私とファンタジー その5 『龍の子太郎』  (堀切リエ)

龍の子太郎・・・松谷みよ子を語る。


●人間に囲まれて書いた物語
──東京で生まれ、東京で育った私は、ふるさとの味をしりません。いわゆるむかしばなしをきくということもなく、よむ本といったらグリムやアンデルセンでした。したがって、私の書きはじめた童話には、ルーモやファーボなどという、どこの国の子どもともしれない少年や少女が登場してきました。
 やがて、そういう自分が、だんだん不満になってきました。どうにかして日本の土というものにじかにふれてみたい、そういう気持ちから、私は夫といっしょに、民話採集の旅にでるようになりました。(中略)
 私はいきいきとかたりかけてくる私たちの祖先の、ゆたかさ、力づよさ、美しさに目をみはりました。ふるさとをしらなかった私は、はじめて、自分が日本の国に生まれたのだ、ここにふるさとがあるのだと感じたのです。(中略)
 こういうわけで、この作品は祖先との合作です。また、私を助けてくれたのは、私のまわりにいる、絵の会の子どもたちでした。人口衛星がとび、月の世界が身近なものになったこの時代でも、子どもたちは、自分でも意識しない民話の主人公です。そのゆたかな空想力や、奇想天外なおこないは、そのまま龍の子太郎の中にもいかされています。ですから、これは、子どもたちとの合作ともいえます。(後略)」(『龍の子太郎』@、あとがきより)

 松谷さんは、片倉工業につとめたいた時代、組合運動をしながら人形劇サークルをつくって活動していました。そのとき指導にきた瀬川拓男さんと、「桃太郎ではない日本民話の主人公、農民の太郎をさがそう。そして、太郎座という劇団をつくろうよ」と、人形劇団を旗揚げしました。
 「『龍の子太郎』は、左手で赤ん坊を抱いておっぱいを飲ませながら、右手で書いていました」(D)と松谷さんが語っているように、太郎座のある自宅には、毎日、劇団員2〜8人がくるのでその人たちの食事を常時つくり、劇団の経理と雑務をこなし、舞台がせまっているときは何人もが徹夜で泊まりこむという状況だったようです。
 結核をした後という体調も万全でない状態で、劇団の雑務に追われ、原稿を書き、さらに民話の採集の旅まででかけていく……。考えるだけで目の回りそうな生活のなかで、松谷さんは『龍の子太郎』を書いたのです。
 私も以前劇団にいたのですが、あの生活のサイクルは身にせまってきます。稽古場は言葉で言い表せないほど雑然とした雰囲気で、たえずばたばたと出入りする人間たちと、時間も空間も越えて存在する多くの仕事。それらをがつがつと食らうようにこなしていきながらの、練習、仕込み、本番。緊迫感のゆえに時にはささくれだつ人間関係のなかで、自分の精神と肉体の限界がみえかくれする……、というような状況です。そのなかで、ふんばって書いている人を何人も知っていますが、並大抵のことではないです。
 作者自身が大勢の人に囲まれて、つねに動いている状況のなかでペンを動かしていたからでしょうか。松谷さんの作品の登場人物の特徴といったら、私は動的であることを第一にあげます。

──どういうわけか私には悪いくせがあって、原稿用紙を少し字で埋めると、何かしたくなる。たとえば草をむしるとか、洗濯物をとりこむとか、ついそういう事をちょっこりやりたくなる。それは子どもを育てながら、飯炊きをしながら書いて来たからついたくせなのかもしれない。(A)

 登場人物たちはそれぞれ動いていて、しかも、どさどさと集団で登場したりします。龍の子太郎と遊ぶ動物たちの登場のしかたを見てみましょう。団体で登場しますが、松谷さんはその1匹1匹を、子どもが指さしてみているように、ていねいに、わかりやすく描写していきます。

──ほんとうに、けものたちは、あやのふえがだいすきでした。ふえがなりだすと、まずさいしょにはしってくるのはうさぎでしたが、そうかといって、いちばんまえにすわるわけでもなく、すこしはなれてすわるのでした。これにはちゃんとわけがあって、ふえというものはすこしはなれてきくものだというのです。
 ねずみはくいしんぼうで、いつも、やまいものかけらをかじりながらきいていました。
 いのししのおかあさんは、十ぴきも子どもをつれてくるのですから、それだけでもたいへんでした。子どもたちは、ウリンボウといって、白と黒のきれいなたてじまです。それがずらりとならんできいているところは、とてもかわいいながめでした。あやはすっかりよろこんで、「十ぴきのウリンボウたち」という曲をつくったくらいです。
 つぎはきつねで、すこし走ってはいそいでからだをなめ、すこし走ってはいそいでしっぽをなめしてくるので、すっかりおくれてやってきました。
 たぬきはぶしょうで、あなの中にねころんできいていましたし、くまは、さいごにのそのそやってきました。これはねぼすけのせいなのでした。(『龍の子太郎』@)

 というように、読んでいるうちに動物の1匹ずつの表情が浮かんでくるような、たのしくリズムのある描写です。そうして、動物たちそれぞれが生きて動いています。こういう描写は、たくさんの人に囲まれて生活をしていた松谷さんならではの文体ではないかと思えるのです。
 動物たちがすもうをとっている描写は、こんなふうです。

──龍の子太郎は、デン、デン、としこをふみました。
 いのししやくまは、ドシン、ドシン、とふみました。きつねやうさぎたちは、トン、トン、とふみました。ねずみだけが、ポチン、ポチン、とふみました。

 そうして、天狗たちにすもうを披露するのですが、龍の子太郎は上手投げしか教えなかったので、みんながみんな上手投げで勝負を決めるのです。同じ上手投げだからこそ、同じしこふみだからこそ、大きな動物や小さな動物の特徴と違いがでるという効果的な手法になっていますし、描写にはなんともいえないユーモアと生きものへの愛情があふれています。
 松谷さんがテレビに出演されたのを拝見したことがあるのですが、奄美、沖縄の妖怪、ケンムンとイッシャの話をしながら、自分の話に今また、頭のなかにケンムンの姿をポッと思い浮かべたのでしょう。思わず「フフフ」と楽しそうに笑っておられました。
 その姿を思い出してみると、「そうねえ、ねずみがしこを踏んだら、ポチン、ポチンよねえ」と書きながら、「フフッ」と楽しそうに笑っている松谷さんの姿を想像してしまうのです。
 その楽しさ、ユーモアは、この物語の随所にでてきます。そうして、この物語は声に出して読むと、楽しさが倍増するのです。母は寝物語にこの本を開いて読んでくれましたが、とうてい一晩で読めるはずはなく、母は読みながらいつも居眠りをはじめるのです。今になれば母に同情もし、昼間の疲れがでるのはいたしかたのないことと理解も及びますが、そこは幼児ですから、「ねえ、ねえ、先を読んでよ」とゆりおこします。毎晩、何度かそれをくりかえし、満足のいくところまで読んでもらって寝ました。そして、同じ物語を何度もくりかえし読んでもらいました。
 赤鬼のでてくる場面は、私のお気に入りでしたが、赤鬼のタイコをたたく姿がまた秀逸です。

