私とファンタジー その6 『不思議の国のアリス』 (堀切リエ)
不思議の国のアリス・・・ルイス・キャロルを語る
私とファンタジーその6 『ふしぎの国のアリス』 堀切リエ 2002年9月
知らない人はほどんどいないくらい有名な、「アリス」の話。あなたは、この話にいつ、どんなふうに出会いましたか?
私は、幼稚園のころ、講談社の絵本で読んだのが最初です。その本は、今も手元に残っていますが、ぼろぼろで表紙はとれてなくなっており、1ページ目にはセロテープがななめに貼ってあります。なんと50年近く前に発刊された本です。表紙がないので、だれが文を担当したのかわからないのですが、絵は、「GORO KUMA」というサインがあります。「くま、ごろう? ほんとかな?」と思いますが、どうみても、そう読めます。テニエルの絵をもとにして描いたようで、人物や背景など、リアルにこまかく描きこんであり、場面によっては、かなり不気味な雰囲気もあります。
私は、すっかりこの絵本の世界にひきずりこまれてしまいました。ざらざらした手ざわりの異世界。不思議な生きものや人物のオンパレード。次々にくりだされる独特な場面。ストーリーといえば、アリスが白うさぎを追って不思議の国に迷いこんで、いろいろな場面でいろいろな人に出会うという単純なものですが、この世界の吸引力といったら驚異的でした。
日本には、1899年、キャロルが亡くなった翌年に『鏡の国のアリス』がさきに、「鏡の世界」という題名で『少年世界』に連載されました。『不思議の国のアリス』が紹介されたのは、その9年後の1908年。『少女の友』に「トランプの国の女王」と「海の学校」が、須磨子のペンネームで永代静雄によって紹介。その後、西条八十、鈴木三重吉、菊池寛と芥川龍之介の共訳、三島由紀夫などの詩人や作家たちによって、次々と翻訳されたそうです(J)。
●幼児と不思議世界のかかわり
題名のとおり、幼児の私にとって、そこは「不思議の国」でした。
けれどその「不思議の国」は、虹色のふんわりした手ざわりの世界ではなく、どちらかといえば、ざらざらとした手ざわりの異質な世界。住民たちの姿は美しいというより変わっていて、しかもちょっとおそろしく、性格はたいていが頑固、考え方と行動には独自のスタイルを持っています。だからといって、その「不思議の国」は、私にいたずらに恐怖や嫌悪を植えつけるところでもありませんでした。
たいくつな現実、まどろみたくなる昼下がりから、アリスは時計をもった白うさぎをおって、穴を落ちていきます。落ちていく間に、アリスの常識(7歳のアリスにとって大人社会の常識はまだまだ勉強中といった感じですが)は、あやふやに揺さぶられていきます。やっと身につきはじめた(大人によって身につけさせられはじめた)常識は、たよりないものに変質させられて、不思議の国へと到着するのです。
『鏡の国』は、鏡をはさんで現実とは反対に位置する世界で、『不思議の国』は、地面の下に逆立ちしているような地下の世界です。高橋康也さんが指摘しているように、キャロルのノンセンス世界は、こうした現実と「対」の事象から成りたっています。それは、この不思議世界が、現実のセンスをひっくりかえしたり、意味のないものにしていくことによって、成りたつ世界だからなのでしょう。
アリスの書かれた時代は19世紀のビクトリア朝であり、子どもたちへのしつけがとてもきびしい社会だったようですから、現実的センス(大人社会の常識)を欠いた不思議世界は、子どもたちにとって非常に魅力あるものだったのでしょう。
また、ここでちょっと考えなくてはいけないのは、アリスの7歳という年齢です。5〜7歳というのは、子どもの発達成長の節目であり、日本では幼児期から学童期への転換期です。子どもたちは社会や集団に適応できるように準備させられ、社会のルールや規則を教えこまれている段階です。ですから、大人社会の常識は、子どもたちにとっては肯定することによって未来が見えてくる反面、幼児の自由な世界から引きはなされることでもあるので、多少のあきらめを持ちながら、生きるうえで積極的に身につけていくと思われます。しかし、彼らの半身は、まだどっぷりと大人社会の常識の通用しない、幼児の世界につかっているはずなのです。
こんな記憶が私にはあります。幼稚園に通っていたとき、友だちのお母さんに、ある朝質問をしました。
「どうして洋服って小さくなるのかしら? ふしぎよねえ」
「え?」
お母さんは、一瞬とまどった目をして、それから笑いました。
私はわかっていたはずなのです。そのころ毎日、頭ははげしく動いていました(思考というよりも動いていた、といった感じです)。少し前から、私の頭のなかでは、「洋服が着られなくなる→それは、自分が大きくなったから」という納得が、おぼろげながら整いつつありました。けれど、自分が大きくなることへの、自分が変わっていくことへの不安がそうさせたのか、このことを考えるとなんだか落ち着かないのです。それを考えることは、きっと時間の経過やこれから先につづくであろう自分の生きる工程をおぼろげながら認識することでもあったからでしょう。
そして、大人が「あら、この服もう小さくなったわねえ」と言うのを耳にはさんでいたので、言葉の魔術にもひっかかってしまったのです。幼児の私の頭は一瞬の混乱をおこし、その朝、思わず「どうして洋服は小さくなるのかしら? ふしぎよねえ」と、真剣につぶやいていたのです。でもこの「ふしぎよねえ」という言葉には、洋服以外にもたくさんのことに対しての言葉だったと思うのです。
その話は母に伝わり、母は笑いながら私にまた聞きました。
「ねえ、ほんとうにそう思っているの?」
私は毅然として答えました。
「わかっているよ。洋服は小さくならない。大きくなったのは私のほうだ」
私は居直って答えました。
このことは、アリスの世界に近いものがあると思えます。
私が体験していただろう認識の揺らぎは、きっと幼児期にたえず起こっている事象なのだと思うのです。そしてその揺らぎは、アリスでは、テニエルが描くアリスの表情に象徴されていると思えます。テーブルの上の水を飲んで、いきなり大きくなったアリスが、せまい部屋にぎゅうぎゅうになったときの、思いっきり不愉快は表情。あの表情が多くを語っています。
子どもは大きくなること、これからやってくるであろう未来への不安にさいなまされながらも、成長しようという欲求はもちろん強く、それに劣らず退行への嫌悪も強いと思われます。そこの具合を、高橋康也さんは、うまく書いています。
──地上世界の原理(センス)を無視した地下世界とは、そのまま大人の分別(センス)と無縁な純粋幼年体験の世界にほかならない。時間・空間・因果関係を超え、意味を無化して音から音へと自在な言語遊戯に耽ける幼い子供にとって、反世界こそ世界なのであり、自己同一性の意識も、その分裂の意識もありはしない。幼児の存在感覚はかつて母の内々におけるそれと大きく断絶はしていないのだ。しかし七−八歳という微妙な年齢のアリスはいま本質的には大人と変らぬ現実認識に片足を突っこみかかっている。(「不思議な鏡の国のアリス」高橋康也 A)
アリスは、幼年体験をまだ記憶しているので、それに憧れながら、その憧れが母の胎内にいたる退行であることもわかっていて、嫌悪し、不思議の国の不条理(ノンセンス)に抵抗しているのだというのです。その抵抗がときには不愉快な表情であり、自分の手にいれつつある認識への思考なのでしょう。
大人社会の常識を身につけされられながらも、それにある程度の抵抗をし、けれど受けいれることはこばまず、受け入れることが生きることへつながるという意識をもち、退行を嫌悪するという状態。また、変化しつつある自分の体と思考への不安や揺らぎは、成長への喜びでもある、という複雑な状態において、子どもにとってのノンセンス世界とはなんなのでしょうか。
●子どもは「ノンセンス世界」を必要としている?
小学4年生の男の子4人が、車内で大笑いしていました。彼らは、驚くほど笑います。「どうしてそんなことがおかしいの?」ということで、爆発的に笑い出します。「子どもたちは笑いたがっている」というフレーズが雑誌で目にとまりました。
「子どもは、不安になるほど笑いでそれをのりこえようとする。だから、始終不安にとりまかれている子どもたちにとって、なんらかのきっかけさえあれば笑うことは、当然なこと」だというのです。
このことがほんとうかどうかは抜きにしても、子どもはよく笑います。「単純だから」「幼いから」「大人のようなつらい経験が少ないから」といった大人の認識で片づけられがちですが、はたしてそうなのでしょうか? 私もよく笑う子でした。「りえちゃんはおもしろいものが好きだから」と、母は落語の本やおもしろい映画を見つけてきてくれたものです。
さきほどの小学4年生たちですが、なんで笑っていたかといいますと、彼らはリレーで昔話のパロディをつくっていたのです。
「おばあさんが川へ洗濯をしにいくと、マッチ売りの少女が流れてきました」
「マッチ売りの少女は、亀を助けて竜宮城へつれていってもらいました」
「12時の鐘がなって、人魚姫は泡になってしまい、シンデレラに変身していたマッチ売りの少女は、階段でこけて、服を落としてしまいました」
「服を落としたもとマッチ売りの少女のシンデレラは、金のはらがけで、金太郎に変身しました」
一人がしゃべるごとに、巻き起こる大笑い。それは、自分たちの知っている物語をくずしていく快感を共有する笑いなのでしょう。共有の価値観をひっくり返すことでわきあがる笑いです。替え歌なんかもこれに属するのでしょう。また、彼らは共通して、常識がぶっとんでいるようなギャグマンガが大すきで、友だちといっしょに、または自分ひとりで読んでは、笑いころげています。
私は、『不思議の国のアリス』を笑いながら読んだ記憶はありません。ビクトリア朝の常識が、私の生きている世界の常識と異なっていたからかもしれませんが、「不思議な世界だなあ。変な人だちだなあ」と思いながら、その強烈な不思議さに出会うために、くり返し本を開いたのです。ではなぜ、幼児の私は強烈な「不思議世界」にひかれたのでしょうか?
