私とファンタジー その7

ナルニア国ものがたり


● 『ナルニア国ものがたり1 ライオンと魔女』
  『ナルニア国ものがたり2 カスピアン王子のつのぶえ』
  『ナルニア国ものがたり3 朝びらき丸 東の海へ』
  『ナルニア国ものがたり4 銀のいす』
  『ナルニア国ものがたり5 馬と少年』
  『ナルニア国ものがたり6 魔術師のおい』
  『ナルニア国ものがたり7 さいごの戦い』
  (C.S.ルイス、瀬田貞二訳、岩波書店)


1、強烈な出会いと反発

 私は、小学校6年生でした。
 担任が宮内先生という男の先生にかわり、本にくわしい先生に、母がおすすめの本を聞いてきました。
 「なんでも、とてもおもしろい子どもの本がでたそうよ」
 それがC.S.ルイスの『ナルニア国ものがたり』だったのです。1冊580円。私は7冊あるこのシリーズを、毎月おこづかいで1冊ずつそろえていきました。
 『ナルニア国ものがたり』の初版発行は、1966年。私が買い出したのは1970年ですから、出版されてすでに4年がたっていたことになります。手元にある本は、4刷りから6刷りの本です。
 ナルニア以前、ナルニア以後。
 私のなかではそれくらいの節目がありました。それまで、こんなにリアルで、楽しく美しい別世界の存在を感じさせてくれた本を読んだことはありませんでした。私は、すっかりナルニアに、別世界に、それへの憧れに、夢中になりました。「ファンタジー」という言葉が強く印象づいたのも、それからでした……。

 いつだったのでしょう。
 『ナルニア国ものがたり』を再び開いたとたん、嫌悪感が襲ってきたのは……。私は、本をばたんと閉じて、「だまされた」と思い、怒りさえこみあげてきました。
 ナルニアに夢中になった子ども時代の私は、ナルニアをつくったアスランという存在を、自分のなかに置くようになっていたのです。自分がなにか誤ったことをしそうなとき、アスランはちゃんと見ている、というふうに自分を戒めたりしていました。そんな絶対者を、いつのまにか自分の内に受け入れていました。その行為を、ふいに客観視したのだと思います。
 大人になって読み返してみると、アスランとキリストとの相似は明らかでした。ルイスは敬虔なキリスト教徒で、子どもにわかりやすい形で信仰について書いたのが、『ナルニア国ものがたり』というファンタジー作品だと理解しなおしました。
 いったい、キリスト教徒でない子どもに、物語という有効な手段を媒介にして、信仰を知らず知らずのうちに染みこませていいのでしょうか。柔軟な子どもの精神に、アスランのような絶対者を植えつけてよいのでしょうか。信仰を魅力あふれる物語にしのばせて、子どもに読書体験させていいのでしょうか……。
 すっぽりと包まれるように、ナルニアに、アスランという存在にはまってしまった子である私は、あるとき、このことにひどく苛立ちを覚えたのでした。
 本をパタンと閉じたまま、自分のたどった世界を再びなぞってみれば、『ライオンと魔女』では、石舞台においてアスランは、はりつけにされて死に、そして復活します。一度死んでしまったアスランがなぜ復活するのか、子どものころよくわからなかった箇所です。
 『朝びらき丸 東の海へ』では、ひねくれた心の持ち主のユースチスが、竜に姿を変えられ、絶望を味わった後に、アスランの導きで改心していきます。それは、『ライオンと魔女』のエドマンドも、『カスピアン王子のつのぶえ』のスーザンも同じです。アスランに絶対的な信頼をおくことで、救われていくのです。
 『さいごの戦い』では、今までのナルニア国は影の国であり、影の国が滅びたあとに、扉の向こうに本当のナルニア国が始まります。ここが一番、わからないところでした。今まで読んできたナルニアの物語はなんだったのだろう? と立ち止まってしまいました。あんなに夢中になってたどってきたナルニアの歴史は幻だったの? と……。
 そして、ナルニアから帰らなくてよくなった子どもたちは、現実の世界では、列車事故で死んでしまっているのです……。

 また、私は、文学作品や絵画を見るうえで、キリスト教に違和感を覚えてきました。多くのヨーロッパの物語や絵画には、キリスト教の教えや世界観が反映されています。生きることや思想や世界観が、キリスト教と密接に結びついているのです。文学作品を読んでいても、絵画を鑑賞していても、私は、バックに見えてくるキリスト教的な世界を感じて、立ち止まることが多くありました。どうにも自分の理解が及ばないところがあると思えてしまうからです。
 そのことは、別にキリスト教という宗教にかぎったことではないのでしょうが、全世界への布教活動の歴史や、一神教であるということ、キリスト教徒であろう人たちの文学作品や絵画の多さを考えても、とくにキリスト教にひっかかってしまうのです。
 ファンタジー作品は、多くの作品が神話や宗教と密接な関係にあります。作品のつくりが、その人も持っている世界観を反映するので、それは当然なのでしょう。だからこそ、作者の持つ宗教観故に作品世界に入りずらいこともあるのです。
 そんなことから、ナルニアの作者ルイスのなかで、信仰と創作がどのような関係にあったのか、どうしてファンタジーという形を選んで作品を書いたのか、さぐってみたいと思います。けれど、大きなテーマなので、どこまでアプローチできるかはなはだ不安です。
 まずは、そんな考えはさらりと捨て、はじめて『ナルニア国ものがたり』を読んだ子どものころの感覚で、ゆっくりと本を開き、読み返してみることからはじめるのが、最善の道のような気がしました。


2、心躍る別世界体験

 毎晩、静かに本を開いて別世界へ旅だちます。
 それは、至福の時間です。子どものころ心を躍らせ、夢中になった風景や人々や生きものたちが、生き生きと蘇り、今も楽しく踊っていました。流れるようなイメージの連続、歓喜する想像力、どきどきしたり、わくわくしたり、息を潜めたり……。ナルニアは、子どもの私をそんなふうに迎え、遊ばせ、楽しませてくれました。それは、自分の感情や感性が大きく刺激され、揺さぶられ、生きる喜びがエネルギーとなって沸いてくる経験だったのです。
 心を躍らせた、いくつかの場面を紹介したいと思います。その前に、昔読んだけれどくわしくは覚えていない人とまだ読んでいない人のために、簡単に7冊の荒筋を紹介しておきます。
 頭の番号は出版された順で、カッコ内の番号はナルニア国の歴史順です。

1、『ライオンと魔女』(2)
 田舎の学者先生の大きな屋敷に疎開してきた、ペベンシー4兄弟、ピーター(♂)、スーザン(♀)、エドマンド(♂)、ルーシィ(♀)は、大きな衣装ダンスを抜けてナルニアへ。ナルニアは白い魔女がおさめ、長い間冬が続いていた。4人はものいうけものに導かれ、アスランとともに魔女軍と戦う。しかし、アスランはエドマンドの裏切りの代償として石舞台で殺され、そして復活する。魔女軍をやっつけ、アスランは4人をケア・パラベルの王座につける。長いことナルニアの王と王女として暮らした4人が、鹿をおって林へ入り、タンスを抜けて元の世界へ帰ってくると、ほんの少しの時間しかたっていなかった。

2、『カスピアン王子のつのぶえ』(4)
 駅のホームで電車をまっていたペベンシーの4人兄弟は、なにかに強くひっぱられて再びナルニアを訪れる。しかし、ナルニアには数百年の時が流れ、4人が治めていたケア・パラベル城は半島から離れ小島になっていた。テルマール人たちがナルニアをおさめ、ナルニアの住民は隠れて住み、伝説のように語られていた。
 4人を呼びよせるためにスーザンのつの笛を吹いたのは、ナルニアを復活させようとするカスピアン王子だった。4人はカスピアン王子を助け、アスランはナルニアに息を吹き返させる。アスランによって戸口が設けられ、テルマール人たちは別世界(もといた世界)へと移動する。ピーターとスーザンは、年齢を増したためにもうナルニアには来られないと、アスランに告げられる。

3、『朝びらき丸 東の海へ』(5)
 エドマンドとルーシィは、いとこのユースチスの家にあずけられている。3人は、部屋にかかっている海と船の絵から、ナルニアへとひきこまれる。救いあげられた船、朝びらき丸にいたのは、カスピアン王子であった。叔父のミラース王の時代に行方不明になった七卿をさがしに、アスランの国があるという東をめざして航海をしているのだった。ひねくれ者のユースチスはある島で泉の水をのんで竜に変わってしまい、改心をしてアスランに人間にもどしてもらう。七卿も見つかり、3人の子どもとねずみのリーピチープは、さらに東の海へアスランを探しにすすむ。3人は子ひつじの姿のアスランに出会い、元の世界へもどる。エドマンドとルーシィは、もうナルニアへ来られないことをアスランに告げられる。

4、『銀のいす』(6)
 ユースチスは同じ学校へ通っているジルといっしょに、学校の裏門をくぐり、ナルニアを見下ろせる高台へやってくる。アスランは二人にリリアン王子の探索を申しつける。探索のための4つのしるべを覚えさせられたのは、ジルだった。1つめのしるべは、古い友にあったら話しかけることだったが、ナルニアには70年が経っていて、ユースチスには年老いたカスピアンが見分けられなかった。二人はふくろうたちの助けで、沼人の泥足にがえもんといっしょに旅にでる。巨人の国で食べられそうになったり、4つあるしるべの言葉を3つまでしくじってしまうが、地下深くもぐり、とうとう魔女のとらえていたリリアン王子を助けだす。カスピアンは死ぬが、アスランが血をそそぐと復活し、ジルとユースチスを元の世界へ送っていく。

5、『馬と少年』(3)
 ペベンシーの4人兄弟が、ナルニアの王と女王だった時代の話。ナルニアの南西の国カロールメンのはずれに住むみなしごのシャスタは、北の国にあこがれ、ものいう馬のブレーとともにナルニアをめざして、旅にでる。途中で親の決めた結婚から逃げるアラビスと、ものいう馬のフインと出会う。カロールメンのラバダシ王子がナルニアに卑怯な襲撃をしかけようとしていることを知り、4人は急いでナルニアに向かう。ナルニアのとなりに位置するアーケン国まで行き着いたシャスタは、襲撃を知らせ、アーケン軍とナルニア軍はラバダシ王子を破る。シャスタはじつはアーケン国のコーリン王子の双子の兄であったことがわかり、アラビスとともにアーケン国に住むことになる。4人の旅路では幾度もライオン、ときには猫(アスラン)が登場し、4人を導く。

6、『魔術師のおい』(1)
 ディゴリー(♂)とポリー(♀)はとなり同士。遊んでいるうちに、アンドルー叔父の書斎へ紛れこむ。アンドルー叔父は、二人を言葉たくみにさそって、魔法の指輪をはめさせ、世界と世界の間の林に転送してしまう。二人は、林にある泉が、ほかの世界への通路だと発見し、飛びこんでみると、チャーンという滅びかけている国に着く。ディゴリーは、滅びの呪文を唱える恐ろしい女王ジェイディスを目覚めさせ、元の世界へつれてきてしまう。ジェイディスはアンドルー叔父を僕にして、ロンドンの町で馬車を走らす。子どもたちはジェイディスを世界と世界の間の林へ連れていくが、叔父のアンドルーや馬車屋と馬もいっしょに連れてきてしまった。ふたたび泉にとびこんで、ナルニアにいきついた一行は、アスランがナルニアを誕生させる場面に出会う。馬車屋と奥さんは王と女王になり、(ジェイディスは『ライオンと魔女』に登場した白い魔女となる人物であり)、馬は天馬となって子どもたちをリンゴ園に連れていく。ジェイディスはすでに魔法のリンゴを食べ、ディゴリーを誘惑する。誘惑をふりきってリンゴをアスランのもとに持ち帰ったディゴリーは、りんごを植え、育った木から病気のお母さんのためにリンゴをもらう。元の世界にもどり、ディゴリーはりんごの種を庭にうめる。その種からりんごの木が育ち、その木から『ライオンと魔女』にでてくるナルニアへの通路となったタンスがつくられたことが語られる。

7、『さいごの戦い』(7)
 ナルニア最後の王となるチリアンが、一角獣のたから石と城を離れているとき、ヨコシマという猿が、ライオンの皮をロバにかぶせて、にせのアスランにしたてて動物たちを操りはじめた。そこへカロールメン人と赤毛ねこのハジカミが加わり、アスランとタシ(カロールメンの破壊の神)は同じ神だといい、ナルニアの征服をたくらむ。ケア・パラベル城ものっとられ、ナルニアの森は切り倒されていく。とらえられたチリアンは、助けを呼ぶ。それに答えてジルとユースチスが現れる。チリアンを信じるナルニアの者たちは戦うが、追いつめられ、タシ(アスラン)がいるという馬小屋へ次々に入れられてしまう。チリアンが中にはいると、暗いはずの小屋の中は明るく、広い野原が広がっていて、ディゴリー、ポリー、ピーター、エドマンド、ルーシィたちが待っていた(ナルニアへの興味を失ったスーザンは入っていない)。アスランによって、戸口を抜けてきたものたちに審判がくだされ、アスランを慕ってきたものは真のナルニアへと導かれる。子どもたちは、現実の世界では列車事故で死んでしまったので、もう元の世界にはもどらなくてよいのだと、アスランに告げられる。一同は歓喜に満ちて、真のナルニアを駆けていく。

 さて、あまりにも有名な場面ですが、『ライオンと魔女』の冒頭でルーシィが洋服ダンスから、ナルニアへ入るところがあります。じつは、その前に洋服ダンスの描写があるのです。雨の日、外へ出られないので、ペベンシーの四人兄弟は、広いお屋敷をひと部屋ずつ探検していました。