──赤鬼はざしきで、へたなタイコをたたいていました。
   ドーン ドーン ドドン
   ドデン ドン ズデン ドン
 まるっきりおかしな音なのに、そのうれしそうなかおといったらありません。
 目をつぶり、はなをふくらませ、くびをふりたてて、もうむちゅうなのでした。おまけにその音の大きさといったら。
「なるほど、これでは、うさぎやきつねが耳いたになるのもむりないや、おらの耳だってつぶれそうだもの。」
 龍の子太郎はざしきにはいると、あぐらをかき、にこにこしてタイコをきいていました。赤鬼はひとりでタイコをたたき、にんまりしたり、口をひんまげたり、ぶつぶついったりしていましたが、ひょいと龍の子太郎に気がついて、あんぐり口をあけました。
「おんや、おまえ、いつここへきた。」

 この描写に、実際のモデルがいたといっても過言ではないでしょう。なにかに夢中になる人の状態を、松谷さんはしっかり観察しています。私も劇団でタイコをたたいたり、笛を吹いたりしてきたこともあって、この場面を読み返して、大笑いしてしまいました。人はタイコをたたいていると、どうも子ども時代にもどっていくようなのです。そうして、音に集中しているので、口をぽうっとあけたり、うまくできるとひとりでにんまりしたりします。なにかに夢中になっている姿は、ときにはなんとも滑稽に見えるものです。ちょっと残酷かもしれないと思えるほど、するどい観察力です。
 読みかえしてみて気づいたのは、芝居として構成と場面を考えながら読むと、この物語はぴったりくる、ということです。書いてすぐに太郎座で最初の本公演として上演したそうで、3時間余にわたる大公演だったそうです(D)から、芝居のための脚本ではないとしても、作者の状況を考えますと芝居のイメージがどこかにあったのではないでしょうか?

 たとえば、構成です。
 最初は、太郎の住む村の描写。「一つぶは千つぶになあれ 二つぶは万つぶになあれ」とうたいながらマメをまく、貧しい農民がでてきます。芝居の幕開けとしてふさわしいですね。
 その村はずれにズームインしていくと、ばあさまと太郎がいます。
 村の子どもたちが太郎をはやすうた「龍の子 龍の子 まものの子」が聞こえ、太郎のことが説明されます。
 さらに太郎に焦点をあてて、太郎が山へいく日常風景を描いています。
 場面は山に移って、そこに笛のじょうずなあやの登場。
 あやと太郎は仲よくなって、そのまわりに先ほどの動物たちが集まってきます。
 大勢の楽しい場面がもりあがるのとちょうど時を同じくして、一人で山を歩く赤鬼の描写となります。
 ここらあたりは、赤鬼の登場の仕方が舞台の情景として目に浮かぶようです。
  
──ところが、ちょうどこのころ、一ぴきの赤鬼が、手に小さなタイコをさげて、のこのこ山をあるいていました。はなのあなをふくらませて、でっかい声をはりあげて、もう、上きげんなのです。
 
 タイコのすきな赤鬼だ
 トントカ トカトカ 
 スットントン

 めしよりすきなタイコだよ
 トントカ トカトカ
 スットントン

「ほ、きょうはおもいっきり、タイコをたたいてやるぞ。黒鬼の親分に見つかると、やいやい、おまえはまだタイコをたたいとるのか、まだおもちゃもってよろこんでるのか、そのひまがあったら、むすめっ子ひとりでもよけいにさらってこい、と、目ん玉がとびでるほどしかられるが、なあに、きょうはだいじょうぶだい。きのう、にわとり十羽、くろがね山へおとどけしておいたもんな、いまごろは黒鬼さまは、にわとりくって、ひるねだべ。」

 ここは、芝居でいえば独白です。しかし、赤鬼がいかにもぶつぶつ言いながらひとり言でごねているようにして、黒鬼と赤鬼の関係と、赤鬼のタイコ好きを説明しているのです。うまいですね。
 このあとに、赤鬼は動物たちにタイコをきかせようと、召集をかけるのですが、ねずみ一匹でてきません。やっと小さなねずみをつかまえて、なぜでてこないかをたずねます。

──「すみません、すみません。おら、耳のおくに、できものができたもんで……タイコはかんべんしてください。」
「ふん、耳のおくか、耳のやまいではしかたね。で、きつねはどうした。」
「はい、耳ん中がいたむといっていましたが……。」
「なに、耳ん中だ? ふん、耳のやまいではしかたね。で、うさぎはどうした?」
「はい、耳ん外がいたむといっていましたが……。」
「なに、耳ん外だあ。やいやいねずみ、だまってきいておればいい気になって、おまえはおれさまを、ばかにする気だなあ。」

と、絶妙な対話のすえに赤鬼はおこりだし、そこへ笛の音が聞こえてきて、物語はさっきの龍の子太郎とあやと動物たちの場面に合流するというわけです。
 こんな場面わりの上手なお話にであったら、劇団はよろこんで舞台化すると思います。
 その後も、太郎が母親が龍になった話を聞いて旅だちを決心すると同時に、あやが赤鬼にさらわれたという話がとびこんできて、「さあ、たいへんなことになりました。なにもかもです……。」この先どうなることやら、ここで前半がおわり後半へ続く、休憩……。でもよいですね。

●語り手と受け手がいて成り立つ物語
 さきほどの絵の話題にもどります。
 『日本児童文学 民話』(4)のなかの座談会「民話における怪異なるもの」のなかで、『鬼の研究』(ちくま文庫)で知られる馬場あき子さんは、こんなことを話しています。

「すこし前に国立市で、小学校の先生とかお母さんと、鬼の問題で話し合いをしたことがあるんです。そうしたら、佐伯先生という小学校の先生が「大工と鬼六」とうい民話が教科書にでていると、子どもは鬼の立場でしか考えない。大工は、すくなくとも鬼に目玉をやるという約束違反をしている。鬼が消えてしまってかわいそうだというところまででたし、ある地域でもって、子どもに絵を教えている女の先生が、子どもに、なんでもいいから書けというと、子どもは鬼の絵を描きたがると報告されました。現代では鬼の絵とは怪獣の絵かもしれないけれど、心の中にあるものを解放しようとするとき鬼とか怪獣とかお化けという問題がでて来るんじゃないか。
 やはり語り手と受け手のなかにいる魑魅魍魎の葛藤をとおして民話の世界ははてしなく広がっているんじゃないかと思います。」