このことは、前回、子どもは内面の矛盾を描くために「鬼(または怪獣など)」を好んで描くということをとりあげましたが、子どもはある種の「不思議」に出会うために、好んで「不思議」を描いた本を開くと言えないでしょうか。そのある種の「不思議」とは、センスとノンセンスとの揺らぎに位置すると定義したらどうでしょうか。
幼い子どもにとっては、現実の世界さえ、はじめて出会う不思議に満ちています。けれど、というかそれだからこそ、その不思議とは違う質の不思議が必要なのではないでしょうか?
では、その「不思議」とはなにか? それは、現実をくつがえす、または現実とはつながりを絶とうとしているが、けっしてつながりを絶ってはいない姿勢を持つ「不思議」、つまりノンセンス的要素を含んだ不思議ではないかと思われるのです。
生きていることは、不思議と出会うことでもありますが、子どもにとってその不思議さえ、現実と折り合いをつけていくことになりかねないのです。現実と折り合いをつけなくてよい、現実の常識がめちゃくちゃな世界、または常識が意味(センス)を失っている世界、その世界に自分を存在させることが、現実と折り合いをつけはじめる子どもたちに必要とされているのではないでしょうか?
現実にがんじがらめに鎖でつながれないために、自分を見失わないで成長するために、現実と自分なりに折り合いをつける道を見つけるために、子どもには、ノンセンス的不思議世界が必要だとしたら……。
ノンセンスワールドに飛ぶことは、現実で生きていくための子どもの一種の心のトレーニングではないかとさえ、思えるのです。その飛翔力は、日々、鍛えなければなりません。そうしないと、現実の強い力に自分を問う余裕もなく、のみこまれてしまうかもしれないのです。子どもたちは、ちょくちょくギャグマンガを開いて笑い、替え歌やパロディをつくって笑いあい、現実との距離感を一生懸命保っているように、または折り合いの付け方をさぐっているように思えます。
ノンセンスワールドは、現実世界の常識をくつがえすものではありますが、現実を無視したものではありません。キャロルの作品は、現実のセンスをことごとくひっくり返していくことによって、不思議世界を構築してみせます。しつこいほどに、この不思議世界の成り立ち方は、現実の意味をひっくり返すことに徹しています。けれど、現実の意味をひっくりかえすだけでは、けっして不思議世界は成立しません。そこが、不思議世界のおもしろいところですし、キャロルの作品が読みつがれている理由なのだと思います。
それについては、あとでくわしく述べることにして、子どもたちはノンセンスワールドのノンセンスに触れることによって、縛りつけられようとする現実から離脱する心地よさを味わい、そうして、自分を保ち、自分を問い、現実と自分との折り合いを少しずつつけていっているのではないかと思うのです。
●自己の存在を問う
さて、幼児から成長した私は、それでも折々に『アリス』の本を開いていました。
手元には文庫本の『不思議の国のアリス』(B)と『鏡の国のアリス』(C)があり、中学時代にも高校時代にも読み返しました。高校2年生のときには、この2作をもとに人形劇の戯曲を書き、文化祭で演じています。テーマは、「私は私か?」だったと思います。
『不思議の国のアリス』では、穴に落ちていったアリスが、びんの中身やクッキーやきのこを口に入れて、小さくなったり、大きくなったりすることに代表されるように、自分の大きさを変えることで、視点も感覚も変化し、いやおうなく自分の存在をゆさぶられます。アリスはいつも、非常に不安的な状態で、そこにつけこむように現れるいもむしやチェシャ猫などの登場人物が、さらにアリスの存在にゆさぶりをかけていきます。
『鏡の国のアリス』でも、花園で花にまちがわれたり、森で名前をなくしたり、女王になるためにがんばったりと、常識世界でアリスをアリスたらしめていることをとり払い、存在に揺さぶりをかけているのです。
自己の存在に揺さぶりをかけるということは、現実的な常識世界から離れ、ノンセンスの世界にいるほうが、きわめて有効です。旅や冒険でもよいのですが、常識の通じないノンセンス世界のほうが、より強烈です。
テニエルの描くアリスは、不愉快な表情にも見えますが、思考がつねに揺さぶられ、不可解な状況のなかで哲学をしているように見えます。その問いは、「私はアリスか?」です。アリスはアリスに決まっています。けれど、「おまえがアリスであろうがなかろうが、おれには関係ないね」「おまえがアリスであることに、なにか意味でもあるのかい?」「意味を問うた瞬間に、その意味はなくなるよ」なんて平然と言われたら、なんと答えたらよいのでしょう。そこで、アリスはたえず「私はアリスよ!」と叫びつづけなければなりません。けれどアリス本人が、「ほんとうに私はアリスかしら?」とついつい思ってしまうのです。それは、アリス自身が成長のまっただ中にあり、不思議世界のように急激な体の大きさの変化はなくとも、そのくらい刺激的に現実世界でも絶えず変化しているからです。
「私は、アリスよね」「私はアリスのはずよね」「でも、なぜアリスなの?」「アリスっていったいだれ?」……。アリスは、物語のあいだ中、そう問うているようです。登場人物たちもつねに、「おまえがアリスであって、おれがアリスでない証拠は?」などという一見くだらない、じつは答えにくい問いをくりかえします。
そしてついに、鏡の国でトイードルディとトイードルダムに、「おまえは赤の王様の見ている夢のなかの登場人物にすぎない。王様の夢がさめたら、ぱっと消えてしまうのだ」と言われてしまうのです。そのときの、アリスの驚き。自分だけはたしかなものだと思っていたのに、その自分さえ、だれかの夢の登場人物ですぐにも消えてしまう存在かもしれない。このことは、物語中でいちばんはげしく、アリスを揺さぶります。
ここでふと、『二分間の冒険』(岡田淳作)を思い出しました。この冒険は、「いちばんたしかなもの」を探すのですが、じつはその確かなものは「自分」であると、物語の最後に発見し、冒険は終わるのです。アリスの物語と比べれば、じつにセンス(常識)ある物語ですね。
それとは反対に、高校時代、漢文で「邯鄲の夢」という話を読みました。廬生という若者が夢の中でどんどん出世して大成功をおさめ、ふと目がさめたら、ちょっとしたうたた寝の時間しかすぎていなかった、という話です。この話は、アリスを読んだときと同じような感覚があり、衝撃もありました。その衝撃は、自分をそして、自分のいる世界をも見つめなおす視点を獲得するためのものです。距離感の違いといいましょうか。今まで生きてきた世界と自分とを見る、新たな視点の獲得。
「人生は、それは夢にすぎないのか?」(Life,what is it but a dream?)と、キャロルも『鏡の国のアリス』の巻末で、「アリス・プレザンス・リデル」の頭文字をとってつくった詩の最後のフレーズで歌っています。
私が高校生のとき、ふたつの「アリス」の物語に触発されて書いたのは、そんな衝撃をもとにして見た世界だったと思うのです。
●キャロルのノンセンス世界と子どもの感性
今回、数冊の訳本を手にいれて、アリスの世界を読み返してみました。その感想は、「おもしろかったあ!」です。なんだか読み終わったらとっても満足して、自分のなかでは完結してしまったような感じで、わざわざ「なんでそんなにおもしろかったのか?」と考えなくてもよい気がしたほどです。
もちろん、私の感じたおもしろさには、いろいろな要素があります。その中のひとつで、今回あらたに発見したことは、登場人物に関してでした。たとえば、グリフォンやまがい海亀というような見たこともない怪物が、どうもそのあたりにふつうに存在する人間の大人にかさなってしまうのです。現実とはかかわりのない場面のはずなのに、「あ、こういう人いる」「あ、こうなのよねえ」と、ふしぎなほど現実の場面が重なってきてしまうのです。
日なたで昼寝をしているグリフォンは、仕事につかれてついうとうとしてしまった中年男性(中年というのは若者ではないというだけで、特別な意味はありません)に重なります。そうしてみると、テニエルの挿し絵におかしさとともに哀愁が漂ってきます。怪物なのになんとなく情けないグリフォンは、女王に呼ばれて気持ちよい昼寝から飛び起きるのですが、女王(権力者)が去ると、去ったのをしっかり確かめてから、「笑わせるぜ。ぜーんぶ、思いこみばっかしさ、あいつは」と、悪口をたたくのです。
グリフォンが案内した海辺には、まがい海亀(にせ海亀)がいて、登場するなり目にいっぱい涙をためて、「私の話が終わるまで一言も口を聞いてはいけませんぞ」と釘をさし、じつは「かつてわたしは本物の海亀だった」と涙を流しながら語りはじめるのです。子どものころ、海の底の学校へ通っていたことから、話はだんだんに脱線して、ロブスターのダンスをアリスの足をばんばんふんづけながら、グリフォンと踊りだしたりします。そうすると、本物だった海亀は、学校へいって教育を受けたがために、まがい海亀となったということでしょうか。キャロルが教師だったことを思えば、なんという痛烈な教育への皮肉でしょうか? そうして、まがい海亀が歌う歌は、なんと「海亀スープ」です。
すてきなスープ たっぷり緑
あついおなべでまってるよ
だれがのまずにいられるかい
夕げのスープ すてきなスープ
夕げのスープ すてきなスープ
す・す・すてきな ス・ス・スープ
す・す・すてきな ス・ス・スープ
ゆ・ゆ・ゆうげの ス・ス・スープ
すてきなすてき・な・スープ! (矢川澄子訳 F)
すすり泣きで鼻をつまらせながら、我が身をなげいて、ひたすらくりかえし歌う。それはなんと、自分が材料になっているスープの歌です。なんとまた、人生の哀愁がたっぷりつまっていることでしょう。カラオケで演歌を熱唱する中年男性をイメージしても、ぜんぜん及びません。
一説では、不思議世界に登場するキャラクターたちは、キャロルのオックスフォード大学の同僚たちがモデルになっているそうです。
