンちゃんは、自分がうそをつくのがいやだ! ということを見つけたのです。そういう自分がいて、家族がいて、うそをついた家族を許せない気持ちはあっても、家族が自分を心配してうそをついたのだということはわかっており、そんな家族が好きで、もどりたいという気持ちを認めると同時に、それでもガンとしてうそをつけない自分がいる。いい子のノンちゃんの中にわきおこった矛盾は、ひとしきり泣くことで落ち着きどころを見つけていきます。
 おじいさんは、ノンちゃんに言います。
「もうよい、わかった! わかつたというに……。これ、泣くな、あばれるな!」
 おじいさんは、ノンちゃんをかかえあげ、ノンちゃんは思うぞんぶん泣きます。
「それでいいのじや。泣くな、泣くな……」

 ノンちゃんが見つけた自分。うそをきらいな自分。頭ではうそをついたみんなの気持ちをわかっていても、その行為を受けつけられない自分。物事を一方向からしかとらえられない自分。それは生理的にしみついた、いい子で優等生の特徴ではあるけれど、自分のなかでは、泣きたいくらいまっすぐで、ゆずれない強い気持ち……。
 泣きながらノンちゃんが、おじいさんに体当たりをしたとき、「ノンちゃんの小さいからだから、白い光りがサッとさして、おじいさんは目がくらんだのです。」
 それはきっと、おじいさんの思っていた方向とはちがうけれど、また、人間としての成長には心配があるけれど、ノンちゃんの持つ個性(ノンちゃん自身)がそこで光ったのでしょう。だから、おじいさんは、「それでいいのじや」と言ったのでしょう。

 ノンちゃんは、家族のもとに帰ります。

●後半の記憶のなさ
 ノンちゃんが目をさますと、ふとんに寝かされていて、おかあさんもにいちゃんもみんなが心配して囲んでいます。
 ノンちゃんは、だんだんに回復し、学校へも行かれるようになります。
 それから14、5年がたった今(物語の最初に14、5年前話だとありますので、今にもどったということでしょう)、戦争がはじまり、にいちゃんも短い期間ではあるけれど戦場へ行き、植木屋の長吉はそのまま帰らず、ノンちゃんは医師を目指して勉強しています。ノンちゃんは、雲に乗ったことはけっして忘れてはいなくて、いつか自分の子どもに、雲の話を最初から終わりまで話してみたい、いつか、きっと! と終わります。

 「ああ、そうか。ノンちゃんは医者になったのか。戦争があったのか」というくらいのとらえ方だったのか、雲の世界から帰ったノンちゃんの話は、子どもの私のなかでは、ふっつりとうすれていきます。
 さて、大人になってこの作品を久しぶりに読み返したのですが、細部にわたって覚えている部分と、そうでもない部分の差がかなりありました。
 そして、こともあろうに、大人の私は、子どもであった私がどうしてこの作品を繰り返し読んだのか、よくわからないというとまどいにぶつかってしまったのです。
 自分としては、読み返したら、「ああ、そうだった、こんなにいい作品だから、心にのこっていたんだな」という感想がでてくるはずでしたのに。
 ではいったい、この作品は、どのようにとらえられている(た)のだろうか……。と、数少ない資料をあたってみることにしました。

 たとえば、小西正保さんは石井桃子論(2)のなかでこんなふうに書いています。
 「文字通り優等生の作文だという感じをぬぐいきれない。どこといって可もなければ不可もない。とくべつにおもしろくて、読みだしたらやめられないとういこともないかわりに、途中でほうりだしてしまうほどつまらなくもない。」
また、ノンちゃんの性格には魅力を感じないし、いやらしい性格とさえ思えてしまい、子どもらしい子ども像からかけはなれた「子ども大人」といえるのではないか、とまで言っています。
 ノンちゃんのお父さん、お母さんについても、立派ではあるけれど立派すぎて、非人間的に感じてしまうし、唯一子ども像として出色なのは、ノンちゃんのおにいちゃんであるタケシである、としています。
 ストーリーについては、「おかあさんたちにおいてけぼりにされたノンちゃんが、雲の世界へいって、高砂のおじいさんに家族と自分について語り、話し終えてみれば、いずれもノンちゃんがうらめしく思って泣いていた事情とちがって、いい人たちばかりであったというものがたりである。これがストーリィとしておもしろいかと言えば、おもしろくないと思うのは決して私ばかりではないだろう。」と否定的です。

