私とファンタジー その8

メアリー・ポピンズ


● 『風にのってきたメアリー・ポピンズ』 
  『帰ってきたメアリーポピンズ』(1963年)
  『とびらをあけるメアリー・ポピンズ』(1964年)
  『公園のメアリー・ポピンズ』(1965年)
 (P.L.トラヴァース、林容吉訳、岩波書店)


●なぜ『メアリー・ポピンズ』か

 「メアリー・ポピンズ」のシリーズを子どものころ好きだった、ということは覚えているのですが、その後、なんとなく本棚からこのシリーズを引き出すことは少なかったように思えます。強烈な印象でなく、ほんわりとした淡い夢のような印象が残っています。あえて、「わたしとファンタジー」でとりあげるかどうか迷っていたので、本棚からとりだして開いてみました。すると、『とびらをあけるメアリー・ポピンズ』の見返しに、「りえちゃん、おたんじょうびおめでとう! 1970年2月」という叔母のサインを見つけたのです。その字から、あざやかに記憶が蘇ってきました
 『風にのってきたメアリー・ポピンズ 帰ってきたメアリー・ポピンズ』の2冊合体本を読んだあとに、続編があることを知った私は、叔母さんに誕生日のプレゼントとして残りの2冊をたのんだのです。1970年といえば、私は小学校5年生。ですから、多分最初の2冊は小学校3〜4年生くらいで読んだのだと思います。
 そうです。私はこのシリーズが気に入っていました。ひとつひとつのお話もよく覚えています。それではなぜ、今回、とりあげるか迷ったのでしょう。
 どこかで読んだ、こんな文が頭のすみにあったのかもしれません。「メアリー・ポピンズは、子どもに対して威圧的なうえに、気分屋でお高くとまっている」。たしかに、メアリー・ポピンズは、いばっていて、自分勝手で、子どもに対して威圧的であると思えました。なるほど、とうなずき、ちょっと屈折した思いを抱いたまま、本棚に放置してしまったのかもしれません。
 また、シリーズ全体に『ナルニア国ものがたり』のような強烈な印象がありません。大人になっていくにつれて、印象が霧のかなたへ薄れていくような感触があります。だから、大人になった今、『メアリー・ポピンズ』はおもしろい!とあえて言う意欲がわかないのでしょうか。
 『メアリー・ポピンズ』については、評論も少ないようです。『日本児童文学』を探してみたら、清水真砂子さんが投稿した文が見つかりました。これを読んで、私は、「うーむ」とうなってしまったのです。
 論文全体は後に紹介するとして、最後に、こう書かれていたのです。

・・私は今、あらためて、私の知っている子どもの言った「『メアリー・ポピンズ』は面白くない。」との言葉を反芻している。この文のずっとはじめの方でも述べたように、私はこれまで多くの子ども達がこの作品を愛読してきたと言われることに疑問を抱き始めているし、もし事実であるとすれば、そこにはなお一層大きな問題がかくされているのだと思うようになっている。本屋の店先から実際に本を買うのは誰か。いや、その前に、本を買い得るのはどのような人々か。また、買い与えられた本を子ども達ははたして本当に読んだのか。もし読んだとして、彼等が何の不満も物足りなさも感じないで、ただ楽しく読めたのだとしたら、一体それはどのような子どもであったのか。そうしたいくつかの疑問を今後の課題として、更に考えていきたいと思っている。(1966・6・26)(「メアリー・ポピンズ」のファンタジーについて 清水真砂子 *6)

 私はまさに、『メアリー・ポピンズ』を本当に読んだ子であり、おもしろいから続編を誕生日のプレゼントに選んだ子なのです。つまり、「一体それはどのような子どもであったのか。」と、言われる子どもにあてはまっています。
 ここで、私はハタと気づきました。なんと、研究対象がまさにここにいるではないか。子どものころの私が、どう『メアリー・ポピンズ』を楽しんだかを追っていけば、清水真砂子さんが探ろうとしたシリーズの問題点が浮きあがってくるかもしれません。思わぬ課題を見つけました。
 こうして、子ども時代の自分に目を向けつつ、『メアリー・ポピンズ』シリーズを読み返してみることにしました。

●詩的な成り立ちの世界

 4冊の本を読むのには、思いもかけずに多くの時間がかかりました。
 ストーリー物ならば、もっと勢いよく読めたのでしょう。でも、このシリーズは一話、一話が独立したお話であり、それぞれ別の世界を抱いているのです。イメージを広げてお話を楽しむためには、一行ずつゆっくり読んでいくことになります。書かれている言葉をかんで含んでいるうちに、情景が見え、広がっていきます。それは、不思議世界へいざなう抒情詩のようでもあります。
 忙しくてせっかちの私を、こんなにゆっくりすすませてくれるお話とは思いもかけませんでした。昨今、ゲームのようにジェットコースターのように、スリルと連続するおもしろで、おもわずページをめくる手を止められない、という売りの物語が多いようですが、このシリーズはまったく正反対。思わずページをめくる手がとまっている・・、というゆったりさなのです。
 それは、子どもたちの日常が舞台になっていることもあると思います。子ども時代は、時がゆっくり過ぎていくように思え、たいくつしたものでした。小学校って6年もあるのか、とため息をついた覚えがあります。図書室で本を借りて帰る土曜日のお昼。午後からはゆったりとした、とまったような時間のなかで過ごしました。よく考えてみれば、ランドセルをほうりだして、暗くなるまで遊んだ、という記憶もありますから、それなりに活発に出歩いていたのでしょう。けれど、私の息子も、友だちと遊んで、本を読んで、テレビを見て、その隙間のほんのひとときに「ああ、たいくつだ!」と嘆くのです。子どもには、大人とはちがう時間の流れがあるのかもしれません。
 仕事から帰り、夜のひと時に読みすすめようとすると、この本は独自のペースを私に要求してくるのです。子どもとつきあうのは楽しくても、すでに経験してわかりきったことや、くりかえし同じものを楽しむということは、大人にとって苦痛なことがあります。時間の無駄使いをしているような気になるためでしょうか。この物語は、「時間のむだ使いをしなさい」とばかりにスローテンポで展開し、しかもときには、十分重みのある哲学的な内容までもりこんで、ゆっくりと私に語りかけてきました。
 なるほど、清水真砂子さんが読み返してみて、「これほど現実と非現実が融合したファンタジーがあるだろうか」と、感心したというのがわかるような気がします。どのお話もくふうされているし、おもしろいのです。そして、さまざまな要素がもりだくさんのため、一話ごとにその世界へ入っていって、かみしめて読んで、出てくるという手順をふまなければなりません。時間がかかるわけです。
 さて、メアリー・ポピンズの4冊の本は読んだし、このお話について書かれた文も一応目を通しました。さあ書こうかな、と思ったとき、なんだかかったるくなってきた自分を発見しました。あれ、どうしてなのでしょう?
 そこから脱するために、視点を変えてみることにしました。

●メアリー・ポピンズって魔女だったの?

 「メアリー・ポピンズって魔女だったの?」と、意外性をもって読んだのは、佐藤宗子さんの文章でした。

・・大別して二つの「魔女」イメージがあるとはいえ、非日常と日常がもう少しからむ「魔女」たちもいないわけではない。メアリー・ポピンズや、長くつ下のピッピがそれに該当する。
 上野瞭『わたしの児童文学ノート』(理論社’70)には、「魔女失格」と題するメアリー・ポピンズ論が収録されている。(中略)
 これに対して安藤美紀夫は、『世界児童文学ノートU』(偕成社’76)の中で、上野の意見を肯定的に紹介したのちに、家政婦という「雇用された魔女の限界」があり、それは「明らかに時代がもたらした限界」であると述べる。(「『魔女』という見立て・・日本における『定着』をめぐって・・」 佐藤宗子 *10)

 佐藤宗子さんは、「魔女」という視点から物語を見ていくと、いく種類かの魔女の体系分けが可能であったり、児童文学でとらえきれない魔女の性質があるといい、そのなかで、非日常と日常がからんだところに登場する「魔女」として、メアリー・ポピンズをあげています。この文にでてきた上野瞭さんは、「魔女失格」(*8)という文で、メアリー・ポピンズをどのような魔女としてとらえていたのでしょうか。なんと、「うさんくさい魔女」と書いているのです。
 魔女でなければ起こせないような不思議を、つぎつぎと引きおこすメアリー・ポピンズ。それを承知のうえで、メアリー・ポピンズがほんとうに魔女なのかどうか、うさんくさく思い、疑っているというのです。つぎつぎと起こる不思議なことを見せられるからこそ、見せられれば見せられるほど、うさんくさく思えてきて、「穏当ないいかたではないが、『だまされた』と、いいたくなるのだ。」と書いています。
 これはどういう意味なのでしょうか。上野さんは、メアリー・ポピンズの後ろを、ジェインとマイケルといっしょに読者としてくっついて歩いてみたけれど、「架空の世界へのながいながい旅、つまり、口うるさいママや教師や、『横断歩道だ、手をあげて。右みて、左みて、すばやく渡れ!』などがない世界へ、どっぷりひたってみたい切なる願い」や期待が、途中で小さく小さくしぼんでいったというのです。