ちなみに、まがい海亀のスープ(モック・タートル・ス−プ)の材料は子牛だそうで、テニエルの絵では、子牛の頭と足としっぽ、海亀のこうらと手をもった生き物として描かれています。そんな奇妙なかっこうのまがい海亀が、現実の人間に似ているなんて、それこそなんと奇妙なことでしょうか。
では、女性の代表もあげましょう。
まずは、公爵夫人。最初にアリスとあったときは、「おまえはろくに物を知らない」とおそろしく不機嫌だったのに、二度目に会ったときにはうってかわって「またあんたに会えるなんて、口では言えないくらいうれしいよ」とかいって、アリスの腕に自分の腕をしっかりからめて歩きはじめるのです。
公爵夫人はどんなことにも教訓があることを熱心に説き、ますますアリスへにじりよってきます。この接近度、非常にリアルです。そうしてアリスがクロッケー用のフラミンゴを抱いてさえいなかったら、腰に手をまわしてがっしりつかまえたい、とまでほのめかします。ぞっとしますね。
さらに、教訓をまとめてプレゼントすることを申し出ます。ありがためいわくなアリスは「ずいぶん安上がりなプレゼントね!」と思います。そんな公爵夫人ですが、女王を見るなり震えはじめ、飛んでにげていくのです。自分の機嫌のよいときにかぎり、子どもを見れば親しげによってきて、ためになる(?)お説教を聞かせたがる(それもくり返し)は、大人の習性なんでしょうか。そういう大人は、自分より強い人には案外弱いという習性を持っているのかもしれません。
『鏡の国』にも、おそろしく個性的な、いかにも現実にいそうな人物たちが出てきて、笑わせてくれます。
まずは、赤の女王。アリスに、鏡の国について説明していた赤の女王は、いきなりアリスの手をつかんで、すごい勢いで走りはじめます。
「急げ! もっと急ぐのじゃ! それっ! それっ!」
まるで宙を飛ぶように息を切らせて走らされたあげく、「さあ、少し休んでもいいぞ」と女王に言われて足をとめると、なんともといたところにそのままいることに、アリスは気づきます。自分の国では、走ったらほかのところに着くというと、女王は「それはまた、のろい国じゃな」とあきれたように言います。
なんとも不思議ではありますが、これもまた現実にそっくりなことに気づきます。「走れ、走れ」と同じように「早く、早く」と子どもをせきたてる大人は、いったいどこへ行こうとしているのでしょうか? 案外、走っていないと後退するような不安感から、とりあえず周りと同じようにせきたてて走り、足をとめてみたら、じつはなにも変わっていなかったなんてことを思い浮かべます。変わっていないというのは上等かもしれません。走ったはずなのに後退していたら目もあてられませんから。
さらに、つぎに女王がとった行動がすごいです。
「のどがからから!」というアリスに、「そなたがほしいものなら、わかっておるぞ!」と、とてもよく乾いたビスケットをすすめるのです。ことわるにことわれないアリスが、ぼそぼそのビスケットをやっとのみこむと、もうひとつすすめ、「一つでじゅうぶんです」とアリスが断ると、「では、のどの乾きはおさまったのじゃな」と一人で納得して満足してしまうのです。
おわかりでしょう? 子どもと大人の関係は、得てしてこういう場合が多いものだということを。大人のひとりよがりに子どもはけっこう気をつかい、あわせているものなのです。
こんなふうに読んでいくと、アリスという子どもの目で、大人がどう見えるかがよくわかります。小さいころ、年をとった人たちが、動物に似ていると感じたことがありませんか? 子どもにとって大人は、人間以外の動物や異世界の生き物に見えることがあるのです。今となっては、見られるほうになってしまいましたが、キャロルはそんな子どもの感覚で見た世界を、みごとに描いているのです。
いばっている大人だけでなく、子どもの目にもなんだかとても情けなく写る大人がいることは、赤の女王とは対照的な白の女王の登場でわかります。
さて、個性的な怪物や登場人物は、あきらかに大人たちですが、どうも、不思議の国でも鏡の国でも「子ども」は異質な生物のようです。たとえば、ユニコーンはアリスを見たとき、ぞっとするのをこらえて聞きます。
「こいつは、いったい、なんだい? 子どもなんてものは、伝説の怪物にすぎないんだとばかり思ってた! 生きてるのかい?」
ユニコーンは夢見るようにアリスを見つめ、「しゃべってみな、子ども」といいます。それに対してアリスは、くすっと笑いながら、「ユニコーンなんて伝説の怪物だと思っていたわ」と答え、ユニコーンは、「互いに自分の目で相手をみたのだから、互いに実在を信じることにしないか?」と提案します。
ここでは、アリスの方(子ども側)に余裕があります。大人ばかりの集団に、ぽこっと子どもが出現したりすると、やたらあわてる大人がいたりします。子どものご機嫌をとったり、どう扱っていいのかわからなくてそわそわしたり、自分も子どもだったはずなのに、子どもの考えていることがすっかりわからなくなって、異世界の生物が出現したように、あたふたしてしまうのです。そんなときは、子どものほうが余裕がありますし、分別があるように見えたりもします。
その点、キャロルは大人になっても子どもとつきあうほうがしっくりきたようですから、大人になっても子どもの感性を忘れなかった人物なのでしょう。
大人はみんな子どもでした。子どもの感覚というものは、成長するにしたがって変化していきます。単純に背がのびて、視点の位置が変化しますし、肉体が大きくなることによって、体と周りとの距離感なども変わるでしょう。成長するには、変わらなければならないのですし、それは合理的なことなのです。きっとそれは内面についても同じでしょう。変わることが自然なのです。それを成長とも呼びます。
けれど、大人になっても、子どものころの感覚をよく覚えている人たちがいます。また、自分のなかに残っている子どもの感性を楽しんで生きている大人たちがいます。
河合隼雄さんは、それを「子どもの目」という言葉で説明しています。
──現実は極めて多層であるのに、ともすると、われわれはそれを極めて単層的な構造に押しこめてしまって、それが現実そのものであると錯覚して暮らしている。大人たちは自分たちの「常識」を何ら疑うことなく、単層性の現実を唯一のものと信じている。しかし、子どもたちはもっと柔軟な心をもっている。彼らは一方では大人たちの「教育」に従おうと努力しつつ、一方ではそれをはねのけて、大人たちの知らない現実を露呈せしめるのである。(中略)
子どもの目は大人の目のように常識によって曇らされていないので、現実の多層性を見ぬく力をもっているのだ。そこ児童文学の存在意義がある。(「読むこと・書くこと」河合隼雄 I)
──(前略)ここまで書いてきて、筆者にはっきりと解ったことは、「うさぎ穴」とは、トム(『トムは真夜中の庭で』の主人公)やモモ(『モモ』の主人公)たちのように、真実を見る力をもった秀徹した「子どもの目」ではないか、ということである。「うさぎ穴」の世界が、この世の上にあるわけでも下にあるわけでもない。しかし、この世を、このような「子どもの目」によって見るとき、そこに大人たちが見あきている世界とは異なる世界が見えてくるのではなかろうか。それこそが、「うさぎ穴」の世界なのである。(「『うさぎ穴』の意味するもの」河合隼雄 I)
そして、これらの作品を「子どもの目」を通して世界を見た文学として、新しい名前と分類を主張していいのではないかと言っています。「子どもの目」を通して描かれた文学は、子どもからも大人からも愛されるものであるはずで、「毎日の責務の中にうずもれている、はたらきものの会社員こそ、少年少女小説を、通勤電車の中で読むのにふさわしい」と言った鶴見俊輔さんの言葉を紹介しています。
キャロルは、この「子どもの目」を大人になってもなくさなかった人間で、「子どもの目」で自分の周囲を見続けた人間です。このことは、多くの大人が(とくにビクトリア朝では)そうでなかったわけですから、生きるうえでは孤独ととなりあわせであったとも言えるのでしょう。キャロルと同じ「子どもの目」をもった少女たちも、大人になれば変わっていき、キャロルからはなれていきます。キャロルはじつに多くの手紙を、少女たちに送っていますが、この文面を読んでみても、キャロルがいかに「子どもの目」をもって、そして子どもといっしょに笑って、その世界を共有することを求めていたかが伝わってきます。
──メアリーちゃん
こちらはこのところ、とても暑い日が続いていて、ぼくはペンをもつ力もないくらいです。もっとも、もし気力があったとしても、そもそもインクがないのです。全部蒸発して黒い湯気となって、この部屋のなかをただよっていたのですから。
だからいま、ぼくの部屋は壁も天井も、眼をそむけたくなるほど真っ黒なのです。今日は少し涼しくなったので、ようやくインクも黒い雪になって、インク壺のなかにちょっとずつ戻ってきているところです。(中略)
そんな暑さのために、ぼくはすっかりゆううつで、不機嫌になってしまいました。ムシャクシャして仕方がないんです。だから、ついさっきもオックスフォードの司教がやってきたのですが(略)、カッとなったぼくは、彼の頭めがけて本を投げつけてしまいました。ひどい怪我をしていなければいいのですが……。(念のため、これは全部が本当の話というわけではないので、信じなくてもかまいません。)今後はあまり急いで、他人の話を信じるんじゃありませんよ。どうしてって? もしなんでも信じようとしたら、心のなかの「信じる筋肉」がクタクタになってしまうからです。もしそうなったら、君はどんな簡単な本当のことも信じられなくなってしまいますからね。(メアリーはジョージ・マクドナルドの次女 J)
ノンセンスは自己表現として最適な方法
そんな子どもの感性を、終生失わなかったキャロルは、どうしてノンセンス的作品を残したのでしょうか? 少女のためだけであるなら、ノンセンス作品でなくてもかまわないはずです。それは、やはりキャロルの生き方がノンセンス的世界と深くかかわりをもっていたからではないでしょうか。