・・さて、そのすぐあとで、四人は、がらんとしたへやをのぞきました。大きな衣装だんすが一つあるきりです。ドアのところに鏡がついている古い式のたんすです。へやじゅうがからっぽで、窓の台に、かれた矢車ギクが一くきのっていました。
「ここには、何もなし!」とピーターがいって、みんなは、どやどや、へやを出ていきました。が、ルーシィだけが残りました。(*1)

 洋服だんすのあるがらんとした部屋をのぞいて、長兄のピーターは、「ここには、何もなし!」と宣言します。けれど、なにもないわけではなかったのです。ルーシィは、古い大きなたんすを目にとめました。ルーシィの視線がたんすにとまったときから、読者はルーシィといっしょに行動していきます。
 雨の日は外界と閉ざされ、家の中、つまり内界にむけては不思議な空間が広がっています。子どものころ、雨の音を聞きながら、ちょっとうす暗い家のなかで遊んだ思いでは、肌にしみこんだように残っています。
 大きな屋敷のがらんとした部屋で、ひとりで衣装だんすを開けて、中をのぞきこんだルーシィ。あたりには物音ひとつしません。毛皮のにおいをかいだり、毛皮にさわったりするのが好きなルーシィは、思わず衣装だんすの中にあがって、外套のあいだにわりこむと、毛皮に顔をすりつけます。毛皮の匂いは臭覚、肌ざわりは触覚、読者もいっしょに五感が動き出します。そうして毛皮をかきわけて、行き着いたのは真夜中のナルニアでした。つめたい雪が空から、しんとした森に降っていたのでした。
 夏の昼間から、冬の真夜中へ。空気がしんと冷たく変わっていくさまが描写され、読者は別世界への空間に足を踏みこんでいます。そこへ、フォーンがやってきます。ルイスは、ナルニアを書くずっと以前から、フォーンの姿が一枚の絵のように思い浮かんだと言っています。

・・それは、ルーシィよりすこし背が高い人で、雪のつもったまっ白な傘をさしていました。腰から上の方は、人間のようですが、その両足は、ヤギの足そっくりで(足に生えている毛は、黒くてつやつやしています)、また足さきは、ヤギのひづめでした。そのほかにこの人は、しっぽを生やしていましたが、それにはその時、ルーシィは気がつきませんでした。というのは、しっぽが雪の上にひきずらないように、傘をかざしている手にきちんと、まきつけあったのです。この人は、首に赤いマフラーをまきつけていましたが、からだも、赤い色をしていました。ふうがわりな顔だちのくせに、とっても気もちのいい、小づくりな顔で、ぴんとさきのとがった短い口ひげを生やし、髪の毛はうずをまいて、二本の角が、ひたいの両がわからつき出ていました。片手には、さきにいいましたように、こうもり傘をもち、もう一方の腕には、茶色の紙包みをいくつかだきかかえていました。その荷物とこの雪ですから、まるでクリスマスの買物の帰りといったところです。・・この人は、フォーンでした。(*1)

 雪の中を傘をさして、しっぽを片手に巻きつけ、紙包みを抱えて歩くフォーン。ルイスの頭にうかんだ絵が、生き生きと描写されています。フォーンの人柄や生活まで伝わってくるようです。
 さて、ルーシィはフォーンの家に招かれますが、そこは岩穴を改造した、住みやすくて、気持ちのよい部屋でした。本棚に並んでいる本の書名がまた楽しいです。ルーシィは、すてきなお茶のもてなしを受けます。メニューは……。

・・やわらなくゆでたきれいな茶色の卵がめいめいに一つずつ出ましたし、トーストは、小イワシをのせたもの、バターをぬったもの、みつをつけたものがありました。そのつぎには、砂糖をかけたお菓子が出てきました。(*1)
 
 フォーンのタナムスさんは、本当はルーシィの誘拐を企てているわけで、楽しいお茶のひとときの底には、じつは緊張感が流れています。神話の中から抜けだしてきたようなフォーンとの出会い、思いもかけない気持のよい部屋での、おいしくて楽しいお茶の時間。ルーシィとともに話にひきこまれながら、いきなり泣きだしたタナムスさんの告白に、一気に緊張感が満ちます。二人は今きた道を、急ぎ足で駆けぬけて、ルーシィは自分の世界へともどります。ほっとひと息をついたルーシィと読者は、そこでまた驚きます。ナルニアでお茶を飲んで過ごした時間は、こちらでは一瞬のことだったのです。別世界には別の時間が流れている。その不思議さは、別世界体験をさらに際立たせます。

 ルイスは、子どもがどきどきしたり、わくわくしたりしながら、別世界体験ができるように、ストーリィも描写も丁寧に工夫しています。本田英明さんの言葉を借りると、「七巻からなる膨大な物語である『ナルニア国年代記』。しかしそれは子どもの想像力、子どもの心の大きさに合わせて書かれたものと言ってもよいだろう。」(*13)ということになり、さらに「リリアン・スミスはこの本を通じて一貫して流れる、若い人のみが聞きとることのできるリズムが存在することを指摘している。」と紹介しています。
 食べ物の描写といえば、白い魔女から逃げる四人の子どもたちは、逃亡中でありながらビーバーさんの気持ちのよい部屋で、たいそうなごちそうをいただきます。反対に、エドマンドは魔女のプリンの味にとらわれてしまうわけですが、ナルニアでは一貫して、気持のよい住み処と美味しい食事が描かれます。けっして豪華で凝ったごちそうではありませんが、素朴で、気持ちをこめて用意された食事のあたたかさやみずみずしさが、ありありと伝わってきます。
 住み処もそうです。それぞれの動物や種族は、個性的で、それでいて贅沢すぎない、自分の暮らしにあった、気持ちのよい家に住んでいます。おいしい食事と気持ちのよい家。その価値観は、私のなかにこの物語で焼きついたといってもいいでしょう。

 さて、印象深くて、空気の震えまでリアルに伝わってくるところといえば、『朝びらき丸、東の海へ』で、ルーシィがひとりで魔法使いの部屋に入っていく場面です。
 だれもいない二階へひとりでいくことになってしまった、ルーシィ。館の中には物音ひとつしません。どきどきしながら昇っていくと、魔法使いの館の二階には、ふしぎな部屋がいくつも並んでいます。そこを通りこして、最後のドアをあけると、大きな部屋が広がっていました。床から天井までたくさんの本が並んでいます。そして、部屋の中央の読書机の上には、魔法の本が開かれていました。

・・ルーシィは、机のそばに歩みよって、本に手をかけました。指は、本にふれるとそこに電気がみちているように、ぴりぴりとふるえました。本をひらこうとしましたが、はじめは、あけられませんでした。とはいえ、それはただ、鉛でできた帯どめがかかっていたせいでした。ですから、帯どめをはずすと、らくらくとひらきました。すると、なんという、すばらしい本だったことでしょう!

 本はすべて手書きで、太い文字、細い文字の並ぶその美しさに、ルーシィは見とれてしまい、読むのを忘れるほどでした。本には、魔法のまじないがたくさん載っていました。いぼをとるまじまいは、月光の中で銀のたらいで手をあらうなど、絵付きで書かれています。歯痛を治すまじないのところの、歯痛の人の絵はあんまり真にせまっていて、見ている自分も歯が痛くなってきます。描かれた蜂も今にも飛び出してきそうですし、本は生きて動いているようなのです。
 ルーシィは、だれよりも美しくなるまじないを見つけました。そのまじないを唱えると、ルーシィがどんなに美しくなって、みんなにちやほやされるかが、物語のように本の中にに立ち現れてきて、誘惑されます。ルーシィがそのまじないを言おうとすると、急にライオンが本のなかに出てきてほえたので、唱えることができませんでした。
 次に、友だちが自分をどんなふうに思っているかを知るまじないを見つけて、ルーシィはとなえてみます。すると、本の絵が動き出して、友だちが電車にのってルーシィについて話している声が聞こえてきます。信じていた友だちの思いもかけない言葉に、ルーシィは傷つきます。
 その後に、元気のでるまじないがでてきます。それはまじないというより、さし絵がすばらしく、美しいまとまった一つのお話のようで、3ページにわたって書かれていて、最後のページを読み終わる前に、読んだことをすっかり忘れてしまうのです。もう一度読もうとすると、ページを前にもどすことができなくなっています。思い出そうとしても思い出せません。もう一度読みたい、というルーシィの憧れは強く胸に残ります。

 ルーシィは、当初の目的である「ものをみえるようにするまじない」をとなえることに成功しますが、そのほかにとなえてしまった魔法の呪文は、ルーシィの内によかれあしかれ影響を残します。
 友だちのうわさ話を聞いて、友だちを責めるルーシィにアスランは言います。その人は心が弱い人であって、ほんとうはあなたと友だちでいたかったのだと。それならば聞かなければよかったというルーシィに、「たとえ魔法であろうとも、友だちのことをさぐろうとしたことに変りはない。その友だちの言ったことが、ほかの友だちの手前つい言ってしまったことであっても、聞いたあなたは二度と忘れることができない」と、アスランは告げます。
 魔法であっても行ってしまったことは、なかったことにできないし、人の心をさぐってみようとした自分はそのことで傷を受けるのです。よい、悪いではなく、自分の行為は自分に返ってくることとして、語られます。
 また、ルーシィは忘れられない物語への憧れを植えつけられ、いつか必ずその話をもう一度読みたい、と強く思います(きっと、真のナルニアへ行き着いたとき、ルーシィはこの物語を思い出したと、私は思います)。

 この場面と重なってあらわれる風景が、私のなかにはあります。
 仕事で大阪にいたとき、休みの日にひとりで万博跡地に立つ民族学博物館を訪ねました。2月の寒い日でした。がらんとした博物館に入っていくと、まず南太平洋のお面や人形がずらりと出迎えてくれ、わくわくどきどきを通り越した感動で、体全体がぞくぞくしました。一人でその感動を受け止めながら、次から次へと現れる世界の民族の衣服や生活道具や呪術道具などに目をやりながら、歩いていきました。博物館にはほとんど人がいなくて、しんとしています。ふと足をとめて明るい庭を見ると、韓国の大きな石像が並び、粉雪が舞っていました。まるで、一枚の絵のなかに入りこんでしまったような、不思議な物語の一場面に入ってしまったような、鮮烈な感覚を覚えました。
 この経験が、「魔法使いの館のルーシィもきっとこんな気持だったのだろうな」と、ナルニアの一場面を思いださせたのです。そんなふうに、ナルニアでの体験は、私が大人になってからも幾度も蘇ってくるのです。
 洞窟を歩くと、『銀のいす』で、沼人の泥足にがえもんといっしょの洞窟の旅を思いだしますし、春になって木々が新芽を吹くころになると、誕生まもないナルニアを思います。ひどく疲れて、みじめな気持ちで歩くときは、『さいごの戦い』で、汗と涙にまみれて絶望の戸口へ一歩一歩近づいていくジルが思われます。
 こんなに印象深く、鮮やかに焼きついている多くの場面を思うと、ナルニアがいかに私にとって楽しく、意味深い体験であったかが、あらためてわかりました。
 子どもの私はもちろん、おもしろいから読んだのです。でも、おもしろいということは、その世界にはまってしまうということで、この話を丸ごと受け止めた私は、気づかぬうちにキリスト教の教えを身につけていたと言えるのでしょうか?


3、ナルニアの成り立ち

・・私の中にある想像力を駆使する人間は宗教的作家や批評家などよりも古いものです。それはより持続的に活動し、その意味では基本的なものであります。私は最初に詩人になろうとした(しかしほとんど成功しませんでしたが)のは、この人間のためです。(中略)回宗のあと、『悪魔の手紙』から一種の神学化されたSF的小説にいたる一連の著作で自分の宗教的信を象徴的もしくは神話創造的な形で具体化してきたのも、やはりこの人間が原動力となっております。申すまでもありませんが、ここ数年来子供向けのナルニア国年代記の物語を書き続けてきたのも、同じ事情によります……。(「ミルトン協会に宛てた手紙1954年12月28日付」より *13)

 ルイスは、自分を宗教家より批評家よりなにより、想像的人間であると言っています。ナルニアを書くもとになったのは、10代のころから抱いていた一枚の絵、「雪の森を傘と包みを持って歩いているフォーン」のイメージであり、そこに「橇にのった女王」や「ライオン」が入ってきて、肉付けされて物語になっていったということです。
 ルイスは、大まかな構想はあっても、細部にいたるまで計算をして、地図を描いて書きすすめるような綿密な物語づくりをしませんでした。視覚的イメージとエピソードをつないで、自分の想像と直感を駆使しながら物語をつくっていったと考えられています。
 そのことは、『魔術師のおい』を書く前に「ルフェイ断章」として書いていた物語の筆がすすまなくなって、放棄したことで説明されています。「ルフェイ断章」は、創作するものにとって興味深いものです。
 こちらでは、ポリーは『魔術師のおい』にでてくるキャラクターとは正反対で、ディゴリーをばかにし、けしかけて、庭のカシの木を切り倒させてしまいます。そのことによって、ディゴリーは、仲よくしていた動物たちや庭の木たちと言葉を交わせなくなります。悲しみに沈むディゴリーのもとに、ルフェイというおばさんが現れて、慰め、ある店をたずねるように言います。その店に入っていったら、「見つけるでしょう……」
 ここで筆が断たれているそうです。
 「ルフェイ断章」では、ディゴリーは、罪を犯してエデンの園を追放されるアダムのようですし、ポリーは、彼を誘惑するイブにあてはまるという構図になっています。本田英明さんは、「ルフェイ断章」より『魔術師のおい』が、聖書の創世記の内容から遠ざかっていることを指摘しています。(『ナルニア国年代記』 本田英明 *13)
 つまり、ルイスは『魔術師とおい』にナルニアの創世記を描こうという思いはあったものの、図式的にアダムをディゴリー、イブをポリーにして動かしてみたら、イメージがそれより先にすすまなかったということではないでしょうか。
 『魔術師のおい』のディゴリーには、どの人物よりも作者が投影されているという指摘があります。ルイスは、図式的な構造から物語をつくっていくのではなく、一度筆を折ったあとは、自分の感情から湧きでるイメージを喚起させていくことで、描きたい世界に近づいていったのではないでしょうか? それが、ルイス自身の言うところの「想像的人間」という資質だと思えます。結果として、聖書の創世記をイメージさせる話にはなっても、創世記をなぞる話にはならなかったのです。
 ルイスは『子どもたちへの手紙』(中村妙子訳)でこう書いています。