 ノンちゃんが書かれたのは、戦争中の昭和19年。出版されたのが昭和22年。戦後すぐの時期です。
 石井桃子さんは、「宮城県の山おくの掘っ建て小屋のなかで、ひるま、開墾をして、夜は、ランプの石油のへるのに気もへらしながら、夜明まで、きたない原稿の清書をしました。」と作品のあとがきに書いています。
 東京は空襲で焼けただれ、長崎、広島には原爆が落とされ、敗戦し、空虚感の漂う折りも折り、『ノンちゃん雲に乗る』が出版されたかと思うと、なんだか戦後世代としては不思議な感じがします。昭和26年に文部大臣賞を受賞し、そして新たに光文社から出版されたのでしょう。私の手元の光文社の本の扉には、大きく「文部大臣賞」と題名の上に書かれています。
 その扉をめくると、次には、「雲に乗ってきた人へ──」という扉があります。そして目次……。
 この作品は映画化されたそうですが、私が読んだのは昭和44年ころ。つまり、発刊されてから20年以上も後のことなのでした。
 
 石井桃子さんと言えば、『子どもと文学』、そして、『くまのプーさん』などの翻訳物の仕事のほうが有名であるかもしれません。いずれにせよ、子どもの本にかかわる大きな仕事をした人だという印象があります。
 では、作家としてはどうだったのでしょうか?
 清水真砂子さんは、石井桃子の児童文学理論からすっぽりぬけおちているのは、次のような姿勢だとして三木卓の言葉(『学校図書館』昭和四七年12月号 児童文学時評)を長く引いて指摘しています(4)。

 三木卓は、「児童文学の中で作者が見捨てられている。」とのべ、作者はひたすら、子どもたちのためだけに書いているのであり、「自分は粉骨砕身」だということについて、こう続けている。
──そんなことが許されるだろうか。勿論許されるわけはない。作者は第一義的に自分の
ために書くのであり、それは自分自身書くことが必要だから書くのである。書くということによって、自分自身にとって未知の闇の中にあったものを既知の光の中へもたらすことこそ、書く意味である。そして、そうでなければ、どうやって作者が成熟していくことができようか。作者は既知のことを書き続けて、なくなったら、それでぬけがらになるのか。
 そして、何よりも肝心なことは、人が人に何かを教えるなどということはできはしないということである。人は自分の知らぬことを知ろうとする姿を他者に見せることができるだけであり、そこには、両者の関係は一方から一方への支配関係を連想させるようなものではなく、根本的にひらかれた、自由で平等な関係があるだけなのである。
 児童文学という名を冠してはいるが、これは、つまるところ文学の形式に他ならず、それを支えているものは、飽くことのないこの世界=現実の深部への解明への意志であり、それを再構成しようという想像力である。それらのものが幼年期の新鮮な、輝かしい感受性に支えられて、はじめて児童文学は成立する。

 清水真砂子さんは、自身も子どものころ「ノンちゃん」を読んだことをたどりながら、自分もノンちゃんのようにいやらしい優等生だったから、途中でほうりだせないで、かしこまって読んだのだろうと言います。
 冒頭のはでに泣くノンちゃんは、一瞬、見事に子どもを解き放っているので、子ども心にも期待感を抱いたのだが、雲の世界に行ったノンちゃんは、雲のおじいさんによって、人間にとって大切なものは何かを教えさとされる。そうして、ノンちゃんは、おじいさんの価値の世界と対立するでもなければ、のりこえるでもなく、そのわくのなかで最大限のいい子になって、帰ってくる。結局は、この作品は、ノンちゃんの泣き声をしずめて、いい子にしただけだったのである、というとらえ方をしています。
清水真砂子さんが参考としてあげている、上野瞭さんの『戦後児童文学論』(5)に、『ノンちゃん』についてのいろいろな評がまとめられているので、紹介します。