 子どもが「心のなかにあるものを解放しようとして鬼を描く」という発言には、ちょっと驚きましたが、なるほど、とも思いました。
 私は、鬼はもちろん、天狗だとか河童だとか、民話に登場する妖怪が好きでした。好きといっても、ふつうの好きな感情とはちょっとちがって、ぞくぞくするけどそんなところが好き、なんだかわからないけれど惹かれる、といった具合の感情です。ですから、絵に赤鬼を描いたのでしょう。
 子どもが心のなかにあるものを解放する手だてとしての民話には、当然、怪異が含まれる、という解釈には恐れいります。
 同じ座談会で、阿部正路さんはこう話しています。

「(前略)例の土偶があって、これもまた怪異なものなんだけれども、根源を語るものは常にああいう問いかけの形態をしていたと考えられていたのではないでしょうか。人間の内部のドロドロしたものは、常に怪異なのだというふうに。(中略)
 秩序を変えようとする意図の根源に怪異がある。秩序を変えたいとうい願望や怪異なものこそ、逆説的に秩序を回復するというようなことなのですが。」

 馬場さんが語るように「語り手と受け手のなかにいる魑魅魍魎の葛藤をとおして民話の世界ははてしなく広がっていく」ことや、安部さんの語るように「人間の内部のドロドロしたものは、常に怪異なのだ」ということは、民話の特徴をよくとらえていると私には思われます。松谷さんは、語り手と受け手の関係について、まず、語り手についてはこう書いています。

──(前略)しかしそれは、民話が自分とはまったく別のところにあるということではない。私はかつて、民話を無意識の中でではあるけれど、そんな風に思っていた。どこかに探しに行き、訪ねて行くもののように思っていた。そしてようやく近頃になって、自分もまた語り手の一人であり、電車の中でとなりに座っている人も語り手の一人であり、また、それぞれが民話の主人公なのだということを実感して感じるようになった。つまりお客さんではないのだ。そう思うまでに私はいったい何年かかったのだろう。(A)

 松谷さんは、民話を採集してきた受け手でありながら、自分も語り手であると気づいたといいます。語り手であるかぎり、語っている相手、受け手を意識せずにはいられません。語り手というものは、ただ話を語る(書く)という行為をしているのではなく、受け手に向かって話を語り伝えているのです。
 テレビをみていて、語りながら松谷さんの頭には登場人物や風景が、そのときどきにはっきりと思い描かれていることがわかりました。なにを受け手に伝えているかが、語り手には見えているのです。
 さて、受け手については、松谷さんは「鶴女房」の話をだして、民話というのは語り手だけのものではなく、受け手(聞き手)によってさまざまな物語として成立することを書いています(A)。
 民話の会で集まった男性陣が「鶴女房」は、「貧乏な兄さが、鶴のようないとしげな嫁さまが来ないのかと、待ちこがれている話なんだよ」ともりあがっているとき、40代半ばにさしかかっていた女性の友人が、涙ぐみながら言った言葉が忘れられない、と松谷さんは述懐します。その言葉とはこうです。

「私はもう裸の鶴と同じだわ。自分の羽を自分で引抜いて、夫のために機を織りつづけて、もう何もない……。裸なのよ」
 
──われとわが身の羽を引抜いて機を織りつづけてきたという感慨には、ぞっとするような実感があった。ほろ苦いなどというものではない、凄じいまでの実感である。それがまったくの徒労であった。徒労であってもそれはそれでよかったといい切れるものなら仕合わせである。しかし羽を引抜き血を流してきた歳月の重みは、徒労であったと爽やかにいい切るには、むきだしの肌にびしびしと痛く、ひび切れ、血もまだにじみつづけているだろう。それだけによろよろと飛び立っていく裸の鶴の姿はそのひとにとって、いつか自分の飛び立っていく姿のように映じるのではなかろうか。(A)

 その後、やはり飛び立つ鶴はもはや裸の鶴ではなく、夕焼け色に染まった白い鶴がはたはたと飛び立っていくのだ、去っていく女性は男にとって美しいんだよ、というイメージを抱く男性(斉藤隆介さん)に、「やっぱりよろよろよたよたなのよ、毛のない、赤裸なのよ。もし羽があるとすれば、飛び立つことによって解放された自分の未来への願望が白い羽となってみえるかもしれないけれども。」と迫る松谷さん。同じ話なのに、飛び立つ鶴のイメージは、こんなにかけはなれています。
 そんなふうに、受け手しだいで民話は変化していき、受け手がまた語り手となることによって、さらに変わっていくものだと、松谷さんは書いています。
 また、民話は古い時代の遺物ではなく、現代もまた生まれ続けていると松谷さんは語ります。
 島根の日原には、殺された若い娘が「去年も十九 今年も十九 ぶうん ぶうん」と唄をうたって、糸を紡ぐ音がするそうです。松谷さんはこの話を聞いて、ナジム・ヒクメットというトルコの詩人が書いた「六つの少女」という詩を思い出しました。広島の原爆で死んだ少女を歌った詩です。

   とびらをたたくのはあたし
   あなたの胸にひびくでしょう
   小さな声が聞こえるでしょう
   あたしのすがたは見えないの

   十五年まえの夏の朝
   あたしはヒロシマで死んだ
   そのまま六つの女の子
   いつまでたっても女の子
(後略)

──死んだ子は年を取らない。原爆で六つで死んだ子はいつになっても六つなのだ。日原の娘は去年も十九、今年も十九と踊る。無理矢理に殺された若い命に残る思いを、この数行でしかない民話は語る。その思いを語り続けていった人々の心がそこにある。(中略)
 あなたも語り手であり、私も語り手であるとするなら、いま語り継がねばならないことがあるのではないだろうか。広島では原爆のあと街中にちろちろと人魂が燃え、提灯も懐中電灯も要らなかったという。戦地での語り伝え、空襲の中での語り伝え、私たちは今こそ語る力を取り戻さねばならないのではなかろうか。(A)