・・わたしにいえることはまず頭のなかに絵が浮かび、それについてお話を書いたということだけです。どのようにして、またなぜそんな絵が頭に浮かんだのかわたし自身にもわかりません。(『ナルニア国年代記』総説 中村セツ子 *13)

 まず絵のイメージ、つまり物語の素材が浮かびます。次に、それをどういう形式で物語にしていくかというと、ルイスが選んだのは、「フェアリー・テールズ」という形式でした。『別世界にて』(*13)でルイスはこう述べています。

・・そうです、私はその形式そのものに恋こがれたのです。その簡潔さ、描写に対する冷厳な抑制、柔軟ながらも伝統をしっかり踏まえていること、分析や、脱線、無駄話といったものに対する頑迷なほどの敵意。私はそれに恋をしました。語彙に課せられる制限すら魅力と思われたのです。(『ナルニア国年代記』のおもしろさ 中村妙子 *13)

 また、「子どもの本が自分が言わずにいられないことを表現する最良の芸術形式だからという理由で、子どもの本を書く」ことが、自分が子どもへ向かって物語をつくる理由だとしています。「『ナルニア国年代記』は、まさにこの理由によって選びとられた、フェアリー・テールズないしは子どもの本としての作品」なのです。(『ナルニア国年代記』の一つの読み方」谷本誠剛 *13)
 視覚的イメージではじまり、そのイメージをふくらませ、つなぎながら物語をつくり、物語づくりの過程で、おのずとキリスト教的なテーマが入りこんできたという順序でしょうか。ルイスはそのことを、「作家としての作家」と「人間としての作家」という呼び方で説明をしています。つまり、イメージから始まったことは、「作家としての作家」の創作にかかわるところであり、それが物語に形成される過程で、キリスト教的なテーマやストーリィが入ることは、「人間としての作家」もしくは「クリスチャンとしての作家」にかかわるのです。
 この説明はよくわかります。イメージを羅列していても物語にはなりません。そこをつらぬくストーリィやエピソードづくりには、おのずと作家の思想や人生観や哲学が影響します。

・・そして、ひとたび「人間として、市民として、クリスチャンとして」の自覚に立った作家は、そこに作品の持つ大きな意味を正面から見つめることになる。(中略)
 こうして諸々のフェアリー・テールズ的なイメージから出発した作品は、しかし具体的に作品化される中でそこにはっきりと意図といえるものを持つものとなった。作者は「この種の物語」が、クリスチャンとしての自分が伝えたいものを伝えるのに実に有効だということを意識したのであり、その上で書かれた作品は、作者の自覚とは別に、やはりアレゴリーと呼ばれてしかるべき作品となったのである。(『ナルニア国年代記』の一つの読み方」谷本誠剛 *13)

 アレゴリーの意味は、「たとえ、寓意」であり、この場合は聖書の内容を寓意をもって伝えた物語ということになるのかと思います。

 谷本さんは、『ナルニア』をフェアリー・テールズとアレゴリーの要素の融合から成り立っている作品だと分析しています。そして、ルイスが追い求めた「喜び」が、神の国につながるものだったという作家の発見が、「作家としての作家」から「人間として、クリスチャンとしての作家」という意識になっていく過程が、物語に反映されているといいます。
 このように、「フェアリー・テールズの中に神の国の真理を見る」という物語づくりは、ルイスにかぎったことではなく、イギリスのファンタジーのつくりとして伝統的にあったようです。ルイスの先人であるチェスタトンは、「おとぎ話でリンゴが金なのは、リンゴが赤いのをはじめて発見した瞬間の驚きを思い出させるためだ。川にブドウ酒が流れているのは、驚異の一瞬、川に水が流れていることをみずみずしく発見させるためなのだ」と述べ、フェアリー・テールズに示される驚きの感情こそが、創造主のこの世の創造にかかわる、深い驚きを示していると言っています(*13)。つまり、イギリスにおいて、信仰は想像力のありように深くかかわっているのです(このことはイギリスにかぎったことではないと思いますが)。

 さて、谷本さんは興味深いことに触れています。人はなぜ、ある時物語の創作へと向かうのか、ということです。人が物語に向かうときは、結局その人は何ものかに促されるようにして、作品創造に向かっている。そして、秀れた物語作家はそんなふうに物語に向かったと思われる、というのです。
 『別世界』の「フェアリー・テールズについて」で、ルイス自身がファンタジーや物語の本質についてこう書いています。

・・ファンタジーや神話は、ある読者にとってはいくつになっても読むに足る形式ですが、ある読者にとっては、幼い日にも、大人になってからも、まるで興味のないものです。しかし適切に用いられ、然るべき読者にめぐりあうなら、それは年齢に関係なしに力を発揮します。すなわち具体的でありながら一般性をもち、漠然とした概念とか、孤立した経験でなく、あらゆる経験を人の感知しうる形で示し、不適切なものを振り捨てるのです。その種の最良のものは、それよりはるかに多くのことをします。つまり読者に、彼がいまだかつてしたことのない経験をさせ、それによって人生を分析するかわりに、それにさらに多くの風味を加えるのです。(『ナルニア国年代記』のおもしろさ 中村妙子 *13)

 「読者にかつてしたことのない経験をさせ、それにさらに多くの風味を加える」ことは、私の経験からいっても、『ナルニア』がたしかにそういう効力を持っていることを証明できます。
 人はなぜ物語を書くのか。その問いは、物語の本質にかかわる深い問いです。ルイスは『別世界』の「物語について」で、こう言っています。

・・本当らしく響く、また読者に感銘を与える“別世界”を構築するには、自分の知っている唯一の現実の別世界、すなわち“精神界”によらなければなりません。(『ナルニア国年代記』のおもしろさ 中村妙子 *13)

 ルイスの精神界には、キリスト教の教えが、神が、そして神との出会いの物語が大きな位置をしめていたのでしょうが、そこにはまた、ルイスその人の生き方や考え方、感じ方がしっかりとつまっているのです。


4、ルイスという人(その喜びと憧れ)

 では、ナルニアを書いたルイスは、どういう人生を送ったのでしょう。
 このことは『喜びのおとずれ』(*11)という自伝にくわしく書いてあります。以下は、おもにこの本を参考にしています。ルイスは、自分の子どものころの感覚をじつによく覚えていて、この本のなかに感性を沸き立たせるように描いています。私は今回はじめて読んだのですが、子どものころの描写には感動しました。
 単なる自叙伝ではなく、無神論からキリスト教に回心するまでの経過をこの本につづった、とルイス自身が冒頭で説明していますが、幼児時代からみずみずしく描写していったことについては、精神の危機が到来した時に、幼年時代と少年時代の持つ意味は大きいということ、またルイス自身、幼年時代の描写が人の興味を引かないような自叙伝は読まないことにしていると言っています。とにかく、この本の前半は思わずひきこまれてしまう力を持っています。

 1898年の冬、ルイスはアイルランドのベルファストに生まれました。
 お母さんは、若いとき将来を期待された数学好きで、フランス語とラテン語をルイスに手ほどきし、一流の小説を読むのが好きな、快活で穏やかな人でした。お父さんは、それとは反対に、議論や演説好きで、よく響く声で頭の回転のよい、雄弁家だったそうで、シェイクスピア劇を身振り手振りまじえて、登場人物をかわるがわる演じてみせるような人でした。
 3つ違いの兄は、ルイスが「わたしの幸福のひとつ」と言うほど、親密な仲間同士で、なくてはならない存在でした。二人は暇さえあれば絵を描いて、物語もつくっていました。お兄さんは船や汽車を描くことが多く、ルイスは動物を好んで描いていました。
 ルイスがはじめて美を意識した体験は、兄との関係のなかで起こりました。

・・ある日兄は、ビスケットの缶のふたを苔で覆い、小枝と花で飾り、それを箱庭かおもちゃの森のつもりで子ども部屋にもってきた。それがわたしの知った最初の美というものだった。ほんものの庭園が果せなかったことを、この箱庭が実現したのである。兄の箱庭を見て、わたしはたしかに自然を形や色の宝庫ではなく、涼しげで露に濡れ、新鮮で豊かに生い茂っているものとして感じた。その時は気づかなかったが、やがてそれが記憶のなかに根をおろした。生きているかぎり、わたしが「楽園」を想像する時には兄の箱庭のことを思い出すだろう。(*8)

 私は、この文を読んで胸が震えました。その箱庭がまるで見えるようだったからです。ここに「ファンタジー」の発祥があるように思えましたし、ルイスの感性のすばらしさも伝わってきます。小さいものでありながら、そこにすべてがあるという驚き……。たとえば顕微鏡をはじめてのぞいたとき、たった一滴の水のなかに、今まで見えなかった世界が見え、その広がりと深さと造形に感動を覚えたことが、私にもあります。
 また、ルイスは憧れを教えてくれたものについては、このように書いています。

・・わたしたちが「緑の丘」と呼びならわしていたものがあった。それは子ども部屋から見えるカールスレイ丘陵の低い山並のことである。その丘陵まではそれほど遠くなかったが、子どもたちには手の届かないところにあった。(*8)

 見えるけれど、手に届かないところにある丘。それが憧れを教えてくれたということです。ルイスの子ども時代は芸術的な経験も乏しく、宗教的な経験にいたっては皆無といってよかったそうで、多くの人が誤解するように(ルイスがそう書いているので同じ誤解をする人が多かったのでしょう)、私も、ルイスが子どものころから熱心なクリスチャンの家庭に育って、ずっとクリスチャンだったという印象を持っていました。

 7歳のとき、ルイスはそれまでより大きな家に引っ越します。その家は展望がすばらしく、戸口から広い畑や丘陵地帯、山並み、船のたくさん泊まっているベルファスト湾が見渡せたそうです。大人になってからも汽笛を聞くと、少年時代が魔法にかかったように蘇ってくると、ルイスは書いています。兄が寄宿学校に入り、ルイスは、読んだり書いたりをして孤独を紛らわせるようになりました。

・・わたしがものを書く気持になったのは、生れてこの方ひどく不自由だった手のためである。兄もわたしも父から異伝した身体上の障害があった。わたしたちは親指の関節が一つしかない。(中略)
 船や家や機関車やもっと他のものがつくれればよいと思った。たくさんのボール紙を無駄にし、指が動かないためにわたしは何度も泣いた。ついに窮して私は物をつくる代りに物語を書くことにした。(*8)

 こうして、屋根裏部屋をもらって自分の仕事部屋にしたルイスは、「服を着た動物の国」を兄と共有するために、兄の好きな汽車や蒸気船を走らせ、近代的な国家にする必要性から、想像の国の歴史を考えるようになったそうです。「動物の国」との関係をルイスはこう書いています。

・・私はその国の創造者であって、入国志願者ではなかった。創造という行為は、夢想とは本質的に異る。その違いがわからない人がいるとすれば、ものをつくったことも、夢想したこともない人である。そうした経験がある人なら、だれでもわたしの言うことをわかってくれるだろう。夢想する時にはわたしは自分を愚か者になるように訓練し、「動物の国」の地図や歴史を書いたりするときは、自分を小説家に仕立てようと件名に努力する。今わたしが詩人と言わず小説家ということばを使ったことに、よくよく注意してもらいたい。(*8)

 ルイスは、ファンタジーのような空想的な物語を書くために必要なことが、どうやって自分のなかで育っていったかを、的確に語っています。「動物の国」は想像豊かなものではなく、不思議な出来事もおきないお話だったそうです。そこになにが欠けていたのでしょう。ルイスは続けてこう書いています。

・・最初の経験は、思い出の思い出とでも言ったらいいだろうか。ある夏の日、わたしは花の咲いているすぐりの藪のそばに立っていた。兄が子どもへやに箱庭を運んできたあの古い家での遠い幼い日の思い出が、何の予告もなしに、しかも数年ではなく数世紀の彼方からやって来たかのように、心のなかに湧いたのである。わたしを襲ったその時の興奮状態を言いあらわすことばを見つけるのがむずかしいが、ミルトンがエデンの園を形容した「法外な祝福」という表現がそれに近い。もちろん何かに対する渇望から発した興奮だった。(*8)

 自分が何を渇望しているかもわからないうちに、この渇望自体が消え去ったとあり、その次に似たような経験をしたのは、ビアトリックス・ポターの『りすのナトキン』を読んだときだったそうです。ポターのほかの本も好きだったけれど、『ナトキン』にはひどく心をそそられ、当惑するような気持にさえなったといいます。そのなかの「秋の観念」としか表現できないものに、同じ渇望を感じ、日常生活や日常的な楽しみとは異質な、「別の次元に存在するもの」への驚きを呼びさまされたそうです。
 さらに、同じ興奮が詩を読んでいるときに、ルイスを訪れます。