 「申し分のない児童文学」(進藤純孝)、「感情がみずみずしく、ノンちゃんを抱いてやるようにしている」(船木枳郎)、「平凡な登場人物の平凡な生活が写されているのだが、そのとらえ方は決して平凡ではない」(猪熊葉子)。
 「この作品に空想と現実の交錯は存在しない。空想という方法は単なるテクニックに転落」(古田足日)、「童心へのノスアルジア」であり「ノンちゃん自身は現実の生活に対する空想や願望や冒険のたくましさをもたない。だから、雲にのるという発想が単なる形式にとどまって、内容そのものは空想生によっていろどられることなく一貫した物語の発展をもっていない」(大久保正太郎)、「所詮これらが児童文学の中での相対的傑作」(鳥越信)。

 そこで、上野瞭さんは、この作品が傑作であるのか、ないのか、また戦後の児童文学の展開として、一つの収穫なのか、収穫とは言えないのかと、要約すると次のように問うています。

 わたしは「ノンちゃん」の問題点として次の二点を無視しえないと思う。
 ひとつは、雲の世界の価値判定によって成り立っているということで、この物語が奔放自由な空想と現実の交錯世界をつくり出すつもりなら、ノンちゃんの価値感とおじいさんの価値観が対立相剋し、現実と空想とのスパークがなければならないはずだった。
 そして、それならば、なまじ雲の世界を設定するよりも、ノンちゃんみずからの力で、兄や長吉たちとの葛藤のなかで、一人の人間として目覚め、生長し、発展していく姿を描いたほうが、よりわたしたちを引きつけたのではないか。
 そうして、ノンちゃんの価値観はつねに大人に見守られ、包まれているままで、傷つくことも疑うこともないままに、生長はしていくけれども発展はしない少女として描かれている。
 また、作品の終わりに戦争がでてくるが、自己と他人の自覚、自由な生育、人間の自主性を身につけた、ノンちゃんの唯一の自己検証の機会であったはずなのに、それによって、なにもおこらず、なにもうばわれはしなかった。ノンちゃんは温室で生きつづけ、そうした温室的価値を「定点」とする、児童文学の役割とは何だろうという疑問がおこる。

 そして、第二点目は、こうした没社会的なナショナリズムの皆無の作品を受け入れる心情が、この時点でわたしたちのなかに広く行きわたっていたということである。
 敗戦後に、人間性、個人の自由、民主主義の原理など、すべてが欠けていて無いという欠如理論は、欠如の自覚がトータルなだけに深刻であり、こうした心情が、社会や国家よりも「個人」を中軸にすえた作品、「ノンちゃん」を受け入れるグルンドとなっていたと言える。
 戦後二〇年にわたって、わたしたちが少しずつ消化してきた「個人の価値」は、雲のおじいさんから教示された「所与の価値」として存在するばかりで、ノンちゃんみずからが、他者との葛藤のなかで、社会の不合理や国家の不正のなかで、傷つきつつ闘いとり、築き上げてきたものとしては存在しないのである。
 戦後、その時点での児童文学が「所与の価値」を当然のこととして「定点」不動の座標のごとくすえて、そこでは苦闘していないことを知るのである。

 『ノンちゃん』が、どういう時代に書かれ、どういうとらえられ方をしてきたのかが、私はだんだんわかってきました。そうすると、この作品がファンタジーに分類されていないのはどうして? かという問いについても推測できるような気がします。小西正保さんはこう書いています(2)。

 (すぐれて近代的なファンタジーを)思い浮かぶままに、二、三あげてみても、『銀河鉄道の夜』『赤いろうそくと人魚』、『木かげの家の小人たち』『誰も知らない小さな国』等々。むしろ私は、こうして列挙していくなかに、『ノンちゃん雲に乗る』を入れることをためらうような気がすることを残念に思うのだ。(中略)
 私見によれば、『ノンちゃん雲に乗る』の方法は、ファンタジーと呼ぶよりも、むしろ一種の回想形式のヴァリエーションと考えた方がよい。
 全編の構成の上で、ファンタジーと言える部分は、「雲の上」の章および終章に近い、「小雲に乗って」の章である。
 仮に『ノンちゃん雲に乗る』一遍から、そのファンタジーと呼べる部分を抜いてしまって、ノンちゃんが木から落ちて気絶するところからあとを、おかあさんか誰かの回想形式に置きかえたとするとどうなるだろうか。おそらく、この物語全体の構成の上では、そうひどい影響はないはずである。ということは、物語の構成上、ノンちゃんが雲に乗るということは、それほどに必要性をもっていないというか、有機的な密接関係を物語りの構成としてはもっていないということになる。