・・どうして、メアリー・ポピンズは、ジェインやマイケルを「いい子」でいさせようとするのだろう。(中略)
 メアリー・ポピンズのいいつけを、きちんと守っている限り魔法を見せてくれるなんて、これは反則じゃないかな。(中略)
 当然、ぼくらは、ふしぎな世界を知ったなら、その通路をじぶんで覚え、入国条件を手に入れて、じぶんの力で、この日常的世界からとび出してみたくなる。「いい子」かわるい子か、そんな価値判断をするメアリー・ポピンズの統制下で、あれこれ、ふしぎに参与したいと思わないのだ。(中略)
 魔女ってものは、もっとわるいものじゃないのか。(中略)
 メアリー・ポピンズは、腹をたてるどころか、彼女自身が、もう、ひとつの学校みたいなものだ。みんな、いいつけどおりに従わそうとする。すごい意地悪な教師だ。かわいそうに、ジェインやマイケルは、その魔法みたさに、すっかり「いい子」になって、メアリー・ポピンズなしじゃ、夜もあけないほど、いかれっちまうんだ。人間の日常生活に献身する魔女。ぼくは、そこに「うさん臭さ」を感じるのだ。(*8)

 ここで早くも、清水真砂子さんの問題としている、この物語を「ただ楽しく読めた子ども」像のとらえ方が見えてしまったような気がします。清水さんは、さきほどあげた論文のなかで、「ポピンズなしに自分達が何一つ出来ないことを認めていながら、そういう自分達に対して別に腹も立たないのがこの作品の子ども達なのだ。この子ども達と読者である子ども達が、なおも行動を共にしようとすれば、彼等は自分達の中におこる苛立ちを押えてポピンズについていくよりほかない。」(*6)と書いています。
 また、「ファンタジーとは単なる遊びごとではなく、たとえ直接的でないにしろ、私達の現実の生活の中に隠れている可能性を見つけ出して、それによって現実を変革していくエネルギーとなるもの、そういう何か非常に創造的なもの」であると、ファンタジーについての作者の考えを述べ、メアリー・ポピンズにおいては、作者トラヴァースは大人の態度を批判することはあっても、おおむね現状を肯定、維持しようとする姿勢が感じられると書いています。

・・現状に満足している人間にとっては、その中でぬくと安定した生活を続けている人間にとっては、自分達のいまいる状況は何ら検討を要しないものであろう。彼等にとって現実は維持するより他なすすべを知らぬものであり、ファンタジーとは、現実とは切り離して考えるべきものであるのかも知れない。(中略)
 「メアリー・ポピンズ」の作者にとって、実際に自分のいる世界は、根本的にはもはや何らあらためて検討するには及ばない世界であったのである。現状を肯定し、維持していこうという姿勢を根本的にとりながら、ファンタジーをそこに持ち込もうとしても、それはただするりと通りぬけるだけであろう。このような姿勢の中では、ファンタジーはなるほど単なる外部的存在にとどまり、内部に浸透し、そこで新しいエネルギーを生み出すことはないであろう。(中略)
 自分は居心地のよいこたつに入って、傍で室内ゲームをおとなしくしているような子ども達にむかって、目にうつる大人を批判し、様々の不思議世界を展開し、ファンタジーの重要性を説いたところで、それは傍の子ども達を楽しませはしても、彼等を外へひっぱり出すことはできず、また一方、大人の傍をはなれて、北風の吹きまくる戸外で活発にとびまわって遊んでいる子ども達には、ちっとも面白くないものだと言えると思うのだ。(*6)

 ここまで読んでくれば、いったい「メアリー・ポピンズ」のなにが問題とされているのか、それを楽しんで読む子どものなにが危惧されているのか、すっかりわかってしまうというものです。
 そこで軽く自己分析をしてみれば、私はちょっとこわくて不思議な力のある大人のあとを不思議みたさに素直についていって、不思議を見せてもらって満足している、「大人のいうことを聞くよい子」であった、ということになるのでしょうか。現状を維持し、きちんとさせる「魔女失格」である、メアリー・ポピンズ。強い大人の後を不思議みたさについて歩く、受け身の子であるジェインとマイケル。
 でも、そんな構図で終わらせてしまうほど、おもしろくない話なのでしょうか。
 清水さんは、この話の「現実と空想の見事な融合」に驚き、「これほど自由自在に空想の世界と現実の世界との間を行き来する物語」はないとも書いています。さらに、「ポピンズは明らかに超人でありながらも、現実の世界の人間の持っている性質も兼ね備えているということ、つまりひどく日常的な面をもっている」ことに魅力があるとも書いているのです。けれど、その一方で漠然とした不満を抱いて追求してみれば、上記のようにとらえられた、ということです。
 納得できるし、どこか納得できない・・。
 私は悶々とした思いをかかえ、またまたキーボードを打つ手がとまり、意欲が萎えていくのを感じました。一つひとつ反論しようと思えば、できないことはないのです。でも、自分の体験だけでムキになって言い返す意欲も、正直いってわいてこないのでした。

 さて、視点を変えたはずがもとにもどっていました。
 メアリー・ポピンズを表す言葉として、「魔女」しかないのかどうか。私が子どものころ抱いたイメージは、不思議な親族をもち、動物や海の魚たちや月や太陽とも知り合いであるメアリー・ポピンズは、なんとなく、魔女よりも妖精に近いという感覚でした。メアリーは、不思議を背負った人、不思議をひきつれてくる人なんですね。
 さて、メアリー・ポピンズの年齢についてどう思いますか? 子どものころは、若い娘さんという印象はなく、絵からもおばさんに見えました。オランダ人形のようということで、まるで木でできているかのように、やせていて寸胴のスタイルです。そのメアリーが、新しいブラウスや手袋や帽子の花をウインドウに映して、うっとりする場面も、若い女性というよりは、ある程度年をいった女性のように思えました。
 でも、マッチ売りのバートとデートに行くし、バートはうっとりとしてメアリーに見ほれます。絵をみると、二人は恋人同士というより、親子に見えます。絵から見ても、メアリーは、年齢不詳です。
 風とともに山をおりて、人間界にやってくる人物、と考えていて思いあたったのは、あれ、もしかしてメアリー・ポピンズって日本でいうと山姥? ということでした。メアリー・ポピンズの魔法には、自然が大きくかかわっているのが特徴です。
 このことをうまく分析している文を見つけました。

・・超能力の持ち主メアリー・ポピンズがロンドンのある家庭の乳母兼家庭教師になるために風にのってやって来たのは、日本でいえば北風にあたる東風がごうごうと吹きつける寒い冬の日であった。再び風が変わる日まで滞在するポピンズは、明らかに東風の精であり、冬神の後裔といえる存在である。彼女の魔力は自然の精であるからこそ可能なものである。(中略)
 ポピンズは、『不思議の国のアリス』(一八六五)の赤の女王と並んで、イギリスの子ども部屋の絶対的な権力者である乳母を風刺する人物ともいわれる。冬の精であるポピンズに、人間として厳しい側面があるのは当然といえるかもしれない。(中略)
 現代の作品である『メアリー・ポピンズ』には、キリスト教のイメージはない。むしろポピンズにあるのは、ペローやグリムの昔話に出てくる『賢い女』(ワイズ・ウーマン)のイメージである。いまでは「ワイズ・ウーマン」は一般的には「魔女」と訳される。かつて「賢い女」は、自然界の秘密に通じた呪者としてあがめられた。しかし、唯一神しか認めないキリスト教が広まるなかで、彼女たちは魔女としておとしめられるようになった。ポピンズにはその「賢い女」のイメージがあるのである。(中略)
 子どもを守る者であり、不思議な力を持つポピンズは、「シンデレラ」の妖精に似ている。シンデレラにかぼちゃの馬車や豪華な衣装を用意する人物は、仙母とか代母と呼ばれる。ポピンズもまた、シンデレラの仙母と同じに、子どもたちにとってあくまで頼りがいのある中年の「賢い女」なのである。(「魔法ファンタジーと季節の神話」 谷本誠剛 *13)
 
 私の抱いていた疑問は、「なあるほど!」といった具合にとけてきました。そこで、『メアリー・ポピンズ』の生まれた時代背景をのぞいてみることにしました。

●プライスさんは現代の魔女

 猪熊葉子さんの「戦後イギリス児童文学におけるファンタジー」で、ファンタジー作品の流れのなかで、『メアリー・ポピンズ』を見てみたいと思います。
 メアリー・ポピンズの一作目が書かれたのは、1934年。2作目もすぐ翌年の1935年に書かれています。けれど、3作目の『扉をあけるメアリー・ポピンズ』はほぼ10年後の1943年、第二次世界大戦中に書かれることになりました。この本のあとがきにあるとおり、戦争の影響でメアリー・シェパーズの絵が届かないという状況があり、主に「末永く幸せに」の一部は、アグネス・スムスによって描かれた絵を使用しています。そう思って見てみれば、ここだけ絵のタッチがちがうことがわかります。
 戦争は、人の心に大きな傷を残し、多かれ少なかれ、文学作品にも戦争の影が落ちてきます。戦争は、文学作品の流れをとらえるのに重要なことがらです。
 『メアリー・ポピンズ』は、現実世界のなかに非現実世界をもちこむ構造になっています。この構造を開拓したのは、19世紀末〜20世紀初頭にかけて作品を書いたネスビットです。『砂の妖精』を楽しく読んだおぼえが私もあります。
 このネスビット作品の後継者として、メアリー・ポピンズがとらえられます。