・・うつくしいバルドルは死んだ
  バルドルは死んだ……。
      
 わたしはバルドル(北欧神話の夏の太陽の神の名)については何も知らなかった。しかしわたしの心は広大な北の空に引きあげられるとともに、冷たく広く厳しく暗く遠いということばを使うほか筆の力では描写することのできぬ世界を、抑えがたいほどに激しく渇望したのである。(*8)

 この3つの経験を語ったあとに、ルイスはこう記します。

・・こうした三つのエピソードに何の興味も感じない読者は、もうこの本の先を読む必要がない。わたしの人生の中心をなす物語はこれ以外にない、と言っても過言でないからである。(*8)

 私は、ここを読むまでにすっかりこの本のとりこになってしまっていたのですが、ちょっとここで息をつきました。なぜなら、ルイスが語ることがとてもよくわかり、自分の感性になじむからです。この自伝は、ルイスがキリスト教の信仰を受け入れるまでの心情が、くわしく書いてあるのですから、もしや私は読み終わったときに、自分がキリスト教に回心しているのでは? と不安に思ったくらいです。
 さて、なおこの先までつきあってくれる方に、この本の題名ともなった、ルイスの「喜び」についての語りを紹介しましょう。

・・三つの経験に共通した事柄を示しておきたいと思う。それは、どんな満足感よりも願わしいものだが、決してみたされることのない渇望というものである。わたしはそれを「喜び」(ジョイ)と呼びたい。このことばはここでは特殊な意味に使っているのであり、幸福やただの楽しみとははっきり区別しなければならない。たしかにわたしが言う「喜び」は、そうしたものと共通する特徴をそなえている。つまり「喜び」を経験した人間は、だれでもふたたびそれを求めてやまないという事実である。その点を考慮の外におき、また「喜び」の本質だけを取りあげて考えれば、「喜び」を特殊な不幸や悲哀と呼んでもいい思う。だがそう呼ぶにしても、人々が切実に求める類の経験であることに変りはない。これを一度味わい知った人間が、選択をせまられて、「喜び」を捨てこの世の他の楽しみを得ようとするとは、わたしには思えない。だが「喜び」は決して人間の意にならないものだが、楽しみは求めて得ることができるのである。(*8)

 3つの経験と前後して、ルイスは最愛の母を病気で失いますが、その経験によっても信仰を得られたわけではないことが語られます。母親の死は、久しく慣れ親しんできた安心感を奪いさり、巨大な大陸が沈んで、自分の生活が大海と島だけになってしまったと感じるほど大きなことだったにもかかわらずです。
 その後、ルイスの学校経験が語られていきますが、学校に対して明るい印象のあることはとても少ないのです。そのなかで、アーサー・ラッカムの『ジークフリートと神々の黄昏』の絵本を、兄にお金を援助してもらってやっと手に入れたエピソードは、北欧への憧れに、宗教に接する時に抱くべき心情がひそんでいたためと説明されています。神を知るということは、ひたすらそれに没入し献身する心、つまり崇拝の念に似たものがあり、神がまさしく神であるという事実に感謝しなければならない。神が神であることに感謝の気持を抱くということが、神を知るという事実にほかならないと解説されています。真実なる神が自分を呼びもどす日にそなえて、神を信じる力を準備するためにも、誤った神(ここでは北欧神話の神々)に近づくようにしむけられていたのではないか、とも書いています。このことは、『さいごの戦い』に登場する、タシの神を崇拝しているカロールメン兵士のエメースを思いださせます。彼はアスランではなくタシの神を信仰していたのですが、真実の信仰を求める心は、タシではなくアスランに通じている、とアスランが語ります。
 
 その後、自分の求めていた「喜び」が、じつはなんであったのかが、じょじょにキリスト教の信仰へのつながりとして解説されていきます。そこをくわしくここに記す必要はないと思われます。ただその状況をルイスはこう記しています。

・・ヘーゲルの森から一匹の狐が追いたてられた。すぐ後ろから猟犬が走り、勢子の呼び声が聞こえるなかを、泥にまみれ、くたくたになりながら狐が原野を走っていた。おびただしい猟犬の群れだった。プラトン、ダンテ、マクドナルド、ハーバート、バーフィールド、トルキーン、ダイソン、それに「喜び」そのものまでが後を追ってきた。だれもかれも、何もかもが相手側と結託していた。(*8)

・・ところで「喜び」は結局どうなっただろうか。このことが何といっても物語の主題だったのである。実はキリスト教信者になってから、わたしはその主題にほとんど関心をもたなくなった。ワーズワースのように、幻想の光が消えてしまったと嘆く必要がなくなった。回心後も、あの昔の刺すような痛み、ほろ苦い甘さが、以前に劣らずわたしを襲ったはずだ。しかし「喜び」を自分のある種の心理状態と考えた場合、わたしはその経験を昔ほど意味深いものとは思わなくなった。わたしには別なる世界の消息を告げるものとしての価値しかなかった。(*8)

 そして、「喜び」は道標としての意味はあったけれど、道を知ってしまった者は、道標を立ち止まってしげしげとそれを見たりはしないと、解説されます。

・・たとえ道標が銀製で、金文字で刻まれていても、歩きつづけていく。「わたしたちは聖地エルサレムを目指している」のだから。
 だがわたしは時には立止まって、道端の些々たるものを見つめたりしないというわけではない。(*8)

 と、本の終りをまとめています。幼児期、少年期の描写にくらべて、回心にいたる道筋の描写には、それほど心ひかれずに読みすすめてしまったのは、私がキリスト教の信者でないせいなのでしょうか。そして、幼児のころから求めていた「喜び」は、信仰に導いていった道標であったのであり、信仰にいたってからみると、それほど意味深いものでなくなったという理解には、どうも物足りない気がするのです。
 『ナルニア国ものがたり』は、キリスト教の教えを子どもたちにわかりやすく説く目的のためにつくった物語ではなく、創造的産物であるとしたルイスにとって、また、自分は宗教者より先に想像的人間であると名言するルイスにとって、「喜び」を道標だと言い切ってよいのでしょうか。「喜び」は、想像に深く結びついていると思うのです。「喜び」こそが、ルイスを想像に駆りたてるものであり、それは一過性の道標というよりは、絶えず胸の奥から蘇る指針であり、想像へのエネルギーなのではないでしょうか。
 道標は通り過ぎる道にあるのではなく、つねに道を示す指標として胸の中にあるのです。キリスト教に回心したルイスには、道標が過去の道しるべになったとしても、物語を書く過程においては、それはつねにルイスとともにありつづけたと、私には思えます。そのことについては、あとでくわしく述べます。


5、子どもにわかる神のあり方(アスランにそって)

 ナルニア国をつくったのはアスランであり、影の国から真のナルニア国への扉をあけるのも、アスランです。
 アスランはナルニア国ものがたりには、なくてはならない存在で、どの巻にも登場します。ここでは、アスランがどう描かれているかを追いながら、絶対的な存在がいかに物語にかかわっているかを考えてみたいと思います。

 最初にアスランの名が登場するのは、『ライオンと魔女』で、4人兄弟がビーバーと出会ったときです。子どもたちが顔を近づけると、ビーバーは低い低い声で言います。

・・「アスランが動きはじめたといううわさです。もう上陸したころでしょう。」
 するとたいへん奇妙なことがおこりました。子どもたちは、だれひとり、アスランとはどんなひとかということを知らなかったのですけれども、ビーバーがこのことばをいったとたんに、どの子もみんな、いままでにないふしぎな感じをうけたのです。きっとみなさんも夢のなかで、だれかが何をいった、そのことばがさっぱりわからないくせに、たいへん深いいみがあるように感じたことが、あるにちがいありません。その感じがとてもおそろしいことだったために、夢でうなされるとか、反対にことばにあらわせないくらいすばらしくて、一生忘れられないほど美しい夢になり、ぜひもう一度あの夢が見たいと思うことも、あるでしょう。(*1)

 長い引用になりましたが、アスランという名を聞いたときにおこる「いままでにないふしぎな感じ」が、ていねいに説明されています。なるほど、と思えます。
 つぎに子どもたちが具体的にどう感じたかというと、

・・エドマンドは、わけのわからないおそれのうずにまきこまれました。ピーターはふいに強くなって、なんでもやれる気がしました。スーザンは、なにか香ばしいにおいか、うつくしい楽の音がからだをつつむ思いでした。そしてルーシィは、朝目をさましてみたら、たのしい休みか、喜ばしい夏がなじまった時のような気もちをあじわいました。(*1)

 兄弟それぞれの感じ方のちがいを描いているところがおもしろいです。信仰というものは、人によってそれぞれとらえ方や感じ方がちがうということでしょうか。一辺倒ではない自由さが感じられます。魔女のプリンを食べてとりこになっているエドマンドの感じ方は、とくに象徴的です。
 その後、ビーバーがアスランについて語ります。
 アスランは、王様であり、あらゆるものを本来の姿にもどすことができる。アスランがやってくれば、あやまちは正され、悲しみは消え、冬は死に絶え、春がもどってくる。アスランは、海のかなたの国の大帝の息子で、ライオンの姿をしているのだと。
 ライオンと聞いて、「ライオンに会うなんて危険じゃない?」と聞くルーシィに、「しいて申しあげれば、もちろん、あのかたは、安全ではありません。けれども、よい方なんです」とビーバーは答えます。
 安全でないという意味は、私たちには計り知れない力を持っている存在である、ということでしょう。実際に子どもたちがアスランと会ったとき、「あくまで善人でありながら同時にすさまじいおそろしさをそなえている」ので、まっすぐ見つめることさえできなかったのです。けれど、あいさつをして、声をかけてもらうと、おそろしさは消え、喜ばしさが満ち、心がおだやかになったのでした。
 アスランは、裏切り者になってしまったエドマンドの身代わりになって、石舞台の上で魔女に殺されます。そして、復活するのです。裏切り者のために犠牲になり、そしてただしい行いをしたがゆえに復活を果たすアスラン。その姿は、キリストと重なります。
 しかし、死ににいく前のアスランは、深い悲しみと恐れにおののきますし、復活したあとのアスランは、子どものようにそこいらをころげ、笑い、生きている喜びを表現します。こんな描写が、ルイスのいうところの「キリストの苦難について、こう感じなければいけないといわれたとたんに、そのように感じることがむずかしくなるのは、〜すべきといわれることにあるのであり、すべてを想像の世界に投じ、ステンドグラスや日曜学校的な連想をとりのぞいて、書くことが作家の力を発揮させる『別世界通信』)」であり、ルイスがそのように神の行為を描こうとしたことが伺えます。

 『カスピアン王子のつのぶえ』では、最初、アスランはルーシィだけにその姿が見えます。そして、ルーシィのいうことを信じようとするエドマンド、ピーター、最後にスーザンの順にその姿が明らかになります。このことは、目をくもらせていたり、自分がほかのことに気をとられ、心からアスランの姿を見たいと思わない場合は、神は見えない、出会えないとういことを意味しているのでしょう。
 ルーシィは再会したアスランが大きくなったと感じます。するとアスランが言います。
「それは、あんたが大きくなったせいだよ、ルーシィ。
 わたしは大きくならないよ。けれども、あなたが年ごとに大きくなるにつれて、わたしをそれだけ大きく思うのだよ」(*2)

 信仰というものは、育っていくということでしょうか。
 「むやみに願ったり夢見たり、あるいは信じたりすることが、それだけでは何ものでもなく、願ったり信じたりすることを通じて、自分がつくり変えられていくことが、最も大切なことであることを、そして願いや夢がかなえられるということは、その願いや夢に自分が相応しいものになってもいくということを、これらは語っているのである。」と、奥野政元さんは解釈しています。(『アスランの拒絶』)奥野政元、*13)
 また、この物語の最後のほうで、ねずみのリーピチープがしっぽを切られ、隊長にしっぽがないのならと、ほかのねずみたちがそろってしっぽを落とそうとしていることを、アスランが知る場面があります。

・・「おお!」とアスランが大声をだしてうめきました。「あんたがたは、わたしをうちしたがえたな。まことにりっぱな心をそなえた者どもよ。リーピチープ、これはあんたの品位のためではなく、あんたとその隊の人々との間に流れる愛のために、いや、それ以上に、むかしあんたがたのともがらが、石舞台でゆわかれていたわたしのつなを食いきってくれたあの親切のために、もう一度あんたのしっぽをつけて進ぜよう。よいか、むかしのことをあんたがたはとうに忘れておろうけれど、その時あんたがたは、ものいうネズミになったのだよ。」(*2)
 