 こう書いた松谷さんが、その後『ふたりのイーダ』につづく作品を書いていったことには、納得がいきます。

●短い民話を長い物語に入れこむ
 さて、話を『龍の子太郎』にもどしましょう。
 物語の展開に民話をひくことは、いったいその物語にとってどういうことなのでしょうか? 松谷さんが言うとおりに、民話は語り継がれてきたものです。語り手があり、また受け手があって、成り立ってきた話です。その話を、独自のストーリーに入れこんでいくということは、どうにも危険をはらんだ作業のように私には思えます。
 『龍の子太郎』の大すじにもなる、小泉小太郎の話や、イワナを食べると竜になるという八郎潟の話など、中心を走るストーリーの組み立てに使われた話は、作者の手を一度通りぬけて物語のなかで別の生を生きているように思えます。
 しかし、山のばあさまの小屋をでたあとにでてくる、切り株をひきずりこんで「かしこい、かしこい」という大ぐもの話や、雪おんなの登場などは、やはりちょっととってつけたような印象があります。
 ちょうど芝居が流れてきて、「ここでもうひとつおもしろいエピソードがないと次の場面にいけないんだよな。太郎のこえていく道筋にたちはだかるもので、なにかない?」といった調子で入れられたような印象をぬぐいきれず(とても失礼な言いかたですが)、これでなければいけないとは思えない使い方に思われます。
 民話は長い時間をかけて、語り手から受け手へと語り継いでねられてきた話ですから、思いもよらない世界を内包している可能性があります。作者のつくるストーリィにとりこんだとき、思いもよらない独立した世界をもってしまって、物語をちぐはぐにしてしまう危険性があると思うのです。また、ストーリィを分断してしまうこともあると思います。
 反対に、物語の道すじがひらけていくこともあると思いますが、このことも要注意だと思います。民話は独立した話ですから、独自の展開をもっているので、それにのって物語をつないでいくと、ストーリィが思いもよらぬ方向へ引きづられていくことにもなりかねません。おもしろいように書きつなげても、それは、作者以外の手によって物語が動いていっているのです。
 しかし、どんな創作でも、作者は少なからずとも親や祖父母や風土の影響を受け、さまざまなものを引き継いで生きているのですから、自分ひとりでつくっているわけではないことはたしかです。しかしながら、たくさんの物語を採集し、語り手の生きざまも含めて自分のなかにたくわえられる松谷さんだからこそ、自分と祖先、自分と他人、自分と集団の境が弱まる危険性もはらんでいるのでは、と思うのです。もちろん、このことは『龍の子太郎』にあてはまるとか、ほかの作品にあてはまるとかいう指摘ではありません。私のなかに漠然と起こる不安な材料なのです。
 『ちいさいももちゃん』のシリーズ6冊も、日常の世界を描きながら、私には民話の世界を描いているように読めます。日常の世界に民話の世界がしっかりと重ねあわせてあるといった印象です。それは、赤ちゃんや子どもに向かい合ったときにでてくる、わらべ唄やあそびや空想の世界を機軸にして、不思議世界の入り口として民話の世界への通路をぽっかりとあけてあります。ぽっかりとあけてあるといった感じが、松谷さんのワザであると思えます。不思議世界への移行を感じさせないということは、日常を描くときに、すでに不思議世界を描いているということなのです。このことは、やろうと思ってもなかなかできることではありません。
 松谷さんの描く世界は、現実世界に祖先の生きてきた(民話)世界を重なり合わせてできた、ひじょうに不思議な空間になっています。それは、子どもの世界だけではなく、おとなも含みこんでいきます。仕事に忙しい「お仕事ママ」でさえ、離婚していった「おおかみパパ」でさえ、死でさえ、その空間に溶けこんでいます。中心に民話の世界があることで、子ども、おとな、祖先への世代の扉が開かれているのです。
 松谷さんは、やはり現代の語り手である、と感じさせられるシリーズです。

●母性と生理の豊かな文学とは?
 松谷みよ子さんについて書かれた文章を読むと、たいがいは「母親」「母性」「血のつながり」といった言葉が登場してきます。たとえば、以下のような文章です。

──松谷は、大げさにいえば女性としての哲学を生み出す起点に自らを置いたのである。それは本質的に男性にはわからない領域だ。「自然」を拒否して男性と同一地平で思想を営もうとする女性には怖れを感じないが、孕み、出産の体験を経験にまで高め、そこから哲学を得ていく女性にはほとんと畏怖と畏敬を感じる。(中略)
 松谷みよ子がとらえた世界は、けっして彼女らの独創ではない。人類はじまった以来の母親たちが無言のうちに感受していたものだろう。それを対象化し、哲学を得るという作業がなみたいていでないことはいうまでもない。しかしそのときですら、自分が普遍的な「母」であること、すなわち生命の流れを営む存在であることはもはや消すことのない前提である。『ちいさいモモちゃん』をはじめとする一群の作品が、「母」の手になるものであることはほとんど疑いがない。(佐藤通雅「作品にある生命の流れ」D)

──松谷みよ子の作品に、はっきりと〈母性的発想〉が現れて来たのは、『龍の子太郎』以後である。そこには、あきらかに、ひとつの生命を生み・育てた母親の喜びがあり、いのちを育てる〈乳〉への強い信頼がある。これこそ本当の〈母性的発想〉といえる。(中略)「おかあさんもバトンを持って走っているんだ。」(『死の国からのバトン』より)──感動と共に叫んだ直樹のこの言葉が示すように、松谷の志向する母親像は、決して、わが子への愛だけに生きる母親ではない。〈人類の生命〉の流れをはばむものに対しては、大きく目を開いて生きていく母親像である。
 松谷の〈母性的発想〉は、遂に〈大きな愛といのちの意識をもった新しい母親像〉を創りあげたということが出来よう。(西田良子「松谷文学の根底にあるもの」D)

──作者が母親であることの強味は、子どもの成長を具体的にとらえ得た所にある。(中略)
 また、この作品(『ちいさいモモちゃん』)の成功の大きな要因に、母親だからこそ自然にできた語りかけの文体を数えねばならない。これらの挿話は語られてこそ大いに魅力を発揮する。(石澤小枝子「しなやかな成長」D)

 などなどです。これらの多くは母性や母親という言葉を肯定的に使っていますが、清水真砂子さんは、「生理の豊かさは武器になるか」と題して、松谷みよ子という作家の資質とその文学とを検証しなおしています。

──『龍の子太郎』では母親の情念ともいうべきものがかかれている。ひとつでなければ二つまでも自分の目玉をさしだしてわが子にしゃぶらせる母親の姿は美しいというよりすさまじい。松谷はこうして自らのゆたかな生理を支えとして、生理のおもむくままに存分に“母”を書き、その文学は「母性の文学」とたたえられてもきた。(G)