・・「メアリイ・ポピンズ」は、ネスビットの耕した土壌から見事に咲き出した花の一輪であったのである。しかし、「メアリイ・ポピンズ」は、まだ過渡的な段階にあった。というのは、この作品のめざすところは、「ふしぎの国のアリス」同様、ファンタジーの非現実世界の途方もなさ、ふしぎさを楽しませることにあり、メアリー・ポピンズは、アリス同様、「ふしぎの国」のふしぎさに読者をみちびいていく案内人の役割を果しているにすぎず、アリスよりは複雑な性格を与えられてはいるものの、依然性格というには、あまりに扁平な人物だからである。
 ふしぎの国のふしぎさは万華鏡のように次々に読者の眼前にあらわれては、消えていくのが特徴であるから、そのなかで主人公の性格が徐々に明らかにされていくことはない。メアリー・ポピンズは「風にのって」非現実の世界から、すでに出来あがったものとして現実世界へ配達されてき、はじめから終りまで同じ謎の人物として止まっている。(「戦後イギリス児童文学におけるファンタジー」 猪熊葉子 *7)

 多少扁平な描き方であっても、メアリー・ポピンズは「それまでのファンタジーの常識を破る主人公」であって、非現実の世界からやってきて、不思議をまきおこしながら、乳母として子どもたちの世話もしっかりみ、自分の容姿に非常にこだわり、誇り高く、ある部分、偏屈な人物として描かれていると言えます。
 この、メアリー・ポピンズがさらに人間的になったのが、メアリー・ノートンの描いた魔女プライスさんだと、猪熊さんはつないでいきます。
 プライスさんといえば、『床下の小人たち』のシリーズを書いたメアリー・ノートンの初期の作品『魔法のベッド・ノブ』(日本での書名は『魔法のベッド南の島へ』)にでてくる、魔女です。プライスさんは、ピアノの教師をしながら村でくらしているひとり暮らしの女性ですが、じつは家の中には秘密の部屋があって、魔女の修行をしています。プライスさんは非現実の世界からきたのではなく、魔女の素質を受け継いだ人なのです。感情の動きも行動も、ふつうの人間と変わりありませんし、その描かれ方は写実的で、プライスさんという人物が目に浮かんでくるようです。
 私も、子どものころ図書館で借りて読んだのですが、それほど印象的ではありませんでした。ベッドが飛んで南の島へ行ったことはおぼえていますが、心おどる冒険の話として残っていません。ですから、この機会に読み返してみました。
 読んでみたら、私は、すっかりこの物語にはまっていました。プライスさんという人物の揺れ動く心もちが、手にとるように伝わってくるのです。年齢的にも性別としても近いのですから、当然といえば当然なのですが、それほどノートンという作家は、魔女や魔法を描きながらも、人間の内面をリアルに書いているのです。この物語は1945年の終戦の年にでたそうですが、この年を「プライスさんの年」と呼ぶ人もいるそうです。この作品が、戦後のイギリスファンタジーの出発になったからです。
 ノートンは、1903年にイギリスで生まれ、芝居好きだったのでオールド・ピッグ座で舞台にたっていました。結婚して舞台を退いたのち、夫とともにポルトガルへ渡って、子どものための著作をはじめました。戦争中は、4人の子どもをつれてアメリカへ渡っていましたが、終戦前にイギリスに帰って、作家活動を再開したのです。
 戦争をとおりこして、こんなに物語の描き方が変わってしまったのか・・という驚きにとらわれました。日本の児童文学でも、いぬいとみこの『木かげの家の小人たち』や佐藤さとるの『コロボックル』シリーズには、ノートンの流れを感じないではいられません。

 プライスさんにもどります。プライスさんは、ほうきで空を飛ぶ練習をしています。つまり、魔法がすばらしく使えるわけではないのです。案の定、ほうきから落ちて、足をくじいて動けなくなってしまいます。物理的な重さにとらわれて落ちたのですし、けがを自分で治すこともできません。そういう現実的な制約のなかで生きる魔女なのです。
 倒れているところを、ケアリィ(♀)、チャールズ(♂)、ポール(♂)という、ロンドンからきた3兄弟に見つけられ、魔女だと知られてしまいます。ひそかに魔法の修行をしてきたプライスさんは、自分が魔女だということを隠しておきたいので、子どもたちをだまらせておくために、ベッドのノブに魔法をかけます。いちばん年下のポールの言うことしかきかないという制約をつけたために、子どもたちは最初にお母さんのいるロンドンに、ベッドにのって飛んでもどってしまいました。夜の街で警官に見つかり、保護されてしまった子どもたちは、なんとか大人の目をかいくぐって、ベッドにのって逃げ帰ります。
 つぎは、失敗しないように南の島にいく計画を念入りにたて、プライスさんも同行します。のんびりと南の島で遊ぶはずが、島の原住民につかまって、島の呪術師とプライスさんは魔法対決をします。プライスさんは修行中ですし、使える魔法も数が少ないので、必死になって魔法を使い、砂まみれ、傷だらけになって、みんなは島から逃げだします。プライスさんは傷だらけで家に帰り、子どもたちはびしょぬれのぼろぼろで子ども部屋にかえって、ロンドンに帰されることになってしまいます。
 その後、子どもたちが再びプライスさんのところへやってくると、なんと、プライスさんは魔法の道具をすべて処理して、魔女であることをやめてしまっていたのです。プライスさんは言います。「魔法はよい趣味ではなく、1つの欠点として考えることにした」と。そこには、自分がずっと追い求めていた夢を、断腸の思いでたちきり、封印してしまった苦悩が感じられます。このプライスさんのきっぱりとした決断には、胸に迫るものがあります。
 思えば魔法を使っているとき、庭仕事の好きなプライスさんは、魔法をつかって育てた大輪のバラを品評会にだそうとしています。それをケアリィに見つかって、「魔法をつかった花を出品するのは公平なことかしら?」と問われると、「まったく公平なことです。」と力をこめて土をたたきながら、答えます。「そうすると魔法を使えない人はどうなんでしょう?」とさらにケアリィが聞くと、「じゃあ、特別な肥料を使ったり、温室を使った人は? お金持ちで花を育てるのにお金をたくさんかけられる人は?」とプライスさんは、言い返します。「わたしは、自分の知識を生かしてやっているんです。」と宣言しながら、プライスさんは顔を真っ赤にして、にがにがしい表情になります。
 けっきょく、プライスさんはバラを捨ててしまい、ケアリィにこう言います。「あなたにいわれたことについて考え、魔法もごまかしの一種じゃないかと考えるようになった。ごまかしははじめいいように見えても、あまりいい結果にならないから。」
 こんなふうに、プライスさんは非常にまじめで、しっかりと考える人です。子どもたちが奔放な計画で、冒険を夢みているときも、ひきとめ、しつこいくらいセーブする役目です。
 ひとりで魔女修行をしていたプライスさんは、自分がもっと自分らしく生きられる過去、つまり魔女のいた時代へと、魔法の修行をしているエメリウスといっしょに、時をこえて旅だってしまいます。現実の自分の生活をきっちり精算し、過去へと消えていくプライスさんは、みごとです。
 読み終わってみると、プライスさんの思考や苦悩にすっかりとりつかれているのを発見しました。少々影のある、孤独な、しかしきちんとした女性であるプライスさんが、すっかり私のなかに息づいていました。子どものころは、楽しくてダイナミズムのある魔法のお話が好きでしたから、この現実的な重みのある話には、あまり興味がひかれなかったのかもしれません。

 こうしてみると、私としては、メアリー・ポピンズからプライスさんへ、という流れは、まったくつながってこないのでした。物語の質がちがいすぎます。不思議の扱いも、魔法も、人間の描き方もちがいすぎです。乳母という立場で現代へ飛んできたメアリー・ポピンズは、風とともにまた旅だっていきます。二度もどってきたメアリー・ポピンズですが、窓にうつった別の扉を開けて去ってからは、もう二度ともどってはきませんでした。それが1943年のことです。2年後の1945年、現実の社会で暮らす魔女プライスさんが登場し、魔女という資質をもったプライスさんは、現代という時代を放棄し、過去へと時をこえて去ってしまいます。

●キャリア・ウーマンとしてのメアリー・ポピンズ

 パメラ・リンドン・トラヴァースは、スコットランド人の母とアイルランド人の父を持ち、1906年、オーストラリアの北東部クイーンズランドで生まれ、子ども時代を豊かな自然に囲まれて過ごしました。家の近くには、世界的に有名な2000キロにも及ぶさんご礁ブレート・バリア・リーフが広がり、もう一方には見渡すばかりさとうきび畑が広がっていたそうです。トラヴァースは、海へでて珊瑚のかけらを拾ってあそんだり、サトウキビ畑をジャングルに見立てて探検したということです。
 ケルト民族の血をひく両親から生まれたことが、直接影響をあたえたのかはわかりませんが、トラヴァースは、古い妖精物語などのケルトの伝承に深いかかわりをもっていきます。イエーツやジョージ・ラッセルら、ケルトの詩人たちとつきあい、影響も受けます。ケルトの詩人たちは、古くから語り伝えられてきた伝承文学のなかに存在する、豊かな空想世界を現代と結びつけて、再生しようという試みをします。トラヴァースの書いた『メアリー・ポピンズ』シリーズは、まさにこの試みを実現したといってもいいでしょう。
 トラヴァースは昔話について、つぎのように語っています。