 神の愛は「与える愛」であると、ルイスは『信仰論』で書いていますが、アスランのねずみ族への愛は、神を求め、奉仕するものたちへの与える愛なのでしょう。

 『朝びらき丸 東の海へ』では、竜になってしまったユースチスが、アスランに「着物をぬがなれればいけない」と言われ、自分で竜の皮を3度脱ぐのですが、やはり竜のままなのです。すると、アスランは「わたしにその着物をぬがさせなければいけない」と言い、爪で心臓までつきささるほど、深くひきさきます。ユースチスは今まで感じたことがないほど、はげしく痛みますが、いやなものがはがれていくうれしさで痛みに耐えます。
 ルイスは『信仰論』のなかで、「神の善と痛みの関係」についてこんなふうに書いています。神は、私たちのほしいと考えているものをくれるのではなく、必要なものを与えようとしているので、私たちはそれを受け容れるのが難しい。私たちは自由意志を行使して非常に悪くなったので、自分のものであると主張してきた自由意志をさしだすのは苦痛なのだ、と。(*14)
 ユースチスが進歩的な両親に育てられ、進歩的な学校に入れられ、非常に自分勝手で自己中心的な人間であるかが描かれていることは、このことに合致します。
 「痛みは注目されることを主張する」のであって、痛みは順調にいっていないことをわからせるものであり、痛みは神に対する自己放棄を回復させる治癒的役割を果たすのです。つまり、痛みは耳を傾けようとしない世界を目覚めさす、神のメガフォンなのです。
 ユースチスが最後の大事な1枚を、自分で脱ぐことができなかったわけはここにあります。神は痛みを知らせようとしたのであり、その痛みは自分で自分に与えるものでなく、神の与える治癒的役割であり、目覚めなのです。
 ユースチスに「アスランはだれ? きみは、知ってるの」と聞かれたエドマンドは、こう答えます。「うん、あのひとは、ぼくを知ってるよ。」と。
 こちらが知っているのではなく、向こうが知っているのです。神の存在を示したわかりやすい一節です。
 このお話の最後に、アスランは子羊の姿で子どもたちの前に現れます。

・・「わたしの国へ来る道は、あらゆる世界から通じている。」
 「だが、そこにいたる道が、長いか短いかは、いえないが、一つの川をこしていくのだということだけは、いっておこう。しかし、そのことをおそれるな。なぜならわたしは、大いなる橋のつくり手だからなのだ。」(*3)

 もうナルニアへ来ることはできないと、アスランに告げられたルーシィが、「かんじんなのは、ナルニアではなく、あなたなのだ」といい、現実の世界ではアスランに会うことができないと嘆くと、アスランはこう言います。

・・「それでも、あなたは、わたしに会うよ。むすめよ。」
 「あなたが? あなたが、あちらにもこられるのですか?」
 「いるとも。」「ただし、あちらの世界では、わたしは、ほかの名前をもっている。あなたがたは、その名でわたしをわかるように、おぼえていかなければならない。そこにこそ、あなたがたがナルニアにつれてこられたほんとうのわけがあるのだ。ここですこしはわたしのことを知ってくれれば、あちらでは、もっとよくわかってくれるかもしれないからね。」(*3)

 ナルニアでアスランを知ったものは、現実の世界でキリストに行きつけるということでしょうか。アスランの国(つまり真のナルニア=天国)にいたるには川をこしていく、と語られます。また、そのことを恐れなくていい、わたし(=神)は大いなる橋を作り手であるのだからというところは、アスランをキリストとして読むと、とっても腑に落ちてくる箇所です。名のちがうアスランを見つけるために、子どもたちはナルニアへつれてこられたということです。
 ここから、なぜ年長のものから次々にナルニアへ来られなくなったかが、推察できます。つまり、神にであえる素質をナルニアという別世界で育てられるのは、子どもの時だけで、そこから先は現実の世界で、それぞれが育てていくべきものだということではないでしょうか? スーザンは、それを成すことができなかった人物として描かれましたが、ディゴリーにはじまり、ナルニアを訪れた者たちはナルニアを愛し、アスランを信じ、そろって真のナルニアへの戸口をくぐります。生から死にいたる川を乗り越えて。

 『子供たちへの手紙』のなかで、ルイスは子どもたちに語っています。
・・アスランのもう一つの名前のことですが、そうですね、あなたに当てていただきたいと思います。次のようなヒントでどうでしょうか?
1、サンタクロースと同じときにこの世に来た人。2,自分は大帝の息子だといった人。3,ほかの人のしたわるいことのために自分の身を投げだし、わるい人たちにあざけられ、殺された人。4,ふたたびよみがえり、5、ときによって子ヒツジと呼ばれる人。・・そんな人はいませんか? (『ナルニア国年代記』総説 中尾セツ子、*13)

 けれど、ルイスは、実際に聖書自体の啓蒙として物語を描くのではなく、イメージにはじまるナルニアという国を描いたのですから、「アスランはキリストである」と言い切るのは、私としては違和感があります。遠藤祐さんがそこのところを、うまく書いています。

・・ルイスにとって、アスランはキリストであってキリストではなかったのだと、わたくしは思う。この言い方が曖昧であれば、アスランは〈その世界〉すなわちナルニアのキリストであって、その意味でわれわれの地上に受肉したキリストとはちがう存在なのだと、いい換えてよい。(中略)
 われわれの地上とは異なる〈別世界〉に受肉したがために、イエスではなく《アスラン・キリスト》となったのである。なぜそうなったかといえば、それは、ルイスの明言するとおり「すべてイメージ」で始まったためにほかならない。〈イメージ〉は、想像が生きて動くところに鮮やかに浮かぶ。(『ナルニア国年代記』遠藤祐 *13)

 キリストであってキリストでないアスランは、豊かなイメージに裏打ちされて、躍動します。『馬と少年』にでてくるアスランは、私にとっては印象が深いのです。
 アーケン国へラバダシ襲撃の知らせを告げる役目を果たしたシャスタは、霧にまかれてひとりぼっちでとり残されます。シャスタは、みじめな気分になり、疲れ、孤独です。そこに、あたたかな息づかいの大きな動物が現れます。それはアスランなのですが、霧のために姿が見えません。
 暖かい吐く息がかかります。シャスタが、自分がいかに不幸せで、運が悪いかを話しているあいだ、アスランはずっと横に並んで歩いています。
 「あんたは、いったいどなたです?」と聞くシャスタに、アスランは答えます。

・・「わたしは、わたしだ。」その声は、たいそうふかく低い声でいったので、地面がふるえました。そしてつぎに、「わたしだよ。」とすんだあかるい大声でくりかえしました。そしてさらに、三度めに、「わたしさ。」と、ほとんどききとりにくいほどやわらかく、しかも木の葉をさらさらとならしてまわりじゅうからきこえてくるようにささやくのでした。(*5)

 霧の中、姿を見せずに、横に並んで歩く者。神は時には、姿を見せずとも、どうしようもない孤独な時や苦しい時には、併走者でもあるのだ、と理解できます。
 私には、神は天上にいるというイメージがあったのですが、アスランは海の皇帝の息子で、海のかなたからやってきます。『朝ひらき丸 東の海へ』では、アスランの国をもとめ、東の海のはてをめざします。このことは、沖縄のニライカナイ信仰を思いださせます。
 アスランは、ナルニアの話のなかにいろいろな現れ方をしますが、それについて、ルイスは「神は遍在する」と書いています。

・・神は、神の部分が空間のさまざまな部分にあって他の物体をそこから排除するという意味で、一つの肉体が空間を満たすように空間を満たすのではありません。しかし、優れた神学者たちによれば、神は空間のあらゆる点にいたるところくまなく存在しているのです。(*13)

 このようなキリスト教の信仰論によっても、アスランの存在の仕方、役割はしっかりと位置づけられているのです。いえ、反対にいえば、神学者としてのルイスの解釈こそが、ナルニアにおけるアスランのあり方なのです。
 ナルニアは、自由人の集まる楽しい国で、みながアスランの存在を信じています。アスランの存在を信じることは、幸せを導きます。存在を信じるということは、アスランへの信仰を表しています。
 アスランは主人持ちではない、と繰り返し住民たちは語ります。アスランを疑うものは不幸になる、ということも暗示されます。不幸とは、この場合、質素であっても気持ちよ住み処に住み、素朴であっても美味しい食事を楽しめる生活を好まなくなる、ということでもあります。このことは『さいごの戦い』で、自分たち以外のことはなにも見えなくなってしまった小人たちに、顕著に表れています。
 アスランの存在を信じない人たちにとっては、ナルニアは住みよい国ではないのです。アスランを信じていれば、明るく、自由で、陽気に、暮らしていける国ですが、アスランを疑うものには、苦悩が訪れ、試練があり、果てには追放されていきます(自分からナルニアをでていく者もあります)。
 アスラン信仰が、なんらかの形で崩れ、ナルニアに試練が訪れたとき、別世界からアダムとイブの息子と娘たちがやってきて、ともに試練を乗り越え、より輝くナルニアをとりもどすことが、ナルニア国ものがたりの中心のストーリィになっています。
 これは、神の与える試練なのでしょう。人はみな、原罪をせおって生まれてくるというのがピューリタンの教えですから、ナルニアを愛する子どもや住民たちが試練をのりこえ戦うことは、原罪を償うことに値するのでしょう。そして、試練と戦うことで、より強いアスランへの畏敬の念と、憧れ、つまり「信仰」を持つようになるのです。
 しかし、こんなふうに解釈して終わらせてしまうほど、つまらないことはありません。アスランとの出会いは、驚きであり、おののきであり、大いなる力、精神界の深さ、未知の世界への憧れを呼び起こすのです。そして、試練は心躍る冒険であり、多くの友人たちとの出会いがあり、食べ、笑い、踊り、歌うという、人生を豊かに楽しむ経験でもあるのです。アスランへの信仰はがんじがらめになることではなく、自由な選択として描かれています。

 とくに、『魔術師のおい』でのアスランには、深く心を動かされます。
 ルイスは、10歳のとき母親を亡くし、大海にとりのこされたような大きな衝撃を受けました。この話に登場する少年、ディゴリーもまた病気の母親をかかえ、胸を痛めています。ナルニアに、のちの白い魔女となるジェイディス連れこんでしまったのはディゴリーです。それでもアスランにあったディゴリーは、あの人こそお母さんの病気を治してくれるかもしれない、と思い、アスランに向かって歩んでいきます。母親のことを話すと、アスランは……。

・・黄褐色のその顔は、ディゴリーの顔に近々とよせられ、そして(ふしぎともふしぎ)きらきら光る大つぶの涙がライオンの二つの目に浮かんでいました。その涙は、ディゴリー自身の涙にくらべて、あまりにも大きく、よく光っていましたので、ディゴリーは、一瞬、ほんとうはライオンの方が、じぶんよりずっとおかあさんのことで心をいためてくれているにちがいないと思いこんだくらいでした。
「わが子よ、わが子よ」とアスランはいいました。「わたしにはわかっている。悲しみというものは偉大なものだ。この国ではまだ、それを知る者はあんたとわたししかいない。わたしたちはたがいに力になろう。」

 アスランは、悲しみは偉大なものだ、と言います。この言葉は胸に響きます。深い悲しみを知る者だけにしか、発せられない言葉です。この言葉は、ルイスの言葉とも言えるでしょう。そして、深い悲しみを知るものは、できたてのナルニアで、ディゴリーとアスランだけしかいないのです。悲しみを共有するものとして、アスランはディゴリーを受けとめます。二人の対面は、深く心にしみます。
 けれど、アスランは言います。ナルニアに悪を持ちこんだ償いをしなければならない、と。ディゴリーとポリーは天馬に乗って、リンゴ園へと旅立ちます。するとそこには、すでにリンゴを食べたジェイディスがいて、このリンゴを持って帰れば母親が助かる、母親を助けて再びもどってきて、この国をいっしょに治めようとディゴリーを誘惑します。このあたり、ジェイディスの言葉は巧みです。ディゴリーの母親を心配する心情をかきたて、母親を助けることに協力しようと申し出るのです。アスランとの約束は、ディゴリーの胸のなかから消えたわけではないのですが、母親のことを思うと、ジェイディスの言うとおりにすれば、すべてがうまくいくように思えるのです。ディゴリーは、迷いに胸を痛めます。
 ここでルイスは、ディゴリーの決心をどうつけさせたのでしょうか。
 一度した約束は守らなければならない、自分が犯した罪はつぐなわなければならない、と、母親を思う気持をおしきって、ディゴリーにジェイディスをはねのけさせることは、させませんでした。ジェイディスは、魔法の指輪をポリーが持っていることを知らなかったので、つい、ポリーは置いていけばよい、と言ってしまうのです。これは大きな失敗でした。ディゴリーはその言葉を聞いて、甘言を見破るのです。
 ただただ、裏切りはいけない、約束は守らなければならない、という義務を優先させた解決法であったなら、きっとナルニアはこれほど私の心に入ってこなかったでしょう。
 やみくもに何かを信じることではなく、痛みをのりこえ、自分で判断をし、行動するディゴリーをルイスは描きました。なにより母親を思う気持ちを殺さずに、判断をくだせる道を描いてくれたのでした。
 私も成人してからですが、母を病気で亡くしました。このショックを、大海に浮かぶ島のように感じることから、アトランティスコンプレックスと呼ぶそうです。子どものころ読んだときには、それほど気にとめなかったルイスの思いが、今回読んだときには、あたたかく強く胸に迫ってきました。

 ルイスは、53歳からナルニアを書きはじめ、57歳で『魔術師のおい』を書き終えました。先に触れたように、「ルフェイ断章」として筆を折ってしまい、『最後の戦い』を先に書き終えたそうです。ルイスは、ディゴリーに自分の体験を蘇らせることで、この物語を創作することができ、また生き生きとした物語にしあげられたのではないでしょうか。
 「ルフェイ断章」でディゴリーを誘惑したポリーは、ディゴリーを誘惑するのはではなく、励まします。ルイス自身がだれかに励まされながら、母親の死を癒していったのでしょうし、病気の母親を持つディゴリー少年をルイス自身が励ましたかったのかもしれません。10歳で母親を亡くしたルイスは、57歳になってやっとそのことを物語として還元できたのでしょう。ディゴリーの母親は、ディゴリーの持って帰ったリンゴを食べて、助かります。
 『喜びの訪れ』を読んでみると、この物語のディゴリーとポリーの遊びや、大きな屋敷などに、ルイスの子ども時代が反映されているように感じます。
 7冊のなかで、しいてどの話がすきかと聞かれたら、私は『銀のいす』と『魔術師のおい』をあげると思います。
 アスランが、ナルニアを誕生させる場面は、何度読み返しても感動します。ルイスはここに多くの時間とエネルギーをつぎこんだそうです。暗い何もない空間をアスランが歌いながら歩いていくと、そこかしこに命が生まれ、光がさしこんできます。
 