 清水さんは、『龍の子太郎』についてよりも、『ちいさいモモちゃん』シリーズやその後につづく『ふたりのイーダ』『死の国からのバトン』『私のアンネ=フランク』を中心に、母親であること、血のつながりを重視しすぎること、その観点でアウシュビッツなどをとらえて書くことの問題性を指摘しています。
 しかし松谷さん本人は、自分は母親というより精神的に幼稚であり、娘たちから「お母さんは五歳児と同じだ」と言われるといい、「きっと子どもが見て、五歳児みたいな困った親だと思うときがあるんでしょうね。だからそういうことが自分の中にあるのであって、つまり子どものためだからそうしているわけじゃないですね。そういう世界が好きなわけね。」(D)と語っています。
 「作者が母親であることの強味は、子どもの成長を具体的にとらえ得た所にある」(前出)という石澤さんの評価は、今となっては時代遅れの感があります。子どもの成長を近くにいて見守り育てることから生まれた作品を、「母性の文学」と呼ぶのはずれているとしても、佐藤さんの「『母』であること、すなわち生命の流れを営む存在であることはもはや消すことのない前提である。『ちいさいモモちゃん』をはじめとする一群の作品が、『母』の手になるものであることはほとんど疑いがない。」(前出)と、母であることを「孕むこと、命を生みおとす」ことだとすると、そう簡単には否定できません。
 しかし、子どもを生むということだけに「母性」は終わらないと思いますし、「母性」と松谷さんの作家としての個性とを重ねてしまうのはどうなのでしょうか? 「祖先」、「血」、「母性」といった言葉が文学を分析するかなめの言葉のように登場することに、私はついつい立ち止まってしまい、語る言葉からして足元をすくわれているような危惧を感じます。
 『龍の子太郎』に話をもどしますと、太郎と母親たつの絆は、目玉をしゃぶらせ、太郎を生かした、ということです。母親は、直接的に子どもの成長にかかわっておらず、肌のぬくもりとか、子守歌とか、しかる、ほめる、いっしょに笑う、そばにいて成長を見守るといったことを、この親子は経験していません。
 松谷さんは、民話をすきなのは「その象徴性」だと語っていますので、龍の目の玉に親の愛情を象徴的にこめたのかもしれません。けれど、肌で感じとったことを表現することが多いとされる松谷さんにすると、これは象徴的すぎて、つきはなしているともいえます。
 そうなると、太郎とたつとの関係は、親子を通り越した関係を語っているとはいえないでしょうか?
 野上暁さんは、こう解説しています。

──つまりここで自分の両目を与えても我が子を育成するのは、単なる母性本能からではなく、その子が逞しく成長して自らを再び見出して、その力を借りて共に農民や民衆のために豊かな農地を開拓するという、広義の次世代への期待と願望なのだ。太郎はまた、母を捜すという旅を通して、様々な人々と出会い、社会を知り民衆の賢さも知るのである。太郎が母を求める旅は、異類と化した母によって仕掛けられた旅という試練を通して、彼自身が成長する物語であり、そこに明治から大正期に構築された母性愛神話を越える新しい母の像を提示しているようでもある。そこでの太郎の成長と覚醒が、母をまた異類から解放する。ここには日本の「近代家族」に固有の母子関係の密着は見られない。母はただ、「産む」ことによって子の世界への媒介者と化すのだ。(「母と子の物語の行方」F)

 松谷さんは、子どもは生まれたときから、親とは別人格であり、別の時代を生きるものなのだということを、しっかりわかっている人であると私には思えます。そうして、親が子どもを助けて保護するのではなく、その関係性はつねにひっくりかえされるもので、子どもは親を助けてくれているのだということも、実感していたのではないでしょうか。
 太郎は、母親をさがす旅路で、貧しさに苦しむ農民や、黒鬼に力でおさえつけられていた農民たちと知り合い、また、にわとり長者のところでは労働を経験し、成長します。その成長とは、自分のやれることを他の人たちとのかかわりのなかから見つけだすことでした。他の人とかかわって、自分の生き方を見つけていくこと、それは松谷さんの生き方であるとも思えます。
 そうして、母親を見つけだした太郎は、真の道をしめし、救いのきっかけをあたえます。母親をしばっていた縄からときはなつのは、次世代を生きる息子なのです。太郎の涙によって人間にもどった母親はこう言います。

──「おまえがわたしを人間にしてくれたのだよ。もしおまえがきてくれなかったら、わたしは、日もささない、くらい水のそこで、じぶんをせめ、あるときはうらみの声をあげながら、一生うごめいていただろう。わたしは、いつもおまえをまっていた。おまえがつよく、かしこい子になって、わたしをすくってくれるだろう、とゆめみていた。だけど、おまえは、わたしがかんがえていたより、もっとつよく、かしこくなってきてくれたのだ。おまえの勇気がわたしをひきあげ、人間にもどしてくれたのだよ……。」

 子は親の予想を超えていくものだと思います。それはよく、悪くではなく、また能力の問題ではなく、親と子は同じ世代を生きることはできないからです。力不足であるとか、考え方や生き方がちがうとか、そういうことをすべて超えて、子どもは子どもの世代を生きていくものだと、私には思えます。
 黒鬼とのすもうで、おへそのあたりででかい声をはりあげ、うたを歌って投げとばす太郎のわざは、「絵の会」にきていた子どものなかの、秀男ちゃんという子の「うたい投げェ」からヒントをえたと言います。(A) 松谷さんは子どもたちとのかかわりのなかで、そのことを望みとしてだけではなく、実感として感じとっていたのではないかと思えるのです。

●創作民話とファンタジー
 さて、『龍の子太郎』は「創作民話」であるとも言われますが、民話という言葉ひとつをとってみても、「昔話」「伝説」「世間話」とは違うのか、そういったものは含まれるのか、という説明が必要かと思いますし、民話の再話と再創造のことも議論になるようです。それでは、創作民話とはどういうものなのでしょうか?
 この言葉は『八郎』『もちもちの木』などの作品を書いた、斉藤隆介さんが意識的に使った言葉のようです。

──だから私のいう「創作民話」は、伝承民話の豊かさと力を受け継ぎながら、それを超える積極的で意志的な姿勢をはっきり持たねばならぬと考えている。
 従来の社会を変革して、人民のための社会を建設しようとする意欲を持たねばならない。そのたたかいに参加する中で自己の変革もやり遂げてゆくのだ。
 社会変革の中での自己変革──。これが自分の「創作民話」に課している私の中心課題だ。(斉藤隆介「『八郎』の方法」C)
 
 「民話と子ども」という座談会(C、鳥越信、古田足日、菅忠道)のなかでは、古田さんが「創作民話というのはあり得ないと、ぼくは思っているんですよ。」と発言をし、鳥越さんがそれは「民話スタイルの創作だね。」と答え、創作民話を「民話スタイルの創作」と定義しています。
 さらに古田さんは、「その民話ふうの創作の場合にはこれまた二つに分かれるんじゃないですか。『龍の子太郎』みたいなのと『八郎』みたいなのと。と言いますのは『龍の子太郎』もあちこちにもともとあったやつ(民話)を集めて来る。斉藤隆介、さねとうあきらの作品の場合には、非常に民話ふうではあるけれども、じつは民話にはよっていないということになりますよね。」と言っています。
 このことは、先にひいた斉藤隆介さんの言葉を読めばわかるように、斉藤さんは、非常に意識的に主張をこめた世界を構築する姿勢で創作をしています。
 さねとうあきらさんの場合も、「わたしが、民話風の作品をかくのは、いわゆる創作民話まで含めて、過去のあらゆる民話に反抗するためにかくのだ。孤立がなければ連帯もありえないし、否定せずに肯定することは主体性の放棄である。民話を否定するために民話をかく。反民話の民話──これがわたしにとっての「民話の方法」ということになるのであろうか。」(C)と書いています。