・・わたしたちはおそらく、生まれながらにしておとぎ話を知っているのだろう。それは数限りなく繰り返し聞かされてきたおとぎ話の記憶が、祖母やそのまた祖母といった遠い祖先からずっと血の中を流れ続けているからで、わたしたちがはじめておとぎ話を聞いたときに感じる衝撃は、もの珍しさではなく、なつかしさからくるものだ。長い間、知らず知らずのうちに知っていたものが突然思い出されるのだ。・・人間は結局、どんな物語であれ自分の物語の主人公になるしかないのだとういことを、わたしたちが理解するために、おとぎ話は語られねばならない。(*11)
 
 わたしたちは自分が何者であるかを思い出し再発見するために、おとぎ話に帰っていくのであり、頭で考えたのではなく、「忘れない」という気持ちのなかで、過去も現在もすべてであい、物語として結びつくというのです。トラヴァースの座右銘に、「忘れないこと」という言葉があるそうです。
 この言葉は、『公園のメアリー・ポピンズ』にも、『扉をあけるメアリー・ポピンズ』の最後にもでてきます。

・・ジェインとマイケルは、やさしい気もちが胸いっぱいになってきたので、息をこらしました。ふたりのかけた願いは、生きている限り、メアリー・ポピンズを忘れないように、ということでした。どこで、どうして、いつ、なぜ・・そんなことは、どうでもいいことでした。ふたりの知る限りでは、こういう質問には、答えは得られないのです。ふたりの上の空をすべってゆく、きらきらした姿は、永遠に、その秘密をあかさないでしょう。けれども、これからの、夏に日々、冬の長い夜毎に、ふたりは、メアリー・ポピンズを思いだして、いわれたことを考えるでしょう。太陽も雨も、ふたりに、彼女のことを思い起こさせるでしょう、鳥も獣も、季節の移り変わりも。メアリー・ポピンズ自身は、飛んでいってしまいました。しかし、残した贈りものの数々は、いついつまでも、失われることはないでしょう。
 「けっして忘れない、メアリー・ポピンズ!」ふたりは、空を見上げて、つぶやきました。(「別の扉」*3)

 これでもう二度とメアリー・ポピンズはもどってこないわけですが、このフレーズに、トラヴァースの伝えたかったこと、書きたかった世界が読みとれます。「どこで、どうして、いつ、なぜ」というこまかな記憶ではなく、「忘れない」という言葉を使っています。そして、忘れないためには、日々、思い出すことであり、思い出すきっかけは、太陽や雨や鳥や獣や季節の移り変わり、であると書かれています。メアリー・ポピンズがどういう性質の不思議をひきつれてやってきたのかも、ここで表されています。それらを「けっして忘れない」ために、この物語は書かれたのでしょう。

 また、トラヴァースは繰り返し、「メアリー・ポピンズが私を見つけたのであって、私は何も創り出していない」と語っています。また、「私がメアリー・ポピンズをつくったのではなく、メアリー・ポピンズが私をつくったのかもしれない」とまで、ユーモアたっぷりに語っています。たしかに、メアリー・ポピンズは、生物や自然、そしてそのすべてをつつみこむような世界観を持っています。
 トラヴァースには、かなり若いころから心のなかにメアリー・ポピンズが存在していて、その物語を妹にくり返し語りました。
 トラヴァースの息子であるカラミス・トラヴァースはこう話しています。

・・最近、またメアリー・ポピンズを読み返してみて、やっと面白さやこの物語のもつ深い意味を理解することができたような気がします。母はメアリー・ポピンズを、子供のためにではなく自分のために書いたのです。そのことを忘れないでください。(*11)

 トラヴァースに会った荒このみさんは、こう書いています。

・・メアリー・ポピンズが大人向けの夢物語だというのも、彼女の性格によっている。そしてそれは作者トラヴァースさん自身を反映しているとも思われるのだ。二十代でひとり独立のキャリアを目指したトラヴァースさんと、メアリー・ポピンズの独立独歩の姿勢とが重なって見えてくる。あくまでも乳母であり召使いであるはずのメアリーが、階級意識の強いイギリスで、お話のなかのような強さを持ちつづけることは不可能なはずだ。ところがトラヴァースさんはメアリー・ポピンズに、「階級」を超えて召し使いの立場を忘れさせ、勝手に行動させている。(「トラヴァ−スとメアリー・ポピンズが重なって見えた」荒このみ *11)
 
 メアリー・ポピンズの現実での存在感は、仕事をしているということから来ています。彼女は、ナニー(乳母)という仕事に従事する、キャリア・ウーマンです。彼女の仕事の仕方は、きっちりしています。隔週毎、木曜日の夜に休暇をとることを、しっかり主張します。といって、休暇というのにジェインとマイケルもその場に居合わせることになる、という毎度の設定には、「子ども連れでは、ちゃんとした休暇になっていないじゃない」という批判をしたいのですが、読者としては、そうしないと物語が展開しないのでしょうがない、と受け止めなくてはなりません。
 メアリーは、非常に手際のよい仕事ぶりを見せます。「子どもがかわいくて」世話をするのではなく、「仕事だから」プロとして世話をするという態度です。ですから責任感もあります。誤解がないように言えば、「仕事だから」子どもの世話をするといっても、子どもに愛情がないというのことではありません。けれど、子どもと自分の境には、きっちりと線を引いています。子どもの視点を理解できたとしても、視線をいっしょにすることはしないのです。これは、乳母の仕事と考えれば、十分になっとくのいく態度です。
 母親のような愛情を注ぐのでもなければ、友だちのようにいっしょに遊ぶのでもなく、メアリーは乳母として、子どもを安全に保ち、規則正しい生活をさせなければなりません。その前提のうえに、不思議世界への行き来があるのだということを、忘れてはならないでしょう。
 また、当時のイギリスには、確固とした階級意識があることも忘れてはならないことです。メアリーは、バンクス家の使用人です。使用人がえらそうな態度を保つには、仕事への誇りがなくてはなりません。そして、なにより自分への誇りです。
 メアリーが、つねに自分のプライドにこだわるのは、仕事をして自立している自分という存在に対して、誇りがあるからなのです。こう考えると、メアリーは高慢ちきな女性ではなく、非常にすてきな、ちょっとがんばっている女性として映ってきます。
 新しいブラウスや、帽子にかざった季節の花が、どんなにきれいできちんとしていて、自分ににあっているかを、つねにウインドウで確認をします。麦わら帽子はいつも新しいものに変えるのではなく、帽子についている花を、マーガレットにしたり、チューリップにしたりという、おしゃれの仕方なのです。贅沢ではない、くふうのあるおしゃれです。だからといってすごいけちではなく、大事にしている手袋も、星からきたマイアにさりげなくはめて、あげてしまうこともあります。バンクス夫人は、「あんなに気に入っていた手袋をだれかにあげてしまったの?!」とおどろきますが、メアリーは、「わたしのものはわたしの好きにします。」と鼻をならして答えます。
 メアリーは、バンクス家では、絶対の信頼があります。そのプライドの高さに、雇い人のバンクス夫人が頭をかかえたとしても、メアリーを雇って子どもを任せておけば、万事がうまくいくゆえに、強くさからえません。仕事を認められるということは、その人の存在を認められるということに一致しているといえるでしょう。
 しかし、そんな有能な仕事人を登場させながら、トラヴァースは同じバンクス家の使用人、ロバートソン・アイについては正反対に描いています。いつも居眠りをしていて、どんな仕事もおっくうがって、うまくこなせない彼ですが、なぜか子どもたちには人気があります。子どもたちでさえ、つい、仕事を手伝ったり、弁護したくなってしまうのです。
 ロバートソン・アイの存在に光をあてた「ロバートソン・アイの話」(*1)では、童謡にでてくる「のらくらもの」が、王様に生きる喜びをきづかせる話ですが、その「のらくらもの」が道化になったときつけていた鈴の音が、ロバートソン・アイが居眠りしているそばで聞こえた、という終わり方です。一見なんの役にたちそうもない「のらくらもの」、つまりロバートソン・アイが、じつは生きる喜びを知っている、ということなのです。
 ばりばりと仕事をこなすキャリア・ウーマンを描きながら、こんな視点も忘れないトラバースはなかなかすごいと思います。

 ここで、絵についても触れておきます。私はこの挿絵が大好きなのですが、『風にのってきたメアリー・ポピンズ』のもくじの部分にみんなが自分の名前を書いてある風船をもって飛んでいる絵があります。上のほうには、P.L.トラヴァースとさし絵を描いたメアリー・シェパードが、自分の名のついた風船をもって飛んでいます。
 メアリー・シェパードは、『クマのプーさん』や『たのしい川べ』の絵を描いたアーネスト・H・シェパードの娘です。

・・メアリー・ポピンズ像は、きちんと結った黒髪、青い瞳にバラ色の頬をした木製のオランダ人形にあります。パメラ(トラヴァース)と私は二人で登場人物をつくりあげていきました。場面での振る舞い方、どんな服を着ていてどんなふうに見えるかとかです。お陰で絵を描くのがずっと容易になりました。登場人物にしぐさや表情をつけたり、人間が空を飛び回ったり逆さまになる場面を描くのは、あなたが想像しているようにとても楽しい作業です。(「挿絵画家M・シェパードからのメッセージ」*11)

 女性二人が顔をよせあって、登場人物や場面の話をし、空想を楽しんで絵を描く作業をすすめていった様子が伺えます。風船の絵のように、絵には遊び心があり、楽しんで描いた絵だと感じられます。

●男性はとくにこの世界に入っていけない?