・・その時、子どもたちがこれまできいたこともなく深い、まことにはげしい声がいいました。
「ナルニア! ナルニア! ナルニアよ! めざめよ。愛せ。考えよ。話せ。歩く木々となれ。ものいうけものとなれ、聖なる流れとなれ。」(*6)

 そして、『最後の戦い』でアスランはこう叫びます。

・・「時がきた!」そしてもう一度さらに大きく「時だ!」と叫びました。それから、空の星々をふるわすほどの大声で、「時よ!」とほえました。戸は、さっと、ひらきました。(*7)

 最後に、姿を変えていくアスランが描かれています。

・・アスランがやさしくいいました。「あなたがたのおとうさんもおかあさんも、あなたがたみんなも、……影の国でつかうことばでいえば……死んだのだよ。学校はおわった。休みがはじまるのだ。夢はさめた。こちらは、もう朝だ。」
 こう、そのかたが話すにつれて、そのかたは、もうライオンのようには見えなくなりました。(*7)


6、なぜ、子どもたちは死んで真のナルニアに行き着いたのか

・・子ども時代に『ナルニア国物語』に魅せられて愛読した体験を持っている人が、大人になって再読してみると、その国が、キリスト教で提示される神の国そのままなのに気付いて愕然としたという話を聞いたことがあります。何故、子どものときは、あんなにおもしろかったのだろうかと。物語のおもしろさに夢中で、底を流れているキリスト教的世界観には気付かなかったわけです。(*8 「宗教と児童文学」三宅興子)

 まさに、ここにでてくる「大人になって再読して、愕然となった」一人は、私です。ほかにもそういう人がいたんだなあ、と安心しました。
 とくに、最後に子どもたちが元の世界でじつは死んでいる、ということが、子どもの私の心にひっかかっていたことを思い出しました。
 やっぱり、別世界は死なないといかれないものなのかなあ、と漠然と死後の世界について考えてしまったことを覚えています。それは、すっかりナルニアに魅了されてしまったので、憧れの世界に、結局死んでしか到達できないのか、というショックがあったのだと思います。つまり、別世界への憧れが死を見つめさせたことも確かです。これは現実に生きているのですから、けっこう息苦しいことでもありました。
 先ほど引いた三宅興子さんの「宗教と児童文学」のなかに出てくるのですが、17世紀にイギリスの多くの子どもたちに熱烈に読まれた『子どもたちへのおくりもの』は、喜んで死んでいった子どもの話を収録したものだそうです。苦痛や悪魔の誘惑をどのように退け、神によびかけ、いかに死ぬかといったことが、一人ひとりの子どもの話として具体的に書かれています。ピューリタンの教えでは、人間はみんな原罪を背負って生まれてくるので、きちんとした信仰がなければ、死んで地獄へ行って苦しむのです。そのことは、大きな脅迫観念で、いかに死ぬかは子どもにとっても大きな課題だったそうです。
 たとえば、マクドナルドの『北風のうしろの国』でも、ラストシーンは、ダイアモンド少年の死でした。死はこの物語の終りですが、その終りは永遠の物語の始まりなのです。死の扱いは、『ナルニア』と同じです。
 『子どもたちへのおくりもの』以来、「子どもの死は、多くの物語のハイライトシーンだった」と聞くと、新鮮な驚きがあります。たしかに宗教は、死と密接な関わりがあります。リンドグレーンの『はるかな国の兄弟』では、死はハイライトシーンではなく、はじまりです。死後の世界で会う約束をした兄弟は、死んで別の世界へいって活躍します。しかし、この世界でも死の影がおそい、さらに別の世界がまっているのです。現実のような別世界としてでてくる死後の世界に、私は違和感があったのですが、幼くして死を迎える子どもたちに贈る物語として読むと、納得できる気がします。

 思えば宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』も、物語全体を死の影が覆っていますし、同じ作者の『グスコーブドリの伝記』も主人公の死で終わります。それはまたほかの多くの命の始まりでもあるわけですが……。
 坪田譲治さんの作品も、子どもの死を結末が多いそうです。(「死生観・愛・神様 坪田譲治」五十嵐康夫 *9)
 坪田さんは、子どもが死ぬということは自然に帰ることであり、自然と合体するということであるので、小さいときから自然を愛することが一緒になって、文学のなかで、非常に大きな部分を占めるようになったのではないか、と語っているそうです。
 それに比べると、近年の児童文学作品に登場する死は、老人や動物が多いような気がします。医学の進歩で子ども自身の死も激減したのでしょうし、老人との同居が減って、子どもの日常から「死」が遠くなったということもあるでしょう。
 死生観の違いから、日本の作品のなかでの死の扱いは、イギリスの児童文学と同じではないのでしょう。たとえば小川未明の「金の輪」で、金の輪を回している少年といっしょに別世界(天国)へ旅だった少年は、一人きりではなく、道づれといっしょに天国へいったことを示しているのかもしれませんが、印象がぜんぜん違います。小川未明は実際に子どもを亡くしていますが、天国へ行く喜びではなく、子どもの死そのものを悼む気持ちが強く伝わってきます。
 それに、子どもの私は、今まで冒険をしてきたナルニアがじつは影の国で、ほんとうのナルニアは別にあった、ということには釈然としませんでした。今、生きているのは仮の生で、真の輝かしい生は死んでから先にある、ということは理解しがたいことでした。現実の世界で死ぬことが、別世界で永遠に生きられることだというのは、どうも受けいれがたく思われたのです。

 猪熊葉子さんは、死を作品に扱うことについて、
・・一般に大人は生命、成長の象徴であると信じている子どものための文学の主題としては、とかく不適切なものであると感傷的に考えがちである。だが死を描くことを恐れない児童文学作家たちが英米には珍しくない。(「英米児童文学における『自然』としての『死』の扱われ方」猪熊葉子 *10)

 として、『ピーター・ラビットのおはなし』のビクトリアス・ポターをはじめにあげ、作品が美しい自然を背景に描き、死を自然現象として当然そこにあるものとして、身近に扱っていることを指摘しています。また『ゲド戦記』(ウルスラ・ル=グウィン)3作目の『さいはての島へ』は、永遠の生は世界を破綻する原因になることを描いており、つまり死は、当然人間が行き着くべきものとして存在していることの重要さを示している作品とも言えます。
 英米の児童文学作家が、作品のなかに死を登場させることを恐れない理由のひとつとして、キリスト教の伝統があげられています。幼い子どもであっても、原罪をもって生まれてくると考えられているので、罪をもったまま死んだら地獄に落ちるのです。その悲劇を避けるために、大人は子どもに、すすんで死の準備教育をし、絶えず回心させるためにも、死を扱った本が必要であったそうです。
 また、ピューリタンにかぎらず、キングスリーやマクドナルドのファンタジー作品でも、死が重要な役割を果たしているので、キリスト教の影響で作品で死を扱う伝統が、イギリスの児童文学の歴史の底流にあったといって良いだろうと述べています。トールキンは『ファンタジーの世界』のなかで、「死はマクドナルドを刺激して作品を書かせた最大の主題」と書いているそうです。
 この流れの20世紀における後継者として、C.S.ルイスがあげられます。

・・彼の『ナルニア国ものがたり』七巻は、架空の国ナルニアに罪がもたらされたら、それはいかにあがなわれうるかという主題を、善と悪との相克、正と不正の葛藤、愛と犠牲の関係などに触れながら展開していき、この国の誕生から滅亡までの歴史を描いた本質的に宗教的な物語群である。(中略)
 『最後のたたかい』でこの国はほろびる。その後子どもたちは再生したナルニアに入るが、そのとき、彼らは列車事故で死んだのだった。死と生とは動物や人間など命あるものの特性ではなく、ひとつの国にも訪れる可能性のあることをこの作品は示している。そして死とは生を価値づけるものであることをルイスは、現実の死を代償にして、「他の国」において新たな生命をえた子どもたちの物語によって示したのであった。(「英米児童文学における『自然』としての『死』の扱われ方」猪熊葉子 *10)
 
 また、猪熊さんは、イギリスの児童文学は多くの時間ファンタジーを生み出してきて、異なる時間を往来する主人公たちは、必ず死に出会わなくてはならない、とも『時の旅人』(アリスン・アトリー)と『グリーン・ノウの子どもたち』(ルーシー・M・ボストン)を例にして書いています。
 また、河合隼雄さんの『子どもの宇宙』(*11)から、「ひとりの少女は、大人になるためには『乙女の死』を体験しなくてはならない。このことは免れることのできない結末なのである。(中略)少女にとって免れることのできぬ「とき」は、いつかやってくる。それはエリザベスにとっては勝利の嬉しい瞬間であるにしろ、メアリーにとっては死を迎える悲しみの「とき」である。この両面性をよく認識することが必要である。(筆者注・メアリーとエリザベスは『時の旅人』に登場する歴史上の人物だが、河合はこの二人を少女の内面における戦いとして見ると非常によく了解できると書いている)」という言葉に触れ、

・・河合のように見るなら、人生というものは、その生のただなかに死を含むものなのだ、といえよう。成長とは、その意味での死を代償としてなされるものなのである。(中略)
 時の流れの中には無数の生と死があること、異なる時との出会いは必ずその事実の認識をもたらすこと、しかしオールドノウ夫人やボギス(『グリーン・ノウの子どもたち』の登場人物・筆者注)が示しているように、それは悲しいものではなく、むしろ生を豊かに、喜ばしいものにすることを実感した彼女たちは、それらを人々に分かつべく美しい物語に仕立てたのであった。(*10)

 と、死を成長との関係でとりあげています。
 また、現実の世界と別世界への「通路」の意義と重要性について、河合隼雄さんは、上野瞭さんの『現代の児童文学』(*15)での指摘を見事だとし、二つの世界が「通路」によって結びついていることの重要さを書いています。きわめて大切なことは、別世界(教育学者の蜂屋慶さんの言葉では超越の世界)のみに心を奪われてしまうと、命を失うほどの危険が生じることである、とも述べています。
 別世界は、触れることはよいけれど、人間が住むことは拒絶している世界であって、あえて住もうとすると、人間としての破滅を導くというのです。だからこそ通路が必要であり、ある条件のもとで行き来できなければならないのです。
 上野さんは『現代の児童文学』のなかで『ナルニア国物語』をとりあげ、その「通路」に沿って解説をしています。ナルニアへの通路は、タンスであったり、学校の裏門であったり、指輪であたったりと巻ごとに違うのですが、『最後の戦い』においては列車事故、つまり死が「通路」になっていると指摘しています。つまりこのとき「通路」は行き来できるものから、閉ざされたものへと変容していることになります。
 現実と別世界の行き来が閉ざされたことは、永遠に別世界に行き続けられることであるとともに、永遠とは人間の世界にあるものではなく、神の世界に存在するものなのです。

・・一切の人間の営みに終末のあることを告げ、有限の人間世界は遮断される。読者は死後を約束され、そこに安息の地をみるように教えこまれる。(中略)
 それにしても、「通路」はつねに、ナルニア国へ、アスランのもとへと向っている。いうなれば、C・S・ルイスの場合、「通路」は、日常世界と神の秩序を結ぶことであった、といえる。(*15)

 たしかに人は、本当の死以外にも思春期に移行するときに、自分のなかで「子どもの死」を経験するのかもしれません。それは現実の死ではありませんが、現実の死の仮想体験として存在する「死」なのでしょう。そうして、人間は仮想体験の「死」を幾度か経験しながら生き、本当の死に向かうとも言えます。

 小原信さんのこんな文章があります。
・・「死ぬときはひとりである」ことに気づいたのは子どものころであった。しかし、そのことを認めるようになるまでには時間がかかる。しばらくはみつめる勇気さえないのだ。(*8)

 死を認められるようになるまでの時間、私たちは「通路」を行き来して、別世界に遊び、描かれた「死」に触れ、遊び、かみくだき、いずれ自分にもやってくる死を呑みこむ準備をしているのかもしれません。このことは、宗教と結びつけなくても、子どもが読む作品のなかで重要な位置を占めていることは確かなのでしょう。
 猪熊さんは、作品に描かれた死についてさぐってみることは、「児童文学の本質にかかわるさまざまな問題を提起すると思われ、いつかもっとつきつめて考えてみなくてはならないと考えている」とまとめています。

 作家である佐藤さとるさんは、次のように書いています。
・・私もかなりの数の作品を書いてきて、ファンタジーの法則としては、ずいぶんと多くのパターンを試みてきた。(中略) 「病気」や「怪我」もおそるおそる使ってみた。そして、「死」もきっと使えるだろうとは思っていたが、これだけはおいそれと手をつけたくないような思いもあって、そっとしてあった。人間の死については、もっともっと深い考えのもとでなければ、ファンタジーの法則などに使ってはいけないと自戒していたのである。
 それが、このナルニア国では、作品を書くそもそもの主題になっている。これは、人間の生と死と、そして復活の物語だった。はじめてこの大長編を読んだときの、胸の底にまで響いた衝撃は、今でも忘れられない。(*16)