 それにくらべると松谷さんは、「分析して書いているわけでなく呼吸するように書いているのではないかしら」と、方法や文体について書けといわれても困るという理由を書いています。
──(前略)私が今までなぜ民話の仕事をやってきたかと問われれば、好きだったから、性があったから、とか云うより仕方がないと思う。人間本来のもの、嘘いつわりのないもの、どろどろと煮えたぎっているもの、そしてたとえようもなく美しいものがそこにあると思うのである。(「中心テーマを大きく」C)

 ですから、ここでは『龍の子太郎』は民話スタイルの「創作」作品であるとして、民話スタイルと創作とがどうかかわっているかをさぐってみましょう。
 西田良子さんは、松谷さんの作品の根には、「古代人的感覚」(古代人の豊かな想像力から生まれた変身の民話や転生の伝説)と「幼児的心性」(彼女の持っているアニミズム)があって、それが融けあい、動物と人間が自由に語り合い、過去と現在が自由に行き来できる世界がつくられたのではないか。さらに、松谷みよ子という作家は、大人になるにつれて通常は捨て去られるアニミズムや、文化の発達とともに失ってしまった鋭い直観力や豊かな想像力を、今もなお心の中に大切にはぐくみ育てている人間ではないか、と分析しています。(「松谷文学の根底にあるもの」D)

 なるほど、松谷さんは、おもに『ちいさいモモちゃん』のシリーズで見るように、不思議世界である民話の世界を現実の世界に重ねることによって、いつでも不思議世界への扉をひらいた世界をつくりだしました。その世界では、現実と空想の境はとてもファジーな状態になっていて、現実を超えようという意識はなくとも、きっかけさえあればすんなりと、ひょいとしきいをまたぐくらいの意識で、またはそれと気づかないくらいの軽やかさで移行していくことができるのです。むしろ、人の心を問題にしたとき、現実と不思議世界の境はそういうファジーな状態なのではないでしょうか。
 そして、一見いかにも民話的世界である『龍の子太郎』も、同じつくり方であると私には思えます。農民を描こうとする話の舞台に、民話を重ねて描いたといってはいけないでしょうか。農民の世界が民話の世界に近いがゆえに、分かちがたい気がするかもしれませんが、『龍の子太郎』に登場する農民たちの村は、松谷さんの創作です。そこでは、権力者は、黒鬼、赤鬼といった象徴的な姿で登場し、組織だった圧政は描かれていません。
 松谷さんのつくった世界は、民話の性質である「象徴性」を表現として使うことによって、多くの読者の共感を得ることができます。

 さて、「創作民話」につづいてまたむずかしい定義の「ファンタジー」という言葉ですが、民話風の創作は、ファンタジーにはなりえないのでしょうか?
 さきほどからひいている『日本児童文学 臨時創刊・民話』は1973年1月に発行されていますが、3年後の1976年夏に発行された『児童文芸』(E)では「ファンタジーの世界」を特集しています。
 座談会「現代のファンタジーをめぐって」(出席者・佐藤さとる、神宮輝夫、立原えりか、西本鶏介、山下喬子)では、ファンタジーについて以下のように話されています。

──もう一度ここでファンタジーとは何か、私なりに思い切って定義的に申し上げますならば、西欧児童文学の流れをくむ現代のファンタジーというのは、小説的骨組の長い空想物語であるということ、つまり空想の合理性、作品世界の現実感、論理的な構成、作者の哲学などが作品の中にしっかり根をおろしているもの。それに対してメルヘンというのは文章が短く、ストーリィが寓意的、気分的で、感覚的な、どちらかといえば叙情的な作品といえるのじゃないか。(西本鶏介)

──メルヘンとファンタジーの関係みたいなことをいうと、メルヘンというのは、といっても、便宜的な文学用語としての意味ですが、グリム研究家の相沢博という人が、登場人物が作中で不思議が起っても不思議と思っていないのがメルヘンだ、といっていますね。簡明な定義だと思います。一方のファンタジーの場合は、現実の世界とかなり密着していて、無闇と不思議を起すわけにはいかない。だから不思議を起すための論理が必要になってくるわけです。その論理を必ずしも読者に呈示するとは限りませんが、この場合、メルヘンとファンタジーの間にさだかな線が引けるわけではなくて、虹の色が移っていくように、その程度が移っていく。そういうふうな考え方なんです。(佐藤さとる)

 どちらも手法的に解説しているので、わかりやすいです。西本さんは、「どんなファンタジーにしろ、その基にあるものは民話的な流れをくむメルヘンだと思うんです。むかし話はメルヘンそのもの。」と言っています。
 この座談会に民話の話もでてはきますが、民話とファンタジーとのかかわりについては具体的に話されていません。
 ここにあげた「ファンタジーの手法」で『龍の子太郎』を考えてみれば、この作品はファンタジーではないと言えそうです。
 松谷さんの創作した農民の世界と民話の世界(不思議世界)は、分かちがたい関係になっています。たとえば「稲」の扱いですが、太郎の村には稲がなく、黒鬼の住む山をこえた村には稲があります。稲を育てられる土地がないから稲がないのでしょうが、太郎がにわとり長者のところで働いて稲の束をせおっていった山の村々の人は、稲を見たことがありません。稲をつくっている豊かな村の人たちは、太郎に「村の人みんなでここへきて暮らせばよいのに」とさそいます。ここで象徴的に語られているのは、農民はいかにその地が貧しくても、その地にしばりつけられ、そこで生きているということかと思いきや、土地をはなれられる可能性も語られています。
 農民を貧しい土地にしばりつけているものは、いったいなんなのでしょうか? なんとなくわかる、歴史のなかでわかるといった納得の仕方で、物語独自の論理の組み立てはなされていないように感じます。
 そしてもうひとつ、太郎が白い馬にのって空を飛ぶという行為です。
 松谷さんは、ロシア民話をもとにした創作『せむしの子馬』を読んで、いつか私もああいうものを書きたいと思ったそうですが、太郎を乗せて飛ぶ白い子馬は、せむしの子馬を連想させます。民話的舞台から、ポーンと飛び上がって離陸したような、ダイナミズムを感じます。
 前回では「浮遊感」と書きましたが、この「飛翔感」もファンタジーの大事な要素だと私は思います。ですから、ここは太郎が飛ぶことを歓迎したいところなのですが、地にしばりつけられている農民たちからはなれて宙に浮いてしまうということは、太郎は、この世界で、人間より鬼や雪おんなに近づいてしまったのでは? という危惧があります。
 ですから、最後に母親が龍から人間にもどり、みなで新しい土地を耕して、稲を育てていくことを決意した太郎は、なんらかの形で、空を飛べることを可能にした白馬を手ばなさなければならなかったのではないでしょうか? 黒鬼は岩になり、赤鬼は天に行ってしまったのですから、不思議世界と決別して新しい土地で農民として明日を目ざすなら、白馬をうまく話の中で去らせたほうが、物語の世界を確立できたのでは?と思うのです。