 「偏見ではないか?」と言われることを覚悟していえば、幼い子どもとその世話をする乳母、そこで起こる不思議の世界・・そういった世界に、多くの男性はあまり興味をもてないし、入るすきまがないのではないでしょうか? 
 『ふしぎの国のアリス』、『星の王子さま』、『クマのプーさん』は、男性が書いた世界ですし、男性の存在もみえますが、メアリー・ポピンズにおいては、子どもたちのお父様である、仕事人間のバンクスさんや、ねてばかりいるロバートソン・アイ、隠居状態にあるブーム提督、メアリー・ポピンズに鼻にもかけられない公園番、といったような描かれかたをしています。大人の男たちで、つねに不思議世界を理解して、自分からかかわろうとしているのは、マッチ売りのバートくらいです。
 さきほど『メアリー・ポピンズ』について書いている二人の男性、安藤美紀夫さんと上野瞭さんは、メアリー・ポピンズに関してどんなふうに話しているのでしょうか。

・・古田 60年代後半の定着というような意味で『風に乗ってきたメアリー・ポピンズ』というのは、また非常に愛読されているよね。
上野 だけど非常につまらない本だね。(中略)
上野 『メアリー・ポピンズ』と『星の王子さま』と『クマのプーさん』という御三家は、児童文学の一つの固定観念をつくるのに役立っていると思うの。児童文学とはそういう世界じゃないかというふうに早合点する、というのかな、そういうものを書けば子どもの本になっていくという、イージーライダーみたいなものをたくさん生んでいるわけよ。
安藤 ちょっとその若き書き手の問題は別にして、トラヴァースが、『メアリー・ポピンズ』が、実際それをスプリングボードにして書かれた新しい日本の空想物語はあるか、というとないでしょう。
上野 対置するものはないわけよ。さっき言ったような、これがあるからおれはこういう形でそれを・・というのはないわけ。(中略)そう、ただカバンを開いたらいろんな物が出て来たり、傘を持って飛べたり、そういうなんていうか、非常にディテールの問題が、子どものものだというふうな受け止め方をしやすい感じだね。
安藤 けれど、トラヴァースは確かにそれほどおもしろくはないけれども、『とびらをあけるメアリー・ポピンズ』は、やっぱりあれは一つの意味を持っていると思うね。1943年の大戦中に扉をあけて行っちゃう、あの扉の問題(中略)。あそこに時のすきまを設定しているわけでしょう。つまり鳴り始めと鳴り終りの間の時間という問題ね、大晦日の。そういうところから見たら、少なくとも『とびらをあけるメアリー・ポピンズ』まで読んでいれば、今のような形の非常にディテールのところだけの受け止め方というのはやっぱり出て来ないんじゃないかと思うんだけれどね。
上野 そういうのは、非常にトラヴァースがよろこぶ意見だと思うよ。(笑・中略)
 たけれどもトラヴァースの空想性というのは、空想性なんていう言い方は悪いんだけれど、空想力というか構想力は、わりかたステロタイプなのよ、一つ一つが。そしてその意味は、安藤さんが言うような、深読みしたらそういう裏の読みまでできそうな深みを持っているかもしれないけれども、彼女のつくっている世界というのは、大体イージーになってくるわけよ。(「対談・外国児童文学の影響とそれからの自立」安藤三紀夫 上野瞭 司会・古田足日、砂田弘 *9)

 上野さんは、ロフティング(『ドリトル先生』シリーズの作者)やトラヴァースが、それぞれの時期に新しい世界を切り開いたのではないと言います。それ以前のジェームズ・バリやルイス・キャロルやネスビットがつくった、ナンセンスや豊かな空想性でつくりだした「開かれた世界を(トラヴァースは)自分なりに枠をつくり型にはめていった感じがするわけよ。その時代、その時代で。主人公は新しく見えたかもしれないけれど、バリーが開いた世界とか、ネスビットの開いた世界を、小さく型にはめたんじゃないかと思う。」(*9)ととらえます。そして、メアリー・ノートンやピアスが、二人が型にはめた世界をもう一度開いていったと言うのです。
 たしかにわからないでもありませんが、一方で私は、「子どもと女性でつくる世界でおこる不思議を、肌で感じられない男性」が突き放して読んだ読み方、とも思ってしまうわけです。ノートンやピアスの作品よりも、トラヴァースの作品が好きな子どももいるわけですし、よいわるいではなく、子どもと、不思議な空間と時間を共有する閉じた世界というのは、存在するわけです。たしかにこれまで多くの男性は、その世界より仕事に生きてきたわけですが、近年では保育士をふくめて、子どもと共有する時間を持つ男性が増えてきました。もしかすると、『メアリー・ポピンズ』を好きな男性もふえるかもしれません。
 『公園のメアリー・ポピンズ』にでてくるように、ジェインとマイケルが昼さがりに噴水のそばで、はだしになってねそべり、古い本をひらいて物語の世界にはいっていく心地よさを、私は子どものころ読みながら満喫していました。期待どおりに、物語の世界から3人の王子がやってきて、公演でひと騒動おこすくだりもすきでした。
 たしかに、ジンジャークッキーについている紙でできた星を空にはりつけたり、飴のステッキにのって飛んだり、風船でまいあがったり、絵のなかにはいったり・・というのは、よくある空想です。目新しい空想でなく、だれもが思いつくような空想は、トラヴァースがいっているように、昔話のなかにあるのでしょう。
 母親(父親でもかまいせん)と幼い子どもは、まるでとまったような、祖先たちが過ごしたのと同じようなゆったりとした時間のなかで、空想を共有したり、お話の世界をくり返し楽しみます。「育児が育自(自分育て)である」というのは、太古にもどったような時間のなかで、自分を見つめ、育てなおすことであるからかもしれないと思うのです。子どもといっしょに、無意識に時の流れをさかのぼって、祖先の抱いていた記憶をたどる、とでもいうのでしょうか。子どもがいっしょだから、それができるのだとも思えます。

 ジェインとマイケル、バーバラとジョンの双子の下に、アナベルが生まれ、子ども部屋にやってきたとき、ムクドリが巣立ったばかりのひなどりをつれてきます。
 ひなどりが、人間の赤ん坊はなにからできているのかと聞くと、アナベルはこんなふうに答えます。

・・「わたしは、土と空と火と水なの。」と、しずかにいいました。「わたしは闇のなかからきたの。なんでもはじまりはそこなの。」
「ああ、あんなに暗いとこ!」と、ムクドリはやさしくいって、首をまげて胸にあてました。
「卵のなかも、暗かったよ!」と、ひなどりが、ピーピーいいました。
「わたしは、海と潮からきたの。」と、アナベルがつづけます。「空と星からきたの。太陽と輝きからきたの・・」
「ああ、ほんとにあかるい!」と、ムクドリが、うなずいていいました。
「わたしは、土と森からきたの。」
 メアリー・ポピンズは、夢でもみているように、ゆりかごをゆすっています。・・たえまなく、あっちからこっち、こっちからあっちと、動かして。
「それで?」と、ひなどりが、小声でいいました。
「はじめは、ゆっくり動いていたの。」と、アナベルがいいました。「ずうっと、眠って夢をみてて。まえのことを、みんな、思いだして、これからのことを、みんな、考えてたの。それから、夢を見終わったら、目をさまして、たちまち、きちゃったの。」
「それから?」と、ひなどりが、さいそくしました。
「途中で、星の歌っているのがきこえたわ。あたたかい翼につつまれたのもわかったわ。ジャングルのけもののそばを通って、暗いふかい水のなかを抜けてきたの。長い旅だったわ。」
 アナバルは、だまりました。(「新入り」*2)