不思議の国でも鏡の国でも、アリスは自分をたしかめるために、覚えていた詩を暗唱します。ところが、その詩は、キャロルの手にかかって、もとの詩とはまるでちがう世界を歌ったパロディ詩になっているのです。そこで、自分をたしかめようとする行為はせっぱつまったものでありながら、なんともおかしな笑いを誘うのです。
このことは、キャロルという人がすぐれたユーモアのセンスと言語感覚を持っていたと言えるでしょう。ユーモアというものは、せっぱつまった状況でせつなさととなりあわせに存在するようなところもあるようです。
たとえば、背丈を変えながらアリスが暗唱する、ナイルのワニの詩。ナイルの河にねそべって、金色のうろこをきらめかせ、口を広げて怠惰に魚が入ってくるのをまっているにやにや笑いのワニは、もとの詩では、忙しく働く勤勉な働きバチなのです。キャロルは、怠惰をいましめる歌を、怠惰なワニの歌にしてしまったのです。こんなところ、子どもがいかにも喜びそうですし、とても教育者とは思えないユーモア感覚です。
さかだちと鼻の頭にうなぎを乗せるのが得意な「ウイリアムとっつぁん」の詩は、もとは「老人の心のやすらぎとそれを得るまで」という、老いの日々を豊かに生きて、老いてなおほがらかさを失わないウィリアムさんにその秘訣を問う、おかたい詩だそうです。
しかし、キャロルの創造したウィリアムとっつぁんのゆかいなこと。それをリアルに絵にしたテニエルもすごい。白髪頭でさかだちをしたとっつぁんは、こう歌っています。
若いころには頭にわるいと思ったけれど、年をとった今では脳味噌がからっぽだとわかったから、「おいらはやるぜ まだやるぜ」。
さらに、生きたうなぎを鼻に立て、落とさないで歩くウイリアムとっつぁん。こんな人がいたら、まちがいなく子どもたちの人気者です。
さきほどのまがい海亀の「夕げのスープ」の詩は、もとは「夕べの星」で、「エビのカドリール」の詩は、もとは「クモとハエ」の詩だそうです。
キャロルは、生涯言葉遊びを楽しみました。現実に通用している言葉の意味をとり払い、とり違え、世界まで変えてしまいます。豊かな言語性にささえられたキャロルは、まさにそこから豊かな発想を得ているともいえるでしょう。言葉から意味をとりさることによって、言葉の意味を変えることによって、世界をがらりと変えてしまうのですから。
その世界のまっただ中で、アリスは「私はアリスよね」とたえず、自分を問いつづけなければなりません。そうしないと、自分までもが姿を変えられそうになるのです。このアリス、じつはキャロルではないかという指摘があります。
──キャロルもまた『アリス』において、現実を極端に逆転し抹殺するかに見えて、実はまさしく現実を逆転することによってその現実に辛くもつながっていたのではないか。自己の存在の否定、狂気と死に紙一重のところまで接近しながら、危うく正気と生の側に踏みとどまり、アイデンティティをつなぎとめ得たのではないか。(「不思議な鏡の国のアリス」高橋康也 A)
という高橋さんの指摘は、ドキリと胸にせまりました。アリスは、不思議の国や鏡の国へ行ったきりになるのでなく、現実にもどってきます。このことは、作者であるキャロルにとっては、狂気か正気か、死か生かというのっぴきならない選択だったのではないか、と高橋さんは言うのです。
非現実の夢の世界にも没頭しきることができず、また、現実を嫌悪するキャロルは、ノンセンス作品だからこそ、うまくその両面性を表現しえたのではないか、と。
それは、「たかがトランプじゃない」と不思議世界を現実にもどして帰ってきたアリスとはちがい、鏡の国から帰ってきたアリスが、赤の王様が見ている夢に自分がいるのか、自分が見た夢に赤の王様がいたのか、という問いを抱いたままの宙ぶらりん状態が象徴しています。結論を出さずに宙ぶらりんののまま終わらせることによって、キャロルは自分の両面性を表現したのだということです。
たしかに、不思議の国のラストより、鏡の国のラストのほうが印象深く残っていますし、そのために鏡の国自体が、深く広い世界を有していると私は感じました。「狂気か正気か、生か死か」という自分にせまってくる問いに対して、キャロルは、「赤の王様の夢のなかにアリスがでてくるのか、アリスが赤の王様の夢を見ているのか」という問いの答えを宙ぶらりんにすることによって、自分を表現したのです。それは、多分ノンセンス作品だから可能になった、キャロルの表現方法だったのです。
──思えば、〈ノンセンス〉とはこのような自己表現のための理想的な形式だったのだ。アリスが、そしてキャロルが、ロートレアモンやアルトーのように狂気や自殺にいたるまで夢の深渕に落ちきらなかったこと、キリストやアエネーアスやファウストのように冥府や母たちの国から帰還したことを、不満に思う読者がいるとすれば、それはないものねだりというほかはない。〈ノンセンス〉とはむろん〈センス)(現実・理性・生)の側に一方的に加担するものではないが、かといって、夢・狂気・死・虚無の中に全身的に没入してゆくものでもないのだ。夢と現実、非論理と論理、狂気と正気の微妙に緊張した均衡を持するところに、〈ノンセンス〉の真骨頂はあるのだから。(「不思議な鏡の国のアリス」高橋康也 A)
また、高橋さんは、〈深層〉の幻視家アントナン・アルトーが、非難をこめてキャロルに「表層の言語」という言葉を投げつけたことをあげ、まさに深層を消去した表層言語の完璧さこそキャロルの真髄であると言っています。そして、この完璧な表層言語の世界は、いかに多くの深層的なるものをふまえ、制圧することによって成立しているか、ということに考えを及ばさないと、ノンセンスがあまりにも透明な言語ゲームの中に孤立してしまうと指摘しています。つまり、そうなってしまったら、ノンセンスは文学でなく、論理学や記号学になってしまうと。
ここで、大学時代にアントナン・アルト−の『演劇とその形而上学』をバイブルのようにしている劇団にかかわっていた私としては、思わずアルトーとシュールレアリスムの本を読み返してしました。そして、なにがアルトーとキャロルとを隔てているかと考えたとき、私は自分のことを考えていました。
その劇団から先輩が抜け、自分の好きな芝居をやってよい機会が訪れました。そこで私が題材に選んだのは、ルイス・キャロルの「スナーク狩り」だったのです。
私はいまだキャロルの世界から抜けでておらず、高校時代につづいて、大学時代もまたまたキャロルの作品をもとに戯曲を書くことになりました。
「スナーク狩り」は、謎の生き物スナークを、真っ白い海図をたよりに、Bの頭文字のつく登場人物が船にのりこみ、探しにいく叙事詩です。「スナーク狩り」については、あとでまた書きますが、アルトー崇拝者の多かった劇団で、表層の言語の芝居(?)をしたのですから、「おちゃらけた軽い芝居」という非難を浴びたのは、今考えてみれば納得がいきます。
オルダス・ハックスリーは、ノンセンスの詩人エドワード・リアの詩集の解説で、ノンセンスについてこう書いています。
──ノンセンスとは、それと近い関係になるふつうの詩とか、また哲学的思索とか、その他すべての想像力の産物と同じように、環境の抑圧にたいする人間の精神的自由の主張なのだ。(中略)
ノンセンスの存在は、人生が生きるに価いするという証明不可能な信念──これは全面的に受け容れるか、さもなければわれわれはみじめに滅びるしかないのだ──、そういう信念を証明する一番の近道である。周囲の状況がいろいろ相乗して、人生は生きるに価いしないと、演繹的な勢いで立証しようとする時、私はリアの作品をひもどいて、慰めと生気回復とを味わうのだ。彼の作品を読むと、生きているのは良いことだとさとるようになる。リアとともに私もどんな矛盾だらけでもよいのだから。(「ノンセンスについて」オルタス・ハックスリー L)
また、訳者である新倉俊一もこう書いています。
──一見、リアの仕事は無邪気で単純にみえるけれども、ノンセンスは彼にとって本当の仕事であり、また欠くことのできない感情の安全弁でもあった。もし、これらの詩を書くことができなかったならば、彼の狂気の吐け口を見いだせなかったにちがいない。(中略)
この詩集を訳すきっかけとなったのは、八才になる私の娘であった。たまたま数十篇ほど気まぐれに訳して絵をみせながら読んできかせたところ、すっかり有頂天になってしまい「本になったら私に二冊ちょうだい。一冊はもち歩くためで、あとの一冊は大事にとっておくんだからー」と予約注文を受けた。(「解説」新倉俊一 L)
リアは、よくキャロルといっしょにノンセンスの詩人として紹介されますが、私は昔からリアが好きでした。知的言語ゲームの印象があるキャロルとは対照的に、リアはどちらかというとマザーグースの詩に近い、感覚的な詩を書きます。キャロルとは対照的に、放浪の旅にでることもしばしばだったらしく、子沢山の貧乏な家から独立し、若いころからさし絵画家として働いていました。しかし、てんかん持ちだったことがあり(キャロルは多少の吃音があり、左利きだったらしい)、生涯独身であるところはキャロルと同じで、しかも子どもが好きだというところも似ています。リアは子どもが笑うのを見るのが大好きだったそうです。
ノンセンスが本人たちにとって生きるための自己表現だということと、子どもの感性を持っているということとは、どんな係わりをもっているのでしょうか? それは、ノンセンスが論理学でも記号学でもなく、文学であるということと関係があると私には思えます。
●アリス風の叛乱
ここで、アリスといったらとりあげたい作家がいます。彼は、「アリス」という名がついた戯曲を2つ書いています。
その人の名は、別役実。
別役さんは、「アリス風の叛乱」という言葉を使い、アリスを現代に生き返らせました。それでは、「アリス風の叛乱」とはいったいどういう意味なのでしょうか?