 また、つづいて千葉省三氏の書いた『空へ落っこちた話』(大正9年)を示し、ノンちゃんが同じように空へ落ちたところの描写と比較し、前者に「子どもの心をその世界にさそいこむような魅力」がまさっていると指摘しています。
 そこで、神宮輝夫さんの『児童文学の中の子ども』(3)をひもといてみますと、巻末の分類で、この作品は、「リアリスティックな作品の部」に分類されています。ちなみにファンタジーの部には、『だれも知らない小さな国』『木かげの家の小人たち』『銀のほのおの国』などが分類されています。どうして、リアリズムに分類してあるのか。
 神宮輝夫さんは、上野瞭さんとの対談(7)のなかで、ファンタジーについてこう語っています。

「イギリスのファンタジーについてよく言われることだけど、ファンタジー・ワールドはひとつの完結した世界でなくてはいけない。そしてそれは、現実のできごとがそのまま対比できるようなかたちで書かれた場合には、ファンタジー・ワールドにならないと、よく言う。つまり、別世界、異世界が確立していなかったら、リアリティーがないんだということでしょう。化粧品公害だとかストリーキングだとか、そういった現実にすぐ対比して考えられるできごとが出てくると、異世界にならないということなんでしょう。だから、キャロルの『不思議の国のアリス』などを、いわゆるファンタジーとして認めないという言いかたにもなってくるんだろうとは思う。あれもビクトリア時代のいろんな現象を、どんどん入れている。しかし、あの作品はそれを乗り越えて、いまの時代にも通用するものになり得ている。それは、現象だけの処理とか、おもしろさを狙っているのではなくて、ものの本質や時代の動きの方向性をつかんでいたからだと思う。」

 なるほど、そういう視点で分類したなら、『ノンちゃん』はファンタジーではないでしょう。逆に、あんなにリアルに子どもの視点から、日常のできごとや家族を語ったものは、めずらしかったのではないでしょうか。
 神宮さんは、『児童文学の中の子ども』(3)ではこう書いています。

「子ども時代に経験した、そして大人になるにしたがって忘れてしまってほとんど思い出しもしない貴重なある時を掘りおこしてえがけた作品は、まちがいなく子どもの共感をえることができる。そうした一瞬をとらえている作品は数少ないが、石井桃子の『ノンちゃん雲に乗る』(1946)に、その芽を見ることができる。」
 として、ノンちゃんが、雪の日に新聞に同じ字(雪)がたくさんあることに気づき、それがお母さんの名の「雪子」と同じことから、お母さんが自分のお母さんと同時に、「田代雪子」という人だったと気づくことを、「自他の区別と記号としての認識のはじまりを、これほどあざやかにとらえた子どもの文学はめったにない」と評しています。

「子どもの成長の節ぶしにあらわれて、逃げるように消えるだいじな一瞬であり、この一瞬を子どもに提示することで、子どもは自己を確かめることができる。『ノンちゃん雲にのる』には、このエピソードにすぐつづいて、時の流れに幼児が気づく、じつにすばらしい瞬間のエピソードがある。(中略)
 いずれにしても、私は、児童文学を、大人の最良の人生を求める願望と、子どもの自己確認の間に成立する文学だと考えている。(中略)
 ところで、大人の立場から、子どもの自己確認ということを考えたらどうなるだろう。ある子どもが今までできなかったことをなしとげた喜び、だれひとり美しいと思わないなにかを美しいと感じた瞬間、吹く風に季節の変化を感じた一瞬などを描き、子どもに知らせるのは、いうまでもなく大人である。日常の中に埋没しがちな一瞬のその価値を知り、子どもに伝えるとき、当然そこには大人の価値観がはたらいている。それが子どもに共感され子どもに自分を改めて意識させる貴重な一瞬であっても、その値打ちを意識するのは大人となった作家である。大人と子どもとは、この点でつながることができる。これは、子どもを無視した大人の独善ではなく、かつて子どもであった人間と、今子どもである人間が共有できるものの発見である。大人は、子どもが共感し、自己の成長に必要なものを発見する出来事に、大人の知識と経験を通してえたものを表現し、それを通して理想に近づこうとする。」