 そしてこの長い旅を、赤ん坊は時間がたつと忘れてしまうのです。アナベルは「忘れない」と言いはりますが、おぼえていられるのはメアリー・ポピンズだけなのだと、むくどりが言います。バーバラとジョンの双子も、以前は鳥と話すことができましたが、今は話せません。それを知って翼で涙をぬぐうムクドリの絵は、非常に印象的です。
 つまり、人間はほかの生きものや自然と交わす言葉をもって生まれてくるのですが、人間として現実のなかで生きるうちに、その言葉を失ってしまうのです。その言葉とは、おとぎの国で使われる言葉というと、わかりやすいのではないでしょうか。
 トラヴァースは、おとぎの国は近いところにある。それは、心のなかだといいました。心の目をとおせば、不思議の国が見えてくる、と言っています。その不思議の国を、人間はみんな抱いて生まれてくるのですが、現実の世界に生きているうちに、一度は捨ててしまうのです。子どものうちはその記憶が多少残っているので、ほかの生きものや自然となじみやすいのでしょう。しかし、大人になるにしたがって「忘れて」いくものであり、だから「忘れない」という言葉が重要になってくるのです。メアリー・ポピンズは、ひっくりかえしていえば、それを「忘れさせない」ために現実の世界に飛んできたのではないでしょうか。
 私たちは、絵のなかに入れるかもしれない、花のかげに小人がいるかもしれない、風船をつかんで空を飛べるかもしれない、というような単純で楽しい空想をふくらますことによって、ほかの生きものたちや自然を近くに感じ、不思議な世界を心からなくさないためのトレーニングをしているのかもしれません。
 きっと、このシリーズはトレーニングしやすいのでしょう。だから、多くの人が読み、語り、上野さんの言うようにデティールだけをとりあげたり、まねしたりするのでしょう。それがトレーニングにならずに、ただ格好や型だけを利用するのみにとどまっているという危惧はわかります。トラヴァースの持っている世界観から生まれた世界だからこそ、生き生きと伝わってくるのですし、生き生きと伝わったからこそ、真似をするのだともいえます。
 子どもたちがこの世界を楽しむのは、そうしたトレーニングに適していて、とっつきやすいからで、ただ、大人に対して受身的であるという面だけをとりだすのは、賛成しかねます。
 この物語は、不思議世界の由来を、命の生まれる前、先祖につづく記憶や、自然の大きなうねりでとらえていきます。メアリー・ポピンズは、ジャングルの王とも親戚ですし、星や太陽、海の大ウミガメとも知り合いです。赤ん坊の言葉も鳥の言葉もわかりますし、物語の世界ともいったりきたりできます。これは、メアリーがおとぎの国の不思議をひきつれてきている証拠です。
 たとえば、ジャングルの王、キング・コブラの登場する場面です。

 ジェインとマイケルが夜の動物園に行くと、動物たちが集まって、メアリー・ポピンズの誕生会が開かれていました。ジャングルの王様はキング・コブラであり、なんとメアリー・ポピンズのいとこだというのです。キング・コブラは、脱皮した皮をメアリーにプレゼントします。

・・「ほんとに、いとこなの?」と、マイケルが、そっとききました。
「いとこの子です・・母かたの。」と、ヒグマは、口に手をあてて、声をひそめて教えてくれました。(「満月」*1)

 ジェインは、小さい動物も大きな動物も、みんな仲良く集まっていて、食べたり、食べられたりしないでいることにおどろきます。コブラはこう言います。

・・「わたくしでさえ、ガチョウを見ても、すこしも晩ごはんのことなどを考えはしない・・きょうのこの日には。それに、つまるところ、」コブラは、ものをいうたびに、細くて、先のわかれたおそろしいしたを、チョロチョロ、出したりいれたりしながら、話をつづけました。「たべることも、たべられることも、しょせん、おんなじことであるかもしれない。わたくしの分別では、そのように思われるのです。わたくしどもは、すべて、おなじものでつくられているのです。いいですか、わたくしたちは、ジャングルで、あなたがたは、町で、できていてもですよ。おなじ物質が、わたくしどもを、つくりあげているのです・・頭のうえの木も、足のしたの石も、鳥も、けものも、星も、わたくしたちは、みんは、かわりはないのです。すべて、おなじところにむかって、動いているのです。お子さんよ、わたくしのことを忘れてしまうことがあっても、このことだけは、おぼえておかれるがよい。」
「だけど、どうして木が石だなんてことあるの? 鳥は、ぼくじゃないし、ジェインはトラじゃないよ。」と、マイケルが、がんこにいいました。
「そう考えてはいけないでしょうか?」と、キング・コブラは、シューシューした声で、いいました。「見てごらんなさい!」そういって、みんなのまえを、動いて行く、いきものの群れのほうに、頭をふってみせました。鳥も、けものも、いまはいっしょに、からだをゆりうごかして、メアリー・ポピンズのまわりに、ぎっしりと輪になっていました。メアリー・ポピンズのからだも、また、しずかに、右左にゆれていました。うしろへ、まえへ、みんなひとかたまりになって、ゆれています。拍子をあわせて、時計のふりこのように、ゆれています。まわりの木までも、しずかに、枝をあげさげして、空の月も、海で船がゆれるように、ゆれているかと見えました。
「鳥と、けものと、石と、星と・・わたくしたちは、みんなおなじ、みんなおなじ・・」キング・コブラは、ひくい声で、つぶやきながら、しずかにくびのかさをちぢめて、じぶんも、ふたりの子どものあいだで、身をゆすっていました。
「子どもも、ヘビも、星も、石も・・みんなおなじ。」
 シューシューいう声が、だんだん、ひくくなってきました。(「満月」*1)

 子どもも、ヘビも、星も、石も、つまるところはみんな同じだとするとらえ方は、オーストラリアで育ったトラヴァースらしいとらえ方であるように思えます。オーストラリアの伝承に、ナルガンという石の始祖がいたのを思い出しました。昔話の伝承世界を強く感じる場面です。
 つぎに、海の底での大ウミガメの言葉を聞いてみましょう。

・・「わたくしが、大ウミガメです。わたくしは、世界の根底に、住んでいるのです。市や町の下、山々の下、海そのものの下に、家をつくっているのです。その暗黒の根底から、海をぬけて、花が咲き木が茂る大地が、盛りあがってきたのです。人間や山々が、そこから生まれました。大きなけものや、空とぶ鳥も、また、然りです。」
 大ウミガメは、ちょっと、ことばをきりました。まわりにいる海の生きものは、だまって、目をそそいでいました。やがて、また、つづけました。「わたくしは、存在するありとあらゆるものより、年老いているのです。無言の、人しれぬ賢人で、わたくしはあるのです。穏やかで、また、たいへんに忍耐強いのです。この、わたくしのほらあなには、あらゆるものが、その起原をもっておるのです。そしてまた、あらゆるものが、ついには、わたくしのところにもどるのです。わたしは、待っていられます。待っていられます・・。」
 ジェインは、うなずきました。「海ってものは、たいへん違うとこだと思っていたんですけれど、ほんとは、陸とそっくりなんですね!」
「むろん、そのはずです!」と、大ウミガメが、まばたきをしながら、いいました。「陸は、海から出てきたものなのです。忘れてはなりません。大地のうえにあるものは、ことごとく、この海に、きょうだいをもっています。・・ライオン、犬、ウサギ、ゾウ。高価な宝石も、その同類を、海にもっています。数ある星座も、また、そうです。バラも、塩水を記憶していますし、月も、潮の満汐を覚えているのです。あなたがたも、また、そのことは覚えておかなければなりません。ジェインとマイケルよ! 海には、いいですか、およそ、そこから出たものよりも、はるかに、たくさんのものがあるのです。むろん、魚のことではなくて!」といって、大ウミガメは、ほほえみました。(「高潮」*3)

 ウミガメは、世界のはじまりをときます。世界は、暗黒の根底である海の底から生まれたと語っています。そして、いつかまたもどってくるものだと。また、海と陸とは相対するものではなく、同じもとからできているとジェインに言います。そして、海から生まれた陸地や生き物たちよりはるかにたくさんのものが、まだあると示唆しています。
 このことも、グレートバリアリーフで遊んで育ったというトラヴァースだからこそ、リアルに海の豊かさをとらえていると思えます。私も、さんご礁が好きで夏になると訪れるのですが、さんご礁は海の森であり、命のゆりかごだと感じられます。この海の場面を読んでいると、まさにその感覚が呼び起こされます。
 このような世界のとらえ方に、おとぎの国の物語が重なります。

 ジェインが噴水のそばで、マイケルに物語を読んでいます。それは『銀いろの童話集』(アンドリュー・ラング作)で、お母さんの本でした。本当は、おばあちゃんにひいおばあちゃんがプレゼントしたものです。クレヨンで絵に色がぬってありましたが、それはだれかがぬったものです。「三人の王子様」という話を読んでいると、その三人の王子様、フロリモンド、ヴェリタン、アモールが話しかけてきたのです。

・・「ぼくらは、会うよ。」ヴェリタンが、自信をもっていいました。
「でも、どうやって? あなたがた、物語のなかの子どもたちでしょ!」
 フロリモンドが、声をあげて笑うと、くびをふりました。
「きみたちこそ、物語のなかの子どもなのさ! きみたちのこと、なんどもなんども、読んだよ、ジェイン、さし絵も見てたし、とても会いたいと思ってたんだ。だから、きょう・・本がおちてひらいたとき・・ちょっと、はいってきたのさ。だれの物語のなかでも、一どは、はいっていくんだ・・おじいさんでも、おばあさんでも、孫だっても、ぼくたちには、みんな同じさ。でも、たいがいの人が、気にもとめないんだ。」(「物語のなかの子どもたち」*4)