別役さんは、まず「叛乱は現在、極めてアリス風に行われつつある」と書き、アリス風とはどんなことかをアンケートを例にして説明しています。
「あなたは今幸福ですか?」という設問があって、「はい。いいえ。わかりません。」のいずれかに○をつけるとします。
「はい」と「いいえ」の答えはどちらでもよしとして、「わかりません」は、いったいどうなるのでしょう? 「わかりません」と答えた人は、今までは無視されてきたけれど、この項目が現代についてはおそらく需要が多くなっているのであり、「わかりません」のなかには、複雑な内容が含まれているのです。「さあねえ」と首をかしげつつ、「こういうアンケートに答える必要はない」とか「いったい幸せか不幸かなんて、どうやってはかれるんだ」とか「だからどうだっていうんだ」「うるさい」という感情まで、さまざまな感情と態度が。
「はい」と「いいえ」が同一線上における反対方向だとしたら、「わかりません」は垂直に交わる方向に位置しています。つまり、「はい」と「いいえ」はアンケートの質問に対して論理的に答えていますが、「わかりません」は論理外で、質問に対しての態度を示しているというのです。別役さんは、それまでの文明に対するアリス風の叛乱とは、犯罪を起こすか、巧妙に逃げつづけるか(一気に逃げすぎると「気狂い」に分類されてしまうから)で、この2タイプは同じ「わかりません」一派であるというのです。つまり論理外。論理にからめとられない態度をもった人たちです。
「はい」「いいえ」と答えることは一種の行為ですが、「わかりません」は態度なので、態度への熱心さが追求されていきます。この場合、文明は「はい」「いいえ」一派であり、つまりはその文明でもある管理社会の、「わかりません」一派に対しての脅迫が猛烈になってきたので、叛乱が起こったというのです。
その叛乱の仕方はさきほどの2種類で、追いつめられて理由のない犯罪を起こすか、もしくはカモフラージュして巧妙に逃げつづけるかなのです。つまりは、アリス風の叛乱とは「わかりません」一派の「わかりません」と言うことなのです。
いままでは抹殺されてきた「わかりません」一派は、やがて人類にとっての主要なドラマ(演劇)になっていくと、別役さんは宣言し、その戯曲が「アリス」の名を冠した作品です。
そして最後に、「わかりません」一派でなければ、キャロルの『アリス』の物語を読んでも感動しないだろうと言っています(「叛乱・アリス風の」A)。
ここで、別役さんの2つの作品、「アイ・アム・アリス」と「不思議の国のアリス」を紹介しましょう。この作品をわかってもらうためには、「アリス風の叛乱」の説明を先にしておいたほうがわかりやすいと思ったのです。
まず「アイ・アム・アリス」。
──叛乱軍から逃げ、女王一行は王国を築く場所をさがして、丘陵地帯をさまよっています。そのなかにアリスもいます。しかし、叛乱がどこでどのように行われているかの実体は、だれにもわかっていなかったのです。そこで「叛乱がおきた」と言い出したアリスは責められ、「アリスはアリスではない」という告発状が届いていることがあかされます。
「私はアリスで、ここにいます」とアリスが言うと、「もしアリスがいるなら、いるということだけで叛乱罪にあたいする」と、いきなり王国から追放されてしまいます。
幕間に紳士がでてきて、「文明とアリス風叛乱」について長々と説明します。ここでこのごろ煩雑に起こるハイティーンの犯罪が、理由が見つからないために、文明社会にとっていかにおそろしいかも語られます。
さまよっているアリスは、墓堀りの男にあい、「今度の叛乱はアリスの叛乱」なのだと聞かされます。その理由は、つかまった人がみんな、自分をアリスと思いこんでいるからだというのです。そして、墓掘りの男から「おまえはアリスであってはいけない」と言われ、アリスはアリスであることからも追放されます。
管理委員会につかまったアリスは、麻酔で眠らされて手術をされ、子どもを生めない体にさせられてしまいます。
また紳士がでてきて演説をします。論理による管理が文明を成り立たせているのだが、恐ろしいことに、その管理中枢のない者たちにより、叛乱が起こった。叛乱者たちは、存在の仕方自体がちがい、自己正当化もしないのに、膨大な数に増えつづけているのだと告げます。
アリスであることからも追放されたアリスは、無線をもって見張りをしている双子の兄弟にあって、「アリスである」ことを発明されます。そのとき歌う歌は、
どんなアリスも
自分をアリスだとは思っていない
でもアリスは知っている
たましいの一番淋しいところで
アリスはアリスであることを
だからどんなアリスも
発明されたアリスである事を
待っている……。(中略)
そう、私はアリス
今、私はアリス
発明されたアリス……。
そうして、アリスは無線機で「アイ、アム、アリス」と発信します。
また、紳士がでてきて演説をします。言葉によって築き上げた文明を、崩れ去らないように守るためには、あらゆる事情を言葉で救済してきたように、言葉から論理を奪い去ってはいけないということを説きます。そこに「アイ、アム、アリス」のモールス信号が届いて、紳士は震撼します。
アリスの母親は、アリスのことをしっかり思いだし、そのことによって、「叛乱は、愛と憎しみによる秩序へ回帰しておさまった」と宣言します。母親は、アリスに「あなたの思いでの中に私がいたのではなく、私の思いでの中にあなたがいた」のだと告げ、女王に変身すると、さらに「私の夢の中にもどってきたのだ」と、アリスをとらえようとします。
アリスは思わずおもちゃの鉄砲で女王を打ち、女王は死んでしまいます。ふたたび追放の身となったアリスは、「『アイ、アム、アリス』と囁くだけの叛乱が、私の叛乱だ」とひたすらくり返し、くり返すうちに遠くから熱狂的な「アイ、アム、アリス」の歌が少しずつ近づいてきて、幕となります。
さきほどの「アリス風の叛乱」にほぼそった内容の話になっています。
では、「不思議の国のアリス」のほうはというと……
──こちらは、砂漠にテントをはっているサーカス一家の場面からはじまります。それはアリスの一家で、いまや王国はなくなり、共和制の時代になっています。
そこへ管理委員会の男があらわれ、王制が復古し、喜劇役者はとらえられることを告げ、アリスの父親をしばって連れていきます。喜劇役者は、共和体という幻影、委員会という喜劇をでっちあげ、あたかも本当にあるように演じていたから、共和体が幻影であることを証明するために、捉えられなければならないのです。
アリスは、牢につながれ、死刑を宣告された父親に会いにいきます。しかし、夢の中のように感じ、本当の父親だと思えないのです。ほかの家族も親戚も、アリスには、夢の中の登場人物のように感じられます。
アリスは、家族のなかにいても、自分はアリスではないような感覚が強くなっていきます。そうして、「あなたはだれ?」と問うたために、ブランコ乗りである兄は、ブランコから落ちてしまいます。一度落ちたブランコ乗りは、落ちることを知ってしまい、二度と飛ぶことに専念できなくなる、つまりブランコ乗りにはもどれなくなってしまいます。
死刑執行人のいる首吊り台にアリスはやってきます。やがて女王もやってきて、次の言葉のもとに父親の死刑が執行されます。
「あらゆる幻影、あらゆる虚構、方向を持たないあらゆる儀式、高さを失ったあらゆる構築の作業、人々が人々であるための全ての暗黙の了解を、ここに葬ります」
父親とアリスは最後の会話をかわします。
父「今あの子は、アリスっていやあしませんでしたか?」
ア「そうよ。」
父「じゃあまさか、アリスじゃあ……?」
ア「だからいったじゃないの、アリスだって。」
父「そうか……。私はまた、アリスかと……。」
父親が死んだあと、アリスは父親が実の父親ではなくて、父親がブランコから落ちて人事不省の一週間に、母親が不貞を働いてできたのが自分だと知ります。
すべてを知ったアリスは、自分がアリスであることを宣言します。
「私はもう決心したの。私はアリスよ。聞こえて? アリス。私はお父様の、人事不省の一週間の間の、悪い夢が生んだみなし児。アリス。アリスなのよ。私はお父様の、虚構の共和国を生む二代目の喜劇役者。」
そして手のない子や、目が三つもある子や、すきとおった子をたくさん生んで、夢のなかで忽然とあらわれたり消えたりする、砂漠の幻の共和国をつくると言います。女王の言った言葉を逆手にとって、「あらゆる幻影、あらゆる虚構、方向を持たないあらゆる儀式、高さを失ったあらゆる構築の作業、人々が人々であるための全ての暗黙の了解」それが、アリスであると宣言します。
「私はアリス。アリス、アリス、アリス……。」と繰り返して幕になります。
別役実さんは、現代の不条理をアリスを使って描きました。不条理のひとつに、ハイティーンの犯罪をとりあげ、そのおそろしさは、みんなが納得する犯罪の動機の見あたらないこと、つまり今までの私たちの文明の論理にあてはまらないとして、新しく「アリス風の叛乱」と名付けたのです。