 いろいろなことが頭のなかに渦巻いているのですが、子どものころの読書経験にかえってみると、はたしてこの作品がファンタジーでなかろうが、雲の世界にいく有機性がなかろうが、私は、雲の世界に行くことを楽しみに本を読んでいたのです。
 また、たしかにノンちゃんはよい子で、優等生で、鼻持ちならないやつかもしれませんが、大人や社会がそういう子どもを再生産しているということについてはどうなるのでしょうか? 個性あふれるはみだしっ子を描いた方がおもしろいし、物語にもリズムがでるかもしれない。けれど、そういう子どもたちをすみに追いやって、いい子をつくろうとする大人や教師や社会のあり方については、どういう姿勢でのぞむのでしょうか。
 子どもは、自分から鼻持ちならない優等生になりたいと思っているわけではありません。いい子は少なからずつくられるのです。長吉とのエピソードで、ノンちゃんは、先生に言いつけることになにかしら後ろめたさをもっています。それでも、正しいことは正しい、と理屈でいくのは、大人との関係性です。そのことをおじいさんの言葉で、やんわり、やんわりずらしていく手法は、子どもにも納得のいく話の展開になっています。
 私は優等生ではありませんでしたが、まわりの人たちといい関係性をもつことが心地よく、いつもにこにこしていたので、「いい子、いい子」とかわいがられました。けれど、同時に、はみだしっ子でもありました。姉は絵に描いたような優等生、母は努力家、父は教師ですから、私はなにをやってもはみださざるを得なかったのです。「なんでそういうことするの?」と、事あるごとに母は目を大きくあけ、まじめに私に問うたものです。聞かれてもこまりましたが・・。
 ですから、末っ子でみんなからかわいがられている、という点ではノンちゃんに近く、はみだしている、突飛なことをする子という点では、にいちゃんのタケシのようにエピソードをたくさん持っていました。私は、ノンちゃんとタケシの間をゆれながら、この話を読んでいたようです。
 揺れながら、何度も繰り返し読んで、私はきっと、自分という存在を問い直していたのではないかと思うのです。ノンちゃんが、語りながら別の光をあててもらったように、私も自分のことにおきかえながら、自分という存在をたしかめ、問う旅に、ノンちゃんといっしょに出ていたのだと思うのです。
 子どもが自分を問い直す? そんなことをするものだろうか、と思われるでしょうか? 10歳前後の子どもは、大人への成長の階段をのぼる行為として、自分の存在をとらえなおすという行為を、日々、いろいろなきっかけでしているのではないでしょうか?
 私も、そのためにこの作品を必要としたのではないかと、思いあたるのです。ノンちゃんとタケシという、自分のなかの反対の2つの要素をもった等身大の子どもが登場して、雲のおじいさんによって存在を照らしだされていく……。優等生もさることながら、できのよい家族のなかのはみだしっ子は、自己を見つけにくいものだと思うのです。どうも、私はまじめに自分を問い直し、自分はいったいどういう人間なのか、だめな人間なのか、そうでないのか、たえず問い直していたような気がしてなりません。
 そういう営みに助走してくれた本が、『ノンちゃん』ではなかったか、と思うのです。
 それはあまりに起伏のとんだ、冒険のあふれる世界でなくてもよく、安心できる誰かがいてささえてくれる。それが、きっとみんなのおじいさんであるような、雲のおじいさんだったのでしょう。
 石井桃子さんが、『子どもの館』(6)で幼児のころの回想を語っていますが、そのなかの祖父についての話は、まるで物語を聞いているように印象的で、雲の世界のおじいさんのモデルがここにあるということが推測されます。幼児であった石井桃子さんの世界を支えていたのは、この祖父であったようです。