 物語の王子は、ジェインたちこそが物語のなかの子どもたちだと言うのです。そして、だれもが物語の中を行き来していたのだが、大人になるとそれを忘れてしまうといいます。メアリー・ポピンズだけが、「あの人、いつもそうなんだ・・なんいもいわずに、きたりいったりするんだ。」と書かれています。つまり、メアリー・ポピンズは、伝承童話のなかから表れたにせよ、現代との橋渡しの人物として描かれているわけですから、この扱いは当然です。メアリー・ポピンズが時を自由にいききできることを、物語を自由に行き来できるとトラヴァースは表現したのです。これはすばらしい発見だと思います。しかし、おどろくことには、メアリー・ポピンズは、絵本のなかの子どもたちまで、しつけをしようとします。メアリーが、現実に生きている資質を持っているということを表しています。

・・「顔がよごれていますよ。アモール、いつもそうなんだから!」
「フロリモンド、帽子をまっすぐになさい。そういえば、いつも、かしいでましたね。それから、ヴェリタン、あなたはおそわるってことがないんですか? 靴のひもは二重むすびにしなさいって、二ども三どもいったじゃありませんか。ちょっと靴を見てごらんなさい!」(「物語のなかの子どもたち」*4)

 公園にきていた大人たちも、小さいころにこの物語を読んでいたことを思い出し、三人を親しげに迎えいれます。別れるときに、「いかないで、また忘れてしまうこもしれないわよ!」という大人たちのよこで、「ぼく忘れない!」「わたしだって! けっして、忘れないわ!」と、マイケルとジェインはくりかえします。「覚えててくれれば、またきますよ!」フロリモンドがそういい、アモールはメアリー・ポピンズに「もどってきてね。帽子にチューリップをつけてだよ」と言います。
 大人たちは、王子たちが消えるとまた忘れてしまいますが、ジェインとマイケルはおぼえています。この場面も、トラヴァースの座銘である「忘れない」ことが、描かれています。つまり、メアリーは、いくら時代が移っても、社会がかわっても、そして、自分さえが時代にあわせて変わる部分があっても、「忘れない」ことを貫いている人物としても描かれているのです。

 子ども部屋に帰って、子どもたちはメアリー・ポピンズに聞きます。

・・「でもね、メアリー・ポピンズ、教えて。」(中略)「どっちが、物語のなかの子どもなの・・王子たち、それとも、ジェインとマイケル?」(中略)
 ふたりは、息をつめて、答えを待っていました。
 その答えは、メアリー・ポピンズのくちびるのうえで、ゆらめいたようでした。ことばが、舌の先まで、でかかりました。そして、そのとき・・メアリー・ポピンズの考えが変わりました。たぶん、メアリー・ポピンズという人は、だれにも、なんにも、けっして話さないのだということを、思いだしたのでしょう。
 メアリー・ポピンズは、じらすような笑いかたで、にっこりして、いいました。
「さあ、どうでしょう!」(「物語のなかの子どもたち」*4)

 『鏡の国のアリス』を思い出しませんか? どちらが物語の子どもか、というのは、どちらが夢のなかの人物なのか、に似ています。
 ここは、子どもの私にとっては印象深い場面でした。もしかして、この世界が向こうからみたら物語の世界なのかもしれない、という、照らし返しの新しい視点が生まれたのです。それは、現実の世界を対象化できる、子どもにとって非常におもしろい発見なのではないでしょうか。
 物語のなかへ行き来できる、という発想は比較的だれでも思い浮かぶのでしょうが、トラヴァースは「人間は結局、どんな物語であれ、自分の物語の主人公になるしかないのだということを、わたしたちが理解するために、おとぎ話は語られなくてはいけない」(*11)と語っています。
 私たちはみな、自分の物語をつむぎながら生きている、と考えれば、だれもがそれぞれの物語の登場人物であり、主人公ととらえられるのです。自分の物語をつむぐこと、つまりそれが生きていることなのだと、トラヴァースは語りつつ、互いの物語は交差したり、時を越えて行き来したりできるものであることを「忘れてはならない」のだと、この作品で伝えているのでしょう。
 トラヴァースの描いた不思議な世界には、トラヴァースの世界観が反映されているのです。

●日常に不思議を成立させるワザ

 人間界ではない世界から、人間界で働くためにやってきたメアリー・ポピンズ。この話をスプリングボードにして生まれた作品は児童文学にはみあたらない、と砂田・上野対談で話されていましたが、なんだか似たような設定の話を思い出しませんか? 
 そう、たとえばコメットさん。魔法の修行のためにお手伝いさんとして、人間の家庭にやってきます。あれは日本版メアリー・ポピンズなのではないでしょうか。コメットさんは、日本的土壌のためか、さらに魔女のイメージが払拭されていて、明るくかわいい人物です。
 アメリカ版なら、「奥さまは魔女」。どちらも、コメディタッチのお話です。
 それから、魔法使いサリーちゃん。魔法の国から人間界にやってきた、魔王の娘でした。なるほど、どれも同じようなくすぐりがあります。魔女であるとか、魔法を使えることがばれそうで、ばれない、はらはらした展開をするストーリー立てでした。平らかな日常を波だたせる作用を、魔法が請け負っています。
 こんなふうに、日常生活を舞台に不思議を描くお話をつくろうと思ったら、その線引きをはっきりした設定をつくらなければならないでしょう。だれが魔法について知っていて、だれが知らないか。秘密の許容範囲。かくしておかなければならない理由も。そうでないと、日常も不思議もごったにになってしまい、不思議のおもしろさが際立ちません。
 ちらっと見える不思議、もっと体験したい不思議、興味をそそっておいて、鼻先で閉じてしまうとびら・・。日常と不思議の違いを際だたせ、魅力あるものに描くためには、メアリー・ポピンズでは、おきまりの知らん振りが必要なのです。
 メアリーが、ジェインとマイケルにうなずいて、「そう、あれは楽しかったわね。」と言ってしまったなら、ほんとうに楽しいでしょうか? 「あれは、ぜったいにあったことだよ。」と、強く二人が信じ、秘密をもつことにわくわくし、そしてずっと忘れないためには、あの知らんふりが効果的なのでしょう。
 魔女プライスさんは、一見普通の人に見えますし、ふつうの暮らしをしています。魔法も少ししか使えませんし、魔法自体も地味です。けれど、日常と不思議の関係づくりや設定はきちんとされていました。つづくノートンの『小人』シリーズでは、小人たちが床下に住んで「借り暮らし」をしています。小人は魔法を使いません。小人という存在自体が、不思議になっているのです。
 不思議とはいったいなにか。不思議は、時代によって変わるものなのか。不思議を描くにはどういうワザが必要なのか。このことは、「ファンタジー」と大きな関わりのあることです。
 日本のファンタジー文学の代表作であり、出発点といわれるいぬいとみこさんの『木かげの家の小人たち』と佐藤さとるさんの『コロボックル』シリーズ。同じ時期になぜ小人の話がつづけて出現したのでしょう。二つの話のスタイルだけを見れば、ノートンの小人シリーズと似ています。小人たちは不思議をおこすのではなく、姿をかくして人間の社会に共生しています。「かくれて住む」ということが、「ひみつ」→「ふしぎ」の発見へつながっていきます。

 さて、一気に飛びますが、『コロボックル』シリーズが発刊された1959年というのは、私の生まれた年です。そこから始まったともされる日本のファンタジーですが、いまや「ファンタジー」といえば、R.P.G.ゲームの登場でゲームの世界を描いたような無国籍ファンタジーや、『ハリー・ポッター』シリーズの影響により、翻訳物のファンタジー作品が書店にたくさん並ぶようになりました。
 現代では、不思議はどんなふうに描かれているのでしょう。
 多くの無国籍ファンタジーを見ると、トールキンのつくったような別世界の厳密な地図や言語、ルイスのつくった別世界への通路の設定などは、あまり必要ではなくなったのか?という気がします。「いかにもほんとうにあるかのように描く」ことに、それほど力を注がなくてもよくなっているのかもしれません。それは、ゲームの主人公に名前をつけて、つくられた仮想の世界へポンと飛びこめるトレーニングを、子どもも若者も日常的にしているからです。もちろん、ぜんぜんゲームをやらないという人もいるでしょうし、それがいいかわるいかではないのですが、時代を考えたときに、考え方、感じ方や感覚は塗りかえられてきたという感じがします。
 子どもたちにとって、そして大人たちにとって、不思議世界はどういう存在になってしまったのでしょう。
 そんな興味から、宮部みゆきの『ブレイブ・ストーリー』を読んでみました。この話は、現実世界で両親の不和、離婚といった問題に直面しているワタルが、幻界(ヴィジョン)という別世界へ行き、願いをかなえるために冒険にでるという設定です。ここでの別世界ヴィジョンは、構造として明らかにゲームの世界を反映しています。作者自身、熱心なゲーマーとして知らせていますが、ゲーム世界の捉え方で別世界をつくりだしています。ですから、文章の運びもゲーム的なテンポになっていますし、ゲーム画面を想像しながら読んでいけば、登場人物や場面の出現の仕方が、的確にイメージできます。ゲームが日常と切りはなせないくらい結びついている子どもや若者たちにとって、このようにゲーム的感覚の別世界は受け入れやすいと思われます。
 ゲームだけでなく、バーチャルな世界や立体映画を体験でき、インターネットで国をこえて人とつながりをもてる現代において、別世界とはいったいなんなのか。魔法とはなにをさすのか。別世界と現実の社会との関係はどうなっているのか。そして私たちにとって、心おどる不思議とはなにか? もういちど考えてみたいと思いました。