 こうやってみてくると、動物が話をし、鬼や天狗たちが闊歩し、包丁が魚になり、人間が龍に変わる民話の世界は、不思議が不思議としてではなく、とけこんでいる世界ですが、手法としては民話を母胎にしてファンタジー作品の創作は可能ではないかと思われます。
 滑川道夫さんは、東洋的ファンタジーについて、小川未明と宮沢賢治をとりあげて、こう書いています。

──(前略)ファンタジーの色濃くふかさのある作品は、伝承的な神話・伝説・昔噺の説話にふかくかかわりあいをもっている。それはC・S・ルイスの現代的ファンタジーについても言えるだろう。
 日本の児童文学の歴史的流れに即して言えば、「お伽噺」の源流に、伝承的神話・伝説・昔噺が民族のふるさと意識として存在したことと密接な関係がある。例示するまでもなく、そこには、原始心性が脈動しているし、「ふしぎ」さが実存していた、という意義において、近代、現代を通じてファンタジーの児童文学の原郷をなしていた。これは、西欧的なファンタジーの発生と成熟過程と、パターンを一にしていることは、数多い児童文学史が実証しているところである。
 日本には、西欧的な魔女・妖精・魔法・小人たちが不在であったとしても、原郷に、怪奇な鬼・鬼ばば・山姥・天狗・竜・河童あまねじゃきなどが、東洋ふうな形態として存在していた。これらの素朴なファンタジーが、近世から庶民にじわりじわりと浸透した思想としての仏教的志向に支えられて展開してきた。西欧的なファンタジーを奥ふかく支えているキリスト教と対比されるだろう。(中略)
 万物をいのちの相で見ようとする「敬」の思念も東洋的ファンタジーの源泉である。山も川も泉も、そこにいのちの宿るものとしてとらえる。動植物はもちろん、茶碗のような器物もいのちあるものとして扱う。(中略)
 すべてのものを「いのち」の相で見るところに、西欧に見られない東洋的ファンタジーの根があるように思う。(「日本近代児童文学におけるファンタジー」E)

 滑川さんの使っている「ファンタジー」という言葉は、さきほどのファンタジーの定義よりも、どちらかと言えば「空想世界を扱った作品」と訳したほうがぴったりくるような気がします。このあとに、東洋的ファンタジーの流れとして、小川未明の作品「月夜と眼鏡」、宮沢賢治の作品を解説していきます。

──ふたり(未明・賢治)とも、万物をいのちのすがたにおいて観るという東洋的思考をもっている。自然の山、川、海、時には草木にさえ「神」を観照し、祀る。西欧的な妖精と在り方を異にする。そして、自然と人間が合一・同化しようとする。(中略)
 これまで日本は、西欧文明・文化をむさぼるように吸収して、たくみに同化しながら、日本的な新しさを創造してきている。そこに東洋的な根があったから、たくみな吸収同化による創造が可能だったと考えられる。児童文学の世界において、ことに日本的な、あるいは東洋的なファンタジーの創造を課題意識にのぼせるとき、先人の業績を、西欧ファンタジーとともに学ぶ姿勢が必要とされるだろう。表現方法としてよりも、むしろファンタスティックな思考の機能を重視するならば、東洋的「ふしぎの根源」探究がいよいよ新しい意義をおびてくるだろう。(同前)

 滑川道夫さんの言うとおりに、空想的な世界を考えるときに「ふしぎの根源」としての民話の世界は浮上してきます。グリムやアンデルセン童話とはちがった、おじいちゃんやおばあちゃんにつながる世界を読ませてくれた『龍の子太郎』は、私のなかではファンタジー作品を考えるときに大きな影響を受けていると思われます。

●土地の記憶とは
 ここでもう一度、民話の世界にもどりたいと思います。松谷さんは、『龍の子太郎』を祖先との合作であると書いています。

──教えられたことではなく、誰しも自分の血の中に自分の民話を持っているのだ。からだだけが血を受けていると思ったら間違いで、血の中には色濃く祖先の思いなり、考え方なり、怨念なりが流れているはずだからである。(中略)

 その地で生き、生産の中に身を置いている人々の語りを聞く努力なしに民話を語ってはならない、しかも「他」に探しにいくものでなく、実は自分の内にあるものだという発見は、松谷みよ子の民話の仕事を決定的に深くしたと私は思う。個の意識に対して類意識という言葉を使っておこう。「内」に旅立つということは、自分の血に流れている遠い祖先、そのまた祖先へと逆行することだ。つまり「類」へ参加することだ。そして今自分が生きるとは、過去から未来へと流れる生命の源流を生きることにつながる。(佐藤通雅「作品のなかの生命の流れ」D)

 私は、この佐藤さんの言葉のように、「その地で生き、生産のなかに身を置いている人々の語り」を聞くことと、「実は自分の内にあるものだという発見」は、重要であると思っています。また、時代の流れを感じるなかで、今自分がどのような時代に生きているかを知ることも大切だと思うのです。そのことは、意外と土地に深くむすびついているのではないか、と思えるのです。
 私は劇団にいたころ、日本中を旅して歩いていました。毎日が旅で、旅が日常でした。はじめて広島へ行ったときのこと。休みの日に原爆ドームをたずねてみて、足の震えを感じました。たった数十年前にここに原爆が落ち、多くの人が死んだのだと思うと、明るい昼間の景色が黒く見えてくるのです。原爆資料館のヘッドホンを耳にあてると、原爆の被害にあった人がとつとつと経験を語っていました。
「生き残ってはみたけれど、産んだ娘も原爆症で、お嫁に行ったけれど帰ってきた。それを見て、夫が庭の木で首をつった……。原爆は終わったことではない。」
 ヘッドホンからは、外の平和な風景とはまるで関係なく、血を流すような体験が語られていきます。その語りは、私の目の前の景色を暗くするほど重い力を持っていました。
 それからは、町を歩いていてもなんだかこわくて、早く広島から離れたいという思いが強くなっていったのですが、ある日、おやこ劇場のお母さんが、「さしいれよ」と市場で買ったシャコをお鍋で塩ゆでにして、山ほどもってきてくれました。鍋をあけると、ふわふわとのぼる湯気のなかに、シャコの山……。シャコを囲んで、お母さんは話をはじめました。「この地で生活する者として、反核の運動をずっと続けているけれど、広島に生きている大人も子どももこのごろは耳を傾けてくれない人も増えた。子どもにもおとなにも伝えきれない、記憶は日々薄れていく。それでも、この地に生きて子どもとかかわる仕事をしているから、少しでも伝えていこうと思っている」と。
 私はそのとき、「自分が生きている土地」という意識を伝えられたような気がしたのです。
 また、いろいろと悩んでいるとき、「その土地で働いている人の話を聞いてみるのもいいよ」と助言をもらいました。道ばたで網の修理をしているおじいさんの横におずおずと座って、ぼそぼそと話したこともありますし、農閑期に郷土玩具の土人形をつくっているおじさんの家にあがりこんで、「売らない」という人形を特別にゆずってもらったこともあります。たしかに、その土地に住んで生産の中に身をおいている人には、ふしぎと言葉に重さというか、真実があったような気がします。
 また、やはりいろいろ混乱していたときも、父が「歩いてみたら」とすすめてくれました。土地を歩くということがどんなことなのかを、歩いてみて、私はだんだんにわかるようになってきました。松谷さんの民話の採集には遠く及びませんが、その土地を歩くことで、その土地に生きた人の生きざまというものを、知っていくのです。つまりは、土地に教えてもらうのです。不思議なもので、自分の足で歩くと多くのものを見たり感じたりすることができます。そうしているうちに、かたまっていた心がときほぐされ、風が通うようになりました。
 土地の伝えてくれるもの……。私はそれを「土地の記憶」と呼んでいます。すでに流れていった過去のことをさぐるには、土地の記憶によることができます。風景はさまがわりしても、時をへだてていても、その場所に立つということには、意味があると思えます。
 民話に話をもどしますと、息子の小学校の校長先生は、私たちの町の「民話の会」の会長さんで、私は大人になってあらためて自分の住んでいる土地に伝わる民話をたくさん聞く機会が得られました。そこで、民話というものは、語られ、伝えられていくうちに変わっていくのだということに、今さらながら気づいたのです。