それが1970年のころですから、30年たったいまでは、ハイティーンの犯罪はローティーンの犯罪になり、さらに確固とした動機が見つけられない犯罪は続発しています。
別役さんの説でいくと、文明という名の管理社会が、管理の脅迫を強めたことで、さらにアリスたちが増殖しつづけているということでしょうか? 「アイ、アム、アリス」では、アリスは子どもを生めない体にさせられてしまいますが、生身の人間という枠からはずれて、人造人間として増殖することを暗示していますし、「不思議の国のアリス」では、アリスはどんどん子どもたち(アリスたち)を生むと、強い意志で宣言しています。
そこで思い出したのが「見えない亀裂」という河合隼雄さんの言葉です。向こうの世界とこちらの世界との通路である「うさぎ穴」が、こちらの世界で「まやかし」と思われるものを全部あちらへ送りこむための通路として使われ、あちらからこちらへ至る通路はほとんど閉ざされたとき、あちらの世界からこちらの世界へ深い亀裂が走ることになったというのです。
この目に見えない亀裂に足をとられた子どもたちは、命を失ったり、必死でそこからのがれようとあがきつづけます。亀裂の見えない大人たちは、「子どもの自殺」「家庭内暴力」の増加という事象として、「このごろの子どもは不可解だ」と、判断の基準をもうけられません。自分の理解の範疇から追い出してしまうのです。
この見えない亀裂の走った世界を描きだしたのが、『さいはての島へ──ゲド戦記V』(ル・グウィン)ではないかと河合さんは書いています。
──合理化された世界が肥大し、非合理の世界など無いのだとさえ思ったとき、そして、あちらの世界への通路をさえ断ち切ってしまったとき、逆にこちらの世界には大きな亀裂がはいり、あちらのものがこちらに知らぬ間に混りこんでしまっているのが、現在の状況ではなかろうか。(「うさぎ穴の意味するもの」河合隼雄 I)
別役実さんは、現代の状況をとらえるのに、不条理という面からアプローチしました。
常識では理解できないもの、今までの規範では測りきれないもの、合理に対して非合理と思えるもの、そのすべてをアリスに背負わせて、「見えない亀裂」の走った世界を描いているとは言えないでしょうか? 別役さんの戯曲では、アリスは不思議世界の住人たちに対して、逆に恐れられ、異質なものに見られます。それは、アリスは不条理をせおった、新しい世代の新しい行動を含有している人物だからでしょう。痛ましいことに、ノンセンスを背負ったアリスは、現代社会のなかではじかれ、理解不能とレッテルをはられ、強制的に手術まで受けさせられてしまいます。けれど、名前をとられようと、体を改造されようと、アリスはアリスであることにたどりつき、そうしてアリスだと言いつづけることで、そこにたしかに存在することを証明しようとするのです。
現代社会に生まれた、理解不能なノンセンスな存在アリス。みんながセンス(現実の常識)ある世界にとじこめようとやっきになっても、アリスはアリスであると宣言するのです。
別役さんは、キャロルの「アリスの物語」から、そんなアリスを、現代社会を照らしだす人物として生みだしました。
●鏡の国のアリスと宮沢賢治
ここで、やはりキャロルの作品に感化された人物として、もうひとり紹介しておきたいと思います。それは、宮沢賢治です。これについては、天沢退二郎さんの「宮沢賢治と『鏡の国のアリス』(A)を参考にしました。
宮沢賢治は自作(と信じられている)『注文の多い料理店』の広告ビラに、こう書いています。
──イーハトヴは一つの地名である。強て、その地点を求むるならばそれは、大小クラウスたちの耕していた、野原や、少女アリスが辿った鏡の国と同じ世界の中、テパーンタール砂漠の遙かな北東、イヴン王国の遠い東と考えられる。
実はこれは著者の心象中に、この様な状景をもって実在したドリームランドとしての日本岩手県である。
この文からわかるように、賢治は少女アリスの辿った鏡の国は、自分の書く作品世界と同質の世界のなかにあると、言っています。
そして、天沢さんは、賢治がキャロルの作品を読んだことが、どう作品を書くことにつながっていったのかを考察し、賢治の作品「ひのきとひなげし」と『鏡の国のアリス』の花園の部分をくらべています。
アリスは、大きな花壇に迷いこみ、花たちと会話をします。アリスは花たちに、「ここへ植えられたままで動けないで、こわくなることがないか」とたずねます。
バラが答えます。
「まん中に木があるじゃないの」
「だけど、危険がおこった場合に、木に何ができるんですか?」
「叫ぶことができるわ」
これは岡田忠軒訳で、原文では枝の(bough)とイヌのほえる声(bowwow)をかけて、木が叫ぶというしゃれになっているのですが、日本語にすると枝を「し」と読むので、「木はしっしっと言うでしょ」という訳にしたということです(ところが脇明子訳では、木は柳となっていて、「やっとなぎたおすでしょ」と、木が叫ぶと記述はなくなっています)。
賢治の「ひのきとひなげし」では、実際にひなげしたちがお医者に化けた悪魔にだまされようとしたとき、
──その時風がサアッとやって参りました。ひのきが高く
「はらぎゃあてい。」と叫びました。 (清書稿第一形態)
つまり、鏡の国では「危険ことがおこったらどうするか」であったたとえが、賢治の作品では危険な場面を描き、実際に木に叫ばせているのです。
──鏡の国とイーハトヴとはイコールなわけでなくて、アリスが鏡の国をたどりながら出会う数多のモチーフの諸世界は、そのそれぞれをアリスが作家として(すなわち彷徨者の真の意味において)体験したときに、その作家にとっての「イーハトヴ」となる──という意味での作家がすなわち宮沢賢治だったといえよう。(「宮沢賢治と『鏡の国のアリス』」天沢退二郎 A)
このほか、天沢さんはアリスの列車に乗る場面と、賢治の銀河鉄道に乗る場面をとりあげて比較しています。
アリスの乗った列車の席の向かいに座っているおじさん紳士は、紙でできた服を着ていて、テニエルの絵によると、新聞紙で折ったような帽子を頭にのせて、新聞を読んでいます。アリスを作家として考えるなら、この紙の服を着た紳士の物語が書けそうな気がしてきます。
さらに、「石塚」という賢治の詩の題名が、最初は「アリス」であったのではないかとして、詩に鏡のような沼がでてくるので、鏡の国への入り口、つまり虚構成立の現場に立ち、宮沢賢治は、あちらの世界からのぞいているものをこちら側で見、自己の分裂のゆくえをたどろうとしているというのです。
賢治は、アリスからノンセンス世界の自由さ、創造への飛翔のエネルギーをもらったのではないでしょうか? 「ノンセンスとは、人間の精神的自由の主張なのだ」というハックスリーの言葉のように、ほんとうのノンセンス作品は、読む者に精神が自由に解き放たれた感覚をよびおこすのでしょう。その精神の自由が、創造へと向かわせるのです。
さらに、「夢と現実、非論理と論理、狂気と正気の微妙に緊張した均衡を持するところに、〈ノンセンス〉の真骨頂はある」と高橋康也さんが書いたように、賢治も夢と現実、狂気と正気の間に立ちながら、その均衡を表現するために、「アリス」という原題をつけたのかもしれません。
そういえば、優秀な数学者でもあるキャロルと同じように、賢治も地質学者として豊かな知識を持っていました。現実と虚構、合理と非合理との境、それは、二人にとって非常に重要な空間でありつづけたのではないでしょうか。
●スナーク狩りとカバン語
ふたたび自分のことに話をもどします。
大学時代に書いた戯曲は、「スナーク狩り」をもとにしたもので、かなりいい加減ではありましたが、私が自分とノンセンスとのかかわりを考えるうえでは抜かせません。
『不思議の国』ではトランプ、『鏡の国』ではチェスという遊技が、世界のバックにありました。だから、私たちは日本的に花札を選びました。
ということで、舞台装置は大きなついたてのような花札がそこかしこにありました。ストーリーは宝探しで、二組に分かれて航海にでるのですが、島につくたびになんらかの話(桃太郎とか星の王子様など)の登場人物に変身してしまうという、パロディです。そして見つけた花札で役(花見でいっぱいとか)をつくったほうが、海路を先にすすめるというような設定でした。
二組のほかに、ビーバーおばさんという謎のキャラクターがいて、これはスナ−ク狩りに登場するビーバーからとったのですが、幕間にレース編みなどしながら突如でてきては、わけのわからない、それでいて(多分)重要なセリフをつぶやくのです。
──それからなぜかビーバーがいた。
デッキの上を歩いたり
へさきでレースを編んでいる。
船長によればこのビーバーは、
何度も船を救ったことがあるらしい。
でも、どのようにして救ったか、
知ってる者は誰もいない。(「スナーク狩り」より 高橋宏訳 J)
このビーバーが、じつは一行をスナークのいる島へと導いていたのです。そこにはお宝などなく、その島につくと海図は真っ白に変わってしまいます。
「いったいどうなっているんだ!」とさわぐ一同に、ビーバーはわけのわからぬ演説をします。それは、カバン語の演説なのです。