●子どもであった経験

 あなたは、子どもであった感覚をどのくらい覚えていますか? 潮干狩りで1日じゅう日にあたって、頭がぼうっとして母親にもたれて、ぐっすり眠ってしまった電車の中。だだをこねて、部屋にとじこもって泣き通した午後。カッパを着て、母の後を水をとばしながら歩いた大雨の日。学校で習った歌を、姉とかわるがわる家族の前で歌った夜・・。
 あの日、私はたしかに子どもだったのだと思うとき、心が熱くなります。
 『メアリー・ポピンズ』を読むと、私は「子どもである」という感覚にどっぷりとつかっているのです。なんの心配もしないで、ちょっとどきどきしながら、メアリー・ポピンズのあとをくっついて不思議の扉をひらきます。「わるい水曜日」(*2)のジェインのように、どういうわけか、つまらないきっかけでだだをこねて、悪い子になったことは、私も経験があります。だだをこねとおして、そろそろこまったなと思うとき、どこからか連れ戻しにきてくれた、大人のしっかりとしたたくましい腕の感覚が蘇ってくるようです。
 たしかに清水さんの指摘するとおりに、受け身的であり、自分からなにかを切り開こうとする態度もあまりなく、たよりになる大人のそばにいて、自分の空想の世界に閉じこもって遊んでいられる、という心地よい状態を満喫していたのだと思います。
 でも、そんな私でも、いつも受身だったわけではなく、大人に反抗することも、外で飛び回って遊ぶこともあったわけです。まして、小学校6年生になって『ナルニア』シリーズを読むころには、そんな「子どもである」ことの満足状態から、抜けだしつつあったにちがいありません。
 しかし、ナルニアさえもアスランという教え・導く、強い「大人的存在」がいました。ですから、さらに成長したときには、アスランという存在さえ耐えられなくなる時期があったことは、前回書きました。
 『メアリー・ポピンズ』は、こうした子どものある一時期に踏みこんできて、魅力を発揮する話なのだと思われます。つまり、時期を選ぶのではないでしょうか? 私は、ちょうどよい時期にこのシリーズを読んだことになります。
 子どもの時間は延々とつづいているようで、じつは、とても短くせわしいものだという印象を持っています。目まぐるしく変わる子どもたちには、今、出会わなければ夢中になれないという物語もあるのではないでしょうか?
 もちろん、ある年齢まで達すれば、自分の成長や興味とはひと息おいて、本を選んで読むという行為ができるのでしょうが、小学生の子どもを見ていると、がつがつと食らうように本を読んでいる、という感じがしてたまりません。息子は、気にいった本があれば、夜更かしして、早起きして、読み終えようとします。彼にとっては、本もゲームも友だちとの遊びも、映画もテレビもサッカーも、同じ線にならんでいるように思えるのです。子ども時代は、一見ひまなようで、じつはすごくせわしく、忙しいのだと思えます。そのひと時に、私は『メアリー・ポピンズ』に出会いました。
 「りえちゃん、お誕生日 おめでとう 1970年」
という、叔母の文字が本を開いたときに目にとびこんできたのは、そんな出会いを思いだしたからなのでしょう。

 誕生日といえば、くしくも、4冊目の最後のお話である「ハロウィーン」は、メアリー・ポピンズの誕生日の前の晩のできごとを描いています。風が吹き荒れる晩、公園には、影たちが集まってきます。
 おなじみのセントポール寺院の鳥のおばさんの影もやってきて、子どもたちに影のことを説明します。
「なんにもなしじゃ、なんにもできないよ、いい子ちゃん。それに、そのために影があるんだよ・・ものを通りぬけるってことさ。通りぬけて、むこう側に出るのさ・・そうやって、賢くなるんだよ。わたしのいうことを信じておくれ、いい子や、あんたの影が知ってることを、あんたがわかるようになったらね・・そうすりゃ、あんたも、いろいろわかるようになるよ。あんたの影は、別のあんたなんだよ、あんたの内側の外っかわなのさ・・わたしのいうことが、わかってもらえるかな。」(*4)

 影をとおして、ものを通り抜け、むこう側にでるってことを経験しなさい、そうやって人間はより賢くなるんだよと、鳥のおばさんが解きます。影は、「あんたの内側の外っかわ」、つまりまだ表面にでてこない内面や、無意識の領域をあらわしているということでしょう。ラークおばさんの影は、本物のラークさんにこう言います。

・・「わたし、あなたが考えてるより、ずっと陽気なのよ、ルシンダ。あなただってそうなのよ、わかってないだけなの。いつも、やきもきしたり、こぼしたりしてないで、すこしは楽しくおやんなさいよ! たまには、あんたも、かわったふうにしてくれれば、わたしだって、逃げだしたりしないわ!」
「そうかしら・・」ラークおばさんは、ふにおちないという調子で、そういいました。どうにも、思いがけないことのような気がしたのです。
「とにかく、帰って、いっしょにやってみようじゃないの!」影は、そういって、ラークさんの手をとって、つれていきました。
「やりますよ、やりますよ!」ラークおばさんが、はっきりいいました。(*4)

 ジェインとマイケルのお父様であるバンクスさんは、仕事中毒のようすが描かれています。眠ったまま、「かばんと、朝刊はもってるが・・だが、まだなんだか、ないものがあるようだ・・」と寝言を言って歩いています。

・・「だれか、家へつれていっておやり!」と、影たちが叫びました。「眠ったまま、歩いてるんだ!」
 すると、ひとりが・・影の服をきて、影の山高帽をかぶっていましたが・・バンクスさんのそばへ、とんでいきました。
「さあさあ、おっさん! 計算は、わたしがやったげるよ。さあ、帰っておやすみ。」
 バンクスさんは、おとなしく、まわれ右をして、眠った顔が、あかるく輝きました。
「なにか、ないものがある思ってたが、」と、ぶつぶつ、つぶやきました。「まちがいだったらしい!」そういって、じぶんの影の腕をとって、いっしょに、ふらふら歩いていきました。(*4)
 
 こんなふうに、影が自分を助けてくれることもあるのです。バンクスさんの影が、バンクスさんに「おっさん!」と呼びかけるのは、笑えます。バンクスさんは、仕事熱心な銀行員ではありますが、仕事をはなれればただの「おっさん」のはずなのです。

 次の朝、いつものようにしらばっくれるメアリー・ポピンズに、「きょう、あなたのお誕生日なんでしょ?」と、マイケルは聞きます。「だれがそういってました?」と鼻をならすメアリー・ポピンズに、マイケルはこういうのです。
「だれでしょうかね!」と。きどった声で、メアリー・ポピンズリーそっくりに。「まあ、失礼な!」メアリー・ポピンズがマイケルにとびかかろうとしたとき、マイケルはさっとはなれて、子ども部屋からとびだしていきます。ジェインもすぐあとをおいます。

・・マイケルは、よろこびと勇気で、いっぱいでした。もし、メアリー・ポピンズが、ぜったいに、説明ってことをしないっていうんなら、そうだ、ぼくだって、することはないんだ!(*4)

 子どもたちは、メアリー・ポピンズの後ろについて歩くことから、一歩とびだして、自分の秘密を自分で守っていこうと、心が躍動するのです。
 



(参考図書)
1.『風にのってきたメアリー・ポピンズ』(P.L.トラヴァース、林容吉訳、岩波書店、1963年)
2.『帰ってきたメアリー・ポピンズ』(P.L.トラヴァース、林容吉訳、岩波書店、1963年)
3.『とびらをあけるメアリー・ポピンズ』(P.L.トラヴァース、林容吉訳、岩波書店、1964年)
4.『公園のメアリー・ポピンズ』(P.L.トラヴァース、林容吉訳、岩波書店、1965年)
5.『メアリー・ポピンズのお料理教室』(P.L.トラヴァース、モーリス・ムーアベティ 鈴木佐和子訳、文化出版局)
6.『日本児童文学 1966年11月号』(日本児童文学者協会、盛光社)
7『日本児童文学 1968年8月号』(日本児童文学者協会、盛光社)
8.『日本児童文学 1969年11月号』(日本児童文学者協会、盛光社)
9.『日本児童文学 1975年8月号』(日本児童文学者協会、すばる書房盛光社)
10.『日本児童文学 1989年5月号』(日本児童文学者協会、教育出版センター)
11.『月間 MOE 特集メアリー・ポピンズ』(MOE出版、1991年3月)
12.『空とぶベッドと魔法のほうき』(メアリー・ノートン、猪熊葉子訳、岩波少年文庫、2000年)
13.『魔法のファンタジー』(ファンタジー研究会、てらいんく、2003年)

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