──それぞれの民族の歴史のなかで、神話的伝承の中にも結晶しているような原始古代の観念が、それぞれにその後どう継承され、克服されていっているか──神話と異なる昔話がまさに誕生する、その点の労察をぬきにして、考えを進めることはできない。神と人との関係がどう変ったか、古い時代の権威であったイデオロギーと人びとはどこでどう対決しているかが、昔話の本質を考えるには重大である。
 人間が自己をとりまく状況とどうかかわりあうかというところで、口頭の、あるいは文字の文学は生まれ出てくるわけであるが、文学には、なまの現実状況とわたり合うものが多いなかで、イデオロギーとしての状況、伝承された精神的権威として身に迫ってくるものとどう向かい合うかが、この口承文芸の自らに課した任務である。神が、鬼が、化け物が語られることがきわめて多いのは、その当然の結果である。(益田勝実「民衆精神史としての民話」C)

 祖先が生きてきたなかで、どうやって民話に行き着いたのか、この変遷をたどるのはとても興味深いことです。また、民話は土地と結びついているとはいえ、沖縄へ北国の民話が流れていったり、沖縄から東北へと民話が流れていったりして、共通の民話が伝わっていることがあります。民話はその土地に住み着いて動かないものではなく、ほかの土地まで流れていく流動性をもっているのです。そうして、別の土地に流れ着いた民話は、その地で変遷するのです。まるで生きているようです。そう、民話は生きているのだなあと思ったとき、私は感動しました。「物語る」という言葉の意味が、少しだけわかったように思えたからです。
 集団創造的につくられていった民話から、自分のテーマをひきだし、新しい作品を創造していくのは個人的な作業です。けれど、松谷さんはその作業を祖先との合作だと言いました。私には、「祖先との合作」という言葉がとても印象的でした。
 私も創作をするなら、祖先の思いに耳を傾けてみよう、民話からさらに神話へもさかのぼってみよう、祖先がなにを思ってどんな時代に生きていたのか、変わってしまったものと、変わらないものは、なにか……。そんなことをさぐりつづけていきたいと思います。
 おじいちゃん、おばあちゃん、そのまた祖父母が生きていた世界から伝えられてきた話に耳を傾けさせてくれるきっかけともなった物語として、『龍の子太郎』は私にとって忘れられない作品です。

●再び母と手にした物語
 高校生のとき、春休みに母と二人で八丈島へ旅行をしました。八丈島には知人がいたので、毎年夏には姉と二人で海へもぐりにいっていたのでおなじみの土地でしたが、運わるく台風がきて、船は欠航になりました。雨がはげしいので外にもでられません。やっと雨がやんだので、風は強かったけれど、私たちは島の突端から中央まで散歩することにしました。せめて暇つぶしの本を買いにいこうということになったのです。1時間ほど歩いて本屋につき、本棚をめぐっていると、母が「あらあ、なつかしい」と手にとったのは、『龍の子太郎・ふたりのイータ』の文庫本(A)でした。
 だから、この本は母と歩いた八丈島のフリージアの咲いている道を思い出させてくれます。「あら、こんな話だったかしらねえ」と首をかしげ、「あなた、この話すきだったわねえ」と母は言いました。「好きだったのは、そっちでしょう?」と私は思いました。
 それから、15年以上がたって、仕事で松谷さんの対談があるというので、連れていってもらいました。私はすっかり背が焼けて題字が見えなくなった『龍の子太郎』の本を本棚から探しだして、サインをしていただいたのです。
 「こんなふうに昔の本をもっていてもらえるとうれしいわ」と松谷さんは微笑んでくれました。「宛名は?」と聞かれたのですが、松谷さんのお名前だけ書いていただきました。なぜなら、この本は母の本でもあるからです。母は、赤鬼の絵を描きなぐっていた私が、大人になってこんな文章をまとめるとは思ってもいなかったでしょう。この物語は、母から私に手渡された物語でもあるのです。
 
 「心の中の世界を書きたくて、それには童話という表現がいちばんあっていると思ったからだった」という初期の全集の「作品覚書」の言葉と、「松谷みよ子の成長の秘密は、自分の抱える問題を頭によってではなく、生活を通して解決してきたことにある。」(塚原亮一「“童話”から児童文学へ」D)という言葉を、私は大事にしています。
 
〔参考図書〕
@.『龍の子太郎』(松谷みよ子、講談社、1960年)
A.『民話の世界』(松谷みよ子、講談社現代新書、1975年)
B.『龍の子太郎・ふたりのイーダ』(松谷みよ子、講談社文庫、1972年)
C.『日本児童文学 一月号臨時増刊 民話』(日本児童文学者協会、盛光社、1973年)
D.『日本児童文学 1977 9月号 松谷みよ子の世界』(日本児童文学者協会、ほるぷ教育開発研究所)
E.『児童文芸 1976 夏季臨時増号 特集・ファンタジーの世界』(日本児童文芸家協会)
F.『鬼ヶ島通信 2000・SPRING第35号』(鬼ヶ島通信社)
G.『子どもの本の現在』(清水真砂子、岩波書店同時代ライブラリー、1998年)
H.『アカネちゃんとお客さんのパパ』(松谷みよ子、講談社文庫、1988年)
I.『日本児童文学 1月号 民話と児童文学』(日本児童文学者協会、河出書房新社、1968年)
J.『日本児童文学 1969 8月号 現代作家論U』(日本児童文学者協会、盛光社)



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