 しかしいまだに、私にとって、いかに生きるかは、いかに死ぬかとイコールではありませんし、死後の世界が唯一の別世界であるとは認められません。別世界は、心の中の空間に生まれる世界、または心でとらえる現実世界でもあって、死後の世界とイコールにはならないのです。ただ、なぜ、ナルニアでは子どもたちが死によって、別世界へ永住できたかは理解できたように思えます。
 ルイスは、神についてこうも書いています。
 「宇宙の創造以来これまで、神は生物の死の神であった」(*14)
 

7、宗教とファンタジー

 さて、宗教とファンタジーとの関係を探るのに、キリスト教についてはごくわずかの知識しか持ち合わせない私は、『C・S・ルイスの世界・・永遠の知恵と美』(*14)を読んで、キリスト教の教えについても学ばなければなりませんでした。といっても、あくまでルイスがキリスト教をどう考えていたかを、ナルニアに関連づけて頭のなかで読み取っていたにすぎません。
 ます、20世紀の偉大なキリスト教弁証家であったルイスの信仰論を、ナルニアにそってとり出し、つぎに創造とファンタジーについてのルイスの考えを紹介しようと思います。

*生命について
 ルイスは生命について、生物学的生命を〈ビオス〉と呼び、霊的生命を〈ゾーエ〉という異なる名を与えて説明しています。私たちは生きているときには〈ゾーエ〉を持っていません。やがて死にいたる〈ビオス〉は、〈ゾーエ〉の影であり、写真と実物、彫像と生身の人間の関係にあります。
 このことは、影のような存在であるナルニアと真のナルニアとの関係に反映されています。

*愛について
 神は私たちに〈与える愛〉と〈求める愛〉の両方を植えつけますが、神の愛は〈与える愛〉です。人間の愛は本質的に愛すべき対象につねに向けられていますが、〈与える愛〉は容易に愛せないものを愛せるようにするものでもあります。与える愛自体である神がわたしたちのうちに入りこむときには、わたしたちは痛みを感じます。痛みを感じてさえも、わたしたちには神の〈与える愛〉が必要なのです。
 このことは、アスランを追っていくと、神の愛のきびしさと与える愛を、それを受ける人間がどう感じるかが、わかりやすく描かれています。

*神の存在の仕方
 神自身の権利において唯一存在しているという意味で、神は絶対的存在です。また、神の生は連続する時の流れに身をおいているわけではないので、あらゆるときは世界のはじめから神にとっては現在であり、神は時を超越して存在します。
 このことは、ナルニアを創世したアスランや、時を選んでナルニアにやってくるアスラン、『馬と少年』で神出鬼没に現れるアスラン、影のナルニアを終わらせるアスラン、というようにアスランに体現されています。

*神の奇跡・・受肉について
 受肉とは、キリストが神の子として地上に現れたとこであり、教義の中心には死と再生の主題が見られます。死と再生が自然のうちにあるのは、初めに神のうちにあったからです。このことで神自身が人間の歴史の中へ到来し、歴史の進路を決定的にします。
 このことは、アスランがナルニアに現れ、石舞台で磔にされ殺され、そして復活するところで語られています。

*創造について・・永遠の知恵と美
 創造とは神の行為であり、人間は詩人であれ、作曲家であれ、発明家であれ、究極的な意味では創造をしているのではなく、組み立てているにすぎません。無からの創造ということはありえないのです。
・・作家というものは、自分自身のことをこれまで存在しなかった知恵や美を存在せしめる者と決して考えるべきではなく、たんに、もっぱら自分の技により永遠の知恵と美をいくばくか具体的に反映させる者と考えるべきである。(*14)
 以上はルイスが語ったことであり、永遠の知恵と美とは、人間のものではなく、神のものです。トールキンの言うところの「準創造」も、同じような意味を持ちます。ナルニアにおいては、キリストをアスランとして描き、ナルニアを創世したアスランへの憧れを、読者である子どもたちが感じられるように書かれています。

 このように、キリスト教の教義とナルニア国物語との関連を連ねていくことは、まだまだできます。
 つぎに、創造を準創造であるととらえていたルイスが、ファンタジーについて述べたことを見てみたいと思います。
 私は、『喜びの訪れ』でルイスがどのように喜びや憧れと出会い、感じたかを知りましたが、実際に喜びや憧れというものは、形として見えません。それは、信仰も同じです。それは心で感じるものなのです。この心で感じるものを表現しようとするとき、「ファンタジー」は最良の手段だと言えます。別世界を構築するためには、自分のもっている別世界、すなわり精神界にたよって旅をしなければならない(「ファンタジーの弁護」 *14)、とルイスが言っているとおりです。
 そして、現実ではない別世界を描くことは、決して人を欺くことではなく、「子どもの読むことのできる文学で、ファンタジーほど現実の世界について誤った印象を与えないものはない」と、ルイスは主張しています。すなわち、大人は空想科学小説によって欺かれはしないけれど、婦人雑誌に掲載されているような日常に近い話によって欺かれるように、子どもは、ファンタジーの別世界によってではなく、一見リアリズムに依存すると思える学校小説のような作品によってこそ、欺かれるというのです。学校小説には、現実の学校がリアルに描かれているために、起こりそうもない冒険や成功を子どもがやってのけることで、現実もこうだと思いこんでしまいやすいということです。
 現実逃避の面でいうなら、すべての読書は現実逃避であるとして、先にあげた学校小説のような作品と、ファンタジー作品を読んだときには、読者のもつ願望に差があるとしています。
 一方は自己中心的な憧れで、一種の病気、もう一方は自己中心的でない憧れで、精神活動であるとしています。前者は、つまり一見リアリズムに異存する作品を読んで、クラスの人気者や成功者になることに憧れることであり、実際になれない場合は、不満とともに現実の世界に逆もどりします。しかし、後者の別世界での体験による、不思議な森への憧れは、現実の世界の森へ神秘の目を開くものであり、現実の森に幻滅するのではなく、森を見る目や感じる心を豊かにするというのです。(*14)
 つまり、ファンタジーの与える現実逃避とは、現実を新しく受けとりなおすための新鮮な目をもてるようにする、価値ある逃避ととらえられます。したがって、道徳的に非難されるようなものではありません。

 また、ファンタジーが現実にはなんの役にも立たないという、非実用的性質に対する非難には、ルイスはこう答えます。
 ファンタジーの価値とは、現実世界からの脱出(逃避)という形で、今日の世俗主義と自己に対する自我執着から、私たちの魂を解放させることによって、私たち自身の自己存在を拡大させることにあるのです。私たちは内と外を支配する世俗主義の呪縛を逃れて、別世界へ旅だち、ファンタジー世界の旅でかきたてられた憧れで、無我的夢想にひたり、自我から解き放たれて、自己自身をこえることが可能になります。
 そうして、旅から帰ってきたときには、ファンタジーの世界で与えられたリアリティー、価値観、倫理などによって、世俗主義的な現実世界を新たな眼で見ることができます。世界の隠れた真・善・美を認識し、生きる勇気と歓びを見出すことができるかもしれないのです。ファンタジーは、驚異と不思議の世界に遊ぶ歓びをもたらし、私たちに真の休息を与え、再び新しく生きる力を与えてくれるのです。(*14)
 なるほど、『ナルニア国ものがたり』もまた、別世界で遊ぶことにより、私に上記のような歓びとエネルギーを与えてくれたと思えます。

 今までに書いてきたように、想像的人間であったこと、子どもの本が自分が言いたいことを表現する最良の芸術形式だったこと、ファンタジーという形式がキリスト教の教えを伝えるのに適していたことに、さらに、「別世界の不思議と驚異体験は、生きる勇気とエネルギーを与えてくれる」と、ルイスが確信していたことがわかります。
 トールキンの『指輪物語』を友人として批評家として、いち早く読んでいたルイスは、そのすばらしさを自分で体験していたからではないでしょうか。
 『指輪物語』の作者トールキンもまた、敬虔なカトリック教徒でしたが、信仰が空想世界への扉を開くことについては、私にはこれ以上語れません。それは、人間にとって物語とはなにか、という大きなテーマになっていきます。いずれ、神話とファンタジーの関係をもっと深く広く、さぐってみたいと思っています。
 ただ、上野瞭さんが書いていることが、ルイスのファンタジーの弁護と非常に似ていて、そして、キリスト教徒ではない立場からの言葉として、ひとつの中間的総括としてひいておきたいと思います。

・・かつて、民話的世界にも、また、アンデルセンの世界にも、「ふしぎな世界」を成立させるものとして信仰が潜在していた。そのことはたしかである。しかし、物語世界がそうした信仰によって支えられていたとしても、物語それ自体は、かならずしも、信仰のあかしそのものに終るものではない。そこに敬虔な信仰の反映はあったとはいえ(あるいは、あったからこそ)、物語は、人間の奔放な空想の産物としての性格をもった。信仰にもとづくものであろうとなかろうと、奔放な空想は、規制され、固定化される人間の立場を否定し、そこから抜けだすための翼となる。解放の願望や、自由への憧れが、すべての「ふしぎな物語」にはこめられている。人間は、そうした奔放な話を語り、また聞くことによって、じぶんの今ある状態を知覚する。物語を反芻することによって、ありうるだろう生き方、あらねばならぬ人生を考える。(中略)
 そこに神を見るにせよ、見ないにせよ、こうした自然な関わり方を、何の疑いもなくできるのは、子どもである。子どもにとって、「ふしぎな世界」とは、なによりもまず、楽しい世界、そして、現実社会で抑圧されがちなじぶんを、そこから一時的にでもせよ解き放つ国である。(*15)


8、喜びと憧れを道連れにして

 ナルニアは、子どもによりそった描かれ方をしています。
 ルイスがこの作品を手がけたのは、53歳のとき、人間として成熟している年齢でした。そんなルイスが、こんなに子どもの心を揺さぶるものを書けるというのにも驚きですが、作品全体にあたたかい視線を感じます。
 物語には、伏線ははられていますが、必要以上に複雑になることは避けられていて、ひとつのことを追って読めるように配慮されています。世界を丸ごと描くなら、政治的にもっともっと複雑なことがたくさんあるはずですが、ルイスはいたずらにそこに踏みこまずに、子どもにわかるような単純化をじょうずにして、物語を構成しています。
 また、理屈だけではとうてい理解できないことも、目にみえ、感じられ、自分のこととして考えられるように描かれています。ここが子どもの読む文学として成り立っている理由だと思うのです。
 たとえば、多民族が豊かに共存する姿は、ナルニアにものをいうけものやフォーンやセントール、巨人、小人、沼人、その他多くの種族が楽しく暮らしていることで示されています。このものたちの存在を認めなくなった人間だけの国は、『カスピアン王子のつのぶえ』でテルマール人の国として描かれています。カスピアンがナルニアの王となるまでは、人間以外は隠れて住み、姿を現さず、その存在はおとぎ話となり、語ることも禁じられているのです。
 キリスト教は一神教であり、ほかの宗教には排他的である、という私のイメージは、カスピアン軍をみて崩れていきました。ナルニア軍は驚くほど多彩です。利口とはいえない巨人が、太い棍棒を持ってたっている横には、ハチミツ好きのくまが手をしゃぶっていて、やぎ足のフォーンや半身が馬のセントールも控えています。小さな小人族から、はてはねずみまで、一族をひきいて戦いに参加しているのです。さらに、木の精のドリアードや河の精が蘇り、近代的な合理社会と文明は、ひとつの扉から別の世界へと撤退するのです。
 私は、キリスト教こそが近代的合理主義と文明化を運んできたと思いこんでいました。未開の地への布教活動などから、そういうイメージが染みついていたのだと思います。けれど、イギリスのファンタジーの伝統では、フェアリ−・テイルズというのは、神話や伝承を母体に、キリスト教の信仰によって形作られた物語、とも言えるそうです。ですから、ルイスがフェアリー・テイルズという形式を選んだときに、これら雑多(?)な種族は喜んでナルニアを闊歩するのでしょう。実際に、ルイスは回心前には、北欧神話に啓示のような慄きを感じていますし、オクスフォード大学につとめるようになってからも、北欧神話やケルト神話を、トールキンと共に研究しています。

 ここで、トールキンとの関係について少し触れておきたいと思います。
 二人は、心の通じ合った友人同士でした。トールキンの『指輪物語』は、ルイスの批評や理解のうちに筆をすすめていったそうです。トールキンもまた、幼いころに両親を亡くしています。しかし、恋愛の末に結婚をし、安定した家庭を築きました。
 ルイスのほうは、結婚をしないで、戦死した親友の母親ムア夫人をひきとって、亡くなるまでいっさいの世話をしています。そして、離婚して子ども連れのジョイ・デイヴィットマンが、イギリスに住めるように形式的に籍をいれますが、ジョイが癌の宣告を受けると、病院で正式に結婚します。ジョイが亡くなるまでたったの3年間でしたが、幸せな時であったとルイス本人が書いています。
 さて、トールキンとの間柄は3つのことによって壊れていきました。
 一つ目は、二人が入っていたインクリングスに、チャールズ・ウイリアムスが入ってきたこと。
 二つ目は、ルイスが『ナルニア国ものがたり』を書いたこと。
 三つ目は、ジョイ・デイヴィットマンとの結婚。