「はやたかなるちょうけんのたびに、しゅっぱつ!」
という最後のフレーズだけ覚えているのですが、「はやたか」は、「新た」と「心はやり高なる」のカバン語で、「ちょうけん」は「挑戦」と「冒険」のカバン語です。つまり、目的地につくなり、宝など最初からなかったと言われ、さらなる旅へとでかけさせられてしまうのです。
そうして、皆が花札をくるりと回転させて消えると、花札の裏は真っ白、舞台も真っ白で、こうこうと明かりのあたるだれもいない白い舞台空間になっている、という終わり方でした。そのさらなる旅とは、こちらの世界での旅ではなく、登場人物は真っ白になってその場から消滅してしまうのです。
ここでカバン語の説明を少し。ポートマントー・ワードという呼び名自体が、キャロルのつくった造語らしいですが、鏡の国ではハンプティ・ダンプティがカバン語について説明をしています。
その前に、カバン語からなる「ジャバーウォックの歌」の一節を紹介しなくてはなりません。この歌は、アリスが鏡のむこうの国へ行ったとき、鏡にうつった詩としてでてきます。
ジャバーウォックの歌(高橋康也訳)
そはゆうとろどき ぬらやかなるトーヴたち
まんまにてぐるてんしつつ ぎりねんす
げにもよわれなるボロームのむれ
うなくさめくは えをなれたるラースか(後略)
歌はつづいて、ジャバーウォックという怪獣を退治して、この最初のフレーズをくりかえして終わります。
さて、「ゆうとろどき」とは、夕飯のおかずをとろとろ煮立てはじめるころあい、つまり午後4時。「ぬらやかなる」は、「しなやか」で「ぬらぬら」していること。ハンプティ・ダンプティによると、
──つまりこれは一つの言葉に二つの意味をつめこんだ、旅行鞄のような言葉で、かばん語なのだ。(「注解(4)──ぼく自身にならいて」高橋康也 A)
「ぐるてん」はぐるぐる回転することで、「ぎりねん」は、キリみたいにぎりぎりねじること。「よわれ」は「よわよわしく」て「あわれ」。「うめくさめく」は「うなる」と「うめく」で、そのあいだに「くさめ」(くしゃみ)するようなもの、という意味のかばん語だということです。
最初の「ゆうとろどき」という言葉が、私はすっかり気に入ってしまいました。夕方近くなると薄闇がひろがってきて、目をこらしてもこらしても遠くまで見えないようなぼんやりした風景になります。日本では、逢魔が時、彼誰時とも言いますが、それはまさに「あの時刻のことね」と、私にはぴんときたのです。
ところが、これは訳ですから、岡田忠軒さんだと「ゆうやきどき」(夕方焼き物をはじめる時刻)、脇明子さんだと「あぶりのとき」(夕方あぶりものをはじめる時刻)というようになり、全然ちがったイメージになってしまうことにも驚きました。言語感覚というのはけっこう個人的なものなのですね。
ジャバーウォックの歌の訳ですきなのは、やはり高橋康也さんのものです。声にだして読んでいると、なんとも奇妙なリズムと世界が浮かび上がってくるうえに、すっかり愉快な気分になって、「ふっふっ」と笑ってしまいそうです。
思わず息子に読んできかせると……。
「なに、その歌、ぜんぜん意味がわかんないよ!」というなり、ガバッと本に頭をくっつけるようにしてのぞきこんできました。
──「ジャバーウォックの歌」の重大さは単にイギリス文学の枠内では捉えられないだろう。ここに行われた言語実験の純粋さ……多義的な造語力、ものと意味からの音の自律力、曖昧であるがゆえの喚起力の探求……は、かつて英詩において試みられたことのないものであり、その言語的方法的自覚はおそらく同時代のフランス・サンボリスト詩人にしか等価物を見出せないほどの厳格さをもっているのである。(中略)
キャロルにそれを可能ならしめたのが〈ノンセンス〉の特権であったことは言うまでもない。(中略)
そこに示唆された可能性は、二十世紀のジョイスやアルトー自身を含むシュールレアリストたちによって大きく展開されることになるのである。(「注解(4)──ぼく自身にならいて」高橋康也 A)
話を「スナーク狩り」にもどします。
この8章からなる叙事詩は、真っ白な海図を手に航海にでた、頭文字にBのつく乗組員のベルマン(船長)、ブッチャー(肉屋)、ベイカー(パン屋)、ブーツ(靴磨き)、ボンネット(帽子屋)、バリスター(法律家)、そしてビーバーなどが、スナークのいる島へ上陸するところからはじまります。
スナークとはいったいなにか? ということについては、多くの人の論議をかもしだしました。スナーク自体が、スネイル(かたつむり)とシャーク(サメ)のかばん語で(一説ではスネーク(へび)とシャーク(サメ))、それから想像した怪物だということです。高橋康也さんは、ノンセンスにとって敵対する怪物(言語怪獣)、そしてスナークの中でもとくに危険なブージャムとは、「沈黙」ではないかと言っています。ジャバーウォックも言語怪獣であるとし、ジャバーウォックの詩では見事に怪獣は退治され、意気揚々とひきあげるストーリーになっているのに対して、スナーク狩りでは、一番危険とされるブージャムに、乗組員のベーカーがついに出くわし、「ブー」という叫び声だけ残して、谷底の深い「裂け目」へと「突然ひろやかに消えて」しまうのです。
あとは沈黙です。
ノンセンスは、言葉を失い、敗北してしまったのです。
1874年の夏、キャロルは名づけ親にもなっている甥、チャーリー・ウィルコックスの看病をします。彼はその年の末に結核で亡くなるのですが、キャロルは夏の休暇中ずっと彼につきそっています。夜通しチャーリーの枕元にいたキャロルは、明け方散歩にでて、丘の上で突然、「なぜなら、スナークはブージャムだったのさ」というフレーズが浮かび、そののち「スナーク狩り」を書いたということです。(J)
たしかにブージャムは沈黙かもしれません。多くのスナークが無害だというのに、ブージャムだけはおそろしいのです。スナークの特徴は、やせてぱさぱさしていること、常軌を逸した夜更かしの習慣があり、ユーモアのセンスがまるでない、そして海水浴用の更衣車を愛しているという、謎の多い怪物です。
私には、「沈黙」とは、すなわち「死」に代表される「虚無」ではないかと思えるのです。敬虔なキリスト教信者で、心やさしきキャロルは、愛する甥を失いそうになったとき、どうにか助けてやりたいと思い、自分の無力さと神をもなじりたくなったかもしれません。その葛藤が、ブージャムという怪獣となって、彼の中から生まれたのではないでしょうか。ブージャムは登場人物と同じく、Bという頭文字がついているので、ここから推測してBOMB(爆弾)ではないかという説もあります。出会ったとたんに消滅してしまうのですから、こわいですが爆弾もありえます。そして、BはBIRTH(誕生)でもあります。誕生し、消滅するという意味を含んだブージャムは、全てのものの行き先を暗示しているのかもしれません。
キャロルにとっての「沈黙」を考えるなら、死にいたらなくても、ノンセンスという表現を欠いたとき、と言えるのかもしれません。キャロルンのノンセンス言語は、愛と憎しみという感情にからめとられず、それをふまえ押さえこんだうえの、軽やかな表層の言語でなくてはなりません。けれど、甥の死を目前にしたキャロルにとっては、愛も憎しみも間近にあり、とてもノンセンス言語を使うどころではなかったのではないでしょうか。その無力さを感じたキャロルは、夜明けの丘の上で、「なぜなら、スナークはブージャムだったのさ」というフレーズを、自分のうちから吐き出したのではないでしょうか。
甥の死に出会わなくても、もはやキャロルにとって、昔ほど軽やかにノンセンス言語を扱えなくなっていたのかもしれません。
キャロルは、このあと偉大なる失敗作と呼ばれる『シルヴィーとブルーノ』を書きますが、死ぬまでに仕上げなくてはならないと、自分に課した数学の本にも熱心に取り組みました。晩年は、数学と言語の出会うところに「論理学」を位置づけ、この知識を持つことで人は、合理的で充実した人生を送ることができると考え、『記号論理学』を自分のもっとも重要な作品と位置づけたそうです。
昔から、神学と数学にずばぬけた才能を示したキャロルですが、ノンセンス言語を失ったときから、数学の世界のみへ没頭していったようです。
アリス・リデルとの別離はありましたが、その後もかわいい友人たちは次から次へと現れ、大人の女性で妖精画家のガートルード・トムソンとは、死ぬまで心をゆるした友人としてつきあっています。
キャロルの書いた手紙は、書簡だけでも10万通を数えます。その中にはもちろん、小さな友人たちにあてた楽しい手紙がたくさんあります。まるで、ナンセンステールのような内容のものもあります。
キャロルの教え子のエセル・ローウェルは、「子どもたちへの深い理解と共感と愛情。それが二人の天才、ルイス・キャロルとドジスンさんを動かす原動力だったのだ」と語っています。(J)
●ノンセンスとファンタジー
キャロルは、どうしてそんなに子どもが好きだったのでしょうか? どうして、大人になっても、子どもの感覚をたくさん持ちえていたのでしょうか?