 ここで唐突ですが、『ハリーポッター』シリーズが、不意に頭に浮かびました。ハリポタファンには悪いのですが、私はシリーズ1冊目で放棄してしまいました。なぜなら、ハリーの行った魔法学校は、生徒を組分けの帽子でふり分け、いかにもという評価で分類された寮へと入れるのです。そのうえ、寮単位で学力(魔法のですが)を競いあい、スポーツも同じように飛びぬけた運動能力を競うのです。それでは、まるで現実の学校でやらなければならない競争と同じではありませんか。どうして別世界へいけたのに、同じ価値観による競争をしなければならないのだろう、と私はすっかり物語に対する興味が失せてしまったのでした。
 ところが、10歳のそれほど読書家でもない息子は、3冊を一気に読みました。流行っていて、学校でも話題になっているということが大きな理由ではありますが、ハリーに自分をなぞらえて読んでいるのでは? と思いあたったのです。もしかしたら、私がノンちゃんを読んだように……。
 それであるなら、自分のいる世界に近い価値観の世界のほうがなぞらえやすいということがあるでしょう。私としては、物語ならもっと自由でおもしろい価値観を示してほしいと要求したいところですが、自分を問い直す作業をしている子どもたちには、一概にはそうは言えないのかもしれません。
 だからといって、『ハリーポッター』シリーズを私は読む気がしないように、ノンちゃんを読んだ大人たちも、道徳的な匂いのするこの話を好まなかったのかもしれないと思うのです。けれど、しいたげられた環境で育ち、生まれながらに特殊能力を持っている運命の子ハリーとは違い、ノンちゃんは暖かい家庭で育った、いい子の優等生なのです。そのことは、自分を問い直すという点では大きく違ってくると思います。
 そして、私は『ハリーポッター』をファンタジー作品とは思えなかったのですが、その理由は、ファンタジーについて語る神宮輝夫さんの言葉「現実にすぐ対比して考えられるできごとが出てくると、異世界にならないということなんでしょう。」(前出)から、なんとなく推測されてきました。でも、シリーズを読み通したわけではないので、それにつていはこれ以上触れないでおきます。
 息子が大人になったら「いや、あの本はこう読んでいたんだよ。ここがおもしろかったんだよ。わかってないなあ」と、反論されるかもしれません。楽しみです。子ども時代に読んだ本が、その子の成長にどうよりそったかを、大人になって思い返してみることは興味深いことです。
 私にとって、『ノンちゃん』の雲の世界は、別世界の不思議でわくわくした体験と、自分の心の中へと穴を掘るような旅をする、まさに読書の醍醐味をはじめて経験させてくれた世界なのです。

 「ファンタジーは旅です。精神分析学とまったく同様の、識域下の世界への旅。精神分析学と同じように、ファンタジーもまた危険をはらんでいます。ファンタジーはあなたを変えてしまうかもしれないのです」(『夜の言葉』) 
 『指輪物語』のときにもひいたル・グインの言葉です。ノンちゃんとの雲の世界への旅は、私にとってくり返しでかけていく必要のあった旅なのでした。
 ノンちゃんも私も、雲の世界に行くことが必要だったのであり、「うそをつく」という行為を軸にノンちゃんが自分を見つめるという作業は、雲の世界から抜けでるところで完結していたように思えます。雲の世界は、現実になぞらえた世界ではなく、雲の世界において自分を見つめるために、現実を語るという世界でしたから、もし、ノンちゃんが雲の世界から抜けでるところで閉じていたら、それはそれで完結していたのではないかと思うのです。
 その後のノンちゃんが、やはり優等生で杓子定規に生きていようがなかろうが、それについて書くことは必要だったのでしょうか? ひとつの経験が人生でどう影響するかは、長く生きてみないとわかりませんし、人それぞれに生かし方もちがうと思うのです。その後を描いてしまうことによって、雲の世界の経験がせばめられ、ノンちゃんが人間として総合的に生き方を問われる結果になってしまったともいえます。
 その後のノンちゃんは、作者にとっては必要であったのかもしれませんが、子ども読者にとっては必要ではなかったのではないかと、私は思っているのです。

[参考図書]
1,『ノンちゃん雲に乗る』(石井桃子 光文社 1951年)
2,『トナカイ村 昭和45年春季号』石井桃子論 小西正保(トナカイ村児童文学会 千代田書房 1970年)
3,『児童文学の中の子ども』(神宮輝夫、NHKブックス222 1974年)
4,『講座日本児童文学 第八巻 日本の児童文学作家3』石井桃子──清水真砂子(猪熊葉子、神宮輝夫、続橋達雄、鳥越信、古田足日、横谷輝編集、明治書院 1973年)
5,『戦後児童文学論』(上野瞭 理論社、1967年)
6,『子どもの館』幼児のためのお話──石井桃子(1975年1月号 福音館書店)
7,『現代児童文学作家対談7 今江祥智 上野瞭 灰谷健次郎』インタビューア神宮輝夫(神宮輝夫 偕成社 1922年)


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