 二人の性格や生きかたを書いた本(*17)を読みますと、そのあたりの事情が伝わってきました。性格的には、二人はまるで似ていません。しかし、興味を持つ方向は似ていましたから、同じ気持ちを持つものとして通じるものがあったのでしょう。けれど、自分でほとんど完結している完璧な人間であるトールキンは、いろいろな友人がいながら、ほとんどその影響は受けていないそうです。反対に、ルイスは友人から影響を受けて、生き方を変えていきます。
 創作方法も、同じ準創造というキリスト教的理念を持ちながら、トールキンは自分の想像した別世界の神話体系づくりから、地図をつくり、物語を組み立てていくといった綿密な方法をとるのにくらべ、ルイスは頭に浮かんだ1枚の絵のイメージから、イメージをつなげて物語をつくっていき、地図は徐々にできあがっていったようです。
 トールキンにとって、『指輪物語』という自分の作品のよき理解者であり、創造意欲を刺激してくれる友人であったルイスが、同じように何巻からなる世界の物語を書きはじめ、それが子ども向けで、ところどころに破綻があるような話であったことは、ゆるせないことだったのかもしれません。
 また、トールキンとしては、ルイスが影響を受ける人物は自分だけでよかったのかもしれませんが、ルイスは、友人を増やしていきます。神秘主義に傾倒していたというチャールズ・ウィリアムスがインクリングスに関わるようになり、ルイスがウイリアムスに影響を受けるようになると、二人の関係は冷えこんでいきました。
 さらに、となりに越してきて困っているからといって、子連れのジョイと籍を入れてしまう、ルイスの突飛ともいえる行動や、ジョイが癌に犯されていることを知って、正式に結婚してしまったルイスのやり方は、トールキンの理解を超えていたのでしょう。心を許した友人だからこそ、トールキンの怒りは高揚していったのかもしれません。ルイス亡き後も、トールキンは息子あての手紙で、二人の仲の決定的なくさびになったのは、ルイスとジョイとの結婚だったと書いています。

 今回、読み返してみたら、『ナルニア』に、『指輪物語』を彷彿させるような箇所が幾度もでてくることを知っておどろきました。まず、『ライオンと魔女』のフォーンのタナムスさんの岩穴の家ですが、思わずビルボの穴倉の家を思い浮かべました。旅の途中やだれかの家に招かれての食事場面の楽しさも似ていますし、なにより似ていると感じたのは、『カスピアン王子のつのぶえ』の森が動く場面です。
 『指輪物語・二つの塔』では、ガンダルフによってファンゴルンの黒い森が動いて、オーク鬼たちをふみつぶし、呑みこんでしまいます。ナルニアでは、アスランによって開放された森の精たちがやってくるのを見て、テルマール軍が「森だ! 森がきた!」と怖れおののいて逃げていくのです。『指輪物語』でも、「森が動く」というイメージがとても斬新で、印象深かった場面なのですが、読み返してみたら、ナルニアにも同じような場面があったので驚きました。

 似た興味を抱いて、心を打ちとけあった二人なのですから、作品に類似性があるのは当然なのかもしれません。けれど、描き方には大きな違いがあります。本田英明さんは「罪と償いの旅を最も重大なモチーフとしたトールキンと、転生への瞬間を繰り返し追い続けたルイスとの違い」と説明しています(*17)
 『指輪物語』では、一貫して物語を動かしていくのは、悪を代表するもの(モグロス→サウロン)の影です。サウロンの力は指輪に象徴され、指輪の力は悪の影響を広げ、それをめぐる登場人物の反応や行動が軸となって話がすすんでいきます。
 けれど、『ナルニア国ものがたり』では、なんといっても一貫して影響を及ぼすのは、善のアスランであり、アスランの行動にそって物語が展開していきます。
 トールキンとルイスの創作態度や物の見方、考え、性格には、根本的相違が見られます。つまり、トールキンは、善と悪との間でどう生きるかという問題をつねにとりあげ、ルイスは、憧れの気持ちを呼び起こしながら、神への信仰を追っているのです。

・・罪を凝視したトールキンが一方で贖罪をもう一つの大きなテーマとし、信仰への道すじを追い続けたルイスが転生を大きなテーマとしたのは当然のことである。(*17)

 しかし、先に触れたように共通点も多々あります。トールキンもまた幼い時に両親を失い、安定した心の生活を失った「アトランティス・コンプレックス」を持っていました。ですから、トールキンにとっても死は大きなテーマだったのです。『魔術師のおい』でのアスランとディゴリーのように、トールキンとルイスはともに深い悲しみを知る者として、互いを受け止めていたのではないでしょうか。そして、トールキンもまた別世界の創作を通して、癒されていったと思われます。

・・思えばエアレンディルの航海と、おそらくそれからヒントを得たと思われるリーピチープのアスランの国への航海には、二つの物語の形式、テーマ、創作態度の相違が集約されて表れていると言えよう。神話的世界の構図の中ですべての中つ国の者たちの罪を負って旅立つエアレンディルと、ひたすら至福の地を求め、湾曲していない世界をゆくリーピチープ。それはあたかも二人の作家がこのあとたどっていった道すじが違うことを表しているかのようだ。(*17)

 すべての者の罪を背負って旅立つエアレンディルに比べ、死よりも強い憧れを抱き、前を見つめて旅だつリーピチープの明るいこと、元気なこと。それに、リーピチープは、ねずみなのです。大いなる憧れも勇気も、小さき体にはちきれんばかりにつめ、東のかなたをめざして船をこいでいくリーピチープを描いた、ルイスの想像の、なんと輝かしく楽しいことでしょう。ルイスにとって「喜び」も「憧れ」も、想像にとっての指針であるとともに、道連れであったと思われます。
 ルイスはトールキンより10年早く亡くなります。妖精の国に告別の辞を述べ、大学で教鞭をとりながら長生きしたトールキンと、死ぬまで人間関係のなかで創作に向かっていたルイス。トールキンは息子に手紙で、ルイスとジョイとの結婚が二人の間に打ちこまれた決定的なくさびであったことを書き、一方、ルイスは、「友情」を論じた文のなかで、チャールズ・ウィリアムズとロナルド・トールキンの実名をだし、「私は私ひとりだけでは、一人の友達のなかに存する人間全体を活動させるには十分ではない。私は私自身以外の光がその人のすべての面を照らし出すことを欲する」(*17)と書きました。

 『指輪物語』と『ナルニア国ものがたり』が同じ時代に書かれたものだということ、二人が友人同士であったということを初めて知ったとき、私は驚きました。二つの作品は、私のなかで大きな位置を占めていたからです。小学校6年生で『ナルニア』を読んだ私は、高校生のとき『指輪物語』を読みました。『指輪物語』が圧倒的に心を占めているように思えましたが、読み返してみて、『ナルニア国ものがたり』が私のなかに別世界への「通路」を、なんと豊かに、楽しく明るくつくってくれていたのかに気づきました。
 『銀のいす』で、地下の国の女王は、うそっこの世界を想像でつくり出すのは、子どものお遊びだと言います。うそっこの世界は、ただのまねごとだと言います。

・・ほうらね、あなたのおっしゃるライオンも、さっきの太陽とどっこいどっこいじゃありませんの。あなたがたは、ランプを見て、それよりも大きくてすばらしいもののことを頭で考えて、太陽といいましたね。いまは、ネコを見ていたところから、ネコより大きくて強いものがほしくなって、ライオンといったのでしょう? まあね、正直に申しあげれば、それはただの、うそっこですよ。みなさんがもっとお小さければ、うそっこをして遊ぶのもいいでしょう。でも、このほんとうの世界、ここだけがこの世でただ一つの世界であるわらわの国から、何かをまねして想像しなくては、うそっこもなりたたないじゃありませんか。(中略)
 わらわは、ほんとうの世界、じっさいの世界であるこの国で、あなたがたみなさんのためになろうと思っているのですよ。ナルニアはありません。地上の世界はありません。(*4)

 王子と子どもたちが、ナルニアはなかったとうなずいたとき、沼人の泥足にがえもんは言います。この反論がすてきです。ナルニアは本当にあるんだ、とは言い返さずに、もし、ナルニアが想像ならばそれでかまわない、と断言するのです。

・・ひとこと申しまさ。あなたがおっしゃったことは全部、正しいでしょう。(中略)けれどそれにしても、どうしてもひとこと、いいたいことがありますとも。よろしいか、あたしらがみな夢を見ているだけで、ああいうものがみな……つまり、木々や草や、太陽や月や星々や、アスランそのかたさえ、頭のなかにつくりだされたものにすぎないと、いたしましょう。(中略)その場合ただあたしにいえることは、心につくりだしたものこそ、じっさいにあるものよりも、はるかに大切なものに思えるとういことでさ。(中略)あたしらは、おっしゃるとおり、遊びをこしらえてよろこんでる赤んぼ、かもしれませんよ。けれども、夢中で一つの遊びごとにふけっている四人の赤んぼは、あなたのほんとうの世界なんかをうちまかして、うつろなものにしてしまうような、頭のなかの楽しい世界を、こしらえあげることができるのですとも。そこが、あたしの、その楽しい世界にしがみついてはなれない理由ですよ。あたしは、アスランの味方でさ。たとえ今、導いてくれるアスランという方が存在しなくても、それでもあたしは、アスランを信じますとも。あたしは、ナルニアがどこにもないということになっても、やっぱりナルニア人として生きていくつもりでさ。(*4)

 ルイスが子どものころ引っ越した大きな屋敷は、戸口から景色が見渡せたそうです。
 私は、この戸口に立つルイスを思い浮かべ、再びはるかに広がるナルニアに思いを馳せました。
 子どものとき、私に豊かなイメージを創造する「喜び」(ジョイ)を伝えてくれた『ナルニア国ものがたり』。もういちどひもといた物語は、私にとって不思議さと驚きと喜びにあふれる世界でした。
 宗教や哲学について学ぶことは、人間への理解がより深まることだと思います。どんな信仰や哲学をもって、どんな生き方をするのかは、その人の生み出す作品にとって、大きな位置をしめるということもあらためて感じました。ルイスの信仰をまるごと理解することはできませんでしたが、ルイスという人をより知ることになったと思います。人間としてのルイスに、新たな理解と共感が持てました。
 オルダス・ハックスリーは、「人生は生きるに値するという証明不可能な信念を証明する一番の近道は、ノンセンス作品の存在だ」と書きましたが、「ノンセンス作品」を「ファンタジー作品」と換えても、私にはしっくりきます。ルイスは、「喜びと憧れ」を道づれにしてファンタジー作品を創造し、私はそのことを受けとったのだと思います。
 最後に上野瞭さんの言葉をひきたいと思います。

・・子どもが「通路」を潜り抜けて、「ふしぎな世界」にはいるのは、堅実な人生態度を学習するためではない。信仰に目ざめるためでもない。人間認識や信仰という布石があるとしても、それは大人の配慮である。子どもは、それに気づく場合もあるし、気づかない場合もある。気づくとしても(中略)物語のなかに展開される「ふしぎな世界」を、そっくりそのまま楽しむ仕方で理解するのである。こんなにおもしろい世界が存在するのかというその驚き。その感動自体が、作者の意図の享受につながっているのである。
 子どもは考える。人間は、こんなふうなおもしろい世界をさえ思いつくことができるのが。人生は、これほども驚きに充ちているものなのか。そう考える。それは、とりもなおさず、大人の配慮に気づいたことである。この感嘆には人生の発見がある。日常的世界では、ほとんど気づかずにすごした人間の可能性の発見がある。おもしろさとは、発見なのである。「ふしぎな世界」は、その意味で、人間の可能性を開いてみせる役割を果している。(*15)

 1963年7月、クライブ・ステイプルズ・ルイスは、腎臓が悪くなり、大学をやめました。10月、兄に「僕はやりたいことは全部やりました。行く用意はできています」と言い、11月22日の夕方、静かに息をひきとりました。あと一週間で65歳の誕生日だったそうです。同じ日に、オルダス・ハックスリーとケネディ大統領が亡くなりました。
 私は、この年4歳でした。『ナルニア国ものがたり』とであうのは、それから7年後のことです。

(参考文献)
1、『ナルニア国ものがたり1 ライオンと魔女』(C.S.ルイス、瀬田貞二訳、岩波書店、1966年)
2、『ナルニア国ものがたり2 カスピアン王子のつの笛』(C.S.ルイス、瀬田貞二訳、岩波書店、1966年)
3、『ナルニア国ものがたり3 朝びらき丸 東の海へ』(C.S.ルイス、瀬田貞二訳、岩波書店、1966年)
4、『ナルニア国ものがたり4 銀のいす』(C.S.ルイス、瀬田貞二訳、岩波書店、1966年)
5、『ナルニア国ものがたり5 馬と少年』(C.S.ルイス、瀬田貞二訳、岩波書店、1966年)
6、『ナルニア国ものがたり6 魔術師のおい』(C.S.ルイス、瀬田貞二訳、岩波書店、1966年)
7、『ナルニア国ものがたり7 さいごの戦い』(C.S.ルイス、瀬田貞二訳、岩波書店、1966年)
8、『喜びのおとずれ』(C.S.ルイス、早乙女忠・中村邦生訳、冨山房、1977年)
9、『日本児童文学 文学と宗教』(日本児童文学者協会、文溪堂、1992年8月号)
10、『日本児童文学 児童文学に描かれた自然』(日本児童文学者協会、文溪堂、1994年11月号)
11、『子どもの宇宙』(河合隼雄、岩波新書、1987年)
12、『ファンタジーの発想・・心で読む5つの物語』(小原信、新潮選書、1987年)
13、『増補改訂 C.S.ルイス『ナルニア国年代記』読本』(山形和美・竹野一雄編、国研出版、1995年)
14、『C・S・ルイスの世界・・永遠の知恵と美』(竹野一雄、彩流社、1999年)
15、『現代の児童文学』(上野瞭、中公新書、1972年)
16、『ファンタジーの世界』(佐藤さとる、講談社新書、1978年)
17、『トールキンとC.S.ルイス』(本田英明、笠間書院、1985年)
 

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