シュールレアリスムの旗手であるアンドレ・ブルトンが、キャロルのノンセンスについてこう書いています。
──すなわち、精神はあらゆる種類の困難に直面するとき、不条理のうちに一つの理想的な突破口を発見し得るのだ。不条理に対して好意をいだく人の前には、子供たちの住んでいる神秘の王国がふたたび開かれる。まず単純な「語呂合わせ」から始まり、肉体的な満足をめざして行為と夢想とを和解させようとする、失われた手段としての子供の遊びが、このようにして復権せしめられ、価値をあたえられるのである。子供に特有の「リアリズム」、アニミズム、そして技巧主義を支配する力、束縛のない道徳のために闘う力は、五歳から十二歳までのあいだに眠りこんでしまうものであり、私たちが生きて行かねばならない厳しい無気力な世界を脅かす組織的な収奪から、とても免れるものではないのだ。(中略)
子供のすばらしい経験分野を多かれ少なかれ威圧的に制限して、子供を型にはめ、やがて子供を小さく固まらせようとする傾向のある大人たちに対して、子供はつねに徹底的な抵抗をもって応ずるにちがいない。反抗の意識を失っていない人ならば誰でも、ルイス・キャロルのなかに、自分たちの授業放棄(エスケープ)の最初の教師を認めることであろう。(「ルイス・キャロル」A・ブルトン 澁澤龍彦訳 A)
子どもの感性を多くのこして成長していく人間には、ある種の孤独が感じられます。
じつは、これを書きながら、私自身もそうであったと思い返していたのです。
小学生のころ、現実よりも寝て夢の続きを見るほうが楽しいと感じ、朝がくるより夜がくるのが待ち遠しかった日々がありました。大人の醜い面はなるべく見たくなかったし、美しくて楽しい夢の世界が好きでした。ですから、なかなか現実の世界になじめないところもありました。
中学生になっても「アンデルセン童話」を読んでいるのは恥ずかしいことでしたから、文庫本にはカバーをかけてこっそり電車の中で読んでいました。中学生になっても高校生になっても、信じていさえすれば、いつかはもうひとつの世界(ワンダーランド)へ行かれると、心のどこかで思っていました。それほどに、私にとってもうひとつの世界は魅力があったのです。
そんな私の成長とともに、「アリスの物語」はずっとついてきました。きっと私にとってこの物語は、ブルトンの言うように、現実からのエスケープの手引きであり、エスケープそれ自体が心の健康を保つ行為だったのかもしれません。
ノンセンスと子どもの感性について、チェスタトーンも興味深いことを書いています。
──われらの住まうこの薄明の世界をいかに受けとるべきか。これには永遠に拮抗する二つの見方があろう。つまり、夕暮の薄明と見るか、朝まだきの薄明と見るかだ。地に落ちたどんぐりの実一粒にいたるまで、なべてのものはこれ末裔とも、また祖先とも見なしうるという道理だ。(中略)
人間とは「あらゆる時代の末端の相続人」なり、と思い知るのが人間のためになることは、大方の認めるところだ。それほど一般受けはしないけれど、劣らず重要なのは、こう思い知ることだ。──人間とは先祖、それもあらゆる時代を遡った始源の昔に位置する先祖なり、と。(中略)
世界はつねに幼年時代にあるのだというこの感覚を最もよく喚起するのは、何であろうか。それはどんな時代にもある真に新鮮で、唐突で、独創的なことどもである。しからば、十九世紀においてこの世界の若さと冒険性を証するものはいずこに求めるべきかと問われたら(中略)、それはエドワード・リアの詩その他のノンセンス文学の中にこそ見出されると。(「ノンセンスの擁護」 G・K・チェスタトーン 高橋康也訳 A)
ブルトンとチェスタトーンの書いていることを読めば、ノンセンスと子どもの感性とは十分密接な関係を持っていることがわかってきます。それは河合隼雄さんの言うように「子どもの目」で現実の多層性を見ぬき、今見えている現実だけがすべてではないことに気づくことであり、それはけっしてこの世界を夕暮れと見ることではなく、朝まだきの薄明と見ることではないかと思えます。
「私とファンタジーその1 『指輪物語』」でこんなことを書いたことを思い出しました。
──この物語を読み終わったとき、私の頭にこう言葉が浮かびました。「ファンタジーは、きわめて個人的な世界でありながら、原初に近い時代の人の思い(多くの人が共通に持っている思いや願いなど)につながる行為への道しるべを、探ることから生まれる物語」なのではないかと。この意味はまた後でじっくり考え直してみます。
原初に近い時代の人の思いにつながる道しるべをたどることと、この世界をいまだ夜明けととらえる感性とはちがうのですが、私のなかでは根本的に共通している部分があると思っています。それは、どちらも根底に子どもの感性があるということです。
──ノンセンスとは、それと近い関係になるふつうの詩とか、また哲学的思索とか、その他すべての想像力の産物と同じように、環境の抑圧にたいする人間の精神的自由の主張なのだ。(中略)
ノンセンスの存在は、人生が生きるに価いするという証明不可能な信念──これは全面的に受け容れるか、さもなければわれわれはみじめに滅びるしかないのだ──、そういう信念を証明する一番の近道である。(L)
「子供に特有の「リアリズム」、アニミズム、そして技巧主義を支配する力、束縛のない道徳のために闘う力は、五歳から十二歳のまでのあいだに眠りこんでしまうものであり、私たちが生きて行かねばならない厳しい無気力な世界を脅かす組織的な収奪から、とても免れるものではないのだ。」とブルトンは述べています。
この子どもの特有の感性を滅ぼさないためには、子どものころから、精神の自由を保障することが必要だと、私には思えるのです。
精神の自由を保障するのに、特別なことはいりません。その一種のお手本としてキャロルがいます。ルイス・キャロルとであった子どもたちは、彼と過ごした時間の楽しさを口々に語っています。書簡からも伝わってくるように、キャロルは子どもたちを大事にして、対等につきあっています。子どもたちの心を十分に尊重したうえで、つきあいを楽しんでいます。そんなふうに、子どもと大人の間で対等に人間同士として、精神の自由を保障しあいたいものです。
キャロルは、子どもたちと感性を分かちあいながら、ノンセンスワールドをつくりだしました。精神の自由を保障するためには、この世界で遊ぶことが子どもたちになによりのエネルギーとなったことでしょう。ノンセンスワールドは、原題(『ALICE IN WONDERLAND』)のようにワンダーランドでもあります。ワンダーは、人間が生きるのにこのうえないエネルギーではないでしょうか? 目を見開くような驚きに出くわさなかったら人生はつまらないです。その驚きは、子どもの感性で見たときにこそ、たくさんたくさん発見できるのではないでしょうか。
子どものころに、そうした精神の自由を存分に味わいたいものです。そうすれば、非合理なこと、無目的なこと、わけのわからないこと、どんな矛盾を抱えこんでいようと、精神は自由であり、人生は生きるに価いする、という証明不可能な信念を持つことができるのかもしれません。そして、心踊るワンダーに、生きているかぎり出会いつづけることができるでしょう。
精神が自由になれば、軽やかに踊りはじめます。ノンセンスは、精神を知らず知らずのうちに縛りつけていた現実のルールからときはなち、自由をとりもどしてくれます。だからアリスの作品は、それを読んだものたちによって、さらなる創造へと続いていくのです。ファンタジーもまた、精神の自由さとおおいに関係があると言えるでしょう。そして、ノンセンスにおいてもファンタジーにおいても、現実の多層性を見る目が必要ですし、その目で見れば世界が別の輝きをもって見えるといってよいかもしれません。
ノンセンスが精神を自由にし、飛翔への翼をあたえてくれるのだとしたら、飛んでいった先にファンタジーと呼ばれる作品が生まれていいはずですし、実際にノンセンス作品はあらたなる作品の創造へとつながっていきます。そんな創造のエネルギーのつまった作品というだけでも、アリスの二つの物語は、ほんとうにすばらしい作品だと言えます。
私が生まれる約100年前、1862年のある昼さがりに、アリスの物語は生まれました。子どものころの私も今の私も、アリスの二つの作品を書いたルイス・キャロルに、変わらぬ感謝を捧げます。
ひとはみな
みえないポケットに
こどものころに みた 空の ひとひらを
ハンカチのように おりたたんで
入れているんじゃなかろうか
そして
あおむいて あくびして
目が ぱちくりしたときやなんかに
はらりと ハンカチが ひろがり
そこから
あの日の風や ひかりが
こぼれてくるんじゃなかろうか
「こどものじかん」というのは
「人間」のじかんを
はるかに 超えて ひろがっているようにおもう
生まれるまえからあって
死んだあとまで つづいているようにおもう
(『こどものころにみた空は』工藤直子 理論社 2001)
(参考図書)
@『ふしぎの国のアリス』(ルイス・キャロル原作、講談社の絵本90、1954年発行
)
A『別冊現代詩手帖第二号 ルイス・キャロル』(思潮社 1972年)
B『ふしぎの国のアリス』(ルイス・キャロル 岩崎民平訳 角川文庫 1952年)
C『鏡の国のアリス』(ルイス・キャロル 岡本忠軒訳 角川文庫 1959年)
D『ふしぎの国のアリス』(ルイス・キャロル 脇明子訳 岩波少年文庫 2000年)
E『鏡の国のアリス』(ルイス・キャロル 脇明子訳 岩波少年文庫 2000年)
F『ふしぎの国のアリス』(ルイス・キャロル 矢川澄子訳 新潮文庫 1994年)
G『鏡の国のアリス』(ルイス・キャロル 矢川澄子訳 新潮文庫 1994年)
H『不思議の国のアリス』(ルイス・キャロル 立原えりか訳 てんとう虫文庫 小学館 1988年)
I『〈うさぎ穴〉からの発信』(河合隼雄 マガジンハウス 1990年)
J『「不思議の国のアリス」の誕生』(ステファニー・ラヴェット・ストッフル 高橋宏訳 創元社 1998年)
K『イギリス童謡の星座』(内藤里永子、吉田映子 大日本図書株式会社 1990年)
L『ノンセンスの贈物』(エドワード・リア 新倉俊一訳 思潮社 1977年)
M『不思議の国のアリス』(別役実 第二戯曲集 三一書房 1970年)
N『アルトー 演劇とその形而上学』(アントナン・アルトー 安堂信也訳 白水社 1965年)
O『シュールレアリスム』(イヴ・デュプレシヌ 稲田三吉訳 文庫クセジュ 1963年)
P『エピステーメー ノンセンス』(朝日出版社 1975年6月)
Q『笑いのコーラス』(内藤里永子、吉田映子 トパーズプレス 1992年)
R『月刊絵本 アリスの国へ』(すばる書房 1976年7月号)
S『月刊絵本 ユーモア・笑い・ナンセンス』(すばる書房 1978年8月号)
21『シルヴィーとブルーノ』(ルイス・キャロル 柳瀬尚紀訳 ちくま文庫 1987年)